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彼の傷痕

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「はー、今日も暑そう」

 真っ青に晴れ渡った空、ゆっくりと白い雲が流れていく。
 気持ちの良いお天気なのに、遥香の気分はどんよりと曇っていた。
 今から『城間別邸』へ、行くと思うと憂鬱になる。仕事だからと、自分に言い聞かせ、足を進めた。

 花ブロックを過ぎた辺りで水音が聞こえて来る。
 芝生の向こうにあるプライベートプールへ視線を移すと、ちょうど、直哉がプールから上がろうとしていた。水に濡れた彼の上半身が目に映り、遥香は見入ってしまう。
  水に濡れた髪をかき上げる仕草は、大人の色気も手伝って、どことなく艶めいていた。
  彼の姿は、5年前の焼けるような夏の日。あの場所で熱い口づけをし、愛を交わした事を思い起こさせ、遥香の胸は切なく痛む。
  遥香は過去を振り払うように足を踏み出した。

「おはようございます。お食事お持ちしました」

 と頭を下げたところで視線が固まる。
 直哉の左足の膝から下にザックリと引き攣れた傷跡が見えたからだ。

 体の線も以前と比べたら細くなっているような気がした。
 事故に遭ったと言っていたけれど、ずいぶん酷い傷だ。どれだけ大変な思いをしたのか……。
 遥香は、傷から視線をずらした。

「あ、ごめん。気持ち悪いものを見せてしまったね。これでもだいぶマシになったんだ」

 直哉は、気まずそうに近くに有ったバスタオルを手に取り、何気なく足を隠した。

「あ、申し訳ございません。気持ち悪いなんて思っていません。ただ、大変な思いをされたんだろうと……」

 直哉は、足元を見るようにうつむき、呟いた。

「5年前、事故に遭うまでは、自分の足で立って歩けるのが、幸運な出来事とは思わなかったよ」

「5年前……」

 その符号に遥香は息を飲み込んだ。
 5年前の事故……。
 直哉が、これ程の重症を負うような事故に遭っていた。
 そう思うだけで遥香の胸が詰まり、息をするのも苦しく感じられた。
 遠く離れていた間の出来事を知る由もなかった。
 無力な自分の立場を思い知らされ、遥香は言いようのない空虚感に苛まれる。

「ん?」

「大変な思いをされたのだと……。立ち入った話しをさせてしまって、すいません。お食事がご用意しておきますので、どうぞシャワーを浴びてください」

 それだけ言うと遥香は踵を返し、慌てて母屋のキッチンに向かった。
 頭の中が混乱している。動揺から胸が詰まり、息苦しい。

──東京に会いに行っても会えなかったのは、もしかして事故に遭っていたから?
 でも、治ってからでもメールや電話も出来たはずだし、その後、なんの連絡もなかった。
 今回だって、以前の事を何もなかったように過ごしている。
  実際問題、自分が捨てられたという事実は動かないんだ……。

 遥香は、深呼吸をしてから、キッチンに入った。
 コーヒーメーカーをセットする。そして、食器の上に提携ホテルから運ばれた朝食をプレートの上に並べ始めた。
 視線を上げればキラキラと輝くプールの水面が目に映る。
 途端に思考が5年前の日に飛び、直哉と過ごした蜜月の日々を思い出してしまう。
 初めて結ばれた次の日から朝食もふたりで食べ、昼も夜もずっと一緒に過ごし、甘い夢のような毎日だった。

 昨日は、陽太に「私も大人になった」と伝えたが、気が付けば、遥香の頭の中は直哉の事でいっぱいになっていた。

(目の前にいなければ、心の片隅に置いておけたのに……。)

 はーっ、と深いため息を吐いたところで、キッチン横の扉が開く。直哉が、シャワーを浴びて戻って来たのだ。バスローブを羽織り、薄手のロングパンツを履いている。
 きっと、不躾なほど足の傷を見てしまったから気を使わせてしまったのだ。
 遥香は気まずい思いで声をかける。

