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第二章 欺瞞で顔を作って嘘をつく

5 私の不可侵領域

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   ■ ■ ■


 八月に入った。
 さすがにそろそろコンサートの練習をしなければ、取り返しがつかなくなる。
 前もって夏希なつきには連絡をした。今日から練習再開をしようと。
 残業を終えた後、一ヶ月ぶりの学校へ行くからか、妙な緊張感に襲われる。行かなくていいなら行きたくない。が、そんなことはいってられない。
 会社のデスクで楽譜の確認をする。音やリズム、フレーズの表現をどう演奏すべきか、再確認する為に読んでいく。今更、演奏を間違えることは言語道断だ。
 そこに奈良栄ならさか先輩が缶コーヒーを飲みながらやって来た。
眞野まのさーん。今からデートしよ?」
「すみません。今日は用事があるので……」
「はあ? 用事?」
 え、機嫌が悪い?
 私から断られると思っていなかったからか、彼は面食らった顔をする。ピクッと顔をひきつらせながら、肩を竦めた。
「しょうがないな。じゃあ、明日は?」
「明日も。しばらくの間、無理だと思います。折角誘ってくれたのに、ごめんなさい」
「えー? 明日も? つまんないなァ」
 つまらない?
 先輩の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった——最初はそう思っていた。
「先輩……」
 実は何度か一緒に食事へ行ったり、遊びに行ったりと親睦を深めていた。
 最初は本当にいい人だった。レディファーストで優しかったし、ご飯を食べに行った時は、いつも先輩がお金を出してくれた。彼が車を運転してくれて、海を見に行ったこともあった。
 だが、三回目のデートくらいだろうか。異変に気づき始めたのは。
 初めはほんの些細なこと。歩道を歩く時は、いつも車道側を歩いていた先輩が、いつの間にか私になっていた。
 それからお金をおろすのを忘れたと言って、支払い全てが私になっていた。最後は「これが欲しい」と強請ってきた。
 たまたまだ、偶然だと思っていた。でも、そう思い切れない違和感がずっと心の中で燻っていた。
 今回の件は、折角の先輩からの誘いを断ってしまい、私が悪いと思っている。
 だけど、演奏会に来てくれるみんなが、私の演奏を待っている。その気持ちに応えたい。その為の練習なのだ。
 笑顔を作りながら、楽譜をトートバッグに片付けた。
「すみません。今度埋め合わせをしますから」
 急ぐようにシャイニーケースを肩に掛け、トートバッグを持つ。
 逃げるように先輩に会釈して歩き出した時、彼は急に歩み寄ってきた。
 私の目前で腕が伸びる。壁を殴るような鈍い音。いわゆる壁ドンという奴なのだが、なんだろう。息が詰まるような苦しさが、じわじわと迫ってくる。
「その用事って」
 彼はそう言いながら、顔を近づけてきた。
 嫌な気分がする。周りに助けを求めようと見渡すが、こんな時に限って姿が見えない。みんな、もう帰ったの?
「そんなに大事?」
 彼の吐息が顔にかかる。普段より濃い、ホワイトムスクの香りを吸い込んだ時、ゾワゾワッと身震いした。
 それは彼に初めて抱いた不愉快な感情。
 しかし、それを表に出すことは、今後の会社での生活に支障をきたすような気がして憚られた。押し返そうとした手も引っ込める。
「えっと、その、コンサートがあって」
「コンサート?」
「私、フルートを吹いてるんです。そう、そうだ! 先輩も是非聴きに来てください」
 ニッコリと微笑んでみせた。だが、彼の反応は——
「ふるーと? なにそれ。知らないんだけど」
 溜息混じりに言う。いかにも興味がないといった様子。
「あ、そう、なんですか」
「ごめんねー。俺、そーゆうクラシックっていうジャンル、興味ないからさ」
 そう言って、体が少し離れる。
「!」
 今しかない!
 そう思って、腕を潜り抜けた。
「コンサートが近いから、もう練習しなきゃ……ごめんなさい、先輩!」
 気を悪くしないように笑顔を作る。でも、彼の反応を見たくなくて、腰から深々とお辞儀をした。

 初めて彼は怖いと確信した。
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