61 / 104
第六話 三十路の女ともだち
②理恵の恋人、新劇俳優の細川崇
しおりを挟む
その時、ティールームの入口に一人の男が立って店内を見回した。
何処かで観たことがある顔だと早希は思ったが、愕いたことに、理恵が男に向かって手を挙げた。
「此処よ!」
男が近づいて来て理恵の隣に腰掛けた。
「紹介するわ、細川崇さん。新劇俳優だけど、テレビにも出ているから、早希も知っているでしょう?」
番組の名前を言われて早希は頷いた。道理で、何処かで観た顔だと思った訳である。
「私の親友の笹本早希さん」
細川が眼元に微笑を湛えた。
「今日はお知合いの結婚式だったそうで、何はともあれ、お疲れさまでした」
話す声の響きがテレビで訊いた声と同じだった。
理恵が本音とも取れる感想を漏らした。
「結婚式もこの歳になると心が浮き立つことも無く、何か複雑な気分なのよね・・・それより、あなた、コーヒー、飲む?」
細川が、否、と言うように首を横に振った。
「東京へ帰ってから飲みましょうよ」
理恵と早希を待たせておいて、細川は駐車場から車を出して来た。洒落た欧州車だった。細川が後部のドアを開けて、女性二人を乗せた。
「あなた、前でなくて良いの?」
早希がそっと囁いたが、理恵は含み笑いを貌に滲ませただけで、何も言わなかった。
道路は暗く、空いていた。両側は丘や田畑や木立ばかりであった。
東京からの長い道程を、彼は、わざわざ理恵を迎える為だけに、車を飛ばして来たのだろうか?とすれば、二人の仲は相当に格別なものと考えなければならない・・・
これまで、理恵の口から彼の名前を聞いたことは無かった。尤も、ここ暫く、理恵とは電話で話しただけで、直接逢うのは久し振りであった。
「早希はね、喫茶店を経営しているのよ。彼女の店、コーヒーがとても美味しいの」
後部座席から理恵が細川に言った。
「じゃ、今から行きましょうか?」
「十時で閉店。第一、今日はお休みなの」
理恵の言う通り、今日は臨時休業だった。店には佐倉と言うマスターが居るが、彼の日頃の仕事振りを労って休みを取って貰い、偶の休業ということにしたのである。佐倉は早希が店を始めた時に父親の知人の紹介でやって来た初老の紳士であるが、信頼出来る実直な人柄で彼女はこれまで何でも彼に相談して来た。
五年前、早希が喫茶店を開いて独り立ちで人生を生き直そうと決心した時、マンションや店舗、資金や税理士などは父親が用意してくれたが、経営のノウハウやスキルなどは自分で身につけなければならなかった。彼女は一年間、専門スクールへ通ってカフェオーナーになる為の技術や知識を学び、食品衛生責任者の資格も取得した。
カフェフードやドリンクのスキル、サービストレーニングなどはマスターの佐倉が担ってくれた。来店者のニーズをしっかり掴み取り、リピートして貰えるサービスやメニューを常に佐倉と一緒に追求して考案し、今では安定した集客を確保出来ている。
カフェオーナーには、来店者がどんな空間やサービスを求めているかを速やかに察知し、それを形にして行くマーケティング力やプロデュース力が必要だったし、心のこもった接客力は佐倉が発揮してくれた。彼はカジュアルでベーシックな焼き菓子や副材料を組み合わせたオリジナルな商品とそのアレンジ、或は、テイクアウト&イートインに対応出来るドリンクの提供など、ベイク・カフェと言う新しい店舗経営や仕組みをも提案してくれた。佐倉はまた、生豆選びから焙煎を通して、焙煎度に合わせた最適な抽出技術を駆使して拘りの一杯を提供出来る技術も持ち合わせていた。早希はカフェ=コーヒーと言う概念に捉われず、紅茶、日本茶、中国茶など世界のコーヒーやティーの幅と個性を理解し、原材料から抽出方法、顧客が感じる味に至るまでのクオリティを彼から教わった。
早希はドリンクを中心にした店の経営基盤や空間造りやサービスをプランニングし、多様化するニーズに対応出来るカフェ造りを目指して、長く愛され続ける為の付加価値を追求して来た。
「わたし、適当な処で降ろして貰えれば、タクシーで帰るから・・・」
二人の邪魔になるような気がして早希がそう言うと、理恵が愉快そうに笑い飛ばした。
「何、僻んでいるの、ちゃんとマンションまで送るわよ」
細川もちょっと振り向いて、言った。
「ご心配無く、僕は車の運転は大好きですから」
仕事が終わった後、宛ても無く、車を走らせる、と彼は言った。
「昔はよく羽田や横浜まで走ったもんです、ええ」
「この人の運転は実に気持が良いのよ。スピード狂じゃないから安心して居らっしゃい」
確かに、車も良いのだろうが、運転も安定していて乗り心地は頗る良かった。
一日の疲れが出て、早希はクッションに凭れて眼を閉じた。その方が、理恵が細川と話し易いだろうと思ったのだが、理恵はあまり口を利かず、時折、細川の世間話に鬱としそうな返事をした。
成田空港から青山まで凡そ一時間半ほどだった。
「良いマンションですね」
早希を降ろしながら細川は十一階建てのマンションを見上げた。
早希が入居した時に新築分譲だったので、もう五年も前の建物であるが、父親の勤める大手ゼネコンの建築なのでがっしりとした余裕のある造作だった。住み心地は抜群で退去者は殆どいなかった。一階は広い喫茶店と美容室、それにファッションサロンが入って居る。喫茶店は早希の店で、美容室とファッションサロンはテナントだった。
翌朝、早希が目覚めたのは七時過ぎだった。
目覚まし時計はセットしてあったが、習慣で、いつもベルが鳴る前に起きてしまう。テラスには昨日より暖かい朝の陽が射していた。
マンションの隣は大邸宅であった。庭が広く花の咲く樹が何本も在った。三階に在る早希の部屋のテラスから最も近い樹はソメイヨシノだった。もうかなり蕾が膨らんでいる。その向こうに在る八重桜の開花は未だ未だ先のようであった。
池の向こうに些か古い洋館が建っていた。ゆったりとした感じの良い住居だったが、隣にマンションが出来て、庭も家もすっかり見通されてしまうのが住人にとっては不愉快なことであったろう。
何処かで観たことがある顔だと早希は思ったが、愕いたことに、理恵が男に向かって手を挙げた。
「此処よ!」
男が近づいて来て理恵の隣に腰掛けた。
「紹介するわ、細川崇さん。新劇俳優だけど、テレビにも出ているから、早希も知っているでしょう?」
番組の名前を言われて早希は頷いた。道理で、何処かで観た顔だと思った訳である。
「私の親友の笹本早希さん」
細川が眼元に微笑を湛えた。
「今日はお知合いの結婚式だったそうで、何はともあれ、お疲れさまでした」
話す声の響きがテレビで訊いた声と同じだった。
理恵が本音とも取れる感想を漏らした。
「結婚式もこの歳になると心が浮き立つことも無く、何か複雑な気分なのよね・・・それより、あなた、コーヒー、飲む?」
細川が、否、と言うように首を横に振った。
「東京へ帰ってから飲みましょうよ」
理恵と早希を待たせておいて、細川は駐車場から車を出して来た。洒落た欧州車だった。細川が後部のドアを開けて、女性二人を乗せた。
「あなた、前でなくて良いの?」
早希がそっと囁いたが、理恵は含み笑いを貌に滲ませただけで、何も言わなかった。
道路は暗く、空いていた。両側は丘や田畑や木立ばかりであった。
東京からの長い道程を、彼は、わざわざ理恵を迎える為だけに、車を飛ばして来たのだろうか?とすれば、二人の仲は相当に格別なものと考えなければならない・・・
これまで、理恵の口から彼の名前を聞いたことは無かった。尤も、ここ暫く、理恵とは電話で話しただけで、直接逢うのは久し振りであった。
「早希はね、喫茶店を経営しているのよ。彼女の店、コーヒーがとても美味しいの」
後部座席から理恵が細川に言った。
「じゃ、今から行きましょうか?」
「十時で閉店。第一、今日はお休みなの」
理恵の言う通り、今日は臨時休業だった。店には佐倉と言うマスターが居るが、彼の日頃の仕事振りを労って休みを取って貰い、偶の休業ということにしたのである。佐倉は早希が店を始めた時に父親の知人の紹介でやって来た初老の紳士であるが、信頼出来る実直な人柄で彼女はこれまで何でも彼に相談して来た。
