483 / 697
第2部 4.5章
夢のはなし 前編
しおりを挟む
「レイヴン様はまだいらっしゃらないの?」
「そうですね、……少し遅いですわね」
アリシアの言葉にエレノアが時計へ視線を向ける。
約束の時間を既に1刻(約30分)過ぎていた。
少し遅い、なんてものではない。
以前であれば、レイヴンがアリシアとの約束に遅れることなど決してなかった。
そもそも約束などしなくても休憩時間の度にアリシアの元へ戻ってきていたのだ。
それがこの半年は一度もアリシアのところへ来ていない。
休憩時間だけではなく、夕食も寝室も、生活のすべてが別々になってしまった。
今、アリシアがレイヴンと顔を合わせるのは公務の時間だけだ。
それは仕方のないことだと思いながらも、やはり淋しさは拭えない。
以前の通りとはいかなくても、少しくらいはアリシアの為に時間を割いて欲しい。
だからアリシアは今日を楽しみにしていた。
半年ぶりに一緒に過ごそうと、レイヴンからお茶に誘われているのだ。
だけど、約束の時間になってもレイヴンが訪ねて来ない。
「……執務が長引いているのかもしれないわ。執務室へ行ってみましょう」
アリシアがそう言うと、エレノアはすぐに支度を整えてくれた。
本当は仕事を邪魔するようなことはしたくない。
だけどアリシアは本当に今日を楽しみにしていた。
あまり一緒に過ごせないのなら、一緒に過ごせる時は少しでも長く一緒にいたい。
レイヴンもそう思ってくれているはずだ。迎えに行けばきっと喜んでくれるだろう。
そう思い、軽い足取りで執務棟へ向かっていたアリシアだったが、執務棟から聞こえてくる笑い声に一気に気持ちが暗くなった。笑い声はレイヴンの執務室が近づくにつれ、徐々に大きくなっていく。
角を曲がると廊下の先にレイヴンの執務室が見える。
やはり思った通りに、レイヴンの執務室の前で宴会を催しているのだ。
「レイヴン様、これはどういうことでしょう。私との約束をお忘れですか」
「アリシア?!どうしてここに……っ!」
アリシアが声を掛けると、レイヴンが弾かれた様に立ち上がった。
レイヴンの執務室に面した中庭に長テーブルが出され、ある家族が囲んでいる。昼間なのに酒も出されているようで、すっかり酔い上がった者たちが大声で談笑しているのだ。
とても品のある者たちとはいえなかった。
だけどアリシアが声を掛けるまで、レイヴンもその中で楽しそうに笑っていたのだ。
レイヴンの隣にはシーラがいて、2人は昔からの夫婦のように寄り添っていた。
シーラはレイヴンが迎えた側妃である。
議会の押しに負けたレイヴンは拒否しきれずに側妃を迎えることになった。
初めは嫌々通っているように見えたレイヴンも、徐々にシーラの元で夜を過ごすことが増えた。
そしてシーラが懐妊し、子が生まれると、レイヴンはシーラの元へ移ってしまってアリシアのところへは戻って来なくなったのだ。
アリシアへ挑発的な笑みを向けるシーラの隣では、半年前に生まれた王子がご機嫌に声を上げている。
「約束?そうか!今日はお茶を……」
その言葉を聞いた瞬間、僅かに残っていた希望が打ち砕かれた。
アリシアはこんなに楽しみにしていたのに、レイヴンは忘れていたのだ。
サッと表情を変えたアリシアを、レイヴンが慌ててその場から引き離す。
少し離れた柱の陰まで来ると、気まずそうな笑顔を見せた。
「ごめん、今日はお茶の約束だったね。だけど急にシーラの親族が訪ねて来たんだ。追い返すわけにもいかないし、一緒にお茶を飲むことになって……。申し訳ないんだけど、約束は明日にしてくれないかな?」
お茶?
酒を飲んでいたようですけど?
