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第二章 風待月
しおりを挟むご飯処『赤とんぼ』。
その店内はテーブルに座るお客さんはまばらで、一番忙しい時間帯が過ぎたところだった。
台所に立つわたしは、祥子さんに頼まれて、夕食の支度をしていた。
まな板の上に皮を剥いたサツマイモを置いて、包丁を構える。少しずつ、ゆっくりと均等の幅に切っていく。
全神経を包丁に注いでいると、後ろを通る祥子さんが急に立ち止まった。その手には、お客さんが食べ終わった食器を持っていた。
「お! ちせちゃん、かなりできるようになったじゃん!」
この世界に来て、初めて褒められた。
「ほ、本当ですか?」
素直に嬉しくて、声が裏返り、顔が綻ぶ。たった一回褒められたぐらいで調子に乗ってはいけないと思っていても、一度緩んだ表情はなかなか引き締まらない。自分が伸びきった輪ゴムにでもなったような気分だ。
「慌てんかったら、普通にできるじゃんよ~。その調子なら全く問題ないね」
「祥子さんと小秋ちゃんのお陰です! ありがとうございました」
切るスピードはまだまだ遅い。しかし、自分でも自信を持ちたくなる程、他人と同じように野菜を切ることができるようになったと思う。
「うちらはなーんも。ね、秋ちゃん」
「そうですよ! ちせさんの努力の賜物です」
お客さんの注文を取っていた小秋ちゃんの声が聞こえる。
「ありがとうございます」
本当に嬉しい。
今までどれだけ練習し続けてもできなかった。やればやる程焦りが募って、更にできなくなった。だから、やめた。やろうとさえ、思わなくなった。
でも、今は違う。
できるようになるまで根気強く教えてくれる人がいる。様々な視点から原因を探り、できるようになる方法を一緒に考えてくれる人がいる。わたしの遅いペースを急かさずに待ってくれる人がいる。
今までできなかったことができるようになり、思わず踊りたくなる程、こんなにも嬉しい気持ちになるとは思っていなかった。これが達成感というモノなのだろうか。ずっと固く閉じ込めていたモノが解放されて、心が軽くなったような感覚が心地良い。
またやりたい。
もっと上手くなりたい。
少しずつ変わっていく、自分の中にある色。
「いてっ」
こうやって自制できずに調子に乗るものだから、やっぱり怪我をする。左の人差し指から赤い血が出てきた。
「あぁ……」と呟きながら水道の蛇口をひねり、その水で血を流していると、
「指、出してください」
声がした方へ振り返ると、すぐ後ろに絆創膏を持っている小秋ちゃんが立っていた。
祥子さんに注文を伝えてから、いつでも貼れるように準備万端な状態で構えている。その絆創膏は怪我をよくするわたしの為に、割烹着のポケットに忍ばせてくれているものだ。
「ごめんね」
気落ちをするように大人しくして、小秋ちゃんにされるがまま指を委ねる。
綺麗に絆創膏が巻かれていく指。わたしが痛みを感じないように、ゆっくりと巻いてくれる。小秋ちゃんの優しさがよく分かった。
「ちせさんは、もう少し自分に自信を持っていいと思いますよ」
「そうかなぁ。すぐにこうやって怪我しちゃうし……」
「気持ちを落ち着かせて取り組めばなんでもできます」
「気持ちかぁ……」
考え込むように口をへの字にしていると、小秋ちゃんは「大丈夫」と言って、言葉を続けた。
「上手くいかないなぁと思ったら、まず頭の中で整理してみてください。なにができて、なにができないのか。一つ一つできないことを潰していけば、次々にできることが増えてきますよ」
思った以上に指の傷が深いようで、小秋ちゃんは割烹着のポケットからもう一枚絆創膏を取り出した。
「ちせさんはすぐに頭が真っ白になっちゃいますから、できない時は自分を落ち着かせることに集中してください。それからでも全く遅くないですから」
パニックになるとなにも考えられなくなることが、わたしの悪い癖。これに気づかせてくれたのも、お店のみんなのお陰だ。みんながわたしを少しずつ導いてくれる。
「それでできるようになるかなぁ?」
「ちゃんとちせさんのこと、よく見てますから。間違いありません」
絆創膏を貼り終えて、小秋ちゃんはニッコリと笑いかけてくれた。
改めてお礼を言うと、わたしはまたサツマイモを切り始める。
八個目のサツマイモを切っている時、ご飯を食べに来ていた沖川さんと小秋ちゃんが話しているのを横目で見た。
あの二人はなかなか良い雰囲気で、なんだか羨ましい。わたしもいつか好きな人と話をしたり、ご飯を食べたり、手を繋いだりしたいな。
そんな妄想に近い、ベタな理想を頭の中に描く。すると、なんだか恥ずかしくなってきて顔が熱い。一旦、考えることはやめよう。
サツマイモを十個全て切り終わると、終始力んでいたからか、手首と指が痛い。両手を振り、指をほぐす。肩と首もなんだか痛い気がする。どれだけ全身に力が入っていたのだろうか。
右肩を回しながら、次に切る青ネギを探す。しかし、どこにもない。昨日、祥子さんが青ネギを料理に入れていたので、もしかしたその時に使い切ったのかもしれない。
割烹着のポケットにハサミを忍ばせて、お店の畑に植えている青ネギを取りに行くことにした。
引き戸を引くと、最近会えていない人の後ろ姿が視界の隅に小さく映った。相変わらず、飛行服姿の彼。
「高島さ…………ん?」
彼の隣にいる女性に気づく。高い鼻を持ち、フランス人形のような金髪の少女。遠くから横顔を見ただけで、日本人の顔ではないと気付いたくらいだから、恐らく目の色も茶色ではないと思う。
彼女は満面の笑みで、高島さんの腰に手を回して抱きついている。ぎこちない動きではなく、慣れた手つきでしっかりと。
(あれ……)
高島さんは笑顔で、彼女の頭を撫でていた。そして、とても愛おしそうな眼差しで彼女を見つめていた。
(誰だろう)
非常に親しそうに見える。
兄妹のようには見えない。
やはり男女の仲なのか。
ここはドラマのように恋人同士かと思ったら、実は兄妹だったというオチに結びつけたくなる。が、白い腕が彼の腰に回っているのを見る度に、淡い願望は打ち砕かれる。
目を擦る。でも結果は変わらない。
「ちせちゃん?」
接客をしている祥子さんがわたしを呼ぶ。
その声に我に返り、わたしは「なんでもないです。青ネギ、取ってきますね」と返事をして、笑った。
あまり力が入らない手で戸をゆっくりと閉める。
(幸せそう)
遠くから、二人の背中を見つめる。
高島さんとお付き合いをしている人はいないと、勝手に思い込んでいた。そんなことはないのに。わたしにも親切にしてくれた優しい人。一つも恋沙汰がない方が不自然だ。
(この違和感はなんだろう)
胸元にそっと左手を添える。
高島さんにあんな可愛い子がいるんなら、幸せに違いない。自慢できちゃうほど、整った顔立ちで綺麗な人。体型もよいし、モデルさんみたいだ。
(おかしいなぁ)
指を立てて、服を握る。深いシワが刻まれた。
彼の幸せを願えば、祝福するべきなのに。しなければならないのに。小さな棘のようなものが心に引っかかる。
(心が、苦しい……。どうして苦しいんだろう)
痛くて、苦しくて、胸元を更に握り締める。決して、痛みが和らぐことはない。
(見たくないなぁ)
どうしてそんなことを考えるのか。傷のない体が痛覚を感じるのか。
自分の気持ちが分からない。
(こわい)
わたしは逃げるように走り出した。
少し離れた場所にある畑まで、息をするのを忘れるぐらい全力で走った。
畑に着いてから、膝に手をついて息を整える。
「はあ、はぁ……ん、はあ……」
こんなに全速力で走るのはいつぶりだろうか。高校生ぶり、かな。社会人になってからは、まず走る機会がない。
(怖い……?)
膝に手をつく。
その手は震えていた。脚もガクガクと小刻みに震えている。いや、痙攣をしているかのように、全身が身震いをしていた。
(落ち着け、落ち着け)
呼吸が早いままだ。深呼吸を繰り返す。
抱く感情を言葉にすると、自分の中の高島さんが違う人になってしまうような気がして怖い。
今までに似たような感情を抱いたことがあっただろうか。なにも思い出せない。どんなことがあっても『仕方がない』『無理だから』『わたしはいいや』と、いろんな理由を付けていつも諦めていた。だから、一定の感情以外を持つことが、あまりない。
(あ……)
初めて気付く。
わたしはいつもなにもせずに、自分から諦めていたんだ。
(いつものわたしなら、受け入れていた……?)
この感情を感じるということは、わたしは諦めたくないってこと? なにに?
やはり怖い。
わたしの知らない感情を抱くことが、怖い。
(こんなのわたしらしくない)
諦めなきゃ。諦めなきゃいけない。
でも、なにを?
答えが分からない。
答えを知りたくない。
答え合わせもしたくない。
(分からない。どうしたらいいのか分からない)
頭の中がグルグルと回る。抱える感情。言葉にしたくない気持ち。
「『ネギ、を、取りなさい』――わたしは、ネギを、取らなければ、ならない」
この状況から逃げるように、ここに来た本来の目的を口にする。母親が子供に言うように。そして、命令文を自身に打ち込むように。
青い空の下にのびのびと生えている青ネギを眺めた。長く伸びた青ネギは、風に吹かれて、気持ちよさそうにゆらゆらと揺られている。
(ジ、ユウ)
決められた場所に存在を固定されて、与えられたものを飲み込んで、生かされる。そこに自分の意志はなく、自由はない。機械的な生。
一本ずつ、根元をハサミで切っていく。
片手で持てる青ネギが集まり、ハサミをポケットに戻した。
それがスイッチだったかのように、やらなければならない行動をやり終えて、口から空気を長く吐く。やっと暗示が解けたように、自分が帰ってくるのを感じた。同時に、機能を再開した鼻はネギの臭いを嗅ぎ、思わず顔をしかめる。正直、ネギだけの匂いは臭い。
目の前に広がるネギ畑を、今一度見渡した。
そよそよと吹く風。刈り取られたネギは、墓石のように佇み、静か。そして、今回たまたま生き残ったネギは、生を喜ぶように踊る。
(お店に、帰ろう)
行動の邪魔をしてくる雑念を振り払うかのように、頭を横に振った。
来た道を戻ろうと、振り返った――
「アナタ、九藤ちせでしょ?」
聞き慣れない女性の声がした。
その瞬間、ぶわっと強い風が吹く。乱暴な風が、二人の間を駆け抜けた。
髪を押さえながら、舞い上がる砂煙に気を付けながら、少しずつ目を開けると、目の前には、金色の横髪を後ろに流す女性が立っていた。先程高島さんに抱きついていた彼女が、わたしを睨みつけている。綺麗な碧眼で、真っ直ぐにわたしを。
彼女の隣には高島さんの姿はなかった。
「……はい」
今は会いたくなかった。
気持ちがモヤモヤする。
「に、日本語、お上手ですね」
できる限り愛想よく笑ってみた。相手はわたしの気持ちをなにも知らないのだから。
が、彼女はあからさまに不愉快な顔を見せる。
「やめてくれる? その不細工な笑顔」
「ぶッ」
(さいく!?)