五年前、早希が喫茶店を開いて独り立ちで人生を生き直そうと決心した時、マンションや店舗、資金や税理士などは父親が用意してくれたが、経営のノウハウやスキルなどは自分で身につけなければならなかった。彼女は一年間、専門スクールへ通ってカフェオーナーになる為の技術や知識を学び、食品衛生責任者の資格も取得した。
カフェフードやドリンクのスキル、サービストレーニングなどはマスターの佐倉が担ってくれた。来店者のニーズをしっかり掴み取り、リピートして貰えるサービスやメニューを常に佐倉と一緒に追求して考案し、今では安定した集客を確保出来ている。
カフェオーナーには、来店者がどんな空間やサービスを求めているかを速やかに察知し、それを形にして行くマーケティング力やプロデュース力が必要だったし、心のこもった接客力は佐倉が発揮してくれた。彼はカジュアルでベーシックな焼き菓子や副材料を組み合わせたオリジナルな商品とそのアレンジ、或は、テイクアウト&イートインに対応出来るドリンクの提供など、ベイク・カフェと言う新しい店舗経営や仕組みをも提案してくれた。佐倉はまた、生豆選びから焙煎を通して、焙煎度に合わせた最適な抽出技術を駆使して拘りの一杯を提供出来る技術も持ち合わせていた。早希はカフェ=コーヒーと言う概念に捉われず、紅茶、日本茶、中国茶など世界のコーヒーやティーの幅と個性を理解し、原材料から抽出方法、顧客が感じる味に至るまでのクオリティを彼から教わった。
早希はドリンクを中心にした店の経営基盤や空間造りやサービスをプランニングし、多様化するニーズに対応出来るカフェ造りを目指して、長く愛され続ける為の付加価値を追求して来た。
「わたし、適当な処で降ろして貰えれば、タクシーで帰るから・・・」
二人の邪魔になるような気がして早希がそう言うと、理恵が愉快そうに笑い飛ばした。
「何、僻んでいるの、ちゃんとマンションまで送るわよ」
細川もちょっと振り向いて、言った。
「ご心配無く、僕は車の運転は大好きですから」
仕事が終わった後、宛ても無く、車を走らせる、と彼は言った。
「昔はよく羽田や横浜まで走ったもんです、ええ」
「この人の運転は実に気持が良いのよ。スピード狂じゃないから安心して居らっしゃい」
確かに、車も良いのだろうが、運転も安定していて乗り心地は頗る良かった。
一日の疲れが出て、早希はクッションに凭れて眼を閉じた。その方が、理恵が細川と話し易いだろうと思ったのだが、理恵はあまり口を利かず、時折、細川の世間話に鬱としそうな返事をした。
成田空港から青山まで凡そ一時間半ほどだった。
「良いマンションですね」
早希を降ろしながら細川は十一階建てのマンションを見上げた。
早希が入居した時に新築分譲だったので、もう五年も前の建物であるが、父親の勤める大手ゼネコンの建築なのでがっしりとした余裕のある造作だった。住み心地は抜群で退去者は殆どいなかった。一階は広い喫茶店と美容室、それにファッションサロンが入って居る。喫茶店は早希の店で、美容室とファッションサロンはテナントだった。
翌朝、早希が目覚めたのは七時過ぎだった。
目覚まし時計はセットしてあったが、習慣で、いつもベルが鳴る前に起きてしまう。テラスには昨日より暖かい朝の陽が射していた。
マンションの隣は大邸宅であった。庭が広く花の咲く樹が何本も在った。三階に在る早希の部屋のテラスから最も近い樹はソメイヨシノだった。もうかなり蕾が膨らんでいる。その向こうに在る八重桜の開花は未だ未だ先のようであった。
池の向こうに些か古い洋館が建っていた。ゆったりとした感じの良い住居だったが、隣にマンションが出来て、庭も家もすっかり見通されてしまうのが住人にとっては不愉快なことであったろう。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑
岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。
もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。
本編終了しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる