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第四章
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太陽は少しだけ顔を出したがまだ薄暗い中、押し掛けた雪に薫は嫌な顔をせずに雪の目当ての物を与えた。
「久賀さんは死ぬ程喜ぶよ」
「死んじゃ嫌だなぁ」
ふふふと二人で笑い合い、雪は薫と別れると来た道の真ん中を歩いて帰路に着いた。
久賀さんが目を覚ます前に早く帰らなきゃ、もしや既に起きているかも、と自然と早歩きになる。走って帰りたかったのだが、着物の両裾の端を膝が出るまで持ち上げ、長襦袢や裾除けも一緒に帯に挟んでから走るのは二度としないように、と注意をされていた為、走れない。
しかし、まだ人っ子一人歩いていないなら、やっても良い気がしてくる。雪はそれほど早く家に帰り、雪の懐に入った紐と止め玉をあの財布に取り付けて、久賀に渡したかった。
途中、獣の唸り声が背後からして、雪は思わず立ち止まって振り返った。
グルグルと唸り声を上げて牙を剥き出しにした犬と二人の男女がそこに立っていた。振り向いた雪に飛びかかろうと犬が脚を動かしたが、首に巻き付けられた縄を女からその瞬間に引っ張られ苦しげにキャンと鳴く。それでも犬は諦めないのか唸り声を上げていて走り出そうとしていた。口からは涎が垂れ、目の前の獲物を今にも襲いそうだった。女が縄を離せば襲われるのも時間の問題だった。
嫌な汗が背中に流れ、思わず唾を飲み込む。その縄を辿り女の顔を見ると、久賀の恋人で雪は息を飲んだ。
「どうどう」と荒ぶる犬の首に巻きつけた縄を器用に引っ張りながら、犬の首を摩ってやるとあんなに荒ぶっていた犬がじっとして動かなくなる。しかし相変わらず犬は雪に牙を剥き出しにして唸っていた。赤い歯茎がまるで血のように見える。
「お時間、あるかしら?」
透き通った声だと雪は思った。その表情も目を細めて口元に笑みが浮かんでいる。綺麗な笑みで、首を傾げながらそう訊ねた女の目が笑っていない事なんぞ雪はすぐ見て取れた。
付いて行ってはならないと頭の中で警告音が鳴り響く。
「ごめんなさい、知らない人に付いて行ってはならないと言われていますので」
震えそうになる声を雪は必死になって抑えて、そう言った。それを知ってか知らずか、女はコロコロと可愛らしく笑い声を上げた。
「知らない人だなんて——知ってるでしょ? 二回程会ったわよね? 私は京さんの恋人よ」
「……知ってます……」
「知らない人ではないでしょう? 私は京さんとの事でお嬢ちゃんとお喋りしたいのよ?」
子供相手に話すように、ゆっくりと話す声とその感情のない薄ら笑いが顔が綺麗な分不気味だった。紅く塗った唇が綺麗な弓の形を描いていても、それが余計不気味さを演出させる。
「家に帰ってから朝食の準備をします。それからならいつでも大丈夫です」
「それじゃあ、遅いわ。今付いてきて欲しいのよ? お嬢ちゃんに拒否権はないの。私と京さんとの時間を奪っているんだから。ね?」
奪っているのは確かだけれど——…。
久賀さんへの置き手紙は薫の所としか書いていないのだ。それ以外の場所へ寄り道をすれば、帰ってこない自分を心配をされてしまう。
雪が小さく首を横に振ると、優花は小さく溜息を吐いた。
「この子は言う事を聞くけれど、もう一匹は聞かないのよね」
唐突に、未だに唸る犬の頭をしゃがんだまま撫でる優花はそう吐いた。
二匹連れて歩いていない優花の話の意図が分からず雪はじっとしゃがむ優花を見つめた。優花の隣には男が立っているだけだ——あら?