思わず不細工と口に出しそうになったのを、寸前のところで飲み込んだ。
褒めたのに、心を抉る言葉で帰ってきた。綺麗じゃないのは分かってるけど、不細工だなんて酷い。ただの悪口だよ。
わたしが放心状態で口をぽかんと開けていると、彼女は言葉を続けた。
「アタシ、日本育ち」
「あ、そうなんですか……すみません」
無理矢理笑いかけると、彼女はまるで調べるように、わたしの顔や身なりをありとあらゆる方向から眺めた。
「フンッ」
彼女はゴミでも見るかのように、改めてわたしと目を合わせる。その視線は敵意しかない。あまりに居心地が悪く、早く彼女から離れたかった。
「あの、なんでしょうか?」
「ネギ臭い」
「すみません……」
仕方ないでしょ。青ネギを持ってるんだから。
とは、言えず。ぎゅっと口を閉じる。
「高島のこと、知ってるでショ?」
彼の名前を聞いて、心臓が握られたかのように痛む。
彼女の先の言葉を聞きたくないと、脳は悲鳴を上げる。このまま逃げてしまえ。反抗してしまえ。そう言っているのに、それでも彼女には逆らえなかった。
「……はい」
「もう近づかないでくれる?」
「はい……?」
細められた碧眼。そこにあるのは氷のように冷たい眼差し。
急になにを言いだすのだろう。そう困惑していると、彼女はわたしの胸倉を掴んだ。ぐいっと顔を近づく。甘い香りが鼻を衝いた。
「一回で分かりなさいヨ」
一度言ったら分かれよ――母の声が蘇った。
ハッキリと物事を言い、ちょっとのことで注意してくる。似てる。母に。
そう思った刹那、潮が引くように自分の中の感情が霧散していくのが分かった。
知っている。これは、反抗すればする程熱を帯びる。だから、これ以上怒らせない為に、わたしの心を無くさないといけない。
「すみません」
そう言うと、彼女は乱暴に放した。その勢いで後ろにこけそうになるが、なんとか踏ん張る。
「分かった? もう近づかないで。蠅みたいに高島の周りをうろちょろしないで。目障りなの。高島はアタシのモノだから。絶対にアンタのモノにはさせないカラ。絶対に渡さない。絶対に!」
確固した意志の強さを目の前にした。
力強い眼差し、そして声色。なんの取り柄のないわたしに負けたくないんだ。どうしてそこまで執着するのか、疑問に思う。わたしはあなたみたいに綺麗でないというのに。並ぶだけで優劣が付くほど、明らかな差ではないか。
ただ一つ、彼女の言いたいことだけは分かった。
でも、口がなかなか動かない。
返事をしたら、全てが終わってしまうような感じがする。
――本当にそれでいいのかと、名前の知らない誰かがわたしに問いかけるから、わたしは迷っていた。
「……は」
「早く返事をして」
彼女の追撃が、わたしの口を動かす。
「はい」
そう答えると、彼女はやっと満足したかのように口の端を釣り上げた。
「よろしい」
初めて満足そうに笑顔を浮かべた。彼女は身軽そうにクルリと踵を返す。
さっさと歩き去っていく背中を見つめながら、震える手で青ネギを握り締める。
高島さんに会わないと困ることはない。仕事としても、彼は赤とんぼを休憩所として利用もしていないし、取引先でもない、全く関係がない人。
それなのに、彼が更に遠い存在になってしまったようで。手を伸ばしても、指先すら触れられない。彼女が彼を引っ張って邪魔をする。
元々傍にいないはずなのに、虚無感が全身を襲う。
俯くと、目から涙がこぼれ落ちた。
(もう、彼に会ってはいけない)
思い込ませるように言葉を繰り返す。
彼女が何故わたしにそのように言うのか、理由は分からない。でも、そうしなければならないという気持ちだけが残る。心臓に戒めさせる杭を打たれたような気持ちだけが。
母に言われているようだった。なにも聞かず、ただ彼女の言うことを聞かなければならないという感覚。彼女の言葉が体を支配する。生きる術として身につけた本能が、彼女と母を同一視し、彼女の言葉を守ることこそが使命だと、わたしがわたしに命令をする。
そんな中、悲しいという感情が邪魔をする。
でも、それだけじゃない。
なんだか彼女に負けた気がして、悔しかった。
そして、初めて会う人の命令に従ってしまう、愚かな自分に対しても。
(惨めだ)
店に戻ってきた。
ネギを取りに行く前よりもお客さんは減り、ほとんどいなかった。食後のお茶を飲む見知った人達しかいない。
涙を拭ったとはいえ、目が赤く腫れ上がっているわたしに気づいた祥子さんが騒いだ。事情を説明したら、更に騒いだ。そんな祥子さんを小秋ちゃんは、奇声妖怪と呼んでいたのが、笑えた。
「なにその女!? わけ分からんのんですけど! 急に会うなとか言われても意味分からんのんですけど!!」
生意気ぃぃ! うっきぃぃ! と叫びながら、祥子さんは壁をバンバン叩く。わたしよりもなんだか悔しそうにしている姿を見て、不思議な気持ちだった。自分のことではないのに、どうして祥子さんはあんな風に言っているのだろう。
すると、話が丸聞こえだった為か、事情を理解した沖川さんが口を開いた。
「たぶん、その子は有朱(ありす)だと思う」
沖川さんの隣にいた瀬田さんが「あぁ!」と気付いた顔をした。
「髪と目の色が違うという理由で、周りから偏見な目で見られていたっていう噂のあの子ですか」
「高島大尉は我々と変わらぬ態度で有朱と接していたからな」
「高島隊長に心を許してからは、四六時中べったりっていう噂っスよね。あと、『大好き!』っていつも愛の告白をしているっていう」
「うん……」
沖川さんがわたしの様子を伺うように視線を向けていた。
それに気付いたわたしは、ただ苦笑することしかできなかった。
瀬田さんの言葉が胸に突き刺さって仕方がなかった。悪気がないのは理解している。だが、知る筈がなかった、高島さんのリアルな現状を目の当たりにしているようで苦しかった。正直、知らない方がよかったのかもしれない。
高島さんが、滅多にわたしの前に姿を現さないのは、伍賀さんも言っていたように仕事が忙しいからだと思っていた。でも、本当は有朱さんと会っていたからなんだ。わざわざ嘘をついたんだ。
わたしなんて、どうでもよかったんだ。わたしみたいな異世界から来る人は多い上に、声をかけてあげるのも珍しいことではないみたいだし。わたしは全く特別でもなんでもなく、その辺にいる一人と変わらなかったんだ。
(自惚れだったんだなぁ……)
繋木さんが店に来て助けに来てくれたのは、誰にでも向ける心配で来てくれただけ。
壁に寄っ掛かる。窓から入ってくる太陽の光が、わたしの足元を照らす。
心配するように、小秋ちゃんがわたしの顔を覗き込んだ。
「座りますか?」
すぐ近くのテーブルの椅子を引いてくれた。
わたしは首を横に振り、彼女の厚意を断る。
「ごめん。今は立っていたい」
泣きそうになるから。でも、そんなこと言いたくないし、知られたくない。
「分かりました」
たった一言だけ告げると、小秋ちゃんは踵を返し、台所に戻る。
悪いことをした。彼女の小さな背中を見ながら思う。
すると、小秋ちゃんは湯気が出るコップを持って、すぐに戻って来た。
それを覗いてみると、中は白い飲み物――前の世界では、見慣れた牛乳だった。今思えば、こっちに来てからは、あまり見かけない珍しいもの。
「珍しく牛乳が手に入ったから、ちせさんに飲んでもらいたくて温めていたんです。少しは気持ちが落ち着くと思います。どうか飲んでもらえませんか」
にっこりと笑う。
頼まれると断れない。それを知っているかのように、小秋ちゃんはわたしに差し出した。
「ありがとう」
わたしはコップを落とさないようにしっかりと受け取る。
少しフーフーと吹きかけ冷ましてから、ゆっくりと口に含む。どれだけ久し振りに飲むのか分からないけど、このホットミルクはとても優しい味だ。
わたしの体温よりもあたたかいものがゆっくりと下に降りて、それからじわりと広がっていくのを感じた。わたしの意に反して、不思議に目から涙が落ちていく。
小秋ちゃんは驚くこともなく、まるで分っていたかのように、わたしの背中をさすってくれた。そして、周りには聞こえないように言った。
「高島大尉のこと、気になります?」
言葉にされて、ドクンと心臓が鳴る。
わたしはなにも答えられなかった。それに答えると言うことは、有朱さんの約束を破ってしまうことに繋がるかもしれないと、思ったから。約束は守らなければならない。そう母に強く教わった。
■ ■ ■
わたしはそれから高島さんの気配がすると徹底的に会わないようにした。道端でも、お店でも。逃げることができたら逃げて、逃げられない時は隠れて。鉢合わせることがないように、常に周囲に注意を向けた。
有朱さんと約束してから、何故か高島さんの姿を見かけることが多くなった気がする。今はもう苦しくなるだけ。困ったな。
高島さんの気配がない時は、お店の仕事を普段以上に頑張った。
しかし、そんな時でも不意に考え込んでしまい、何度も手を止めてしまって、祥子さんに怒られた。その度に小秋ちゃんにフォローしてくれた。
過度な気遣いに疲れを感じ始めた、ある日。
暖簾を下げて、店内を掃除していると、セーラー服姿の小秋ちゃんがわたしの元に来た。
「ちせさん、私、明日から二週間ほどお休みしますね」
「え? どうしたの?」
「学校の試験が近いので、勉強に専念しようと思って」
「そっか。学生さんだもんね。試験、頑張ってね」
すると、小秋ちゃんは心配そうにわたしを見た。
「大丈夫ですか?」
「え……どうして?」
