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彼はわたしを忘れていました。

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 車は名護市内を抜けて許田に差し掛かった。
 5年前と同じルート、でも途中の道の駅は新しくなり、道路も以前より整備されている。
 同じ道だけど同じではない景色がそこにはあった。
 遥香は、複雑な感情のまま一言もしゃべらずに外の景色を眺めていた。

 金武ICから一般道へ10分ほど走り、鍾乳洞に到着する。緑豊かで静かな金武観音寺の境内、そこは5年前と同じ景色が出迎えてくれる。
 その一角にあるゴツゴツと岩の割れ目をくぐり抜け、狭い階段に差し掛かった。
 足に後遺症のある直哉が落ちてしまっては?と思い遥香は直哉に声を掛ける。

「私が先に降りますね。何かあったら支えますから」

「いや、俺が先に降りるよ。万が一足を滑らせたら安里さんまで巻き込まれてしまうだろう?」

 直哉の物言いに遥香は一瞬固まる。

──この人何言っているんだろう? 踏ん張りの利かない足で落ちる危険があるとわかっているのに、何でここに来たのか。
 何せ、熟成期間が来た時には、直接受け取りの方法以外に配送で自宅に送ってもらえるサービスがあるのに、わざわざ来た意味がわからない。

「万が一落ちたら救急車を呼んでくれればいいから」

 直哉が、そんな冗談とも本気ともつかない事を言いながら先に階段を降り始めた。
 その背中に慌てて声を掛ける。

「とりあえず無事に降りてください」

 遥香は、直哉が何を思って何を考えているのか、さっぱりわからずに、混乱した頭のまま彼の後を追いかけた。

 どうにか無事に階段を降り切った時には心底ホッとした。
 鍾乳洞の中は時間がゆっくりと流れ、辺りを照らす薄明りの中、幻想的に映し出され、岩肌がまるで母親の胎内のように包み込む温かみを持っていた。
 その中で、たくさんの人が預けた瓶は、静かに熟成の時を過ごしている。いつか迎えに来てくれる人が現れるその日まで待ち続けていた。

 直哉は、ゆっくりと鍾乳洞の中を見回している。そして、感慨深げに話し出した。

「すごいな壮観だ。安里さん、無理に付き合わせてしまって悪いね」

「いえ」

「実は、足に怪我をした時に頭にも怪我を負ってしまい、その時期の記憶がないんだ。今回、ここの通知をもらって、失った記憶の手がかりになればと思って来たんだけど、そう、上手くは行かないもんだな」

 (まさか、そんな……。
 直哉の言葉の端々がおかしいと思っていたけど、本当に忘れられていたなんて、思いも寄らなかった。私は、どうしたらいいの? )

「安里さん、大丈夫?」

「えっ、」

「涙が……」

 直哉の手がスッと伸びて頬を包むように涙をぬぐう。
 あまりの衝撃告白に遥香は自分が泣いていることに気づいていなかった。

 直哉との近い距離、ふわりとオリエンタルノートが香る。

(直哉の記憶の中に、私はいないんだ……)

 切れ長の二重の目、昔と変わらない綺麗な虹彩を見つめた遥香の胸は切なく痛む。

「泣いたりして、すみませんでした。記憶がないのは不安でしたね」

「そうなんだ。何か大切な事が心から抜け落ちているみたいで……」
 
「ここに泡盛を預ける時にメッセージカードを書くんです。カードを見れば何か思い出せるかもしれません」

「そうだな……。とにかく泡盛を受け取ってみよう」

 係の人に声を掛けると預けた瓶の場所まで案内してくれる。周りの瓶に掛かったカードには、それぞれ思い思いのメッセージが書かれているのに、直哉のだけはシンプルに名前だけだ。
 カードを見た直哉は肩を落とした。


「ダメだな。せっかく何か思い出せると思って来たのに……痛っ」

 顔をしかめ、手を頭に当てた直哉の様子に慌てて声をかけた。

「どうなさいましたか、大丈夫ですか?」

「もう、大丈夫だ。これも事故の後遺症でね。時々、頭痛がするんだ」

「大変な事故に遭われたんですね」

「実は、事故に遭った瞬間の事も覚えていなくて。事故自体は単独事故だったらしいから被害者がいなくてよかったんだけどね。1人で立って歩けるようになるまで、1年以上掛かったよ。ただ、事故前の数週間の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまったままで、何か大切な事を忘れてしまっている気がしてならないんだ」


『必ず迎えに来るよ』この言葉が果たされなかったのには、理由があったのだ。
 信じて待っていた遥香は、連絡が取れずに切ない思いをした。直哉のいる東京のタワーマンションに訪ね、結局会えずに泣いたこともあった。
 そして、直哉の子供を産んだこと、全部言いたかった。
 あなたが無くしてしまった大切なものはここにあるんだと。

 寂しそうに俯く直哉になんて声を掛けていいのか……。

 もしも、今すぐに感情に任せて5年前の出来事を直哉に告げてしまったとしたら、記憶の無い彼と、どうなるというのか。

 大企業の御曹司相手に、お金目当ての狂言と思われてしまうかもしれない。たとえ信じて貰えたとしても、直哉と遥香ではあまりにも不釣り合い。DNAで真哉の事は直哉の実子だと認定されたとしても、記憶にない女など必要ではないだろう。親権を争うような裁判になったとしたら、経済力のない遥香など、裁判に勝てる訳もなく真哉を奪われてしまうかもしれない。
 真実を話していいものか気持ちが定まらない。

「……もしも、記憶がもどって、この先の人生に影響を及ぼす事だとしても思い出したいんですか?」

 真っすぐに直哉の瞳を見つめ問い掛けた。

「この焦燥感が埋まるものならどんな結果であっても知りたいと思っている。今までも失くした記憶を探して手がかりを拾い集めて来た。それでも見つからず5年も経ってしまった」

 直哉は、顔を上げ、記憶の糸を手繰り寄せようと鍾乳洞の岩肌を見つめた。
 その寂し気な横顔を見つめ、遥香は切ない思いになる。

 (出来る事なら5年前の記憶を取り戻して欲しい。そうでなければ、子供の話も出来ない。)

「あの……。よろしければ柏木様の観光のお手伝いをさせて頂けませんか?もしかしたら、以前に行った思い出の場所など立ち寄る事もあるかと思います」

 そう、直哉の記憶が戻ってくれたならまた明るい道が見えるかもしれない。

「ありがとう。助かるよ」

「では、まず、あの階段を登り切りましょう」

 明るめの声を出し階段を指さした。それを直哉がクスッと笑う。

「ああ、そうだな。最初の試練だな」

「無事に上がれたらきっといいことありますよ。観音様にもお参りしましょう」

 直哉は泡盛を1本だけ受け取りもう1本はそのまま預けた。
 5年を過ぎたら後は1年ずつの契約に切り替わり最高12年までの預かり期間がある。なので、何も問題はないのだけれど、少し不思議に感じた。
 もしかしたら、また来るつもりなのかもと遥香は思った。




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