アリシアは浮かんだ言葉を咄嗟に飲み込んだ。
だけどなぜアリシアが譲らなければならないのか。
第一王子が生まれて以来、シーラの元へ入り浸りになってしまったレイヴンが、やっとアリシアの為に時間を空けてくれるというのだ。
アリシアは昨日からこの時間を楽しみにしていた。
本当に、楽しみにしていたのだ。
「何故です?私の方が先約でしょう。そもそも連絡もなく訪れた者の相手を、レイヴン様がする必要がございますか?」
「それはそうなんだけど……。その、王子の後ろ盾となる者たちだし、ね」
テーブルを囲んでいたのはシーラの親族だ。両親だけではなく、祖父母に叔父伯母までいるように見えた。
少し見ただけだが、伯爵家のはずなのに品のない者たちである。
あんな者たちが第一王子の後ろ盾で良いのかと思うけれど、それはアリシアが心配することではない。
「とにかく明日は必ず行くから、今日のところは帰って欲しい。本当に申し訳ないんだけど」
レイヴンはアリシアと話ながらもチラチラと振り返り、シーラへ視線を送っている。
レイヴンの全身から、「面倒を起こさず、早く帰って欲しい」という気持ちが滲み出ていた。
淋しさと、悔しさと、惨めさが湧き上がってくる。
「………わかりました。レイヴン様はシーラ妃を選ぶのですね」
その言葉と共に、アリシアはくるりと背中を向けた。
鼻の奥がツンとして涙が零れそうになるが、そんなところを見せたりしない。
シーラの前で惨めな姿を晒すことは矜持が許さない。
アリシアはそのまま自室へ向かって歩き出した。
レイヴンにはアリシアと過ごすつもりがないのだ。
それなのにいつまでもここにいても意味がない。
「そういうことじゃないよ!明日は必ず行くから!」
背中からレイヴンの声が追いかけて来たけれど、アリシアは振り返らなかった。
シーラの勝ち誇ったような視線を背中に感じていた。
王太子宮へ戻ると、アリシアは数人の侍女を残して人払いをした。
残された侍女はエレノア、ドナ、ジーナの3人である。
いつの間にか信頼するようになった3人だ。
「実家に戻るわ。荷造りをしてちょうだい」
「妃殿下!それは……っ!!」
侍女たちが驚愕して目を見開く。
この国では、王家に嫁いだ者が里帰りすることを認めていない。
嫁いだ者はその時点で王族となり、実家は臣下の家となる。
王家の者が特定の者と親しくすることも、臣下の邸を簡単に訪れることも許されず、無条件で許されるのは父母や兄弟が重病に伏した時だけとされていて、その時でも王太子妃が帰省するには、国王と王太子の許可がいるのだ。
だけどアリシアの両親やレオナルドが病に倒れたという知らせは受けていない。
それに国王やレイヴンに帰省の許可を得ているとは思えなかった。
侍女たちの頭に嫌な考えが浮かぶ。
通常「実家に帰る」というのは、別居や離縁を意味する言葉だ。
だけど当然王太子妃が王宮を出て別居するなど許されているはずがなく、離縁するなら、行き先は辺境地の離宮か修道院ということになる。実家に戻ることは許されていない。
それでは、アリシアはどうしようというのか。
「妃殿下!殿下は明日、必ずいらっしゃると……!」
「そうよ。だから今の内に、早く出て行かないとね」
ドナの悲鳴のような声を聞いてもアリシアの決心は揺るがなかった。
レイヴンはアリシアよりもシーラを取ったのだ。
アリシアを後回しにして、シーラを優先した。
アリシアより、王子を生んだ側妃へ寵愛が向かうのは仕方のないことだと思う。
辛かったけれど、それは受け入れた。
だけどアリシアは王太子妃だ。蔑ろにして良い存在ではない。
それなのにレイヴンは、アリシアを蔑ろにしてシーラを優先した。
アリシアが王太子妃として正当に扱われることを何より望んでいると知っているはずのレイヴンが、アリシアとの約束を反故にしてシーラを取ったのだ。
以前の、アリシアを大切にしてくれていたレイヴンなら、こんなことはしなかった。
レイヴンは変わってしまったのだ。
あんなに優しくアリシアを想ってくれていたレイヴンはもういない。
アリシアは只々それが哀しかった。
「わかりました。すぐに用意致します」
エレノアが硬い表情で頷いた。
毅然と立っていても、アリシアの胸の内が哀しみで占められていることに気がついたようだ。
それならばまだ怒る気力がある内に行動を起こした方が良いと、素早く荷造りに取り掛かった。
アリシアを主と頂いた時より、エレノアが望むのはアリシアの幸せである。
