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第五章 『秘密の恋』はお留守番
2 さくらの世界 私の世界
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それは湊くんが吹く伴奏から始まった。
彼の音を受け取るように、私は低いメロディを演奏する。まるで夏の夜のように、日中の暑さが落ち着いた、心地の良い時間を過ごす少女を思い浮かべて。
ゆっくりな分、曲が重くならないように、そしてテンポが遅くなりすぎないように楽しむ。
ずらりと並ぶ楽譜を前に思い浮かべるのは、風が揺らす草の音以外なにもない、穏やかな空間。
月の光を浴びながら、少女は目を閉じ、座っている。その瞳の裏ではなにを見ているのだろうか。その思い耽る少女の姿は美しいのに、どこか物悲しい。胸が痛く締め付けられるようなメロディ。
湊くんと視線が絡む。
おいで。共に歩もう。
そういわんばかりに体の揺れで合図を送り、湊くんは私のブレスに合わせて、息を吸う。
メロディは次第に音域を上がっていき、音楽は夜空に現れる朝焼けのように広がっていく。
誰かに呼ばれた気がして、少女は瞳を開いた。風のように草原を駆け抜け、森に入り、行き着いた先には、一本の桜の木。
広大な旋律は、樹齢千年を超えるような大きな桜を思い起こさせる。
どっしりと構える桜を眺めると、それは壮観な光景で、胸を突き上げてくるものがあった。和の魂を刺激する、目には見えない情感。普段自覚しないそれが震え、桜と重なる。
ダイナミックに吹くフレーズは——桜吹雪が舞う。数えきれない、無数の花弁が風に吹かれて舞い、薄い桃色の風の道が現れる。太陽の光が心地よいのか、それはゆったりと流れていった。少女は一心にその桜を見つめた。
二人の音は重なり、小さなうねりもない、澄んだハーモニー。
呼応し合う音の響きに胸が熱くなる。ゾワッと、恐ろしいと感じるくらいに。
この曲を湊くんと一緒に吹けてよかった——体の底から湧き立つ、そんな幸福感があった。
息が合う。
音が共鳴する。
そこには何人たりとも入ることはできない。
私達の音楽——二人で織りなす桜の世界を。
私達は歌う——さくらのうたを。
響け、歌よ。
響け、生きて感動を得た喜びよ。誰よりも別れを見た憂いよ。未来の幸せを願う幾万の想いよ。
湊くんの低音が会場を響かせるその上に、私は高い音の旋律を乗せる。
二つの音が交わるたびに、心が苦しくなるような儚さが生まれた。手に届きそうで届かない。桜の花びらは手をすり抜けていく、無常の風よ。
彼の目は切なそうに私を見て、私も悲しみを抱いて彼を見つめ返した。
どんな曲にも終わりがあり、この曲にも終幕が見えてくる。
最後の音をヴィブラートをかけながら伸ばし、合図で一緒に終わる。
ぶつりと切れないように、歌を壊さないように、十分すぎるほどの余韻と想いを残して。
私達は見つめ合ったまま、暫く楽器を構えたままだった。そして、会場もまた無音だった。
会場に作られた世界を壊したくないかのように、音はない。
躊躇うようにゆっくりと楽器を下ろす。恋人達が離れたくないのに離れなければならないような、そんな耐え難い気持ちで。
息を止める。
音をたてない。
でも、堪らなくその無音の時間が好きだった。曲を全力で吹き切り、息が上がっているにも拘らず、その乱れた呼吸を押し殺す。ステージも観客も曲に飲み込まれている、この時間が。
観客席から手を叩く音がした。一人、二人、それからどっと数えきれない拍手がどこからともなく湧いた。
その大きさに驚いていると、「しほりさん」と小声で促されて我に返り、一礼する。
そこでやっと酸素が足りないと認識し、肩を上下させて、呼吸を繰り返す。
本番で、こんなに曲に没頭したのは初めてだった。
曲そのものが綺麗の一言でしか言い表せなくて、感情移入したのも初めてで。リズムも表現も細部まで合わせてくれた湊くんだったから、音楽だけに没頭できたのだと思う。
心臓がドキドキする。高鳴りが止まらない。
楽しい。楽しくてたまらない。顔がにやける。まずいと思っていても、顔が勝手ににやけていた。