「あれから元気がないので……」
小秋ちゃんが言う「あれ」とは、恐らく有朱さんが初めて来た日のことだろう。高島さんを避けるきっかけになった日。
思い出すと、一気に体が重たくなったように感じた。
「心配してくれてありがとう。もう大丈夫だよ」
精一杯笑ってみせた。
わたしの顔を見て、小秋ちゃんはほんの少し表情を緩めた。
「そうですか。無理しないでくださいね」
「うん。ありがとう」
小秋ちゃんは、いつも学校が終わってから店に来て仕事して。学校が休みなら一日仕事をする真面目な子。
徐に小秋ちゃんは首にかけていたものを取った。桜色のそれは御守りより小さく、袋状に膨らんでいる。
「香り袋です」
それをわたしに見せてくれると、そのままわたしの首にかけてくれた。
「え? いや、これは……」
焦って小秋ちゃんに返そうと紐を持つと、小秋ちゃんはそっとわたしの手を握った。
「随分長い間身につけていたので香りはほとんどありませんが、御守りとして受け取ってください」
「でも、大切なものなんじゃないの?」
それはシミや傷がない。大切に扱われていたのが見て分かる。
「大切なものだからこそ渡したいんです。ちせさんをきっと守ってくれますから」
彼女はそう言って、あたたかく微笑む。
「ありがとう」
お礼を言うと、小秋ちゃんは手を離した。
二週間ほど小秋ちゃんが休むだけ。少し心配し過ぎなんじゃないのかと思ったけど、それぐらいわたしを想っていてくれているのだろう。それとも、失敗続きのわたしが不安で仕方がないのだろうか。
香り袋を手に取って見つめていると、手毬の柄が刺繍されていて可愛い。
しかし、よく見ていると、これと似たようなものをどこかで見たことがある。どこだったかなぁ? と頭をひねっていると、小秋ちゃんが口を開いた。
「もしかして、もう持ってますか?」
「初めてだよ! でも、同じぐらい大きさの……なんだったかなぁ」
口に出しながら、思い出そうとしてみる。
「御守りじゃなくて?」
「御守り……」
そう言われて、ハッと思い出す。
首にかけていた、匂い袋ではない方の御守りを取り出す。
こちらの世界に来てからもずっと身につけていた。体の一部のような当たり前のもの。
「小秋ちゃん、これ」
文字もなにも書かれていない御守り。模様らしき刺繍はあるが、御守り自体が小さい為、絵柄の全体図が分からない。
「この御守りは手作りですね」
小秋ちゃんは微笑ましい様子で御守りを眺めていた。
「この御守り、小秋ちゃんにあげる」
買った覚えも、貰った覚えもないけど、ずっと持っていた御守り。これを持っていると守られている気がして、時間が経っても手放す気になれなかった。本来、御守りは一年ほどで、神社やお寺で焼かなければならないのだが。
「どんなご利益があるのか全く分からないんだけど、これを持ってて。身につけてると守ってくれる気持ちになれるんだぁ」
小秋ちゃんは不意に御守りを鼻に近づける。
「金木犀の香りが微かにします」
「え? 匂いがする?」
匂いはない物だと思っていたので、小秋ちゃんの言葉に驚いた。
「これはいただけません」
そう言って、小秋ちゃんはわたしの掌に乗せる。
「この布は……」
小秋ちゃんは小さな声でそう言いかけたが、咳払いをしてやめた。
「ちせさんにこの御守りを渡した人の想いが伝わってきましたので」
本当に伝わったのかは分からないが、小秋ちゃんは真っ直ぐにわたしと目を合わせた。その目は嘘をついているものではない。追求してみようかと思ったが、小秋ちゃんのことなのでのらりくらりと躱されそうな気がして、やめる。
不思議な人。
もし嘘だったとしても、それでもいいと思えた。
「誰がわたしにくれたんだろ?」
「大切に持っててください」
返された御守りを、わたしは再び首に掛けた。
それから、みんなに挨拶をすると、小秋ちゃんは帰っていった。
わたしは台所に入って、上の棚に入っている食材や調味料の在庫確認をする。それからその場に座り込み、下の棚を開けた。ここには漬物や、酒、保存食を置いてある。それらを確認しながら、床に紙を置き、足りなくなるであろう食材と、注文が必要な調味料を書いていると、戸を開ける音がした。
「ごめんください」
高島さんの声だ。
一瞬立ち上がりそうになるが、わたしはすぐに腰を低めた。声を発さずに居留守を決め込んでいると、二階から降りてきた祥子さんと目が合う。
台所と二階は近くにある。台所にカウンターはあるが、隔てる壁はない。ある程度高いところから台所を覗くと、いくら隠れていても見えてしまう。
わたしは、高島さんに会いたくないと、声を出さずに口で描き、首を横に振った。
言いたいことが伝わったのか、祥子さんは少し嫌な表情を浮かべた。が、瞬き一つで笑顔を作り、高島さんの対応をする。
「藤次くん、元気?」
「ちょっと疲れてるよ」
彼の声に覇気がない。
その声が少し気になって、カウンターから覗くと、彼は倒れこむように椅子に座った。
「……有朱って子?」
直球だ。
「なんで知ってるの? さすが祥子ちゃんだなぁ。最近、拘束が特に酷くなってきてね」
「そう。お茶でも飲む?」
「お願い」
祥子さんはお茶の用意をしながら、話を続けた。祥子さんの動きに合わせて、わたしは場所を移動する。
「最近、有朱って子と仲良くしてるんだって?」
「最近じゃないけど。仲良く? んー、そうなのかな」
「歯切れ悪ッ」
マイペースな高島さんの言葉に、祥子さんは不愉快そうに眉を寄せる。
「有朱は寂しがり屋みたいで。俺から離れてくれなくて」
呼び捨て。そんな仲なのか。
鉛筆を握る手が震える。
このままここにいて、話を聞いてしまってもいいのだろうか。聞きたくない言葉を聞いてしまいそうで怖い。
「そ。で、その藤次くんはなにしにここに?」
「九藤さん、最近どうしてるかなって。お店に来ても見かけないから」
有朱さんの存在さえ知らなければ、嬉しかったのかもしれない。でも今はなにを言われても、「もうわたしのことなんか放っておいて!」と口が滑りそうになる。
口を真一文字に結ぶ。口さえ開かなければ余計なことを言わなくて済むから。
「ちせちゃんなら頑張ってるよー。まだ失敗するけど、料理も上手くなってきたし、お客さんと仲良くして笑顔が増えたって感じ」
「そっか。それなら良かった」
見なくても分かる。高島さんは嬉しそうに笑ってくれている。
でも、全然嬉しくない。
なにも聞きたくない。
どうしてこんなに胸が締め付けられるんだろう。悲しくなるだけなんだろう。
「気になるんならもっと顔を見せればいいのに」
緑茶の入った湯のみを高島さんの前に置き、空いているテーブルを拭いていく。
「有朱がずっと傍にいるんだよ」
きっと今も笑顔だ。
そう思うと、物を全て床に置き、膝を抱えた。
「なーに? 有朱がいると店にも入れんのん?」
「俺が人と話すと、有朱が嫌がるんだよね」
「特に女とか?」
「どうだろ」
「はっ」
祥子さんは鼻で笑う。異様に不機嫌だ。
「じゃあ、なんだ。仕事以外はずっと有朱といるわけ?」
祥子さん、それを今聞かないで。聞きたくないよ。
「まあね」
やめて。聞きたくない。耳を削いでしまいたい。
膝を抱える腕に力を込める。顔を埋めて、全身に力が入る。
(わたしなんて、もうどうでもいいんだ)
早く帰ってよ。さっさと帰って。
「馬鹿じゃないの~!?」
祥子さんは怒りに満ちた表情で声を荒げた。
「藤次くん、有朱とお付き合いしてるわけ?」
「へ? してないよ、してない」
(え?)
「やっぱり! じゃあ、有朱がちせちゃんに言ったこと、知ってる!?」
「なに?」
(やめて!)
思わず声が出そうになり、慌てて両手で口を塞ぐ。
「藤次くんに会わないでって、一方的にちせちゃんに言ってきたの! アンタたちが付き合っているわけでもない、特にちせちゃんが悪いことをしたわけでもないのに。おかしいでしょ!? おかしいよね! とろくさいアンタでも、この意味が分かるよね!?」
祥子さんは責め立てるように叫んだ。こんなにも感情を表立っている彼女を見て、ほんの少し、心の苦しさが緩んだ気がした。
高島さんは黙った。
わたしの心臓が鳴る。黙っているからこそ、よく聞こえた。
「……」
「ちせちゃん、一方的に約束させられたのに、健気に守っちゃってんの」
「……」
暫く経ってから、重たそうに口を開いたように聞こえた。
「……だから、最近、九藤さんは姿を見せてくれないのか」
「本人が会いたくないって言ってるからね」
確かにそう言った。
でも、そうじゃない。
それは高島さんには聞かれたくない言葉。
言わないでほしかった。
なんてわたしは我儘なんだろうか。
「分かった」
高島さんは少し低めの声で短く答えた。
そして、お茶をすする音がしたと思ったら、すぐにテーブルに置く音が聞こえる。
「俺、もう帰るよ」
彼の言葉、彼の声色、雰囲気に嫌な予感がした。重い黒ずんだ感情が胸の奥で淀み、じわじわと広がっていく。広がれば広がる程、焦るような気持ちになって、体は冷えていくにも関わらず、額は汗をじわりとかいた。
嫌われちゃったのかもしれない。会いたくないって言わなければ良かった。
お茶を最後まで飲まずに、一口だけ飲んで終わりだなんて、よっぽど機嫌を悪くさせたに違いない。
遠ざかっていく、足音。そして、戸を開ける音がした。
「もうこの店には来ない?」
祥子さんの声に、高島さんは答えた。
「……やめておくよ」
わたしが嫌われただけじゃなくて、このお店も嫌いに?
(どうしよう。どうしようどうしようどうしよう!)
戸が閉まる音が耳を貫き、ハッと我に返る。すぐに立ち上がるが、そこにはテーブルを拭く祥子さんの姿しかいなかった。
「高島さんは……」
「出て行っちゃったよ」
祥子さんはわたしを見ることなく淡々と答えた。
血の気が引く。
自分が引き起こしてしまった問題を直面し、事の大きさに前を向いていられなくなる。徐々に顔を下げると、視界に御守りと香り袋が入った。
小秋ちゃんの言葉が頭に響く。落ち着いて、と。
御守りと香り袋を共に握り、金木犀を嗅ごうと鼻に寄せる。やっぱりなんの匂いもしない。でも――
(まだ遠くまで行ってないはず)
深呼吸を繰り返した。
「わたし、高島さんを探してきます!」
祥子さんの返事を聞く前に店を出た。
ひんやりとする外の空気に体がぶるっと震える。
見渡してみると、遠くに歩く姿を見つけた。
気付けば、考えるよりも先に走っていた。徐々に近付く彼の姿。もう少しで手の届く距離だと思った時、彼は立ち止まり振り返ろうとした。そんな彼の腕を、しっかりと掴む。
「高島さん!」
声がひっくり返る。
「九藤さん?」
彼は驚いた顔をしていた。
「あの、わたしのことは嫌いでいいですから! でも、あのお店は嫌いにならないでください! お願いします!! みんないい人達なんです!!」
彼の腕を強く掴む。
風が吹き、ゆらりと揺れる御守りと香り袋。
なかなか彼の声が聞こえないから顔を上げてみると、高島さんは違う場所を見ていた。
「……その御守りは?」
「え、これですか?」
高島さんは御守りを見ていた。
「よく覚えてないんですけど、いつの間にか首にかかっていたと母に聞いてます。誰に貰ったのか本当に覚えてなくて……」
「覚えてないのに身につけてるの?」
「はい……なんとなく、身につけなきゃいけない気がして」
少し前に小秋ちゃんにあげようとしたけど、内緒にしておこう。
「いつも一緒に過ごしてきた、大切なものです」
彼の目を見て、動揺しているのが分かった。
高島さんは腫れ物を触るかのように、そっと御守りに触れた。
「……そっか」
彼は、泣きそうになりながらも嬉しそうに微笑んでいた。
何故だろう。何故彼はそんな表情を浮かべるのか。
わたしは、その表情の理由を知りたいと、思った。
「九藤さんのことも、お店の赤とんぼのことも嫌いになってないから心配しないで」
「だ、だって、さっきもうお店には来ないって……」
「やっぱり」
そう言って、納得したかのように笑った。
「え?」
「九藤さん、店内にいたでしょ?」
「え、えっと……」
バレていた。隠していたものが実は気づかれていたのだと分かると、恥ずかしさもあるが、罪悪感も同時に生じる。なんて答えようと悩んでいると、高島さんは更に笑った。
「祥子ちゃん、言ってたからさ」
「え、え、えええ? そんなこと言ってましたか?」
顔が熱い。
「そりゃあ、もちろん声には出してないよ」
そう言われて、理解した。わたしが祥子さんに会いたくないと伝えた方法と同じように、祥子さんは高島さんにわたしが隠れていると教えたのだろう。口パクなら声は出ないはずだし、わたし自身も隠れているわけだから気付くこともない。
一本取られた。
両手で熱くなった顔を覆う。
「まさか、こうやって追いかけてきてくれるなんて思わなかったよ」
「じゃ、じゃあ、もう二度とお店に来ないっていうのは……?」
「嘘だよ」
「本当ですか?」
「ちせさんは本当に心配性だなぁ」
名前を呼ばれてドキンと心臓が高鳴る。
どうして急に名前で呼ぶんだろう。不思議に思いながらも、名前で呼ばれることに嬉しく感じた。
それにしても二人にはしてやられた。
「一つ、俺の我儘を聞いてくれるかな?」
「なんでしょう?」
「俺と話す時は敬語をやめてほしい」
「ふぇ?」
敬語なし?
急にどうして。
「やっぱりちせさんは〝タメ口〟が似合うよ」
ここの世界の人に〝タメ口〟という言葉が通じると思っていなかったから驚いた。まさか高島さんの口から聞くなんて。
もしかして、高島さんはわたしと同じ時代の人?
そんな推測が脳裏によぎった。ニノ中佐のように、ある程度は姿形を変えられるのなら、不可能ではないと思う。ただ詳しく知らないので、わたしの推測の範囲ではあるが。
「そんな風に言われたの初めてですよ」
一部の人以外は、基本的に敬語で話すのが日常だったので、なんだか小恥ずかしい。
「お願いを聞いてもらえるかな」
改めて言われると断るわけがない。
「う、うん、分かった」
「ありがとう」
彼の笑顔を見ると、くすぐったい気持ちになる。つられて、わたしも表情が綻んだ。
この時、お店の玄関先で祥子さんが立っていたのを知らなかった。
「……つまんないの」
ずっとわたし達の様子を見ていた祥子さんは、誰にも聞こえないように呟くと、店内に戻った。
■ ■ ■
バチンッ
店内に叩く音が響いた。
左の頬がヒリヒリと痛む。
力一杯引っ叩かれたので、我慢できずに左頬に手で押さえながら後ずさる。生理的に目に涙が浮かんだ。
そして、次に響くのは、少女の叫び声。
「嘘つき! 会わないって約束したじゃナイ!!」
店内は静まり返り、食べに来ていたお客さんは食べる手を止めて、私達の様子を見守っていた。
怒りの感情を露わにして、有朱さんは今にでも暴れ出そうとしていた。
わたしはなんと答えたらいいのか分からずにいた。
(なんですぐにバレたんだろ)
確かに約束を破った。高島さんに会った。でも、あれは仕方がなかった。わたしに会わなくてもいいけど、どうしてもお店や祥子さんに迷惑をかけたくなかったから、動かずにはいられなかった。結果的には演技だったのだが。
なに一つ口にできない。
「昨日の夜、部屋に行ったら高島がいなかった……。帰ってきた後に問い詰めたら、アンタと会ってたって、ちゃんと言ったんだカラ!」
彼女は空いていた椅子にふらりと近寄る。
「どうして、どうして会うの……」
椅子に触れる有朱さんの手に力が入る。
わたしはそれを見て、嫌な予感しかしなかった。
「約束したのに……! 高島はアタシのなんだカラ!!」
ガシッと掴んだ椅子を振り上げる。
そのままわたしに向けて投げた――
「きゃあああああ!!」
悲鳴を上げながら、わたしは慌ててその場から離れると、椅子はそのまま壁に激しくぶつかった。当たり所が悪かったら怪我だけでは済まない。
まさかとは思ったけど、本当に投げるなんて。
恐怖で身震いがした。
お客さんも驚いて、悲鳴を上げていた。思わず立ち上がっている人がいる。
大きな音に、奥にいた祥子さんが出てきた。
「なにが起きて……って、なにしとん!?」
祥子さんは再び椅子を握ろうとする有朱さんの体を抑えた。しかし、興奮する少女に女性の力では押さえきれない。様子を見ていた、少し変わった着物姿の男性客も一緒になって動きを封じる。
そして、わたしにはお客さんとして来ていたニノ中佐が傍に来てくれた。
「怪我は?」
「……な、ないです」
ただただ怖かった。
ここまで感情的になるとは。
転がり落ちる椅子をただ見つめた。有朱さんがなにをしでかすか分からないと思った時、頭の中がゴチャゴチャになって、これからどうするべきか判断できない。土下座をすれば落ち着いてくれるのか。
グルグルといろんなことが駆け回っていると、ニノ中佐に額を軽く叩かれた。全く痛くないが、我に返るには十分だった。
「しっかりしなさい」
「すみません……」
「あの娘は?」
「有朱さんです。この前、高島さんに会うなと約束させられて……」
「させられて?」
「ずっと会わないようにしたんですけど、昨日事情があって会ったんです。そしたら有朱さんが怒りに来て……」
「そういうことか」
溜め息混じりに呟く。相当呆れている様子だ。
ニノ中佐は有朱さんに歩み寄る。
「ここでは他の客に迷惑がかかる。そ――おっと」
外に出ようと言いかけたが、有朱さんは塞がれていない足でニノ中佐を蹴ろうとした。
「子供がアタシに説教する気?! バカじゃないの!?」
(中佐に対してなんてことを……!)
わたしの方がハラハラしていると、ニノ中佐は全く動じることなく、有朱さんを見据えていた。
「その子供に説教されるようなことをするな」
有朱さんを拘束している祥子さんと男性に目配りをし、戸に向かわせる。
両脇をガシッと掴まれて歩かされる有朱さんの姿を見て、胸にドクンッと痛みが走った。思わず胸元を握り締める。
有朱さんは「離して!」と叫びながら、腕を振りほどこうと必死に抵抗するが、大人二人で両腕をガッシリと封じられている為、腕がビクともしない。そして、無理矢理外に連れ出された。
(あれ……見たことがあるような……見たこと? 本当に見たこと、だっけ?)
自問自答を繰り返す。
三人の姿を大きく開く目で見つめる。それに重なる違う影。
女? いや、男?
