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第2部 4.5章

夢のはなし 前編

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「レイヴン様はまだいらっしゃらないの?」

「そうですね、……少し遅いですわね」

 アリシアの言葉にエレノアが時計へ視線を向ける。
 約束の時間を既に1刻(約30分)過ぎていた。
 少し遅い、なんてものではない。

 以前であれば、レイヴンがアリシアとの約束に遅れることなど決してなかった。
 そもそも約束などしなくても休憩時間の度にアリシアの元へ戻ってきていたのだ。

 それがこの半年は一度もアリシアのところへ来ていない。
 休憩時間だけではなく、夕食も寝室も、生活のすべてが別々になってしまった。
 今、アリシアがレイヴンと顔を合わせるのは公務の時間だけだ。

 それは仕方のないことだと思いながらも、やはり淋しさは拭えない。
 以前の通りとはいかなくても、少しくらいはアリシアの為に時間を割いて欲しい。

 だからアリシアは今日を楽しみにしていた。
 半年ぶりに一緒に過ごそうと、レイヴンからお茶に誘われているのだ。
 
 だけど、約束の時間になってもレイヴンが訪ねて来ない。

「……執務が長引いているのかもしれないわ。執務室へ行ってみましょう」

 アリシアがそう言うと、エレノアはすぐに支度を整えてくれた。

 本当は仕事を邪魔するようなことはしたくない。
 だけどアリシアは本当に今日を楽しみにしていた。
 あまり一緒に過ごせないのなら、一緒に過ごせる時は少しでも長く一緒にいたい。
 レイヴンもそう思ってくれているはずだ。迎えに行けばきっと喜んでくれるだろう。

 そう思い、軽い足取りで執務棟へ向かっていたアリシアだったが、執務棟から聞こえてくる笑い声に一気に気持ちが暗くなった。笑い声はレイヴンの執務室が近づくにつれ、徐々に大きくなっていく。
 
 角を曲がると廊下の先にレイヴンの執務室が見える。
 やはり思った通りに、レイヴンの執務室の前で宴会を催しているのだ。
 

「レイヴン様、これはどういうことでしょう。私との約束をお忘れですか」

「アリシア?!どうしてここに……っ!」

 アリシアが声を掛けると、レイヴンが弾かれた様に立ち上がった。
 レイヴンの執務室に面した中庭に長テーブルが出され、ある家族が囲んでいる。昼間なのに酒も出されているようで、すっかり酔い上がった者たちが大声で談笑しているのだ。
 とても品のある者たちとはいえなかった。

 だけどアリシアが声を掛けるまで、レイヴンもその中で楽しそうに笑っていたのだ。
 レイヴンの隣にはシーラがいて、2人は昔からの夫婦のように寄り添っていた。

 シーラはレイヴンが迎えた側妃である。
 議会の押しに負けたレイヴンは拒否しきれずに側妃を迎えることになった。
 初めは嫌々通っているように見えたレイヴンも、徐々にシーラの元で夜を過ごすことが増えた。
 そしてシーラが懐妊し、子が生まれると、レイヴンはシーラの元へ移ってしまってアリシアのところへは戻って来なくなったのだ。 
 アリシアへ挑発的な笑みを向けるシーラの隣では、半年前に生まれた王子がご機嫌に声を上げている。

「約束?そうか!今日はお茶を……」

 その言葉を聞いた瞬間、僅かに残っていた希望が打ち砕かれた。
 アリシアはこんなに楽しみにしていたのに、レイヴンは忘れていたのだ。

 サッと表情を変えたアリシアを、レイヴンが慌ててその場から引き離す。
 少し離れた柱の陰まで来ると、気まずそうな笑顔を見せた。

「ごめん、今日はお茶の約束だったね。だけど急にシーラの親族が訪ねて来たんだ。追い返すわけにもいかないし、一緒にお茶を飲むことになって……。申し訳ないんだけど、約束は明日にしてくれないかな?」

 お茶?
 酒を飲んでいたようですけど?

 アリシアは浮かんだ言葉を咄嗟に飲み込んだ。

 だけどなぜアリシアが譲らなければならないのか。
 第一王子が生まれて以来、シーラの元へ入り浸りになってしまったレイヴンが、やっとアリシアの為に時間を空けてくれるというのだ。
 アリシアは昨日からこの時間を楽しみにしていた。
 本当に、楽しみにしていたのだ。

「何故です?私の方が先約でしょう。そもそも連絡もなく訪れた者の相手を、レイヴン様がする必要がございますか?」

「それはそうなんだけど……。その、王子の後ろ盾となる者たちだし、ね」

 テーブルを囲んでいたのはシーラの親族だ。両親だけではなく、祖父母に叔父伯母までいるように見えた。
 少し見ただけだが、伯爵家のはずなのに品のない者たちである。
 あんな者たちが第一王子の後ろ盾で良いのかと思うけれど、それはアリシアが心配することではない。

「とにかく明日は必ず行くから、今日のところは帰って欲しい。本当に申し訳ないんだけど」

 レイヴンはアリシアと話ながらもチラチラと振り返り、シーラへ視線を送っている。
 レイヴンの全身から、「面倒を起こさず、早く帰って欲しい」という気持ちが滲み出ていた。
 淋しさと、悔しさと、惨めさが湧き上がってくる。

「………わかりました。レイヴン様はシーラ妃を選ぶのですね」

 その言葉と共に、アリシアはくるりと背中を向けた。
 鼻の奥がツンとして涙が零れそうになるが、そんなところを見せたりしない。
 シーラの前で惨めな姿を晒すことは矜持が許さない。
 
 アリシアはそのまま自室へ向かって歩き出した。
 レイヴンにはアリシアと過ごすつもりがないのだ。
 それなのにいつまでもここにいても意味がない。

「そういうことじゃないよ!明日は必ず行くから!」

 背中からレイヴンの声が追いかけて来たけれど、アリシアは振り返らなかった。
 シーラの勝ち誇ったような視線を背中に感じていた。




 王太子宮へ戻ると、アリシアは数人の侍女を残して人払いをした。
 残された侍女はエレノア、ドナ、ジーナの3人である。
 いつの間にか信頼するようになった3人だ。

「実家に戻るわ。荷造りをしてちょうだい」

「妃殿下!それは……っ!!」

 侍女たちが驚愕して目を見開く。
 この国では、王家に嫁いだ者が里帰りすることを認めていない。
 嫁いだ者はその時点で王族となり、実家は臣下の家となる。
 王家の者が特定の者と親しくすることも、臣下の邸を簡単に訪れることも許されず、無条件で許されるのは父母や兄弟が重病に伏した時だけとされていて、その時でも王太子妃が帰省するには、国王と王太子の許可がいるのだ。

 だけどアリシアの両親やレオナルドが病に倒れたという知らせは受けていない。
 それに国王やレイヴンに帰省の許可を得ているとは思えなかった。

 侍女たちの頭に嫌な考えが浮かぶ。
 通常「実家に帰る」というのは、別居や離縁を意味する言葉だ。
 だけど当然王太子妃が王宮を出て別居するなど許されているはずがなく、離縁するなら、行き先は辺境地の離宮か修道院ということになる。実家に戻ることは許されていない。
 それでは、アリシアはどうしようというのか。
 
「妃殿下!殿下は明日、必ずいらっしゃると……!」

「そうよ。だから今の内に、早く出て行かないとね」

 ドナの悲鳴のような声を聞いてもアリシアの決心は揺るがなかった。

 レイヴンはアリシアよりもシーラを取ったのだ。
 アリシアを後回しにして、シーラを優先した。

 アリシアより、王子を生んだ側妃へ寵愛が向かうのは仕方のないことだと思う。
 辛かったけれど、それは受け入れた。
 だけどアリシアは王太子妃だ。蔑ろにして良い存在ではない。

 それなのにレイヴンは、アリシアを蔑ろにしてシーラを優先した。
 アリシアが王太子妃として正当に扱われることを何より望んでいると知っているはずのレイヴンが、アリシアとの約束を反故にしてシーラを取ったのだ。

 以前の、アリシアを大切にしてくれていたレイヴンなら、こんなことはしなかった。
 レイヴンは変わってしまったのだ。
 あんなに優しくアリシアを想ってくれていたレイヴンはもういない。
 アリシアは只々それが哀しかった。

「わかりました。すぐに用意致します」

 エレノアが硬い表情で頷いた。
 毅然と立っていても、アリシアの胸の内が哀しみで占められていることに気がついたようだ。
 それならばまだ怒る気力がある内に行動を起こした方が良いと、素早く荷造りに取り掛かった。

 アリシアを主と頂いた時より、エレノアが望むのはアリシアの幸せである。
 ここにいて幸せになれないのなら、幸せと想える場所へ行った方が良い。

 荷造りをするエレノアを呆然と見ていたドナとジーナも、しばらくするとエレノアに倣うように恐る恐る荷造りを始めた。

「詰めるのは私が公爵家から持ってきたものだけで良いわ。それ以外のものは、ここに置いていきましょう」

「妃殿下……」

 ここに来てから買ったものも、レイヴンに貰ったものも置いていく。
 未練を残さない為に、思い出ごとすべて置いていくのだ。

 アリシアはドレッシングルームへ向かった。
 クローゼットを開いて収められたドレスを眺める。
 想いを告げられた後、初めて出席した舞踏会で着たレイヴン色のドレスも、サファイアが輝く首飾りも、すべて置いていく。
 そのひとつひとつに触れながら、ひっそりと別れを告げた。

 荷造りが終わると、アリシアは寝室へ足を踏み入れた。
 二度と入ることのない、夫婦の寝室である。

 この寝室には、幸せな思い出も辛い思い出もたくさん詰まっている。

 初めの頃、レイヴンがいてもいなくても、アリシアは何も感じなかった。
 遅く帰ってくるレイヴンを待たずに寝てしまったし、それで淋しいと感じる程の繋がりもなかった。
 それから想いを告げられて甘やかされた日々。
 毎日の様に睦み合い、気を失うようにして眠りについていたけれど、決して不快とは感じなかった。
 そして想いが通じ合い、尚更甘やかされた日々。
 目を覚ますと、いつも最初にアリシアを見つめるレイヴンと視線が合った。
 少し低い優しい声で、「おはよう、アリシア」と言われると、心から幸せを感じだものだ。
 それからレイヴンが戻って来なくなってからの空しい日々。
 1人で過ごす寝室はこんなに広く肌寒いのかと驚かされた。
 誰にも知られないように声を押し殺して泣いた夜もあったけれど、それももう過ぎたことだ。
 このどうしようもない物思いも今日で終わる。
 
 アリシアは寝室の窓辺にブレスレットをそっと置いた。
 このブレスレットを買ってくれたのは、初めて2人で街へ出掛けた時だった。
 想いが通じ合い、恋人のように過ごした幸せな日の思い出である。
 だけどもう、アリシアには必要のない思い出だ。

 アリシアは最後にブレスレットをそっと撫でると、部屋の中をぐるっと見渡してから寝室を後にした。




 その日、王太子宮から数台の馬車が出て行った。
 だけどレイヴンへ連絡が届くことはない。
 王太子宮にいる正妃の動きに注意を向ける者は既にいなくなっていたのだ。




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