「ソロ、頑張ってください」
湊くんはそっと言って、譜面台を持って舞台袖にはけた。
■ ■ ■
次は、私のソロ——『フラウト・トラヴェルソのためのソロ・ソナタ』
元よりピアノ伴奏がない無伴奏の曲。
その曲はどうやって吹くのか。正直なところ、無伴奏だからといってあまり大差はない。伴奏がなくても、まるであるかのように演奏するだけ。難しく考える必要はない。
常識の範囲内で崩れていなければ、自由に吹けばいいと思っている。
無伴奏だからこそできる表現もある。自分の描く音楽を、あらゆるものを使って表現すればいいのだ。
空間に自分の音だけで響かせることが、どれだけ至福なことか。
失敗も誤魔化しもできない緊張の中、全ての人が私の出す音だけを聴く。
広いホールで私の世界を占める時間が、体内に流れる血を沸き立てる。私の中で楽器を演奏する意義が、そこにある。
曲の初め。
低いラの音符の上に、逆の黒三角形——スタッカティッシモがあるので、四分の一の長さで鳴らすと指示が書かれているわけだ。更にそこの音量はフォルテ。次にあるオクターブ上のラからはピアノ。
そのフレーズをどう歌うか。このメロディは、小節の始めからではなく、途中から始まる。その解釈を変えたら、全く異なる曲になる。
何故そんな指示の記号があるのか。他の曲に比べて、強弱記号が多い。だから全ての記号に吹き分けの意味がある。
8分音符のメロディは物悲しく小川が流れるように。
16分音符の下がるメロディは落ち着くように、上がるメロディは盛り上がるように。
感情が昂ぶるように吹いてみせる。だが、その裏には哀愁がある。
曲名にある、フラウト・トラヴェルソとはなんだろうと調べたところ、人名かと予想していたが、今吹いているフルートの前身となった横笛のようだ。
それは銀などの金属製の楽器ではなく、木製の楽器。小学校で使うリコーダーを横笛にした感じで、音色もそれに近い。
だから、私は音色を少し変える。だが、show先生のように変えられないので、気持ち程度だ。
アナウンサーが楽曲を紹介し終えたところで、もう一度楽器に息を吹き込む。
ここからは私だけの世界。
彼の音を受け取るように、私は低いメロディを演奏する。まるで夏の夜のように、日中の暑さが落ち着いた、心地の良い時間を過ごす少女を思い浮かべて。
ゆっくりな分、曲が重くならないように、そしてテンポが遅くなりすぎないように楽しむ。
ずらりと並ぶ楽譜を前に思い浮かべるのは、風が揺らす草の音以外なにもない、穏やかな空間。
月の光を浴びながら、少女は目を閉じ、座っている。その瞳の裏ではなにを見ているのだろうか。その思い耽る少女の姿は美しいのに、どこか物悲しい。胸が痛く締め付けられるようなメロディ。
湊くんと視線が絡む。
おいで。共に歩もう。
そういわんばかりに体の揺れで合図を送り、湊くんは私のブレスに合わせて、息を吸う。
メロディは次第に音域を上がっていき、音楽は夜空に現れる朝焼けのように広がっていく。
誰かに呼ばれた気がして、少女は瞳を開いた。風のように草原を駆け抜け、森に入り、行き着いた先には、一本の桜の木。
広大な旋律は、樹齢千年を超えるような大きな桜を思い起こさせる。
どっしりと構える桜を眺めると、それは壮観な光景で、胸を突き上げてくるものがあった。和の魂を刺激する、目には見えない情感。普段自覚しないそれが震え、桜と重なる。
ダイナミックに吹くフレーズは——桜吹雪が舞う。数えきれない、無数の花弁が風に吹かれて舞い、薄い桃色の風の道が現れる。太陽の光が心地よいのか、それはゆったりと流れていった。少女は一心にその桜を見つめた。
二人の音は重なり、小さなうねりもない、澄んだハーモニー。
呼応し合う音の響きに胸が熱くなる。ゾワッと、恐ろしいと感じるくらいに。
この曲を湊くんと一緒に吹けてよかった——体の底から湧き立つ、そんな幸福感があった。
息が合う。
音が共鳴する。
そこには何人たりとも入ることはできない。
私達の音楽——二人で織りなす桜の世界を。
私達は歌う——さくらのうたを。
響け、歌よ。
響け、生きて感動を得た喜びよ。誰よりも別れを見た憂いよ。未来の幸せを願う幾万の想いよ。
湊くんの低音が会場を響かせるその上に、私は高い音の旋律を乗せる。
二つの音が交わるたびに、心が苦しくなるような儚さが生まれた。手に届きそうで届かない。桜の花びらは手をすり抜けていく、無常の風よ。
彼の目は切なそうに私を見て、私も悲しみを抱いて彼を見つめ返した。
どんな曲にも終わりがあり、この曲にも終幕が見えてくる。
最後の音をヴィブラートをかけながら伸ばし、合図で一緒に終わる。
ぶつりと切れないように、歌を壊さないように、十分すぎるほどの余韻と想いを残して。
私達は見つめ合ったまま、暫く楽器を構えたままだった。そして、会場もまた無音だった。
会場に作られた世界を壊したくないかのように、音はない。
躊躇うようにゆっくりと楽器を下ろす。恋人達が離れたくないのに離れなければならないような、そんな耐え難い気持ちで。
息を止める。
音をたてない。
でも、堪らなくその無音の時間が好きだった。曲を全力で吹き切り、息が上がっているにも拘らず、その乱れた呼吸を押し殺す。ステージも観客も曲に飲み込まれている、この時間が。
観客席から手を叩く音がした。一人、二人、それからどっと数えきれない拍手がどこからともなく湧いた。
その大きさに驚いていると、「しほりさん」と小声で促されて我に返り、一礼する。
そこでやっと酸素が足りないと認識し、肩を上下させて、呼吸を繰り返す。
本番で、こんなに曲に没頭したのは初めてだった。
曲そのものが綺麗の一言でしか言い表せなくて、感情移入したのも初めてで。リズムも表現も細部まで合わせてくれた湊くんだったから、音楽だけに没頭できたのだと思う。
心臓がドキドキする。高鳴りが止まらない。
楽しい。楽しくてたまらない。顔がにやける。まずいと思っていても、顔が勝手ににやけていた。
「ソロ、頑張ってください」
湊くんはそっと言って、譜面台を持って舞台袖にはけた。
■ ■ ■
次は、私のソロ——『フラウト・トラヴェルソのためのソロ・ソナタ』
元よりピアノ伴奏がない無伴奏の曲。
その曲はどうやって吹くのか。正直なところ、無伴奏だからといってあまり大差はない。伴奏がなくても、まるであるかのように演奏するだけ。難しく考える必要はない。
常識の範囲内で崩れていなければ、自由に吹けばいいと思っている。
無伴奏だからこそできる表現もある。自分の描く音楽を、あらゆるものを使って表現すればいいのだ。
空間に自分の音だけで響かせることが、どれだけ至福なことか。
失敗も誤魔化しもできない緊張の中、全ての人が私の出す音だけを聴く。
広いホールで私の世界を占める時間が、体内に流れる血を沸き立てる。私の中で楽器を演奏する意義が、そこにある。
曲の初め。
低いラの音符の上に、逆の黒三角形——スタッカティッシモがあるので、四分の一の長さで鳴らすと指示が書かれているわけだ。更にそこの音量はフォルテ。次にあるオクターブ上のラからはピアノ。
そのフレーズをどう歌うか。このメロディは、小節の始めからではなく、途中から始まる。その解釈を変えたら、全く異なる曲になる。
何故そんな指示の記号があるのか。他の曲に比べて、強弱記号が多い。だから全ての記号に吹き分けの意味がある。
8分音符のメロディは物悲しく小川が流れるように。
16分音符の下がるメロディは落ち着くように、上がるメロディは盛り上がるように。
感情が昂ぶるように吹いてみせる。だが、その裏には哀愁がある。
曲名にある、フラウト・トラヴェルソとはなんだろうと調べたところ、人名かと予想していたが、今吹いているフルートの前身となった横笛のようだ。
それは銀などの金属製の楽器ではなく、木製の楽器。小学校で使うリコーダーを横笛にした感じで、音色もそれに近い。
だから、私は音色を少し変える。だが、show先生のように変えられないので、気持ち程度だ。
アナウンサーが楽曲を紹介し終えたところで、もう一度楽器に息を吹き込む。
ここからは私だけの世界。
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