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第十二話 見果てぬ夢
④日高、奈津子と十余年振りに再会する
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日高達夫が地下鉄渋谷駅の階段を上がって道玄坂通りに歩を踏み出すと、陰気な小雨が止むことなく降っていた。
日高は買い物が嫌いだった。品物を選ばなければならないのが嫌だった。金やクレジットカードをやり取りするのが面倒だったし、店員の慇懃な態度も嫌だった。
彼は総合書店のショウ・ウインドウを覗き込んだ。
と、偶然、地下鉄の階段を上がって来た彼女の姿が眼に入った。
鳩尾の辺りで何かが疼いた。と同時に、恋の終わりの惨めさを噛み締めていた夜の記憶が甦った。あの夜、日高は、雪の降り頻る街を、肩を窄めて彷徨ったのだった。
今、彼女は赤い傘を少し上に傾げて歩いて来る。久方振りに見る彼女の顔は肉がついてやや丸味を帯びているし、眼尻にも小さな皺が見て取れるようである。が、歩き方は以前と変わらなかった。多くの長身の女性と同じように、僅かに上体を前に傾げた独特の姿勢である。頭にはスカーフを巻き、昔と同じように、何か考え事に耽って居るかのような真面目な表情を浮かべて、雨を避けつつ店舗の軒の下を歩きながら、彼女は真直ぐに日高の方へ向かって来た。
「奈津子・・・」
静かに声をかけると、彼女は顔を上げて此方を見た。不審そうに目を細く眇めている。細長い瓜実顔。
ジーン・パンツを履いていなくても、Tシャツを着ていなくても、彼女には俺と判るだろうか、と日高は思った。
暫しの後、彼女の眼がぱっと輝いた。
「日高さん!」
「やあ、久し振りだな」
嬉しさと同時に、何となく子供に還ったような気恥しさを、彼は覚えた。
「驚いたわ、達夫さんじゃないの。こんな所で何をしているの?」
「百貨店に行くところなんだ、家具を買いにね。今度、この近くにマンションを借りたものだから」
「まあ、良いわね。あなたが成功して独立したって話は、私も風の便りに聞いていたわ」
「なあに、所詮、仕事は仕事さ。他の仕事と変わりが有る訳じゃない。君はこれから何処へ?」
「子供服の専門店へ行くところなの。うちの子の洋服を買いに、ね」
「じゃ、コーヒーでも一杯付き合わないか?」
一瞬、彼女は躊躇って、思案顔をした。
が、直ぐに応諾の返事をした。
「ええ、良いわ」
日高は奈津子の右側に立ち、彼女から折り畳みの小さな傘を受け取って雨の中に踏み出した。確かこの通りを曲がった処に小さなレストランが在った筈だ、其処へ向かうことにした。
奈津子が緊張して身体を縮じ込ませている気配が感じとれる。彼はなるべく身体が触れないように注意した。
彼女は俺と同じ歳だから、今、三十六歳になっている筈だな、と日高は思った。最後に逢ったのは、お互いが二十四歳の時だった。ということは、これまで過ごして来た人生の、丁度、三分の一を隔てて再会したことになる。
「君は今、何処に住んでいるんだい?」
「世田谷の等々力よ。五年前に其処に家を買ったの。今じゃ三人の子供の母親なのよ、わたし」
「男の子?それとも女の子?」
「全部女なの」
奈津子が恥ずかしそうに笑った。
「一番下が未だ七カ月でね」
「ほう、可愛いだろうな。然し、そんな乳飲み子が居るんじゃ外出は大変だろうな?」
「ええ、でも、今日は実家の両親が来てくれているし、夫も早く帰って来る予定なの。あなたの方は?」
「男の子と女の子、一人ずつだ」
「じゃあ、奥さん、きっと満足でしょうね、両方のお子さんで」
「女房とは別れたんだ」
「まあ」
彼女は傘の下から日高を見上げた。
「ごめんなさい、わたし、知らなかったものだから」
二人は黙って次の通りの角を曲がった。が、彼の記憶に有ったレストランは消えていた。
