蒼昊の額縁

蒼乃悠生

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少女は生き、少年は

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 雨が上がった。
 アスファルトの道路に水たまりができている。
 そこを歩くと、ビチャンと音を立てて、弧を描くように波紋が広がっていく。

 そして、その細い脚を掴もうとする影が一つ。


 グシャ


 影は影に喰われる。

 空は雨雲の隙間から、カーテンのように太陽の光が漏れていた。
 少女は空を仰いだ。
 長い髪を抑えながら。

「あーくん?」

 今はもういない筈の彼の名前。
 なんとなく、彼が傍にいる気がした。あまりにも現実的な感覚を体で感じたから、振り返らずにはいられなかった。
 彼が亡くなったのは五年前。
 彼がまだ声変わりをする前だった。まだ声が高くて、色白で、クリクリとした大きな目を持つ可愛い男の子。
 もし、彼が生きていたなら、少女と同じく高校生。その頃ならば、彼は声変わりをして大人の男性のように低い声なのだろう。
 しかし、今はもう声なんて分からない。
 少女の目にはなにも映らなかった。見えるものは雨雲を抱く空だけ。
 誰にも気づかれないように、小さく溜息をついた。そして、歩き出す。

(いるわけ、ないよね。幽霊なんて)

 非科学的なもの。
 幽霊なんて存在しない。
 でも、時折、無性に信じたくなる。

(あーくんに、会いたいなぁ)

 こんな寂しく感じる時は特に。
 雨上がりの匂いが鼻をつく。


『俺は雨が好きだよ』


 彼の言葉が蘇る。
 あの少年の声で。二度と耳で聞くことがない、心地よい声。


『全て洗い流してくれるから。辛いことも、悲しいことも』


 少年が机に頬杖をついて、彼女を見る目は優しくて。


『雨の音は、一時でも全てを忘れさせてくれる』
 
 忘れられない。
 いくら雨が降っても、いくらなにも聞こえなくなるぐらい激しい雨が降ったとしても、少年を失った悲しみが忘れられない。

(嘘つき)

 いない彼に向けて呟く。

(雨が降るたびに思い出すもの)

 まるで追われているかのように歩くスピードが速くなる。同時に、鼓動も早くなる。

「雨なんて、ずっと降らなきゃいいのに……!」

 今にでも泣き出しそうな顔で、少女は吐き捨てた。
 行き交う人々。
 見知らぬ人々。
 合間を縫うように歩く。
 太い電柱。
 特に気にすることなく、通り過ぎろうと歩いた。

「!」

 電柱に黒い影を見た気がした。
 しかし、少女が振り返った時にはなにもなかった。


『振り返ったらダメだよ』


 黒い影からそう聞こえた。
 幻覚に、幻聴。
 疲れているのかもしれない。
 少女は目をこすり、頭を横に振った。全ての疑惑を払うかのように。忘れたいかのように。


『どんなに嫌なことがあっても』


 また聞こえる。
 その場から逃げるように歩き出す。


『雨が降ったら、莉良りいで頭がいっぱいになるから』


 少女はピタッと止まる。
 莉良とは、少女の名前だから。
 そして、その名前を呼んだのは、少年の声によく似ていたから。
 心を縛る。
 体をも、縛る。

「あーくん」

 呼ぶ。

「あーくん」

 しかし、返事はない。

「あーくん……」

 少女の近くを通り過ぎる人々が不思議そうな面持ちだったが、少女は気にしなかった。
 莉良は学校の鞄を抱く。
 中学校を卒業して、同じ高校に通いたかった。
 でも、卒業することなく、人生にピリオドが打たれた。
 この世界は無情だ。
 なにも変わらずに日々を過ごせると思っていた。
 どんなことが起きようと、それは己の身に降りかからないと思っていた。
 前触れもなく、突然それは襲いかかってくる。

「あーくぅん……」

 あっという間に手に届かない場所へ人を連れていく。お別れも言えないまま。全てを置いて、時だけが前へ進んでいく。
 彼の手を取りたい。
 今度こそ離さないから。
 チャンスをください。
 絶対に無駄にしないから。


『振り返ったら、ダメって言ったのに』


 背後から鮮明な声が聞こえる。
 莉良はその声が耳に入って、目を見開く。まるですぐ後ろにいる気配がするから。
 思わず、鞄を抱き締めた。
 涙を溜めた目で、背後をそっと振り返る。
 そこには黒い影があった。
 人の形をした影。
 彼が生きていたら、莉良より大きくなっているのかもしれない。
 目も口も鼻もない、ただの影。

「あーくん、怒ってる?」

 影に向かって話しかける。

「いつまでも引きずってる私を」

 しかし、影はピクリともしない。
 徐に、莉良は鞄を開けて、ゴソゴソとなにかを探し始めた。
 そして、鞄から出てきたのは、一枚のハンカチ。

「あーくんが使ってたハンカチ、手放せなくて」

 莉良の視線が落ちる。
 頭の中では分かっているのだ。いつまでも未練を抱いてはいけない。前を向いて生きなければと。しかし、彼女にとって彼の死はなによりも大きくショックを受けた。
 このハンカチすら洗濯することができないほど。
 彼の匂いも、使っていたという事実も、全てが消えて無くなってしまいそうで怖い。
 ギュッと握りしめる。


『……』


 影はなにも答えない。


『……』


 風が吹く。
 その風は影にこびり付いた闇をも吹き飛ばすかのように強く吹き付けた。
 闇が削られ、細くなっていく。
 そして、そのまま塵となって消えた。
 莉良は、甘い期待をしていた。もしかしたら会えるかもしれないと。
 そして、一呼吸をついてから、ハンカチを鞄に入れて、歩き出す。


『この姿を莉良に見られたくないから』


 人の影が人の影を喰らう姿。
 脚を折り、腕を引きちぎり、共食いをしているようにも見えた。
 強い影は生き残る。
 少女の為に。

 
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