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第六章 君の一つ一つの言葉が

7 犯罪

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奈良栄ならさかやなぎって、誰? 知り合い?」
 梶瑛かじあきさんはキョトンとし、小首を傾げた。初めて敵意のない視線を向けてくれた気がする。
 眉を寄せ、頬を指で掻きながら、私は口の片端を吊り上げた。笑えない冗談だが、もう笑うしかない。
「……例の会社の先輩」
「はあああ? 先輩が犯罪者とか……年増、ほんとに運がないわね」
 哀れむような目で見てきた。本当のことなので言い返せない。
「余罪があるのなら、この前しほりさんに付き纏ってた人も奈良栄ならさかやなぎかもしれませんね」
「もし、それが本当なら……私、ヤバかったかも」
「ヤバイどころじゃないですよ。実際、被害に遭った訳なんですから」
「そうだね。でも、もう終わったんだよね」
 あんなにビクビクして、怖くて不安になっていたのに、こんなに呆気なく終わるなんて。
 しかし会社に行ったら大変なことになっているんだろうな。いや、幹部はもう慌ただしく対応をしているかもしれない。有給でまだ休みはもらっているとはいえ、会社に行くのイヤだな。
「それに住居不法侵入って、しほりさんのアパートだった可能性もありますね」
「んん⁉︎」
 聞き捨てならない。と思いたかったが、彼の言葉で脳裏に鮮明な記憶が流れた。
 夏希なつきが入院している病院からそうくんと連絡をとった日、一度アパートに戻っている。荷物の片付けをしていたら、ベランダから物音が聞こえたんだった。
 その時は、そうくんが猫が鉢をひっくり返したんだろうと言っていたが、
「まさか……あの、ベランダから聞こえた音って……」
「だから『行かない方が良い』って言ったでしょ」
 冷静に答える彼の目を凝視した。
「なんであの時教えてくれなかったの⁉︎」
「だからですよ。もし本当に奈良栄ならさかっていう男がベランダにいたとして、変に俺らが騒いだらどうなっていたと思います?」
「それは……んー……怒鳴って、殴ったり……とか? 誰にも言うなよ、みたいに」
 賢くない頭で考えてみる。
「そうですよ。どんな理由であろうと、勝手に人ん家に侵入してる時点で、まともな会話ができないくらい興奮状態だったと思いますよ」
「興奮、状態?」
「そう。もし俺らがあの時、下手にベランダに出ていたら、脅迫されてたかもしれないし、最悪の場合、殺されていたかもしれない」
「ど、どうして殺すの? 殺す必要なんてなくない……?」
「そりゃあ、人を怪我させて、救護せずに逃げたんだから、通報するには立派な理由じゃないですか。実は、その奈良栄ならさかは逮捕されないかずっと怯えていた……だからしほりさんが一人でアパートに帰ってくるのを待っていた。そしたら俺もいるじゃないか、面倒だなぁ、て、急遽ベランダに隠れたとか」
 憶測ですけどね、と言う。
「俺らが気づかなかったらやり過ごす。もし気づかれたら、通報されないように口封じとして殺人もあり得た、かもしれない」
 人に怪我させて逃げるくらいですから。
 そう冷静に言っている割には、なかなかエグい内容。
「最低でクズな男ね。そのなんちゃらっていう犯罪者」
 名前を覚える気がない梶瑛かじあきさんは、かなり呆れ返っている様子だった。
「あの時、ベランダに……奈良栄ならさか先輩が……」
 もし、あの時聞こえた音が彼の推測通りなのだとしたら、私は……いや、そうくんもこの世にいなかったかもしれない。
 そう思うと、顔が青ざめた。全身を巡る血が逆流するような感覚に支配される。
「嘘ぉ……そ、え、ちょ、嘘」
 動転して、上手く言葉が紡げない。
 最悪の場合は殺されていたかも知れない、て。本当にあり得るの? いや、でも奈良栄ならさか先輩は夏希なつきを怪我させたし。暴力だって、確かに。
 ドレスを着ても見えないように化粧道具を使って隠した痣。指で擦るとファンデーションが薄くなり、赤黒い痣が現れる。
「そいつは、始めは殺すつもりがなくても、途中で頭に血が昇って、結果的に殺人をしていた可能性だって十分ありますから、気をつけるのに越したことはない」
「気づかなくて、本当に、よかった……」
 頭が追いつかずに、言葉が途切れ途切れになる。
 もしあの時、私一人で物音の正体を確認しに行っていたらと考えたら、全身に鳥肌が立った。おぞましくて、体がブルブルと震えてくる。その体を落ち着かせる為に両手で腕を抱えた。
 そうくんは「確証があるわけでもないのに、怖がらせてすみません」と申し訳なさそうにした。そして、
「もうその人は捕まりましたから。安心して良いんですよ」
 そうだ。確かにもう顔を合わすことはない。彼がアパートに来ることもない。会社で居合わすことも。少しだけ安心した。
 しかしそんな私に追い討ちをかけるように、梶瑛かじあきさんは鼻で笑った。
「まあ、留置所から出てきたらわかんないけどね、年増」
「んんんんッ!」
 クリティカルヒットすぎて、腹を抱える。カウンターに俯せた。
「もうあのアパートに住みたくないよぅ」
 泣きそう。早く引っ越しをしたい。
 そんな私の頭を優しく叩き、そうくんは、
「それは追々考えましょ。俺も一緒に考えますから。今は二次会をする為に、先生の家へ行きましょうか」
「え、もう行っていいの?」
「はい。先生、本当に帰国してて家にいますし、準備させてます」
「先生、日本に帰ってきてんだ」
 梶瑛かじあきさんは意外だと言わんばかりの声色で、「ふーん」と呟く。
「しょ、show先生、日本にいるの⁉︎ あれ、一昨日はまだヨーロッパにいたよね? 演奏会はどうしたの? 準備ってなにしてるの……?」
「あの人、本当に有言実行しちゃったんですよ。ちゃんと自分の演奏会をこなして、しかも、ちゃっかり俺たちの演奏会も聴いてたみたいで」
「ええ⁉︎ 嘘! 聴いてたの⁉︎ なんか緊張してきたぁぁ」
 憧れのフルーティストと会える。そう思っただけで、嬉しい筈なのに胃が痛い。
「ひえーん」胃の辺りをさすっていると、「あんなクズに緊張しなくていいですよ」と、言葉とは裏腹に、そうくんは爽やかに笑っていた。
 言い方が酷い。そうくん、たまにさらっと毒を吐くよね。それがあまりにも自然で、つい気づくのが遅くなってしまう。
「アンタ達、本当に行くの……?」
梶瑛かじあきさんも来る?」
 私がそう訊くと、彼女は面食らったような顔をしていた。私がそう尋ねてくるとは思っていなかったように。
 そして、少し悩む素振りを見せると、静かに首を縦に振る。照れているように見えて可愛かった。そんな顔をするくらい、彼女はそうくんのことが大切なのかな。
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