真田記 小休憩編

蒼乃悠生

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正月

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 体の芯まで凍えてしまいそうな寒さ。
 そして、混じり気のない澄んだ空気。
 その空気をお腹が満たされるぐらい吸い込んで、口から全て吐き出した。白い息が辺りに広がり、空へ登りながらスゥッと消える。
「今年に入ってから雪があまり降らないなぁ。珍しい」
 安岐は両手を合わせて、暖めるように擦り合わせる。すると背後から足音が聞こえてきた。彼女は躊躇うことなく満面の笑顔で振り返った。


 ある一室。
 鎧の前に具足餅が捧げられていた。
「……餅……ぐぅ……雑煮……ぐぅぅ……ぜんざい……ぐぅ……」
 具足餅を眺めながら、餅を使う料理名を口にする者は、齢四十手前の男、真田左衛門佐信繁さなださえもんのすけのぶしげ
 あまりにもお腹を空かせているのか、料理名を言った後にお腹の虫が鳴いている。合いの手を打つかのように正確だ。
 死んだ目は具足餅を映し、口の端から涎を垂らしていた。なんともはしたない様である。
 すると、頭に黒布を巻いた奥村がやって来た。
「……キモ」
 ゴミでも見るかのような目つきで信繁を見下ろす。否、ゴミ以下だ。
「………………」
「………………」
 信繁は死んだ目で奥村を見上げ、奥村はゴミ以下の信繁を見下ろす。
 そして、先に口を開いたのは信繁だった。
於江おこうぉぉ!!」
「!!おっさん黙れッ!!」
 口に手を当てて、急に叫び出した言葉が齢五十ほどの女性の名前。
 慌てて、奥村は信繁の口を押さえた。
 於江は奥村の教育係のような人で、信繁が呼び出す度に奥村は於江に叱られている。故に、奥村はどうしても於江が苦手だった。特に信繁が呼んだ時の於江は。
 於江自身もよく分かっているようで、呼び出された時は大抵「今度はなにをやらかしたんですかねぇ?奥村」と言って笑っている。が、目は笑っていない。
 信繁は奥村の手を離そうとするが、呼び出させまいと必死になっている力になかなか勝ることができない。しかし、たまに鼻元まで覆ってくる為、この時ばかりは信繁も全力で阻止する。息ができないことは生死に関わる。
「奥村」

 ピタッ

 名前を呼ばれた途端、岩のように硬直する奥村。
 聞き覚えのある声。艶のある上品な女性の声だ。しかし、静かな怒りが見え隠れしている。
「…………於江さん」
 奥村は声の持ち主の名を呼んだ。
 於江の姿は奥村の位置からは見えない。だが、呼んだ本人の信繁は奥村の背後を見て、救世主が来たと喜んでいる。ということは、於江は奥村の後ろにいるのは確実だ。
 指をボキボキと鳴らす音が聞こえた。
「若様を殴ってはいけないと、何度も言っているでしょう?」
「殴ってねえんだけど……」
 すかさず於江に反論する奥村。しかし素直に信じてくれるほど奥村の日頃の行いは良くない。そして、決定付けるように信繁は平気で嘘をつくからたちが悪い。
「腹、殴られたよ」
 真顔で腹の虫が鳴り続ける腹部を指差す。
 嘘だと気付いても、その嘘に付き合う於江が更にたちが悪い。
「まあ!痛かったでしょうに……」
 如何にもわざとらしく心配をする素振りを見せる。於江はオロオロとし、信繁の腹を優しく、大袈裟に撫でた。
(なんっつー茶番劇……)
 奥村は目元辺りに青筋を浮かべる。
 そして、クルリッと身を翻し、そのまま止まらずに姿を消した。普段ならなにか文句を言ったり、手が出たりするのだが。
 信繁と於江は呆気にとられ、口をぽかーんと開いていた。信繁は殴られると覚悟をしていたのだが。
「どうしたんだ、奥村」
「怒らせすぎましたかねぇ?」
「それか、腹でも壊したか……」
「奥村がああだと調子が狂いますね、若様」
「んん~……」
 信繁は腕を組み、首を傾げた。
 すると、少し早めの足音が近づいてくる。あまりバタバタと音を立てないということは、安岐であろう。足音が止まると、障子が開く。
「あ!源次郎ここにいた!」
 ムスッとしたようで安岐は信繁を見た。
 可愛い嫁が不機嫌のようだが、思い当たる節はなく、信繁は更に首をかしげる。
「はい!これ!」
 安岐は強引に信繁の手を取り、なにか小さなものを握らせた。手で握れる程度の大きさの布のようなものを。
「奥村さん、わざわざ遠出までして作ってきたんだよ!」
 信繁はゆっくりと指を広げて、握っていたものを見た。
「あ」
「あら」
 覗き込んだ於江も、思わず声を漏らす。
 掌には不器用に作られた小さな巾着袋。縫い目がハハハと笑っているようだ。その巾着袋に小さいものが複数入っているのか、ゴツゴツしている。
 安岐は懐から取り出す。それは同じような物だった。
「わたしも同じものを貰ったの」
 小さな巾着袋を再び懐に戻す。
「中、見てみて」
 安岐に促されて、信繁は巾着袋をひっくり返す。すると彫られた木の銭一文。大きさは様々で、文字までは彫られていないものの、きちんと穴が彫られている。
「六枚……六文銭ですね」
 先に答えた於江はどこか嬉しそうだった。
真田うちの家紋だな」
「それか、三途の川の渡し賃を入れておいてくれたんですかね」
「偽物を渡したら怒られないか?」
「大丈夫ですよ」
 於江はそう言って、木を鼻に近づける。香りがグッと濃くなった。
「白檀の六文銭なんて洒落ているではありませんか」
 甘い香りが広がる白檀。不器用ながらガタガタに作られた小さな六文銭。それでも怪我をしないように丁寧に表面を削り、作り手の気持ちが伝わってくるようだ。
 安岐は溜め息を吐くように鼻から大きく吐いた。
「奥村さんはこれを渡したかったの!それなのに二人でいじめるから、拗ねちゃってどっか行っちゃったよ」
 頬を膨らませて信繁と於江に怒る。分かりやすいようにゆっくりと、丁寧に。その様子はまるで子供を叱りつけるようだった。
 珍しく怒られている為、信繁と於江は縮こまっていた。
「新年だからなにか贈り物がしたいって用意したんだよ!」
「はい……」
「わたしに相談までして自分で作ったんだから!」
「はい……」
「白檀だって高いんだよ!」
「はい……」
「木が割れたり、ヒビが入ったり、何個も何十個も失敗してるんだから!」
「はい……」
「気持ちはいっぱい篭ってるんだから!」
「はい……」
「だからちゃんと謝って!」
「ごめんなさい……」
「わたしじゃないでしょ!奥村さんに!」
「はい……」
 安岐と信繁のやりとりに申し訳なさそうに小さな声で入る於江。
「あの、姫様……」
「なんでしょう!」
「私も奥村に謝らなければならないのでしょうか……?」
 片眉を寄せる。
 於江の本音は、謝る必要がないのでは?というところだろう。彼女にとって奥村とのやり取りは相手が嫌いでいじめるというものではなく、心の交流のような遊びである。
 それは信繁にとっても同じなのだが、実際に奥村は姿を消し、安岐の勘違いを解消することは難しいだろう。それを物語るように安芸は「当たり前ですよ!二人で謝ってください!」と返した。そして、
「二人で奥村さんを連れ戻してください!」
 安岐は信繁と於江の背中を思いきり押す。必死な顔で力一杯押しているのだろう。なかなか一歩を踏み出そうとしたない二人に苛立ちを隠せないようで「んもう!!」と叫んでいた。


 そんな中、信繁らがいた部屋の隣には、二十五歳ほどの姿をした玄葉がいた。火箸で火鉢の中にある炭を寝かせて置き、火加減を調整する。
「呼ばれてますよ」
 隣の部屋に聞こえないように小さな声で、玄葉は傍にいる奥村の背中に呼びかける。しかし、奥村は座り、火鉢で背中を暖めたまま動こうとはしなかった。
 暫くの間様子を見ていたが、返事を返してくれそうにない。玄葉は困ったように笑った。
 奥村は完全に二人の態度に気を悪くし、頬を膨らませていた。
 その様子に玄葉は心の中でひっそりと思う。
(そんなに腹を立てているなら、もっと遠くに逃げればいいのに)
 それでも近くにいるのは、忍び者の使命からか、それとも別の想いからか。
 ギャアギャアと騒がしかった隣の部屋が、いつの間にか静かになっている。人の気配もないようだ。
(ま、からかい過ぎもよろしくないですし、信繁様も於江さんもたまには怒られる側になってもいいでしょう)
 玄葉は口の両端を少し釣り上げた。
(今日も真田屋敷は平和です)
 口に出すと奥村に怒られそうなので、心の中で嬉しそうに呟いた。
 
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