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第五話 恋未練
①常連客の細田慎一
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午前一時を過ぎて、四条花見小路界隈には空車のタクシーに乗り込む酔客が右往左往していた。千鳥足で手を挙げる客、アベックで乗り込む客、大声で空車を呼び止める男連れの客、店が終ってアフターで客と出て来たホステスなどなど街は未だ未だ不夜城の観を呈していた。
花見小路を一筋上がった瀟洒なホワイトビルの一階に在るダイニングバー「純」はそろそろ閉店の時刻を迎えていた。カウンター席で常連客の細田慎一だけが独り水割りを啜っていた。
「俺はこの終い湯の感じが好きなんだ」
「何言っているのよ、お風呂じゃあるまいし」
「閉店間際になると、一人ずつ減って行って最後は俺だけになる。銭湯もバーも同じだよ。今もどんどんグラスが下げられて残って居るのは俺のだけ」
「訳の解らないことを言って居ないで、そろそろ帰りましょう」
純子ママはグラスを洗っている遅番の女の娘に声を掛けた。
「圭ちゃん、もう良いから帰って頂戴」
女の娘の勤務は一時迄であった。
「ご苦労さま」
純子ママが言うと、女の娘は手を洗って帰り支度を始めた。
純子ママは女の娘を帰した後、伝票を帳簿に挟んで手提げカバンに収めた。
「さあ、あなたもそろそろ帰った方が良いんじゃないの」
「うん・・・」
「新婚ほやほやなんでしょう、奥さんが待って居るわよ」
慎一が結婚したのは三か月前のことである。
「うん・・・あのう、俺、ちょっとママに話したいことが有るんだけど・・・」
「うん?」
「聞いてくれるかな?」
純子ママは水割りを作り、ピザパイを一つレンジで温めて、慎一の横に腰掛けた。
純子ママは小腹が空いていた。パイを一つ摘まんでから慎一に訊いた。
「話って何よ?」
慎一は少し困った顔をし、躊躇いながら言った。
「俺、やっぱり失敗したと思ってね」
「何を?」
「結婚・・・」
純子ママは咥えかけたタバコを手に持ち直して慎一を見た。
「あなた未だ、新婚三か月なんでしょう?」
「うん」
「奥さんと、好きで結婚したんでしょう?」
「まあ、そうだけど・・・」
純子ママは慎一の友人である上田健二から慎一の奥さんのことを聞いて知っていた。
健二は言ったのだった。
「彼女の実家は、神戸で手広く貿易商をやっていて、かなりの金持らしいんだ」
「へえ~、そうなの」
「あいつは会社の管理本部長に紹介されて交際い出し、その後、結婚したらしいよ」
慎一も、母親は家付き娘で父親は京都の大学教授、本人は一流商事会社の社員だから、先ずは似合いの結婚だと純子ママは思った。
「彼の奥さんは十人並み以上の容姿で、神戸の大学を出て、お茶とお花と料理が出来るということだよ」
花嫁としては申し分が無さそうであった。
「何か喧嘩でもしたの?」
「いや、別に・・・」
「どこか気に入らないところでもあるの?」
「いや」
「毎日ちゃんとあなたの世話をしてくれるんでしょう?」
「ああ・・・」
「じゃ、何も文句はないじゃないの?」
「うん」
「しっかりしなさいよ」
純子ママは慎一の膝を叩きながら、ふと、思い出した。
「あなた、まさか、あの娘が忘れられないんじゃないでしょうね」
「・・・・・」
「亜紀ちゃんを未だ好きなの?」
慎一は意を決したように顔を上げると、こっくりと頷いた。
「変な話だけど・・・」
「そうよ、おかしいわよ」
純子ママはごくりと水割りを一口呑んだ。
「だから、あの時、真実に亜紀ちゃんのことは良いの、って何度も聞いたでしょう?」
「はあ・・・」
慎一はただ頭を垂れているだけだった。
「今更、そんなことを言ったって駄目よ、もう遅いわ」
純子ママはまた水割りを呑んだが、噎せ返ってしまった。
花見小路を一筋上がった瀟洒なホワイトビルの一階に在るダイニングバー「純」はそろそろ閉店の時刻を迎えていた。カウンター席で常連客の細田慎一だけが独り水割りを啜っていた。
「俺はこの終い湯の感じが好きなんだ」
「何言っているのよ、お風呂じゃあるまいし」
「閉店間際になると、一人ずつ減って行って最後は俺だけになる。銭湯もバーも同じだよ。今もどんどんグラスが下げられて残って居るのは俺のだけ」
「訳の解らないことを言って居ないで、そろそろ帰りましょう」
純子ママはグラスを洗っている遅番の女の娘に声を掛けた。
「圭ちゃん、もう良いから帰って頂戴」
女の娘の勤務は一時迄であった。
「ご苦労さま」
純子ママが言うと、女の娘は手を洗って帰り支度を始めた。
純子ママは女の娘を帰した後、伝票を帳簿に挟んで手提げカバンに収めた。
「さあ、あなたもそろそろ帰った方が良いんじゃないの」
「うん・・・」
「新婚ほやほやなんでしょう、奥さんが待って居るわよ」
慎一が結婚したのは三か月前のことである。
「うん・・・あのう、俺、ちょっとママに話したいことが有るんだけど・・・」
「うん?」
「聞いてくれるかな?」
純子ママは水割りを作り、ピザパイを一つレンジで温めて、慎一の横に腰掛けた。
純子ママは小腹が空いていた。パイを一つ摘まんでから慎一に訊いた。
「話って何よ?」
慎一は少し困った顔をし、躊躇いながら言った。
「俺、やっぱり失敗したと思ってね」
「何を?」
「結婚・・・」
純子ママは咥えかけたタバコを手に持ち直して慎一を見た。
「あなた未だ、新婚三か月なんでしょう?」
「うん」
「奥さんと、好きで結婚したんでしょう?」
「まあ、そうだけど・・・」
純子ママは慎一の友人である上田健二から慎一の奥さんのことを聞いて知っていた。
健二は言ったのだった。
「彼女の実家は、神戸で手広く貿易商をやっていて、かなりの金持らしいんだ」
「へえ~、そうなの」
「あいつは会社の管理本部長に紹介されて交際い出し、その後、結婚したらしいよ」
慎一も、母親は家付き娘で父親は京都の大学教授、本人は一流商事会社の社員だから、先ずは似合いの結婚だと純子ママは思った。
「彼の奥さんは十人並み以上の容姿で、神戸の大学を出て、お茶とお花と料理が出来るということだよ」
花嫁としては申し分が無さそうであった。
「何か喧嘩でもしたの?」
「いや、別に・・・」
「どこか気に入らないところでもあるの?」
「いや」
「毎日ちゃんとあなたの世話をしてくれるんでしょう?」
「ああ・・・」
「じゃ、何も文句はないじゃないの?」
「うん」
「しっかりしなさいよ」
純子ママは慎一の膝を叩きながら、ふと、思い出した。
「あなた、まさか、あの娘が忘れられないんじゃないでしょうね」
「・・・・・」
「亜紀ちゃんを未だ好きなの?」
慎一は意を決したように顔を上げると、こっくりと頷いた。
「変な話だけど・・・」
「そうよ、おかしいわよ」
純子ママはごくりと水割りを一口呑んだ。
「だから、あの時、真実に亜紀ちゃんのことは良いの、って何度も聞いたでしょう?」
「はあ・・・」
慎一はただ頭を垂れているだけだった。
「今更、そんなことを言ったって駄目よ、もう遅いわ」
純子ママはまた水割りを呑んだが、噎せ返ってしまった。
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