ここにいて幸せになれないのなら、幸せと想える場所へ行った方が良い。
荷造りをするエレノアを呆然と見ていたドナとジーナも、しばらくするとエレノアに倣うように恐る恐る荷造りを始めた。
「詰めるのは私が公爵家から持ってきたものだけで良いわ。それ以外のものは、ここに置いていきましょう」
「妃殿下……」
ここに来てから買ったものも、レイヴンに貰ったものも置いていく。
未練を残さない為に、思い出ごとすべて置いていくのだ。
アリシアはドレッシングルームへ向かった。
クローゼットを開いて収められたドレスを眺める。
想いを告げられた後、初めて出席した舞踏会で着たレイヴン色のドレスも、サファイアが輝く首飾りも、すべて置いていく。
そのひとつひとつに触れながら、ひっそりと別れを告げた。
荷造りが終わると、アリシアは寝室へ足を踏み入れた。
二度と入ることのない、夫婦の寝室である。
この寝室には、幸せな思い出も辛い思い出もたくさん詰まっている。
初めの頃、レイヴンがいてもいなくても、アリシアは何も感じなかった。
遅く帰ってくるレイヴンを待たずに寝てしまったし、それで淋しいと感じる程の繋がりもなかった。
それから想いを告げられて甘やかされた日々。
毎日の様に睦み合い、気を失うようにして眠りについていたけれど、決して不快とは感じなかった。
そして想いが通じ合い、尚更甘やかされた日々。
目を覚ますと、いつも最初にアリシアを見つめるレイヴンと視線が合った。
少し低い優しい声で、「おはよう、アリシア」と言われると、心から幸せを感じだものだ。
それからレイヴンが戻って来なくなってからの空しい日々。
1人で過ごす寝室はこんなに広く肌寒いのかと驚かされた。
誰にも知られないように声を押し殺して泣いた夜もあったけれど、それももう過ぎたことだ。
このどうしようもない物思いも今日で終わる。
アリシアは寝室の窓辺にブレスレットをそっと置いた。
このブレスレットを買ってくれたのは、初めて2人で街へ出掛けた時だった。
想いが通じ合い、恋人のように過ごした幸せな日の思い出である。
だけどもう、アリシアには必要のない思い出だ。
アリシアは最後にブレスレットをそっと撫でると、部屋の中をぐるっと見渡してから寝室を後にした。
その日、王太子宮から数台の馬車が出て行った。
だけどレイヴンへ連絡が届くことはない。
王太子宮にいる正妃の動きに注意を向ける者は既にいなくなっていたのだ。
「そうですね、……少し遅いですわね」
アリシアの言葉にエレノアが時計へ視線を向ける。
約束の時間を既に1刻(約30分)過ぎていた。
少し遅い、なんてものではない。
以前であれば、レイヴンがアリシアとの約束に遅れることなど決してなかった。
そもそも約束などしなくても休憩時間の度にアリシアの元へ戻ってきていたのだ。
それがこの半年は一度もアリシアのところへ来ていない。
休憩時間だけではなく、夕食も寝室も、生活のすべてが別々になってしまった。
今、アリシアがレイヴンと顔を合わせるのは公務の時間だけだ。
それは仕方のないことだと思いながらも、やはり淋しさは拭えない。
以前の通りとはいかなくても、少しくらいはアリシアの為に時間を割いて欲しい。
だからアリシアは今日を楽しみにしていた。
半年ぶりに一緒に過ごそうと、レイヴンからお茶に誘われているのだ。
だけど、約束の時間になってもレイヴンが訪ねて来ない。
「……執務が長引いているのかもしれないわ。執務室へ行ってみましょう」
アリシアがそう言うと、エレノアはすぐに支度を整えてくれた。
本当は仕事を邪魔するようなことはしたくない。
だけどアリシアは本当に今日を楽しみにしていた。
あまり一緒に過ごせないのなら、一緒に過ごせる時は少しでも長く一緒にいたい。
レイヴンもそう思ってくれているはずだ。迎えに行けばきっと喜んでくれるだろう。
そう思い、軽い足取りで執務棟へ向かっていたアリシアだったが、執務棟から聞こえてくる笑い声に一気に気持ちが暗くなった。笑い声はレイヴンの執務室が近づくにつれ、徐々に大きくなっていく。
角を曲がると廊下の先にレイヴンの執務室が見える。
やはり思った通りに、レイヴンの執務室の前で宴会を催しているのだ。
「レイヴン様、これはどういうことでしょう。私との約束をお忘れですか」
「アリシア?!どうしてここに……っ!」
アリシアが声を掛けると、レイヴンが弾かれた様に立ち上がった。
レイヴンの執務室に面した中庭に長テーブルが出され、ある家族が囲んでいる。昼間なのに酒も出されているようで、すっかり酔い上がった者たちが大声で談笑しているのだ。
とても品のある者たちとはいえなかった。
だけどアリシアが声を掛けるまで、レイヴンもその中で楽しそうに笑っていたのだ。
レイヴンの隣にはシーラがいて、2人は昔からの夫婦のように寄り添っていた。
シーラはレイヴンが迎えた側妃である。
議会の押しに負けたレイヴンは拒否しきれずに側妃を迎えることになった。
初めは嫌々通っているように見えたレイヴンも、徐々にシーラの元で夜を過ごすことが増えた。
そしてシーラが懐妊し、子が生まれると、レイヴンはシーラの元へ移ってしまってアリシアのところへは戻って来なくなったのだ。
アリシアへ挑発的な笑みを向けるシーラの隣では、半年前に生まれた王子がご機嫌に声を上げている。
「約束?そうか!今日はお茶を……」
その言葉を聞いた瞬間、僅かに残っていた希望が打ち砕かれた。
アリシアはこんなに楽しみにしていたのに、レイヴンは忘れていたのだ。
サッと表情を変えたアリシアを、レイヴンが慌ててその場から引き離す。
少し離れた柱の陰まで来ると、気まずそうな笑顔を見せた。
「ごめん、今日はお茶の約束だったね。だけど急にシーラの親族が訪ねて来たんだ。追い返すわけにもいかないし、一緒にお茶を飲むことになって……。申し訳ないんだけど、約束は明日にしてくれないかな?」
お茶?
酒を飲んでいたようですけど?
アリシアは浮かんだ言葉を咄嗟に飲み込んだ。
だけどなぜアリシアが譲らなければならないのか。
第一王子が生まれて以来、シーラの元へ入り浸りになってしまったレイヴンが、やっとアリシアの為に時間を空けてくれるというのだ。
アリシアは昨日からこの時間を楽しみにしていた。
本当に、楽しみにしていたのだ。
「何故です?私の方が先約でしょう。そもそも連絡もなく訪れた者の相手を、レイヴン様がする必要がございますか?」
「それはそうなんだけど……。その、王子の後ろ盾となる者たちだし、ね」
テーブルを囲んでいたのはシーラの親族だ。両親だけではなく、祖父母に叔父伯母までいるように見えた。
少し見ただけだが、伯爵家のはずなのに品のない者たちである。
あんな者たちが第一王子の後ろ盾で良いのかと思うけれど、それはアリシアが心配することではない。
「とにかく明日は必ず行くから、今日のところは帰って欲しい。本当に申し訳ないんだけど」
レイヴンはアリシアと話ながらもチラチラと振り返り、シーラへ視線を送っている。
レイヴンの全身から、「面倒を起こさず、早く帰って欲しい」という気持ちが滲み出ていた。
淋しさと、悔しさと、惨めさが湧き上がってくる。
「………わかりました。レイヴン様はシーラ妃を選ぶのですね」
その言葉と共に、アリシアはくるりと背中を向けた。
鼻の奥がツンとして涙が零れそうになるが、そんなところを見せたりしない。
シーラの前で惨めな姿を晒すことは矜持が許さない。
アリシアはそのまま自室へ向かって歩き出した。
レイヴンにはアリシアと過ごすつもりがないのだ。
それなのにいつまでもここにいても意味がない。
「そういうことじゃないよ!明日は必ず行くから!」
背中からレイヴンの声が追いかけて来たけれど、アリシアは振り返らなかった。
シーラの勝ち誇ったような視線を背中に感じていた。
王太子宮へ戻ると、アリシアは数人の侍女を残して人払いをした。
残された侍女はエレノア、ドナ、ジーナの3人である。
いつの間にか信頼するようになった3人だ。
「実家に戻るわ。荷造りをしてちょうだい」
「妃殿下!それは……っ!!」
侍女たちが驚愕して目を見開く。
この国では、王家に嫁いだ者が里帰りすることを認めていない。
嫁いだ者はその時点で王族となり、実家は臣下の家となる。
王家の者が特定の者と親しくすることも、臣下の邸を簡単に訪れることも許されず、無条件で許されるのは父母や兄弟が重病に伏した時だけとされていて、その時でも王太子妃が帰省するには、国王と王太子の許可がいるのだ。
だけどアリシアの両親やレオナルドが病に倒れたという知らせは受けていない。
それに国王やレイヴンに帰省の許可を得ているとは思えなかった。
侍女たちの頭に嫌な考えが浮かぶ。
通常「実家に帰る」というのは、別居や離縁を意味する言葉だ。
だけど当然王太子妃が王宮を出て別居するなど許されているはずがなく、離縁するなら、行き先は辺境地の離宮か修道院ということになる。実家に戻ることは許されていない。
それでは、アリシアはどうしようというのか。
「妃殿下!殿下は明日、必ずいらっしゃると……!」
「そうよ。だから今の内に、早く出て行かないとね」
ドナの悲鳴のような声を聞いてもアリシアの決心は揺るがなかった。
レイヴンはアリシアよりもシーラを取ったのだ。
アリシアを後回しにして、シーラを優先した。
アリシアより、王子を生んだ側妃へ寵愛が向かうのは仕方のないことだと思う。
辛かったけれど、それは受け入れた。
だけどアリシアは王太子妃だ。蔑ろにして良い存在ではない。
それなのにレイヴンは、アリシアを蔑ろにしてシーラを優先した。
アリシアが王太子妃として正当に扱われることを何より望んでいると知っているはずのレイヴンが、アリシアとの約束を反故にしてシーラを取ったのだ。
以前の、アリシアを大切にしてくれていたレイヴンなら、こんなことはしなかった。
レイヴンは変わってしまったのだ。
あんなに優しくアリシアを想ってくれていたレイヴンはもういない。
アリシアは只々それが哀しかった。
「わかりました。すぐに用意致します」
エレノアが硬い表情で頷いた。
毅然と立っていても、アリシアの胸の内が哀しみで占められていることに気がついたようだ。
それならばまだ怒る気力がある内に行動を起こした方が良いと、素早く荷造りに取り掛かった。
アリシアを主と頂いた時より、エレノアが望むのはアリシアの幸せである。
ここにいて幸せになれないのなら、幸せと想える場所へ行った方が良い。
荷造りをするエレノアを呆然と見ていたドナとジーナも、しばらくするとエレノアに倣うように恐る恐る荷造りを始めた。
「詰めるのは私が公爵家から持ってきたものだけで良いわ。それ以外のものは、ここに置いていきましょう」
「妃殿下……」
ここに来てから買ったものも、レイヴンに貰ったものも置いていく。
未練を残さない為に、思い出ごとすべて置いていくのだ。
アリシアはドレッシングルームへ向かった。
クローゼットを開いて収められたドレスを眺める。
想いを告げられた後、初めて出席した舞踏会で着たレイヴン色のドレスも、サファイアが輝く首飾りも、すべて置いていく。
そのひとつひとつに触れながら、ひっそりと別れを告げた。
荷造りが終わると、アリシアは寝室へ足を踏み入れた。
二度と入ることのない、夫婦の寝室である。
この寝室には、幸せな思い出も辛い思い出もたくさん詰まっている。
初めの頃、レイヴンがいてもいなくても、アリシアは何も感じなかった。
遅く帰ってくるレイヴンを待たずに寝てしまったし、それで淋しいと感じる程の繋がりもなかった。
それから想いを告げられて甘やかされた日々。
毎日の様に睦み合い、気を失うようにして眠りについていたけれど、決して不快とは感じなかった。
そして想いが通じ合い、尚更甘やかされた日々。
目を覚ますと、いつも最初にアリシアを見つめるレイヴンと視線が合った。
少し低い優しい声で、「おはよう、アリシア」と言われると、心から幸せを感じだものだ。
それからレイヴンが戻って来なくなってからの空しい日々。
1人で過ごす寝室はこんなに広く肌寒いのかと驚かされた。
誰にも知られないように声を押し殺して泣いた夜もあったけれど、それももう過ぎたことだ。
このどうしようもない物思いも今日で終わる。
アリシアは寝室の窓辺にブレスレットをそっと置いた。
このブレスレットを買ってくれたのは、初めて2人で街へ出掛けた時だった。
想いが通じ合い、恋人のように過ごした幸せな日の思い出である。
だけどもう、アリシアには必要のない思い出だ。
アリシアは最後にブレスレットをそっと撫でると、部屋の中をぐるっと見渡してから寝室を後にした。
その日、王太子宮から数台の馬車が出て行った。
だけどレイヴンへ連絡が届くことはない。
王太子宮にいる正妃の動きに注意を向ける者は既にいなくなっていたのだ。
0
お気に入りに追加
1,727
あなたにおすすめの小説
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
大嫌いな次期騎士団長に嫁いだら、激しすぎる初夜が待っていました
扇 レンナ
恋愛
旧題:宿敵だと思っていた男に溺愛されて、毎日のように求められているんですが!?
*こちらは【明石 唯加】名義のアカウントで掲載していたものです。書籍化にあたり、こちらに転載しております。また、こちらのアカウントに転載することに関しては担当編集さまから許可をいただいておりますので、問題ありません。
――
ウィテカー王国の西の辺境を守る二つの伯爵家、コナハン家とフォレスター家は長年に渡りいがみ合ってきた。
そんな現状に焦りを抱いた王家は、二つの伯爵家に和解を求め、王命での結婚を命じる。
その結果、フォレスター伯爵家の長女メアリーはコナハン伯爵家に嫁入りすることが決まった。
結婚相手はコナハン家の長男シリル。クールに見える外見と辺境騎士団の次期団長という肩書きから女性人気がとても高い男性。
が、メアリーはそんなシリルが実は大嫌い。
彼はクールなのではなく、大層傲慢なだけ。それを知っているからだ。
しかし、王命には逆らえない。そのため、メアリーは渋々シリルの元に嫁ぐことに。
どうせ愛し愛されるような素敵な関係にはなれるわけがない。
そう考えるメアリーを他所に、シリルは初夜からメアリーを強く求めてくる。
――もしかして、これは嫌がらせ?
メアリーはシリルの態度をそう受け取り、頑なに彼を拒絶しようとするが――……。
「誰がお前に嫌がらせなんかするかよ」
どうやら、彼には全く別の思惑があるらしく……?
*WEB版表紙イラストはみどりのバクさまに有償にて描いていただいたものです。転載等は禁止です。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~
一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、
快楽漬けの日々を過ごすことになる!
そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!?
※この物語はフィクションです。
R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。
冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました
せいとも
恋愛
旧題:運命の一夜と愛の結晶〜裏切られた絶望がもたらす奇跡〜
神楽坂グループ傘下『田崎ホールディングス』の創業50周年パーティーが開催された。
舞台で挨拶するのは、専務の田崎悠太だ。
専務の秘書で彼女の月島さくらは、会場で挨拶を聞いていた。
そこで、今の瞬間まで彼氏だと思っていた悠太の口から、別の女性との婚約が発表された。
さくらは、訳が分からずショックを受け会場を後にする。
その様子を見ていたのが、神楽坂グループの御曹司で、社長の怜だった。
海外出張から一時帰国して、パーティーに出席していたのだ。
会場から出たさくらを追いかけ、忘れさせてやると一夜の関係をもつ。
一生をさくらと共にしようと考えていた怜と、怜とは一夜の関係だと割り切り前に進むさくらとの、長い長いすれ違いが始まる。
再会の日は……。
【完結】王子妃になりたくないと願ったら純潔を散らされました
ユユ
恋愛
毎夜天使が私を犯す。
それは王家から婚約の打診があったときから
始まった。
体の弱い父を領地で支えながら暮らす母。
2人は私の異変に気付くこともない。
こんなこと誰にも言えない。
彼の支配から逃れなくてはならないのに
侯爵家のキングは私を放さない。
* 作り話です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる