49 / 55
第六章 君の一つ一つの言葉が
6 「クソッタレ」
しおりを挟む
「梶瑛」
彼女の右手を掴む湊くん。
「止めないでよ!」
「事情がちゃんとあったし、殴ったら駄目でしょ」
「知らないわよ! ……そんなことよりも! アンタはもっと自分のことを大切にしてあげて!」
「はいはい。わかってるから」
二人にしかわからない物語がある。それを目の当たりにして、輪に入ることができない孤立感がじんわりと滲んだ。
「これだから大人は嫌いなのよッ」
梶瑛さんは手を下ろした。それでも大人である私に嫌悪が隠せないようでいた。どうして大人が嫌いなのだろうかとは思う。
大人、か。
ワンピースの皺を伸ばしながら、彼女の言葉に心が反応する。
私は本当に大人なのかな。体だけが時間と共に大人になっただけで、精神面では子供の頃から変わっていないような気がする。
心が、痛い。
いろんな言葉が突き刺さって。針のようなものが抜けなくて。抜こうと思った自分の指で、更に深く刺してしまう。
「もう、いやだな」
小さな声で呟いた。もうなにもかも投げ出して、なにもかも考えずに過ごせたら良いのに。
会社のことも、母の言葉も、奈良栄先輩のことも……。
そんなことは無理だよと、もう一人の自分が呟く。私はそっと目を閉じた。
「話が脱線したけど、二次会ができるか先生に電話してみますね」
湊くんの声が耳に入り、目を開けてみると、彼は私を見ていた。ニコッと笑うと、電話をする為に一旦喫茶店から外へ出る。
そして、私は梶瑛さんと二人きり。気づけば、マスターとアルバイトのヒツさんの姿はなかった。
トイレから掃除をする音がするので、一人はトイレにいるのだろうが、もう一人はどこへ。
「……」
「……」
気まずい。
どちらも口を固く閉じている。私の方が大人なのだから、気が紛れるような話題を提供しなければと決心した時だった。
「湊、誰にでも優しいから」
ちょうど曲が移り変わる無音の店内に、梶瑛さんの声が響く。視線は全く合わない。だが、そっぽを向く彼女の声に悪意は感じられない。
「だから勘違いしないで。年増が特別じゃないの」
カウンターに頬杖をつき、ぶっきら棒な物言いで念を押す。
「うん、そうなんだろうなって思ってた」
静かに答えた。
きっとこの二人もいろいろあったのだろう。だから彼女は湊くんを心配して、不甲斐ない私に腹を立てているのだ。
「湊くんと演奏できるのも、今日のコンサートが最初で最後だってわかってる。だから、ちゃんとお別れしようって思って、二次会を頼んだの」
「そう。それならいいけど」
「湊くんは、羨ましいな」
「はあ?」
二人の空間になって、初めて視線が交わる。訝しむ視線をしっかりと受け止めた。
「あなたみたいな心配してくれる人がいて……」
「……年増にはいないわけ?」
「結婚もしてない、彼氏もいない。良い感じになった会社の先輩には殴られて、私の大切な友達も傷つけられて……」
カウンターに肘をつき、両手で顔を覆う。
「お父さんから貰った大切なフルートも、ぐちゃぐちゃに壊されちゃって。もう良いことなんてないよ」
「男を見る目がないのね」
「ふふ。そうかもしれないね」
思わず吹いた。確かにそうだなって思ったから。
「だから、助けてもらった湊くんには感謝しても感謝しきれないよ」
「湊、優しいから。本当にアンタだけじゃないから——ッ」
二度も言わなくてもわかってるのに。
不意に思い出した奈良栄先輩の存在に心が重くなる。
今まで思い出さないようにしていたのに。どうしてこんな時に思い出しちゃうかな。
「もう……嫌になっちゃうなぁ」
「いつまでも後ろ向きな発言しないでくれる? あたしまで気持ちが暗くなるわ」
「……ごめん」
それしか言えなかった。彼女には関係ないから。
喉元まで込み上げてきた言葉を、必死に押し込むことくらいしかできない。
「意味不明」
彼女は不愉快に顔を歪める。組んだ足を組み直し、ミックスジュースを一気に飲んだ。
そこに、ドアが開いた鈴の音が聴こえた。
「先生、いいよって」
湊くんが戻ってきたのを見計らったかのように、マスターは封の開いていない珈琲豆を持って、顔を覗き込んだ。
「あと、そういえば日野和先生、五日後に退院だって。しほりさんのスマホにもメールが入ってません?」
「え?」