丁度、五、六軒先に在るコーヒー・ショップの看板が眼に入ったので、彼は奈津子と一緒に少し歩調を速めて其方の方へ足を進めた。
日高は買い物が嫌いだった。品物を選ばなければならないのが嫌だった。金やクレジットカードをやり取りするのが面倒だったし、店員の慇懃な態度も嫌だった。
彼は総合書店のショウ・ウインドウを覗き込んだ。
と、偶然、地下鉄の階段を上がって来た彼女の姿が眼に入った。
鳩尾の辺りで何かが疼いた。と同時に、恋の終わりの惨めさを噛み締めていた夜の記憶が甦った。あの夜、日高は、雪の降り頻る街を、肩を窄めて彷徨ったのだった。
今、彼女は赤い傘を少し上に傾げて歩いて来る。久方振りに見る彼女の顔は肉がついてやや丸味を帯びているし、眼尻にも小さな皺が見て取れるようである。が、歩き方は以前と変わらなかった。多くの長身の女性と同じように、僅かに上体を前に傾げた独特の姿勢である。頭にはスカーフを巻き、昔と同じように、何か考え事に耽って居るかのような真面目な表情を浮かべて、雨を避けつつ店舗の軒の下を歩きながら、彼女は真直ぐに日高の方へ向かって来た。
「奈津子・・・」
静かに声をかけると、彼女は顔を上げて此方を見た。不審そうに目を細く眇めている。細長い瓜実顔。
ジーン・パンツを履いていなくても、Tシャツを着ていなくても、彼女には俺と判るだろうか、と日高は思った。
暫しの後、彼女の眼がぱっと輝いた。
「日高さん!」
「やあ、久し振りだな」
嬉しさと同時に、何となく子供に還ったような気恥しさを、彼は覚えた。
「驚いたわ、達夫さんじゃないの。こんな所で何をしているの?」
「百貨店に行くところなんだ、家具を買いにね。今度、この近くにマンションを借りたものだから」
「まあ、良いわね。あなたが成功して独立したって話は、私も風の便りに聞いていたわ」
「なあに、所詮、仕事は仕事さ。他の仕事と変わりが有る訳じゃない。君はこれから何処へ?」
「子供服の専門店へ行くところなの。うちの子の洋服を買いに、ね」
「じゃ、コーヒーでも一杯付き合わないか?」
一瞬、彼女は躊躇って、思案顔をした。
が、直ぐに応諾の返事をした。
「ええ、良いわ」
日高は奈津子の右側に立ち、彼女から折り畳みの小さな傘を受け取って雨の中に踏み出した。確かこの通りを曲がった処に小さなレストランが在った筈だ、其処へ向かうことにした。
奈津子が緊張して身体を縮じ込ませている気配が感じとれる。彼はなるべく身体が触れないように注意した。
彼女は俺と同じ歳だから、今、三十六歳になっている筈だな、と日高は思った。最後に逢ったのは、お互いが二十四歳の時だった。ということは、これまで過ごして来た人生の、丁度、三分の一を隔てて再会したことになる。
「君は今、何処に住んでいるんだい?」
「世田谷の等々力よ。五年前に其処に家を買ったの。今じゃ三人の子供の母親なのよ、わたし」
「男の子?それとも女の子?」
「全部女なの」
奈津子が恥ずかしそうに笑った。
「一番下が未だ七カ月でね」
「ほう、可愛いだろうな。然し、そんな乳飲み子が居るんじゃ外出は大変だろうな?」
「ええ、でも、今日は実家の両親が来てくれているし、夫も早く帰って来る予定なの。あなたの方は?」
「男の子と女の子、一人ずつだ」
「じゃあ、奥さん、きっと満足でしょうね、両方のお子さんで」
「女房とは別れたんだ」
「まあ」
彼女は傘の下から日高を見上げた。
「ごめんなさい、わたし、知らなかったものだから」
二人は黙って次の通りの角を曲がった。が、彼の記憶に有ったレストランは消えていた。
丁度、五、六軒先に在るコーヒー・ショップの看板が眼に入ったので、彼は奈津子と一緒に少し歩調を速めて其方の方へ足を進めた。
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