「おかえりなさい。お食事は、どちらで召し上がられますか?」

「ダイニングテーブルでいいよ。ここからでも景色に遜色ない」

 その言葉にハッとしてしまう。
 5年前も同じセリフを聞いたのだ。
 直哉はそんな些細な会話など、覚えているはずなどないのに……。

 それだけで心が落ち着かなくなり、テーブルの上に置こうとしたプレートがカシャンと音を立てた。

「失礼しました」

 深く息を吐いて平静を装い、テーブルにセッティングしていると直哉がテーブルに手を付きながら椅子に腰を下ろした。シャワーと浴びたばかりの直哉からオリエンタルノートがふわりと香る。

 懐かしい香りは、直哉の腕に抱きしめられた記憶を呼び起こし、涙がこぼれそうになる。
 遥香は、奥歯を噛みしめグッとこらえた。  


「お食事されている間に、リネンの交換とバスルームの清掃をいたします」

「お願いするよ」

 軽く頭を下げてから、逃げるようにバスルームに移動した。

 直哉の言葉ひとつひとつを拾い上げて5年前に重ねようとしている自分が居る。そんな事をしても何の意味もないのに、遥香だけがあの頃に囚われているのだ。

 心の浮き沈みが激しくて胸が苦しい。
 なぜ連絡をくれなかったのか、なぜ捨てられたのか、直哉の口から聞くまでは、きっとこの思いに囚われたままなのだろう。



 お風呂の掃除をしながら視線を上げ窓の外を見る。生い茂った深い緑の木々が風でざわざわと揺れている。
 リネンやシーツの交換も終わり、洗濯の専門業者に出すための袋にしまい終えた遥香は、ふぅっと息を吐き気持ちを立て直す。
 キッチンに戻ってお客様である直哉のためにコーヒーを入れ始めた。すると、食事を終えた彼が遥香へ顔を向ける。

「今日の予定の話をしたいので、コーヒーを2人分入れて一緒に飲みませんか?」

「はい、かしこまりました」

 案内を頼まれた遥香は、断ることも出来ない。
 出来上がったコーヒーをカップへ注ぐ手に緊張が走る。
 カップをソーサーに乗せ、「おまたせ致しました」と直哉の前に置いた。そして、遥香は向かいの席に腰を下ろし、ソーサーに乗せて置いた砂糖とミルクをコーヒーにそそいだ。
 なにげなく直哉の手元を見ると、コーヒーカップが置かれたソーサーの上には、何も乗せていない事に気づいた。
 あっ、しまったと、遥香は焦る。
 直哉の分のコーヒーを付き合っていた頃の習慣で、ブラックで出してしまっていたのだ。
    

「申し訳ございません。柏木様のお砂糖とミルクを出しするのを忘れておりました。すぐにお持ちいたします」

 腰を浮かしかけたところで直哉が片手を上げ静止を促す。

「安里さん。普段からブラックだから大丈夫だよ」

 直哉は何事もなかったかのように、窓の外を見ながらコーヒーを飲み始めた。
 その様子を見て、遥香の気持ちは複雑だった。

 5年前の事とはいえ、1週間も一緒に過ごしたのに知らんぷりを決め込む直哉。
 何か一言あってもいいはずだ。それとも、本当に一緒に過ごした時間を忘れてしまったのだろうか……。


 直哉がコーヒーカップをソーサーに戻し、その横に一通の封筒をテーブルの上に置いた。
 それは、5年前に泡盛を預けた酒造会社からのものだった。

 それを見て、遥香の心臓はドクンッと大きく跳ねた。

「ここの場所に行きたいんだ」

「……はい」

「パンフレットに載っている通り、階段があるみたいで……。大丈夫だとは思うけど、一緒に行ってくれると助かる」

「はい、かしこまりました」

 動揺を隠すように抑揚のないロボットのような返事しか出来ない。

 (やっぱり、直哉は、あの時のお酒を取りにきたんだ。
 それなのになんで知らない振りをしているの?)

 遥香は、今にも問い詰めたい衝動に駆られた。



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