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第五章 宮大工と二人連れ
第7話 母親の良枝が突然、病に倒れた
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だが、禍福は糾える縄の如し、人生一寸先は闇だった・・・
母親の良枝が突然、病に倒れた。未だ厳しい暑さの残る九月半ば、夫勝次の七回忌法要を終えた直後だった。
勝次が死んで丸六年、女手一つで娘の良美と二人、必死に孤軍奮闘、徒手空拳で踏ん張って生きて来たその緊張の糸がぷっつりと切れて、疲れが一度に噴き出たようだった。
そして、事態は切迫していた。
検査入院した病床で母親がさらりと告げた。
「十二指腸癌だって」
「えっ?お母さん、今、何て言ったの?」
「だから、十二指腸癌なのよ、余命半年だって」
「そんな・・・。手術で病巣を摘出することは出来ないの?」
「彼方此方にいっぱい転移していて駄目なんだって」
母親は何事も無かったかのように、さり気なく、然も、極めて気丈に振る舞っていた。良美の眼から見る間に涙がボロボロと零れ落ちた。
「お母さん・・・」
母親の良枝が良美の肩を引き寄せて、強く抱きしめた。
良枝は抗癌剤と放射線の治療を続けたが、十カ月後、脳にまで癌細胞が転移した彼女はもう起き上がることも出来なくなって、本格的な夏がやって来た七月半ばに、良美に手を握られ、亮介に付き添われて、天界へ旅立って行った。未だ五十歳を過ぎたばかりの短い生涯だった。
亮介が、嘆き悲しむ良美に代わって、埋葬の手配から葬儀の段取り、初七日の法要に至るまで万端を世話して取り仕切ってくれた。彼が居なければどうなっていたことか・・・。
火葬場で焼却されて小さな骨だけになった母親を見た瞬間、良美はその場にどぉっと泣き崩れた。
「これがお母さん?・・・」
家に帰った良美の胸を寂寥と孤独が襲った。居ても立っても居られない淋しい喪失感だった。これまで一度も感じたことの無い天界の果てに来たような淋しい気持に身体を包まれて、良美は声を立てて泣いた。だが、二階に三部屋、階下に四部屋も在る広い自宅には、良美の一人泣きに応えてくれる者は誰も居なかった。
悲嘆に打ちひしがれながらも、母親の四十九日法要を滞りなく済ませた良美はほっと一息ついた。だが、天涯孤独の寂寥感と母親を亡くした喪失感はより一層良美の胸を締め付けた。
咽び泣きながら、良美はボストンバッグ一つを抱えて家を出た。
季節はもう晩夏だったが、街は既に薄暗く、空は禍々しいほどに赤い色をした雲を残しながら夜になろうとしていた。
前触れもなく突然にマンションへやって来た良美を見て、亮介が心配顔を向けた。
「どうしたんだ?急に」
開けられたドアから崩れ落ちるように入って来た良美を亮介が両手で抱き留めて、リビングのソファーに座らせた。
「淋しくて堪らないの、ねえ、抱いて」
亮介は柔らかく良美の背中に手を回し、壊れ物にでも触るようにそっと抱き寄せた。
「私をあなたの奥さんにして下さい」
「えっ?何を言うんだ、藪から棒に・・・」
「きっと良い奥さんになるから」
うん、うん、解かった、解かった、と言うように二、三度頷くと、彼は良美の手を取って言った。
「一生懸命働いて、俺はお前を幸せにするぜ」
「うん」
「早く一人前の宮大工になって、きっと独り立ちするからな」
「うん」
広くて厚い胸板に顔を埋め乍ら、良美は、私が嫁になるのはこの人しか居ない、と思った。これまで胸の中に凝り固まっていた淋しさが少しずつ溶けて行くように思われた。替わりに胸を満たして来た安らぎ感に動かされて、良美は自分からひしと亮介にしがみ付いた。亮介も何も言わずに太い腕で力強く良美を抱きしめた。
暫くして身体を離した亮介が言った。
「お前はこれから一年間、お母さんの喪に服する期間だ。喪が明けるまでは俺たち互いに綺麗な躰で居ようぜ、な」
喪服期間中は結婚などの慶事は控えなければならない。それなら、より一層、身辺や生活を綺麗にして、世間から白い眼で見られたり後ろ指を差されたりすることの無いように振る舞わなければならない。
「何しろお前はこれから、女の一人暮らしになるのだからな」
「世間体に縛られて一年間も過ごすなんて出来ないわ」
「そうじゃないよ。喪に服するのは、忌が明けて天国へ行かれたお母さんの魂が安らかに天界で落ち着けるように見守ってあげる為だ。淋しくなったら何時でもこうして会いに来れば良いじゃないか、な」
「うん」
頷いた良美が顔を上げると、茶碗や小鉢や小皿が並んだ食卓が見えた。亮介がこれから夕食を食べる段取りのようだった。
「一緒に食べよう、私が何か造るから暫く其処で待っていて、ね」
良美はやっと微笑を見せて立ち上がった。心が随分と軽くなっていた。
母親の良枝が突然、病に倒れた。未だ厳しい暑さの残る九月半ば、夫勝次の七回忌法要を終えた直後だった。
勝次が死んで丸六年、女手一つで娘の良美と二人、必死に孤軍奮闘、徒手空拳で踏ん張って生きて来たその緊張の糸がぷっつりと切れて、疲れが一度に噴き出たようだった。
そして、事態は切迫していた。
検査入院した病床で母親がさらりと告げた。
「十二指腸癌だって」
「えっ?お母さん、今、何て言ったの?」
「だから、十二指腸癌なのよ、余命半年だって」
「そんな・・・。手術で病巣を摘出することは出来ないの?」
「彼方此方にいっぱい転移していて駄目なんだって」
母親は何事も無かったかのように、さり気なく、然も、極めて気丈に振る舞っていた。良美の眼から見る間に涙がボロボロと零れ落ちた。
「お母さん・・・」
母親の良枝が良美の肩を引き寄せて、強く抱きしめた。
良枝は抗癌剤と放射線の治療を続けたが、十カ月後、脳にまで癌細胞が転移した彼女はもう起き上がることも出来なくなって、本格的な夏がやって来た七月半ばに、良美に手を握られ、亮介に付き添われて、天界へ旅立って行った。未だ五十歳を過ぎたばかりの短い生涯だった。
亮介が、嘆き悲しむ良美に代わって、埋葬の手配から葬儀の段取り、初七日の法要に至るまで万端を世話して取り仕切ってくれた。彼が居なければどうなっていたことか・・・。
火葬場で焼却されて小さな骨だけになった母親を見た瞬間、良美はその場にどぉっと泣き崩れた。
「これがお母さん?・・・」
家に帰った良美の胸を寂寥と孤独が襲った。居ても立っても居られない淋しい喪失感だった。これまで一度も感じたことの無い天界の果てに来たような淋しい気持に身体を包まれて、良美は声を立てて泣いた。だが、二階に三部屋、階下に四部屋も在る広い自宅には、良美の一人泣きに応えてくれる者は誰も居なかった。
悲嘆に打ちひしがれながらも、母親の四十九日法要を滞りなく済ませた良美はほっと一息ついた。だが、天涯孤独の寂寥感と母親を亡くした喪失感はより一層良美の胸を締め付けた。
咽び泣きながら、良美はボストンバッグ一つを抱えて家を出た。
季節はもう晩夏だったが、街は既に薄暗く、空は禍々しいほどに赤い色をした雲を残しながら夜になろうとしていた。
前触れもなく突然にマンションへやって来た良美を見て、亮介が心配顔を向けた。
「どうしたんだ?急に」
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「淋しくて堪らないの、ねえ、抱いて」
亮介は柔らかく良美の背中に手を回し、壊れ物にでも触るようにそっと抱き寄せた。
「私をあなたの奥さんにして下さい」
「えっ?何を言うんだ、藪から棒に・・・」
「きっと良い奥さんになるから」
うん、うん、解かった、解かった、と言うように二、三度頷くと、彼は良美の手を取って言った。
「一生懸命働いて、俺はお前を幸せにするぜ」
「うん」
「早く一人前の宮大工になって、きっと独り立ちするからな」
「うん」
広くて厚い胸板に顔を埋め乍ら、良美は、私が嫁になるのはこの人しか居ない、と思った。これまで胸の中に凝り固まっていた淋しさが少しずつ溶けて行くように思われた。替わりに胸を満たして来た安らぎ感に動かされて、良美は自分からひしと亮介にしがみ付いた。亮介も何も言わずに太い腕で力強く良美を抱きしめた。
暫くして身体を離した亮介が言った。
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「うん」
頷いた良美が顔を上げると、茶碗や小鉢や小皿が並んだ食卓が見えた。亮介がこれから夕食を食べる段取りのようだった。
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