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2章
85 約束①
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アリシアはつい最近まで、レイヴンがアリシアを想っているなど考えたこともなかった。
「貴族の結婚に感情は必要ない」というレイヴンの言葉を信じていたのだ。
アリシアにとってとても都合の良い言葉だったから。
アリシアは幼い頃から母に連れられ、キャンベル侯爵邸へよく遊びに行っていた。
優しいサンドラもジェーンも大好きだったが、侯爵邸でジェーンの父親に会うことは1度もなかった。
ルトビア公爵家一族の集まりの時でも、サンドラとジェーンはいつも参加していたのにデミオンの姿はなかった。
デミオンが父の弟のはずなのに…と不思議に思っていたけれど、触れてはいけないことなのだと幼心にも気がついていた。
成長するにつれてアリシアは、サンドラとジェーンが置かれた状況を理解していく。
いつの頃からか2人の前ではアダムの話をしなくなっていた。
父親に顧みられないジェーンに、父親とのことを聞かせてはいけないと思ったのだ。
サンドラが寝付くようになった頃、木戸の向こうの家が建てられた経緯と、そこで1人過ごしていた女性の話を聞いた。
サンドラにとっては父親の愛人である。
サンドラは、「あの家がそんな哀しい場所ではなくて、子どもたちが笑い合う場所になって嬉しいわ」と笑っていたけれど、アリシアはその女性とサンドラを重ねていた。
確かにサンドラは正妻である。
住んでいるのも本邸だ。
だけど帰ってこない夫を待っているサンドラは、旦那様の訪れを待つ愛人と何が違うのだろうか。
あの家に住んでいた女性には訪れる友人も、出掛けて行くところもなく孤独だったという。
サンドラにはアリシアたちがいる。
だけどアリシアたちの他に訪ねてくる人の話を聞いたことはなかった。
サンドラが出掛けるのも、ルトビア公爵家の集まりの他は侯爵家としてどうしても外せない集まりだけだ。
それも本当は当主であるデミオンが出席するべきもので、務めを果たさないデミオンの代理だった。
にこやかに言葉を交わしながら、陰で悪く言われていたのを知っている。
正妻も愛人も関係ない。
結局はより愛された方が勝ちなのだ。
デミオンと初めて会ったのは、サンドラが亡くなった後だ。
同時にその愛人と、愛人が生んだ娘と会うことになった。
サンドラの生家で我が物顔に振舞い、ジェーンを邪険に扱う彼らを醜悪な生き物だと思った。
その後、レイヴンのパートナーとして社交界に出るようになると、様々な噂話を聞くことになった。
その中でアリシアはサンドラの置かれていた状況が決して珍しいことではないのだと知った。
政略結婚で結ばれる貴族たちは、本当に愛する者を愛人にする。
嫁いだ先の新居に夫の愛人である侍女がいて白い結婚を続けている夫人や、婿入りした夫が子どもが出来た途端、囲った愛人の家に移ってしまった夫人の話を聞いた。
本当に愛されて大切にされるのは正妻ではなく愛人なのではないか。
アリシアはそう思うようになっていた。
だけど公爵令嬢であるアリシアが誰かの愛人になることなどできない。
そんな時、レイヴンの言葉が思い出された。
レイヴンは婚約者らしく、王太子妃らしく振舞っていれば、ずっと王太子妃として扱ってくれるという。
愛情なんてなくても尊厳を守ってくれる。
アリシアはそこに救いを見つけたのだ。
「私は愛というものが怖いのです」
アリシアがそう言うと、レイヴンの体がびくっと震えた。
「愛されない正妻は不幸です。夫に蔑ろにされ、愛人に蔑まれ、世間の人には嗤われる。そんな生活は耐えられません」
「…アリシア?」
レイヴンは結婚に愛情は必要ないと言った。
レイヴンはアリシアを愛さないけれど、アリシアもレイヴンを愛さなくていい。
そういう「約束」だったはずだ。
「婚約者として相応しく振舞っていれば、婚約者として扱って下さると仰いました。それは王太子妃として相応しく振舞っていれば王太子妃として扱って下さるということです。私はその言葉に縋りました。愛されていなくても、愛していなくても、私は王太子妃として相応しく振舞っている限り、王太子妃として扱っていたただける。尊厳は守っていただけるのだと信じました。だからレイヴン様の元へ嫁いだのです。他の方なんて考えられませんでした」
そこに愛情などはなく、打算しかなかった。
「レイヴン様はいずれ側妃を迎えられます。側妃は私とは違い、レイヴン様が選んで迎えられる方です。愛情はそちらの方へ注がれるでしょう。ですがレイヴン様は私を粗雑には扱わない。正妃として扱って下さる。その約束が私をどれだけ安心させてくれていたか」
「側妃を迎えるつもりなんてない。迎えないよ、アリシア」
レイヴンの声は震えていてアリシアに縋るようだ。
「今はそのつもりでも、先のことはわかりませんでしょう?私がレイヴン様を愛して、その後レイヴン様の御心が他の方に移ったら、私はどうすればいいのですか?ここでお帰りにならないレイヴン様をずっと1人で待っているなんて私には無理です。耐えられません」
アリシアには耐えられない。
だけどレイヴンなら耐えられるというのか。
アリシアを愛しているというレイヴンは、アリシアがマルセルを想っている時、一言も責めずにいてくれた。
アリシアは初めからマルセルへの想いは一時的なものだと思っていた。
だからマルセルと想いを交わしたいと思ったことはない。
マルセルはアリシアに将来の安定を、安心をくれるわけじゃない。
だから好ましく想っていても関係を結びたいとは思わなかった。
気持ちを隠しきれていると思っていた。
レイヴンがこんなに傷ついているとは思わなかった。
「貴族の結婚に感情は必要ない」というレイヴンの言葉を信じていたのだ。
アリシアにとってとても都合の良い言葉だったから。
アリシアは幼い頃から母に連れられ、キャンベル侯爵邸へよく遊びに行っていた。
優しいサンドラもジェーンも大好きだったが、侯爵邸でジェーンの父親に会うことは1度もなかった。
ルトビア公爵家一族の集まりの時でも、サンドラとジェーンはいつも参加していたのにデミオンの姿はなかった。
デミオンが父の弟のはずなのに…と不思議に思っていたけれど、触れてはいけないことなのだと幼心にも気がついていた。
成長するにつれてアリシアは、サンドラとジェーンが置かれた状況を理解していく。
いつの頃からか2人の前ではアダムの話をしなくなっていた。
父親に顧みられないジェーンに、父親とのことを聞かせてはいけないと思ったのだ。
サンドラが寝付くようになった頃、木戸の向こうの家が建てられた経緯と、そこで1人過ごしていた女性の話を聞いた。
サンドラにとっては父親の愛人である。
サンドラは、「あの家がそんな哀しい場所ではなくて、子どもたちが笑い合う場所になって嬉しいわ」と笑っていたけれど、アリシアはその女性とサンドラを重ねていた。
確かにサンドラは正妻である。
住んでいるのも本邸だ。
だけど帰ってこない夫を待っているサンドラは、旦那様の訪れを待つ愛人と何が違うのだろうか。
あの家に住んでいた女性には訪れる友人も、出掛けて行くところもなく孤独だったという。
サンドラにはアリシアたちがいる。
だけどアリシアたちの他に訪ねてくる人の話を聞いたことはなかった。
サンドラが出掛けるのも、ルトビア公爵家の集まりの他は侯爵家としてどうしても外せない集まりだけだ。
それも本当は当主であるデミオンが出席するべきもので、務めを果たさないデミオンの代理だった。
にこやかに言葉を交わしながら、陰で悪く言われていたのを知っている。
正妻も愛人も関係ない。
結局はより愛された方が勝ちなのだ。
デミオンと初めて会ったのは、サンドラが亡くなった後だ。
同時にその愛人と、愛人が生んだ娘と会うことになった。
サンドラの生家で我が物顔に振舞い、ジェーンを邪険に扱う彼らを醜悪な生き物だと思った。
その後、レイヴンのパートナーとして社交界に出るようになると、様々な噂話を聞くことになった。
その中でアリシアはサンドラの置かれていた状況が決して珍しいことではないのだと知った。
政略結婚で結ばれる貴族たちは、本当に愛する者を愛人にする。
嫁いだ先の新居に夫の愛人である侍女がいて白い結婚を続けている夫人や、婿入りした夫が子どもが出来た途端、囲った愛人の家に移ってしまった夫人の話を聞いた。
本当に愛されて大切にされるのは正妻ではなく愛人なのではないか。
アリシアはそう思うようになっていた。
だけど公爵令嬢であるアリシアが誰かの愛人になることなどできない。
そんな時、レイヴンの言葉が思い出された。
レイヴンは婚約者らしく、王太子妃らしく振舞っていれば、ずっと王太子妃として扱ってくれるという。
愛情なんてなくても尊厳を守ってくれる。
アリシアはそこに救いを見つけたのだ。
「私は愛というものが怖いのです」
アリシアがそう言うと、レイヴンの体がびくっと震えた。
「愛されない正妻は不幸です。夫に蔑ろにされ、愛人に蔑まれ、世間の人には嗤われる。そんな生活は耐えられません」
「…アリシア?」
レイヴンは結婚に愛情は必要ないと言った。
レイヴンはアリシアを愛さないけれど、アリシアもレイヴンを愛さなくていい。
そういう「約束」だったはずだ。
「婚約者として相応しく振舞っていれば、婚約者として扱って下さると仰いました。それは王太子妃として相応しく振舞っていれば王太子妃として扱って下さるということです。私はその言葉に縋りました。愛されていなくても、愛していなくても、私は王太子妃として相応しく振舞っている限り、王太子妃として扱っていたただける。尊厳は守っていただけるのだと信じました。だからレイヴン様の元へ嫁いだのです。他の方なんて考えられませんでした」
そこに愛情などはなく、打算しかなかった。
「レイヴン様はいずれ側妃を迎えられます。側妃は私とは違い、レイヴン様が選んで迎えられる方です。愛情はそちらの方へ注がれるでしょう。ですがレイヴン様は私を粗雑には扱わない。正妃として扱って下さる。その約束が私をどれだけ安心させてくれていたか」
「側妃を迎えるつもりなんてない。迎えないよ、アリシア」
レイヴンの声は震えていてアリシアに縋るようだ。
「今はそのつもりでも、先のことはわかりませんでしょう?私がレイヴン様を愛して、その後レイヴン様の御心が他の方に移ったら、私はどうすればいいのですか?ここでお帰りにならないレイヴン様をずっと1人で待っているなんて私には無理です。耐えられません」
アリシアには耐えられない。
だけどレイヴンなら耐えられるというのか。
アリシアを愛しているというレイヴンは、アリシアがマルセルを想っている時、一言も責めずにいてくれた。
アリシアは初めからマルセルへの想いは一時的なものだと思っていた。
だからマルセルと想いを交わしたいと思ったことはない。
マルセルはアリシアに将来の安定を、安心をくれるわけじゃない。
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