「九藤さん?」
名前を呼ばれ、前にいるニノ中佐を見た。首を傾げ、そして外に出ようと手招きをしていた。
わたしは慌てて、みんなの後に付いて行った。
外に出ると、有朱さんは二人の力が和らいだ一瞬を突き、腕を振り払って、二人から離れる。
「悪いのはアッチ! 約束破ったんだカラ!」
わたしを指差して、睨んでくる。その双眸には、裏切られた怒りと嫉妬の色が帯びている。
謝ろうと口を開いた時――
「待って。そもそもどうしてそんな約束をしたん」
チラッとわたしを一瞥した祥子さんが割って入る。その顔は真剣そのもの。思わず、口を閉じた。
「好きな人を独り占めしたい気持ち、分かるでショ?」
有朱さんは、清々しいほどにハッキリと好きな人と言った。
言いたいことを言う。これができる人は羨ましい。物事を知れば知る程、大人に近づけば近づく程、段々と言えなくなってしまった。今では自分のやりたいことを口にすることができなくなった。
「あー。オバちゃんには分からないカナ?」
急に納得したと思ったら、なんという強烈な挑発。
オバちゃん呼ばわりされた祥子さんは目尻に青筋を浮かべていた。しかし、唾を飲み込むと同時に喉まで上ってきていた言葉も飲み込んだ。
「おばちゃんも、その独占欲はよく理解できるよ? でもね」
間を置く。その間が、祥子さんの視線を更に鋭くさせた。
「藤次くんは、あなたのものじゃない!」
祥子さんの言葉を聞いて、また胸が痛くなった。
『俺は、先生の人形じゃない!』
誰かの言葉が、頭の中でノイズ混じりに再生される。
目の前にいる三人を見ている筈なのに、違うなにかを見ている感覚に陥る。現実的に感じられない、夢のようなふわふわとした空気。わたしがここにいるようで、ここにはいない。
『ハツカネズミくん』
「ッ!」
自分を呼ぶ声が、夢と現実が重なり合う。
周りを見渡す。しかし、そこにはあの三人の姿と、ニノ中佐、そして道を歩く人だけで、ハツカネズミと呼んだ人は、どこにもいない。
全身に汗をかき、呼吸が荒くなっていた。
「体調が悪いのか?」
ニノ中佐が心配そうにわたしを見上げていた。
わたしは呼吸を整えることで精一杯で返事が上手くできない。途切れながら言葉を紡ぐ。
「……だい……じょ、ぶです」
この胸騒ぎはなんだろう。
聞いたことがない声と言葉。
このまま頭に流し続けてはいけない。本能が警告している。
有朱さんの声が、わたしを現実に引き戻してくれた。
「高島だけがアタシを奇怪な目で見なかった!」
有朱さんの目には大粒の涙が溜まっていた。抱えきれない感情が溢れていくように。
「髪の色も、目の色も、肌の色も違うからって……。アタシはなにもしてないのに、ただ立っているだけでジロジロ見られて、気持ち悪い……みんなみんな大嫌い!!」
祥子さんが冷静な声で言った。
「それなら東に行きんさいよ」
ニノ中佐が納得したように続く。
「東は平成、西は昭和と言うしな」
「え? なんですか?」
まさかニノ中佐から平成と言う単語を聞く日が来るとは。
しかし、当の本人は、あまり平成という言葉に親しみがないようだ。「平成がなんなのか知らんが」と呟き、続けて口を開いた。
「東部に新しい時代の人間、西部に前の時代の人間が集まりやすい、という噂だ」
「新しい時代の人は異人を差別しない人が多いと聞いたことがあるよ。目新しい物好きな友人が言ってた」
二人の話を聞いて、満更ではないようで有朱さんは少し考え込む仕草をしていた。
その間に、わたしは祥子さんに近付く。そっと背後から小さく声を掛けた。
「あの」
「どしたの? ちせちゃん」
「わたし、平成育ちなんですが、何故西に来たのでしょうか」
首を傾げる。
二人が言っていることが本当なら、わたしは東にいるはずだ。なら、西にいる理由はわたしが現代において嫌悪しているからなのだろうか。それとも、所詮ただの噂なのか。
祥子さんは目に動揺の色が映ったが、瞬きをするとそれは消える。
「なんでなんだろね。分かんないな~」
わざとらしく笑う。
やはりおかしい。
祥子さんを訝しむ。
「アタシ、東部には行かない」
わたし達の会話を遮り、有朱さんが強い眼差しで言った。
「東部に行っても高島いないカラ」
彼女の気持ちを感じ取る。本当に高島さんのことが大好きなんだな、と。しかし、なんだかそれは依存にも見えた。じわりと彼女に抱く悲しい気持ちが滲み出てきた。
「有朱!」
遠くから名前を呼ぶ男性が走ってくる。まさかとは思ったが、やはり高島さんだった。
随分長距離を走ってきたのか、有朱さんの傍に寄ってからも、何度も呼吸を整えていた。
高島さん、こんなになってでも有朱さんのことを探していたんだね。
「高島ァ!」
自分を見つけてくれた高島さんがよっぽど嬉しかったのか、首に抱きついた。猫のように顔を擦り付けている。
やはり二人を見ていると苦しい。モヤモヤする。心がざわつく。
(心地悪い)
「いい加減に離れて。それよりも、有朱、また九藤さんに酷いこと……言ってるよね」
高島さんは外に出てきているメンバーの顔を見て、げんなりした顔をする。祥子さんもニノ中佐もいるということは只事ではないのは明白だ。
頭を抱えた後、彼は深く頭を下げた。
「有朱がご迷惑をかけて申し訳ありません」
ニノ中佐は高島さんを睨む。
「何故貴様が謝る?」
「俺の責任です」
「彼女は貴様の子でもなんでもなかろう? 彼女がしなければならない謝罪を代わりにするとは感心せんな」
「しかし」
「貴様はそんなことも分からん腑抜けか」
高島さんの言葉を遮る。もしかしてニノ中佐は、見た目以上に怒っているのだろうか。
子供姿とはいっても、畏怖するような威厳があり、鋭く睨みつけられた高島さんは開きかけた口を静かに閉じた。
「アタシ、なにも悪いことしてないヨ! 約束破ったネギ女が悪いんだもん」
(ネギ女……)
有朱さんと初めて会った時に青ネギを持っていたから、そんなネームになったのかな。それともネギ臭かったから?
どちらにしても、そのあだ名で呼ばれたくない。
「だから何度も言っているだろ? それは約束じゃない。有朱の我儘なんだよ」
彼は小さい子供に諭すように言う。
そんな彼をわたしは遠くから見つめた。視界に入るほど距離は近いのに、心は遠い。彼は一度もわたしを見ようとしなかった。
「高島、いいか」
「はい」
「彼女は九藤さんに手を出した。それはいくら貴様が謝っても意味はない。手を出した本人が謝ねばならん」
ニノ中佐に言われて、高島さんは一瞬だけわたしを見て、すぐに有朱さんに移した。
わたしを見てくれない。見ない理由は、なに。
昨日の夜はなかったことになっているのだろうか。
高島さんがなにを考えているのか、全く分からない。
目が合わないとは、こんなにも背を背けたくなる程蔑ろにされている気持ちにするのか。今にでも胸が裂けてしまいそうだった。
重たい空気が流れている時、お客さんとして来ていた若い男性が口を開いた。その男性は祥子さんと同じように有朱さんの腕を押さえ、外に連れ出した人だ。
「部外者は口を挟まない方がいいとは思うんですけど、暴力だけはやめましょ? 話し合いで解決しましょ? 痛いのは見えてる方も痛いんで、ね? ね?」
へらっと笑う。
すると、祥子さんが息を長く吐き出した。
「そうですね。〝お客様〟の前でみっともない真似はしないでいただきましょう」
そう言って、祥子さんは有朱さんをキッと睨みつけた。
あれ?
祥子さんは誰に対しても、フレンドリーで砕けた話し方をする人だったと思っていたけど。
男性はわたしと目が合うとニコッと目を細めた。
そういえば、彼の着物は巫女に似ているかもしれない。しかし、やはり巫女姿とは違い気がする。神職のなにか、かな。あまり見かけたことがない服装だ。
「有朱、九藤さんを叩いちゃったの? ちゃんと謝らなきゃ駄目だよ」
高島さんは膝を折り、ぶすっと膨れている有朱の顔を見上げる。しかし、彼女は高島さんと目を合わせようとせず、口を尖らせてばかりで口を開こうともしなかった。
予想通りと言わんばかりに、一旦目を閉じた高島さんは、有朱の手をぎゅっと握り締めた。彼女の小さい手が大きな手に包まれる。
「有朱」
もう一度名を呼ばれて、彼女はほんの僅か彼を見た。
(高島さんは優しい)
有朱さんは素直ではないことを分かっていて、ちゃんと向き合おうとしている。きっと分かってくれると信じてる。
今の高島さんは有朱さんのことで、頭がいっぱいな筈。わたしが入る余地は、どこにもない。
わたしの心には当たり前のように高島さんがいたのに。
(でも、もう無理だ)
遠くを眺めるように高島さんを見つめるが、視線が合う気配もない。力無い目から、静かに雫が流れた。
今、わたしがこの場から黙って逃げても、高島さんは探してくれない。気付くかどうかも怪しい。
(わたし、高島さんのこと、好きだ)
青い空を仰いで、静かに目を閉じた。
(でも、もう遅いよね)
そもそも自己中心的なわたしのこと、誰も好きになってくれるわけがない。自分しか見えてないもの。今までも。たった今でも。
「もう、いいです」
みんながわたしを見た。
「もう、許しますから」
着物姿の彼のように笑ってみせた。
すると、ニノ中佐が焦ったように口を開く。
しかし、わたしがそれを目で遮った。
「もう、わたしのことは放っておいてください」
「ちせちゃん……?」
「もう、嫌です」
笑っているのに、勝手に涙が溢れてくる。
「叩かれてもいいです。殴ってもいいです。悪口だって、どんな汚い言葉を言ってもいいです」
わたしのすぐ後ろから伍賀さんが紙袋を持って歩いてきていた。
しかし、わたしは伍賀さんに全く気付かず、吐き出したら止まらなくなった言葉を吐き続けた。
「それで気が済むなら好きなようにしてください。だから高島さんもなにも言わないでください」
「九藤さん……?」
心配そうにしている伍賀さんがわたしの顔を覗いた。泣いているわたしを見て、彼は見開いた。
わたしはコートのような紺色の外套を着た伍賀さんに笑いかけ、そして祥子さんを見る。
「祥子さん。今日はもう上がらせてください。すみません、疲れちゃいました」
「うん、いいよ。ちょっと休んでおいで」
「ありがとうございます。お疲れ様でした」
祥子さんはわたしに近付き、耳元で囁いた。優しい手つきで背中をさすりながら。
わたしはその言葉を聞いて、首を縦に振り、その場から走り去った。一秒でもこの場から逃げたかった。
ここからは、後から聞いた話だ。
引き止めようとするニノ中佐を祥子さんが制する。
「九藤さ」
「やめましょ」
そして、伍賀さんは我に返ると、紙袋を投げ捨て、紙袋から木箱がコロコロと転がっていく中、鬼のような形相で高島さんに近付いた。思い切り、胸ぐらを掴む。伍賀さんの力強さに、グラッと高島さんの体が揺らぐ。
「高島ああああああ!!」
怒鳴り声が響く。
「ちせになにをしたッ!!」
額がぶつかりそうになる程引き寄せて、視線をずらす高島さんを叩きつけるように突き飛ばす。高島さんは思い切り道路に尻餅をついた。痛みで唸る。
言い訳もなにもしない態度に、更に腹が煮え繰り返るのか、伍賀さんは怒りで震える手を振り上げた。
咄嗟に、有朱さんがその腕にしがみつく。
「高島を殴らないで!」
「ぁあ!? 触るな女ぁ!」
伍賀さんは思い切り振り払うと、簡単に有朱さんの体は吹っ飛ばされた。
「伍賀! 落ち着け!」
ニノ中佐の声も、今の伍賀さんの耳に入らない。
「伍賀ちゃん!」
馬乗りになって高島さんを殴る姿を見て、青ざめる祥子さんの顔も目に入らない。
着物姿の男性も、ついに始まってしまったと、一方的な喧嘩におろおろとしている。
それほど伍賀さんの怒りは誰にも止められなかった。
「俺ゃあな! 貴様だから可愛いちせを任せたんだ! それなのに貴様はちせを泣かせた! あんな言葉を言わせた! 頬の腫れもあれは何だ!? 貴様が殴ったのか!? さっさと答えろ! 高島あああああああ!!」
抵抗せずに殴られ続ける高島さんを見て、有朱さんは傍に駆け寄って、伍賀さんに叫ぶ。
「違う! 九藤ちせを叩いたのはアタシ! 高島じゃナイ! だから高島を殴らないで!!」
頭に血が上っている伍賀さんは有朱に視線を移す。射殺さんばかりの鋭い眼差しに、有朱さんは萎縮し、思わず後ずさる。
「お前か? お前なのか? 何故殴った? ちせが何をしたってんだ! 答えろ!!」
伍賀さんの言葉に体を震わせる。恐怖が頂点に達し、彼女は弾けるように泣き出した。
「だって、九藤ちせはアタシの高島に近づくカラ! 高島が九藤ちせに行っちゃうの嫌だったカラ! だから会うなって約束したのに、約束を破るんだもん! ゴメンナサイ!! ゴメンナサイ!!」
わんわんと子供のように泣き続けた。それからなにを言っても返答はなく、ひたすら泣いていた。
暫く経ち、伍賀さんはようやく冷静さを取り戻し始めた。
「なんなんだよクソォ!!」
頭をガシガシと乱暴に掻く。やりきれない気持ちがそうさせた。
まだ消化しきれないもどかしさと怒りで、その後も大地を何度も殴った。そして、拳が血で真っ赤になり、舌打ちをする。高島さんから離れ、仰向けになる彼を見下ろした。
「高島、見損なった」
その冷ややかな視線を受け止める高島さんは、ただ空を見つめた。そして、目元を腕で覆う。
「伍賀さん、不甲斐なくてすいません……本当にすいません……」
震える声で答えた。
「もういい! 終わったことだ。そうする!」
乱暴に吐き捨て、伍賀さんは歩き出す。
祥子さんが空気を読みながら、控えめに声をかける。
「あのー。藤次くんが隊長で、伍賀ちゃんが部下だよね? ……逆になってない? なんか」
「あ」
伍賀さんが声を漏らす。
ニノ中佐は片手で頭を抱えていた。
■ ■ ■
あの場から逃げたわたしは、走り出したものの、どこへ向かえばいいのか分からなかった。冷静になればなる程、走るスピードは落ちていく。それは徐々に徒歩になり、止まる。
『落ち着いたら帰っておいで』
祥子さんが囁いた言葉が蘇る。
『ちせちゃんの家なんだから』
嬉しかった。
家族の一員だと認めてもらえた気がして、嬉しかった。
川沿いを歩く。川の水面には空が映っていた。
ぼーっと眺めながら、再び歩き出す。
川には真鯉や小さな魚が泳いでいた。もっと近くに行けば、きっとカニも隠れているんだろう。
そして、通り過ぎる電柱の数を数える。特に意味はない。
(にーい…………さーん…………)
四本目に差し掛かった時、誰かとぶつかりそうになった。
「あっ、すみません……」
その時だった。その人の体から薬品の匂いが鼻をツンと突き、思わず口を覆う。
相手の顔を見てみると、繋木さんだった。彼はわたしの顔を見て、少し驚いた様子だった。
繋木さんにも関わりたくない。でも、逃げようにも体が重く、もうどうでもよかった。むしろ、どうにでもしてと、自暴自棄になっている気持ちが強かった。
「……どうしたのか聞いても?」
わたしがぼーっとしていると、繋木さんは葵色のハンカチを差し出した。
しかし、わたしには流れる涙を拭う気力もない。
「涙ぐらい拭かないと駄目ですよ」
動く気配がないわたしの代わりに、彼は涙を拭いてくれた。
何故だろう。この人の優しさが身に染みて、苦しい。闇が深くて、怖い人だと思っていた分、自分が辛い時に優しくされると素直に受け入れてしまう。
わたしはずるい人間だ。
折角拭いてくれた涙が、また溢れ出てきた。止まらない。流れる涙も、揺れ動く感情も。
「ふ……ふぇ……」
嗚咽が止まらない。両手で涙を受け止めきれなかった。
彼はただ黙っていた。小さくなって泣き続けるわたしを静かに見守る。きっと、それが彼の優しさなんだろう。
長い時間、泣き続けた。
泣き止みかけては、また思い出し、泣いた。それを何度も繰り返した。
気づけば、空が紅くなり始めていた。
そして、遠くからひぐらしが泣き始めていた。
泣き止むまで時間がかかったにも関わらず、繋木さんはわたしの傍にいてくれた。
「すみません……」
「なにがです?」
「ずっと、傍にいてくれたんで……」
「泣いてる女性を置いて行けるわけないじゃないですか」
祥子さんが言っていた、繋木さんの優しいところはここなのかな。
「わたし、繋木さんはずっと怖い人だと思いました。訳が分からないこと言うし……」
そう言うと、繋木さんは溜息を吐いた。
「まだ思い出してないんですね」
「思い出すもなにも、わたしはあなたのことを知りませんよ。人違いです」
きっぱりと言うと、今度はわざとらしく大きな溜息を吐く。なんだか馬鹿にされているような気分になり、ムスッとしてしまう。
繋木さんは徐に川辺の近くにある、座るのに丁度良い大きさの岩に座る。わたしも後に続いて、躊躇しながらも座ることにした。
「墓地に来てましたよね」
急に話が変わり、付いていけないが、合わせることにした。
「行きましたけど……」
「お墓になにが埋まってると思います?」
「そりゃあ骨で……あれ?」
骨ですよねと、言いかけて、祥子さんとニノ中佐の会話を思い出す。
確か、ここに来た人はそれぞれの想いを果たすと、忽然と消える。それを《神隠し》と呼んでいて、その神隠しにあった人の為にお墓を作るのだと言っていた。体ごと消えてしまうのだから、埋める骨がある訳がない。
ハッと気付いたわたしの様子を見て、繋木さんは口の端を少し釣り上げる。
「気付きました?」
「じゃあ、なにを埋めて……まさか、実はなにも埋めてないとか」
「埋めてます」
わたしの推測を竹のように叩き割って否定しくれる。
「個人を特定できるもの。例えば、たまたま身につけていなかった衣服、御守りや手ぬぐい、マフラーなどの小物、他に諸々ありますが、それらは残ります。それを燃やして残った灰を埋めてるんですよ」
「そうなんですか」
埋めるものがないからかなと考えていると、
「別に骨の代わりにとかじゃないですよ」
なんだか心を読まれているような気分になる。
「その人が関わる物を燃やすことで、この世界との関連を無くすんです。もうここに来ることがないようにと、残された者の願いを込めて」
残された人の想いが込められているのか。
「お墓とわたしになんの関わりが?」
首を捻りながら尋ねると、繋木さんが不気味に笑う。
それを見て、わたしは繋木さんへの恐怖心を思い出す。忘れてはいけなかった、彼への警戒心。
「私がお墓詣りに行った人の名前は」
相変わらずわたしの疑問を無視する。
金縛りでもあったかのように、わたしの体はピクリとも動かない。
彼の唇は動く。
「円 慶蔵(かどなし けいぞう)」
(かどなし……?)
「円は陸軍の特殊部隊、私は特殊軍医部隊にいました。特殊軍医部隊では、禁止されているはずの生物兵器の開発が行われていました」
(軍医って、軍のお医者さんのことかな)
「同時に〝人はどれくらいで死ぬのか〟という研究も行われていました」
(どれぐらいで、死ぬ……?)
この先は、聞いてはいけない気がする。
目に見えない恐怖で心臓がバクバクと鳴る。
「例えば」
繋木さんがそう言った瞬間、わたしの首に手を掛ける。あっという間で、一体なにが起きたのか分からなかった。
「首を絞める方法をとった場合、どのくらいの時間で」
徐々に締めていく。
「どのくらいの力で」
手に力が入り、咄嗟にわたしは繋木さんの手を握り、外そうとする。が、片手だけでも男性の力は強く、全くビクともしない。
「死ぬのか」
「かッ……あッ……ぁあッ」
渾身の力で踠いても、彼の力は決して緩まない。
彼の目を見た。
「〝俺〟は」
声にならない感情を見せた彼の目は、孤独感に満ちていた。
「げほっ、げほっ……はーっ、はーっ」
首をパッと離されたと思ったら、突然空気が入ってきて、咳が出る。
その場に座り込み、大きな深呼吸を繰り返す。垂れ流しになっていた唾液と涙を腕で拭い取った。
「円は、戦場で足に怪我を負い、たまたま近くに配置されていた軍医部隊のところに来ました」
氷のように冷たい眼差しで、わたしを見下ろす。
「何度も怪我をしては、何度も私が治療しました」
一つ一つの言葉に重みを置いて、
「世間話をしていく内に、円は私のことを先生と呼ぶようになっていました」
冷たい双眸が揺れ動く。見え隠れする、彼の本当の感情。
(先生……?)