雪は今初めてその男を見た。前に薫とうどん屋でうどんを食べた時に離れた席に座っていた人物だった。あの時、この男が去り際に気になった理由は——血の匂いが鼻先を掠めたからだ。
もじゃもじゃの頭をした男を見ると雪を射殺すように睨み付けると唸り声を上げた——犬のように。白い歯を剥き出しにして、八重歯が牙のように見える。それとは反対に笑顔を浮かべる優花は不気味に見えてしょうがなかった。
「寛太は私の敵は、どんなに私が止めても喉元食いちぎってしまうのよねぇ」
「困った子よね」と笑うが、表情は全く困ってはいなかった。何が楽しくてそんなに笑うのだろう。
ジリジリと動く男の脚に雪は後ずさる。しかし雪が後方に退く度に寛太も距離を詰めてきた。二人の距離は一向に変わらないが、いつ、飛び付かれても可笑しくないように雪は感じ身の危険を感じているが、背中を向けたらそのまま襲われると分かる。
立ち向かっては怪我を負うのは目に見えている。二人の男に襲われた後に久賀から言われたのは、「外は危険」だけじゃない。万が一雪の身に何かが起きて久賀自身が助けに間に合わないとしても、生きる事だけを考えろと言われた。必ず助けに行くから、それまでは何があっても生き延びろ——…
しかし、これを上手く躱せる方法は思いつかなかった。しかし素直について行けば身に危険があるのは本能で分かった。どちらにせよ危険だ。
男の右手は左手の袂に入れられていた。その中に恐らく刃物が握られていると雪には分かった。臭(にお)うのだ——血の匂いが。
一定の距離を保つ二人を寛太の背中を見つめながら優花は美しい顔でコロコロ笑っていた。
男の手が袂から出るとその右手には短刀が握られていた。鞘を抜くと、その鞘を地面に投げつけて雪へ近付く脚の歩幅を大きく開いた。
男は雪の腹に狙いを定めて短刀を腰元で握り刃先を向けると後退る雪へ——「がっ!?」と寛太は一羽の鷹に突然、顔目掛けて突撃され短刀を手から離した。
短刀がカランカランと地面に転がり、寛太は慌てて短刀を拾おうとしゃがみ込もうとしても鷹が邪魔をして上手く行かない。両手をバタバタと上げて左右に動かして追い払おうとしても、その鷹は寛太から離れなかった。
「——慶ちゃん!」と雪が叫ぶ。その声は震えていた。雪の視界に短刀を拾う女の姿を捉えたからだ。
必死に右手を伸ばし駆け寄ると、女の方が早かった。
「キィッ!」と鳴き声が響き飛んでいた鷹ちゃんがよろけた。寛太の頭上を飛ぶ鷹の背中を短刀で斬り付けたからだ。止めを刺そうとよろよろと地面に落ちな鷹ちゃん目掛けて短刀を振り下ろす優花の腰に力一杯体当たりをして鷹ちゃんを救った雪は、優花を下敷きにして二人共ども地面に倒れ込んだ。
優花の顔が驚愕で一杯になる。気の弱そうな子供がここまで俊敏に動けるとは思っていなかったのだ。
優花の手から自由になった犬が地面に落ちた鷹ちゃんに噛みつこうとしていたのを視界の端に映した雪は、倒れても離さなかった短刀を優花の手から奪い取ると、その犬目掛けて短刀を投げ付けた。
短刀が犬の前足に命中し「ギャン!」という悲鳴が聞こえ、怯んだ犬は短刀を刺したまま、よろけながらこの場を走り去っていく。
その後ろ姿を見届けた雪は荒れた息を軽く整えると、地面に倒れた鷹ちゃんに脚を振り上げた寛太の脚に飛び込んでそれを阻止した。
地面に尻を突いた寛太の脚からすぐに離れて地面に倒れた鷹ちゃんの前で雪は膝を付いた。
「け、慶ちゃん……」
雪が名前を呼んであげると、弱々しく鳴いた。鷹ちゃんの頭から背中を撫でるとベトリと血が掌に付いた。息も苦しそうで今にも炎が消えそうだった。
二人に背を向けてしまっているが、それどころじゃない。自分の可愛がっている慶ちゃんが怪我を負っているのだ。それも昔の怪我とは違い大きな怪我だ。
私のせいだ——ごめんね……
着物が汚れるのを気にせずに、鷹ちゃんを膝に乗せたところで後頭部に鈍い痛みが走った。
早く、早く、手当てをしてあげないと——
気持ちとは裏腹に——雪はゆっくりと意識を手放した。
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