そう言われて、慌ててスマートフォンを出した。確かに夏希から『もう大丈夫。あとは退院するだけ!』という内容のメールが来ていた。
梶瑛さんは「まさか傷つけられた友達って」と言って、呆れたように私を見る。
その視線に私は空笑いをした。
「うん、私の方にも夏希からメールが来てたよ。そっか。目処が立ってよかった」
心底安心した。息をゆっくり吐いていると、湊くんのスマートフォンから音が鳴る。彼は「あ」と声を漏らし、暫く経った後から画面を私に見せてくれた。
「これ、もしかしたら、しほりさんが関係してるかもしれませんよ」
それは湊くんの母親からのメールだった。
その本文には、URLと共に『近場で不法侵入があったなんて怖いわね~。湊も戸締まりには気をつけなさいよ』と母親らしい言葉が綴られていた。
湊くんはその英数字をタッチすると、元になった地方新聞のホームページに飛んだ。
「住所的にこの辺りの事件ですね。住居不法侵入をしたとして、奈良栄楊容疑者を逮捕。余罪を追及……」
「住居、不法侵入?」
その単語を聞いて、頭の中にある小さな記憶が掠める。しかし、それがどの記憶だったか、なかなか思い出せない。
彼女の右手を掴む湊くん。
「止めないでよ!」
「事情がちゃんとあったし、殴ったら駄目でしょ」
「知らないわよ! ……そんなことよりも! アンタはもっと自分のことを大切にしてあげて!」
「はいはい。わかってるから」
二人にしかわからない物語がある。それを目の当たりにして、輪に入ることができない孤立感がじんわりと滲んだ。
「これだから大人は嫌いなのよッ」
梶瑛さんは手を下ろした。それでも大人である私に嫌悪が隠せないようでいた。どうして大人が嫌いなのだろうかとは思う。
大人、か。
ワンピースの皺を伸ばしながら、彼女の言葉に心が反応する。
私は本当に大人なのかな。体だけが時間と共に大人になっただけで、精神面では子供の頃から変わっていないような気がする。
心が、痛い。
いろんな言葉が突き刺さって。針のようなものが抜けなくて。抜こうと思った自分の指で、更に深く刺してしまう。
「もう、いやだな」
小さな声で呟いた。もうなにもかも投げ出して、なにもかも考えずに過ごせたら良いのに。
会社のことも、母の言葉も、奈良栄先輩のことも……。
そんなことは無理だよと、もう一人の自分が呟く。私はそっと目を閉じた。
「話が脱線したけど、二次会ができるか先生に電話してみますね」
湊くんの声が耳に入り、目を開けてみると、彼は私を見ていた。ニコッと笑うと、電話をする為に一旦喫茶店から外へ出る。
そして、私は梶瑛さんと二人きり。気づけば、マスターとアルバイトのヒツさんの姿はなかった。
トイレから掃除をする音がするので、一人はトイレにいるのだろうが、もう一人はどこへ。
「……」
「……」
気まずい。
どちらも口を固く閉じている。私の方が大人なのだから、気が紛れるような話題を提供しなければと決心した時だった。
「湊、誰にでも優しいから」
ちょうど曲が移り変わる無音の店内に、梶瑛さんの声が響く。視線は全く合わない。だが、そっぽを向く彼女の声に悪意は感じられない。
「だから勘違いしないで。年増が特別じゃないの」
カウンターに頬杖をつき、ぶっきら棒な物言いで念を押す。
「うん、そうなんだろうなって思ってた」
静かに答えた。
きっとこの二人もいろいろあったのだろう。だから彼女は湊くんを心配して、不甲斐ない私に腹を立てているのだ。
「湊くんと演奏できるのも、今日のコンサートが最初で最後だってわかってる。だから、ちゃんとお別れしようって思って、二次会を頼んだの」
「そう。それならいいけど」
「湊くんは、羨ましいな」
「はあ?」
二人の空間になって、初めて視線が交わる。訝しむ視線をしっかりと受け止めた。
「あなたみたいな心配してくれる人がいて……」
「……年増にはいないわけ?」
「結婚もしてない、彼氏もいない。良い感じになった会社の先輩には殴られて、私の大切な友達も傷つけられて……」
カウンターに肘をつき、両手で顔を覆う。
「お父さんから貰った大切なフルートも、ぐちゃぐちゃに壊されちゃって。もう良いことなんてないよ」
「男を見る目がないのね」
「ふふ。そうかもしれないね」
思わず吹いた。確かにそうだなって思ったから。
「だから、助けてもらった湊くんには感謝しても感謝しきれないよ」