「ある日、上官から指示が下されました。『戦場に戻せない戦士もハツカネズミにするように』」
わたしはなにも知らない。しかし、頭の奥底からゾワッと恐怖心が、激しく反応する。
ハツカネズミ。
頭の中に流れて来た言葉。
「ハツカネズミって……」
わたしの声を聞いて、繋木さんは声を一瞬だけ震わせた。
「被験体の総称ですよ。実験開始から二十日以内でほぼ亡くなることから来ているようです」
ちなみにハツカネズミの名前の由来は、妊娠期間が二十日という意味らしいですよ。
本来の名前の意味と、総称の意味が全く異なっていることを気にしないでくださいねと、繋木さんは言った。
「ある日、円は戦場で大怪我を負いました。時間が経っていて壊死していました……その足を切断するしかないほどの怪我でした。その時、上官の言葉を思い出しましたよ」
戦えない者も被験者にする。
部隊は違っても、同じ国の仲間なのは間違いないはず。それなのになんて残酷なことを命令するのか。何故そんなことをする必要があるのか。わたしには全く理解できなかった。
繋木さんは、暫くの間黙っていた。
「円をネズミにすることに、しました」
静かに瞼を下ろす。
「ちょ、ちょっと待ってください! 円さんは繋木さんを慕ってたんですよね!? 誤魔化したり、逃したり、どうにかしてあげられなかったんですか!?」
今思いつくようなハツカネズミにしない方法を挙げてみる。もう遅いけど、どうにかできたんじゃないかと思って口に出さずにはいられなかった。
「無駄です。我々研究員も全て監視されていましたから。どんな些細なことでも」
「監視……?」
「秘密主義の世界。一人として自由に行動はできない。裏切ろうならば、情報の漏洩を恐れて、口封じも兼ねて自分もネズミにされる」
深い闇を見ているようだった。
そんな世界が存在するのかと疑いたくなる。が、繋木さんが生きていた世界では必ず存在していた光と闇。表向きには良い言葉を選んで使われているんだろう。裏で非人道的なことを隠す為に。
「被験体が少なくなれば補充せねばならない。その矛先が自軍に向かっただけのこと。悪く言えば、有効活用。上官は常に言いました。『彼らは戦えぬ代わりに身を捧げて国を勝利に導いてくれるのだ』その言葉を繰り返していましたが、自身にも言い聞かせているようにも聞こえました。当時はそれこそが我々が研究する原理でした」
生きたい。
他人を蹴落としてでも、屍の上に立っても、彼は生きたかったのだ。命を奪う側になっても。わたしには、そう言っているように見えた。
「円を被験体として迎え入れた日、大した治療を受けず、彼は黙って私を見ていました。物々しい雰囲気、見たことがない場所、目的も明かされずにひたすら歩かされる。なにをされるか分からないとしても、只事ではないことは感じていたのでしょう」
繋木さんは長い前髪を掻き上げ、両手で顔を覆った。
「彼の目には、恐怖と不安が映り……私にいろんなことを尋ねたくて仕方がないように見えました」
「……」
「ベッドに体を固定した時の顔は堪りませんでしたね」
苦笑するように笑った。
(拘束……)
「注射器を持った私に円は尋ねました。『先生、治してもらえるんですよね?』と」
彼の顔を隠す手に力が入る。
「なにも答えず、最初に血を抜き、次に薬品を投与。実験を始めました」
(薬品……臭い……)
すると、繋木さんは顔を傾け、わたしを見た。
「ここまで話しても思い出せませんか?」
前髪の隙間から見える眼がやはり怖い。わたしに助けを懇願するような、今までに見たことがない眼差し。
「……人違いです」
「厳密に言えば、確かに貴女ではない。人違いです」
「じゃあ、なんでわたしに付きまとうんですか?」
「円は、貴女の前世ですから」
前世?
そんな馬鹿な。
生きていたら、きっとそう思って信じない。でも、今は違う。ニノ中佐のことや、今の自分のこと、この世界を考えれば、そんなものもあるのかなぁと受け入れてしまう。
「こんな世界ですから、前世とかもあるのかもしれませんけど、そもそも円さんがわたしだという証拠はあるんですか?」
「円からずっと追ってくれた人がいるんです」
「え?……」
頭が混乱し固まっていると、繋木さんはニヤリと不気味に笑う。
「その人は、円がこの世界から去ってからも、ずっと円の魂の行方を見てくれました。そして貴女は産まれ、ここに来た」
「魂……?」
「一人一人、魂の色が違うようです。生まれ変わったら同じ色になるようです。詳しくは知りませんが、その人が言うには円と九藤さんの魂の色が同じ。ほぼ間違いない、と」
「わたしの前世が、円慶蔵」
急に言われても信じるわけがない。
「しかし、貴女がこの世界に来るとは限らない。だから貴女がまた来るように首輪をつけ」
繋木さんの声をかき消す、伍賀さんの叫び声が耳を貫いた。
「九藤さーん!!」
かなり慌てた様子で、外套を靡かせながらわたしに駆け寄って来た。彼の呼吸は乱れていて、必死にわたしを探し回ってくれたのが分かる。
額から汗が流れていたので、ポケットからハンカチを取り出し、拭いてあげた。すると、伍賀さんは嬉しそうに笑った。
「伍賀さん?」
「ってか、どうして繋木と一緒にいるの!? なにもされてない?!」
クルクルとわたしの周りを回り、異変がないか、凝視された。
「大丈夫ですよ。ちょっと首を絞められたぐらいで他には」
「首を絞められることはちょっとのことじゃないしー!」
首に指の跡が付いているのか、伍賀さんは腫れ物に触るかのように首に少しだけ触れた。
「俺たちはなにをされても死なないけど、痛いとか苦しいとかあったでしょ!?」
「確かに少し苦しかったです」
ハハと苦笑すると、更に一人で慌てふためく伍賀さんは「少しどころじゃないでしょーが! この指圧の痕は!」と、目に涙を溜めていた。
すると、突然、繋木さんが怖い表情で伍賀さんの襟元を掴んだ。
「待ってください! どういうことですか。我々は死ぬことができない? そんな話は聞い、痛ッ」
繋木さんの言葉が止まる。
伍賀さんが涼しい顔で彼の手首を捻り、繋木さんは手首の痛みに顔を歪めていた。片手しかないことと、手首を捻られている為、下手に振りほどくことができず、伍賀さんが完全に主導権を握っている。
「そのままの意味だ。俺も九藤さんも、貴様も、死ぬことはない。この世界が許さない」
そう言ってから、パッと手を離す。
「嘘、だ……嘘だ……!!」
解放された繋木さんは、絶望するように身を崩し、蹲った。その体が小さく見える。
彼はボソボソと呟いていた。
そして、張っていた糸がプツンと切れたかのように叫び始めた。
「祥子さんは死ぬことができるとちゃんと私に言った! お前は彼女がわざわざ嘘をついたと言いたいのか……!」
とても悔しそうな表情を浮かべている。
こんなに感情的になった繋木さんを初めて見たし、まさかこんな一面があるとも思っていなかった。
わたしは重たい口を開く。
「そんなにわたしを殺したかったんですか? 円さんの生まれ変わりだから、その……繋木さんの犯した罪とか、世間に知られたくない、とか……?」
繋木さんが今話したことは、今でもピンとこないし、記憶が蘇る気配もない。
でも、有朱さんが二人に連れられていく姿を見て、被ってきたあの映像が前世の記憶なんだとしたら、円さんの記憶だったのかもしれない。
もし繋木さんが仕方がないとはいえ、殺めてしまったことを隠したいと思っているのならば、わたしの存在は消してしまいたいもの。
すると、繋木さんは鼻で笑った。
「私が貴女を殺す?」
そう言って、笑った。
まるで泣いているかのようにも聞こえた。
「何故私が貴女を殺さなければならないんです! 殺してください! 私を! 貴女の手で殺してくださいよ!!」
繋木さんはわたしの手を掴み、自分の首に手を掛けさせる。
なにがなんだか分からないわたしは、ただ呆然としていた。
そして、指に力を入れないわたしに絶望して、力が抜けていくように、繋木さんは手を下ろし、項垂れた。
喉を潰す程に叫ぶ姿を初めて目の当たりにし、どうしてあげるべきなのか、頭が回らず、全く分からなかった。
わたしの横にいた伍賀さんが静かに口を開く。
「繋木は生前の罪を償いたかったんだよ。〝たまたま〟戦争を生き抜いたことで死に場所を失い、ひたすら罪に苛まれながら生き続けたから。だからといって、自ら罪を告白する勇気はなかったようだけど」
「罪……裁かれなかったんですか……?」
「研究所自体が敵さんの爆撃で〝偶然 〟消失してしまったんだよ。そもそも極秘裏に行われていたものだから、自軍の研究対象者は表向きに戦死として処理されてたみたいだし」
本当に、偶然研究所が消失したのかは分からないよ。あくまで噂だから、実際のところは誰も分からない。
伍賀さんはそう付け足した。
「そうなんですか。でも、どうして伍賀さんが知ってるんですか?」
「祥子さんから聞いてたからねー」
「はあ……」
「奇跡的にも生き残ってしまった。研究については、最高機密の為、口外は決して許されない。よって、裁かれることもない。死ぬことが償いになるのか、生きて苦しむことが償いになるのか。それなら」
「黙れ」
伍賀さんの言葉を繋木さんは止める。
「俺は、この苦しみから解放される為に、俺が殺した奴らに殺してもらいたかっただけ……実験中の被験体の中で円がたまたま長く生き残っていただけですから……」
繋木さんはひたすら伍賀さんを睨みつける。
「じゃあ、繋木さんがわたしに求めていることって、わたしに殺されること……?」
「そうですよ。この世界に来て、先に来ていた円を見つけて、殺して欲しいと何度も頼んだ。でも、あいつは断り続けた上に、すぐに消えてしまった……私がここに来るのが遅かったんですよ」
苦しみながら命を失って、苦痛と死を与えた張本人がいるにも関わらず、彼は報復も復讐もしなかった。憎いはずなのに。
(わたしならきっと)
もし目の前に、わたしを殺した専務がいたとしたら、きっとどうして殺したのか理由を聞いて、言いたいことを言い尽くしたら、専務に手をかけるんだろう。
(いや、違う)
リアルに考えたら、わたしならなにもしないかもしれない。関わりたくないと思う。
(関わってくれなかったら、それでいいのかもしれない。遠くにいてくれたら……)
「もっと怒鳴ってきたり、殴られたりされるものだと思いました。でも彼は異様に冷静でした。だから余計に辛かった」
円さんがなにを思い、繋木さんを傷つけなかったのかは分からない。でも、敢えてなにもしないことこそが、彼の罪の償い方と考えたのかもしれない。
「気力がなくなっていた私に、祥子さんは『そんなに死にたいのなら、円に殺されたらいい。円がいないのなら、のちに生まれて来る円に頼めばいい。価値観も性格も円とは異なるから、事情を知れば殺してくれるかもしれない。だから立って、歩いて。この世界で生きて』と言ったんです。それを聞いて、自らが犯した罪を裁いてくれるのならと思ったら、やっと立ち上がることができた……」
繋木さんにとって祥子さんは再び生きる目的を与えてくれた人。
祥子さんは繋木さんの事情を知っていたから、ずっと肩を持っていたんだ。
「貴女がこの世界に来て、円としての記憶が甦ればきっと殺しに来てくれると思いました。自分を苦しめ、殺した相手は憎い敵だと」
「だから、初めて会った日、わたしに『覚えていませんか?』と聞いたんですね。『必ず私の元に来る』とか……」
円さんの記憶が戻れば、殺しに繋木さんのところへ来ると確信してたんだ。
でも、どうして祥子さんはそんなアドバイスをしたんだろうか。わたしなら、なかなかそんなことを人に言えない。
「祥子さんはこの世界で死ぬことができないことを知らなかったんですね」
伍賀さんが首を傾げる。
「いや、そんな筈はないよ。この世界で死ねないことを俺に教えてくれた張本人だし」
「え? 知ってるのにそんな嘘をついたんですか?」
「そんな嘘をついてでも、繋木が元気になってもらいたかったんじゃない?」
素っ気ない言い方で、伍賀さんは言う。あまり興味がなさそうだ。
繋木さんの双眸は遠いなにかを見ていた。
「もう貴女に殺してもらうことは諦めます」
「い、いいんですか……?」
彼は優しく笑った。
「無理なんでしょう? それに、そもそも貴女には人殺しができるとは思えませんし」
「俺が九藤さんにそんな真似をさせない」
「高島大尉殿の番犬もいますしね」
何気なく出た高島さんの名前に、わたしは動揺を隠せなかった。
「……」
明らかに反応が悪くなったことに気付いた繋木さんは、わたしの顔を覗き込んだ。
「高島大尉殿と喧嘩でもしたんです? 泣いてたし、今だって様子がおかしいですし」
やはり心情がそのまま表に出てしまっている。どうしても隠すのが苦手だ。
「別に喧嘩は……してませんけど」
「九藤さん……」
伍賀さんは心配そうにわたしをじっと見つめていた。
その視線に気付きながらも、なんだか目を合わせづらくて、知らないフリをした。
「喧嘩したんですね」
繋木さんがわざとらしく溜息をして、わたしはつい声を荒げた。
「喧嘩じゃないです!」
「どうでもいいですけどね」
淡々とした様子で前置きをして、わたしを再び見た。
「いいんですか? 高島大尉殿に言いたいことがあるんじゃないんです?」
彼はわたしの顔色の変化を伺っていた。
それに気付きながらも、ポーカーフェイスを演じることができない。
「…………」
「自分の気持ちに嘘をつかない方がいいと思うなぁ」
「伍賀さんまで……。わたしがなにか言うことで困りませんか? 今まで気持ちや願望を言うと、気持ちが重いとか、我儘だとか、文句だとか……色々言われたことがあったので……」
子供の頃から死ぬまでずっと、わたしが言う度に相手は不愉快そうな表情をしていた。
なんでも言えばいいわけじゃないと言われた時には、一体どこまで話して良くて、どこまでが駄目なのか、ボーダーラインが分からなくなった。関係を良くしたい一心で、隠し事せず、なんでも言ってしまった結果だった。わたしが思い描いていた理想と現実はズレていた。
その日から、わたしはなにも言えなくなった。
これを言ったら困らせるんじゃないか。辛くさせるんじゃないか。悲しませるんじゃないか、と。
最終的には、人に嫌われるんじゃないかと思うほど、自発的に発言することに対して追い詰められていた。
「そんなことないよ」
優しい人はみんなそう言う。定番の返し方。そう思ってしまうほど、わたしの心は疑心暗鬼だった。
「なら」
語尾を強くして、繋木さんが言った。
「全て言わなければ幸せにでもなれるんです? 我慢すれば納得するとでも?」
心の中では理解している。
でも、どうしてもできない。
「わたしが我慢すれば……波風が立たないじゃないですか」
繋木さんは、大きく溜息を吐いた。マイナス発言のわたしに呆れているようだ。
「なにが原因で高島大尉殿と喧嘩したのか知りませんけど、確かに貴女が我慢したら一時的に場は治るでしょうし、時間が解決してくれるものもあるでしょうね」
「我慢をすればいいんです、我慢を」
わたしは自身に言い聞かせるように呟いた。
「あとは貴女がいつまで我慢できるか、でしょうね」
いつまで?
それは、死ぬまで。
過去のわたしも行き着いた答え。永遠の牢獄に自ら入ったような、苦しみ。
「九藤さん」
「はい……」
伍賀さんは今までに見たことがないほど、切ない目をしていた。いつも明るい彼にも悲しみを抱えているんだ。
「そりゃあ、時には我慢も必要だよ。だけど、大切なことは言わないと手遅れになる時もあるんだよ」
彼はその目でなにを見てきたのだろう。
「人はいつかは消える。永遠は、決して存在しない」
その言葉は痛いほど理解できるのか、繋木さんは顔を曇らせた。
「それに、どれだけ伝えたいことがあっても、黒く塗りつぶされて伝えられない時代もある。言える時に言えるなら言った方がいい」
伍賀さんの目に、深い悲しみが映る。
「もちろん、言って後悔することもあるけど、言わないで後悔すると、どうしようもできないんだよね。喧嘩もできないし、話し合うこともできないし、ただただ心が気持ち悪いだけで」
胸の痛みを感じているように、伍賀さんは胸元に手を当てる。
「後になって後悔しないように、とか言うよね。それって自分もそうだけど、相手にも後悔させないようにしてあげなきゃダメなんだよ」
「相手に、後悔させない……」
「今、九藤さんが動かなきゃ、一番、高島隊長が後悔すると思うよ」
一体どのような意味なのか分からない。高島さんが後悔することなんてないのに。
「高島隊長は有朱を気遣って下手に動けない。有朱を振り払ってでも動けばいいのに、それができない人なんだよね。そんな自分のせいで九藤さんを傷つけているってことも、分かってんじゃないのかなー。あのクソ馬鹿が」
伍賀さんの最後の言葉にプッと笑った。
だからこそ、高島さんには動いてほしいのに。
でも、きっと誰も蔑ろにできないのが、彼なんだろう。
(これが惚れた弱みって言うのかなぁ)
「相変わらずだね、高島大尉殿は」
さも興味なさそうに繋木さんは言う。
わたしは周りに咲いているシロツメグサを摘む。その白い花に小さな蟻が歩く様子を眺めた。
「考えてみます。これからどうしたいのか」
そのシロツメグサを繋木さんに差し出す。
すると、彼はとても驚いたように目をパチクリと瞬きをしていた。
「でも、繋木さんの要望には応えられません」
繋木さんが手を動かす前に伍賀さんが横からシロツメグサを奪い取る。
「そんな真似は俺がさせませーん」
伍賀さんは花でポカポカと繋木さんの頭を叩く。全くダメージがなく、平和だなぁと思えた。
「今まで俺が話したことは忘れてください」
そう言いながら、伍賀さんからシロツメクサを奪い取った繋木さんは立った。
「自分のことは自分でなんとかします。前世が円だっただけで、貴女には迷惑をかけました」
そう言って、繋木さんは軽く頭を下げてくれた。
「貴女もこの世界から消える為にどうするか、考える良い機会かもしれませんよ」
失礼。
そう言ってから会釈をして、繋木さんは元いた道に戻り、歩き出した。
わたしはその場に立ち上がり、
「いろいろ、ありがとうございました!」
頭を大きく下げた。
「別に私はなにもしてませんから」
頭を上げると、繋木さんはこちらを振り返ることなく、シロツメクサをひらひらと左右に振っていた。
(でも『この世界から消える為に』……本当にその考え方でいいのかな)
言葉に不安を感じる。
伍賀さんが立ち上がる気配を感じ、振り返った。
紺色の軍服についた汚れを叩き、伍賀さんはニッと口角を釣り上げる。
「お店に、帰ろ」
「はい」
太陽が沈み、夜が来た。
帰る途中、伍賀さんが教えてくれた。
「シロツメクサの花言葉、知ってる?」
「いや、知りませんけど。なんですか?」
「私を想って、幸福、約束」
「……わたしが繋木さんにあげる花じゃなかったですね」
そう笑っていると、
「復讐」
「え…………」
繋木さんがこの花言葉を知っているか分からない。だが、もし知っていたとするならば、なにを思って、わたしからシロツメクサを受け取ったのだろうか。
川辺に咲いていた花をなにも考えずに摘み、人に渡す。初めて、その軽々しい行動がとんでもないことを意味する、その重みを身を以て感じた。
ならば。
お墓周りの掃除に、偶然鉢合わせ、繋木さんから貰った、あの藤にはどんな花言葉があったのだろうか。
あの時、伍賀さんが言っていた意味もなんだろう。
そう思うと、急に考えることが怖くなった。
繋木さんの件で分かったことがある。
わたしには復讐というものは似合わないし、やろうと思わない。
でも、もし一時的な感情に身を任せて相手を傷つけようとしたら、伍賀さんみたいに止めてくれる人がいる。
《幸福に暮らすことが、最高の復讐である》
もしかしたら、専務に対して、最も効く復讐かもしれない。
穏やかに笑う伍賀さんの隣で、ふとそんなことを思っていた。
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