「湊、優しいから。本当にアンタだけじゃないから——ッ」
二度も言わなくてもわかってるのに。
不意に思い出した奈良栄先輩の存在に心が重くなる。
今まで思い出さないようにしていたのに。どうしてこんな時に思い出しちゃうかな。
「もう……嫌になっちゃうなぁ」
「いつまでも後ろ向きな発言しないでくれる? あたしまで気持ちが暗くなるわ」
「……ごめん」
それしか言えなかった。彼女には関係ないから。
喉元まで込み上げてきた言葉を、必死に押し込むことくらいしかできない。
「意味不明」
彼女は不愉快に顔を歪める。組んだ足を組み直し、ミックスジュースを一気に飲んだ。
そこに、ドアが開いた鈴の音が聴こえた。
「先生、いいよって」
湊くんが戻ってきたのを見計らったかのように、マスターは封の開いていない珈琲豆を持って、顔を覗き込んだ。
「あと、そういえば日野和先生、五日後に退院だって。しほりさんのスマホにもメールが入ってません?」
「え?」
そう言われて、慌ててスマートフォンを出した。確かに夏希から『もう大丈夫。あとは退院するだけ!』という内容のメールが来ていた。
梶瑛さんは「まさか傷つけられた友達って」と言って、呆れたように私を見る。
その視線に私は空笑いをした。
「うん、私の方にも夏希からメールが来てたよ。そっか。目処が立ってよかった」
心底安心した。息をゆっくり吐いていると、湊くんのスマートフォンから音が鳴る。彼は「あ」と声を漏らし、暫く経った後から画面を私に見せてくれた。
「これ、もしかしたら、しほりさんが関係してるかもしれませんよ」
それは湊くんの母親からのメールだった。
その本文には、URLと共に『近場で不法侵入があったなんて怖いわね~。湊も戸締まりには気をつけなさいよ』と母親らしい言葉が綴られていた。
湊くんはその英数字をタッチすると、元になった地方新聞のホームページに飛んだ。
「住所的にこの辺りの事件ですね。住居不法侵入をしたとして、奈良栄楊容疑者を逮捕。余罪を追及……」
「住居、不法侵入?」
その単語を聞いて、頭の中にある小さな記憶が掠める。しかし、それがどの記憶だったか、なかなか思い出せない。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
ぼたん ~不器用な歌い手達が紡ぐ音~
雪見桜
恋愛
音楽の才能を持つ以外とことん不器用な女子高生の千依(ちえ)は、器用な双子の兄・千歳の影の相方として芸能活動をしている。昔自分を救ってくれたとある元アイドルに感謝しながら……。憧れの人との出会いから始まるスローテンポな恋と成長のお話です。
表紙イラストは昼寝様に描いていただきました。
10 sweet wedding
国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。
人違いラブレターに慣れていたので今回の手紙もスルーしたら、片思いしていた男の子に告白されました。この手紙が、間違いじゃないって本当ですか?
石河 翠
恋愛
クラス内に「ワタナベ」がふたりいるため、「可愛いほうのワタナベさん」宛のラブレターをしょっちゅう受け取ってしまう「そうじゃないほうのワタナベさん」こと主人公の「わたし」。
ある日「わたし」は下駄箱で、万年筆で丁寧に宛名を書いたラブレターを見つける。またかとがっかりした「わたし」は、その手紙をもうひとりの「ワタナベ」の下駄箱へ入れる。
ところが、その話を聞いた隣のクラスのサイトウくんは、「わたし」が驚くほど動揺してしまう。 実はその手紙は本当に彼女宛だったことが判明する。そしてその手紙を書いた「地味なほうのサイトウくん」にも大きな秘密があって……。
「真面目」以外にとりえがないと思っている「わたし」と、そんな彼女を見守るサイトウくんの少女マンガのような恋のおはなし。
小説家になろう及びエブリスタにも投稿しています。
扉絵は汐の音さまに描いていただきました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~
ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。
2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる