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第二章 運命の賜物
第1話 小高雄一、大学のクラス会に出席する
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小高雄一はタクシーを降りた。
仲秋の十月初め、少しひんやりとした夕闇の中に、数人の男女がギャラリーの入口辺りに集まっていた。
小高は頬から顎にかけて黒い髭を蓄えた男に会釈をしたが、その男の名前は思い出せなかった。男が話している連中の前を通り過ぎてギャラリーの中へ足を踏み入れると、中は既に人で一杯だった。受付で名簿にチェックを入れた小高が、「京都河原町画廊」の壁に架かっている巨大な黄色いキャンバス越しに見渡した時、壁際で茶色いスーツ姿の男と話している徳田洋子を見かけて、思わずハッと息を吐いた。
「おい、小高じゃないか」
声がして振り向くと、面長の男が眼を瞬いて立っていた。
「奥村か?奥村直久だな」
小高がそう言って微笑みかけると、奥村が右手を差し出し、二人は互いの手を握り合った。
「いやあ、久し振りだなぁ、元気だったのか?」
「うん、有難う。今夜は皆、揃って居るぞ、京都芸術大学の仲間たちが、な」
「ああ、三年振りだもんな、クラス会は」
「そうだな。三年に一度の開催で今年が三回目だから、卒業してもう九年も経った訳だ、月日の経つのは早いもんだな。先ほど、日下に逢ったんだが彼も感慨深げにそう言っていたよ」
それから、口調を変えて奥村が静かに訊いた。
「小高、お前と逢うのは六年振りだが、その後、どうしていたんだ?」
「特に変わったことは無いよ、例のスタジオは其の侭在るし・・・」
そう言いながら小高は煙草を取り出したが、一瞬、喫うのを思い留まって、また胸のポケットへ仕舞い込んだ。
「この展覧会は画廊を一儲けさせそうだな」
奥村が応えた。
「うん、そうだな。かなりの作品に売約済みの赤札が着いて居るもんな」
「全部売り切れちゃうかも知れないぞ。描いた作家は早々に引退して優雅な生活を送るってとこか・・・」
「ところで、徳田洋子にはもう会ったのか?」
それを聞いた瞬間、もう何年もの間封印して来たあることが蘇って、小高の表情が忽ち暗く曇った。
「先ほど、ちょっと見かけたよ。未だ話してないけどね」
「彼女はなかなか辣腕にこの画廊を経営しているらしいぞ。絵を描くのはからっきし駄目だったが、経営にかけてはタフなようだな」
奥村が続けた。
「タフって言う意味は、クライアントに対して、ということだぞ。だから、絵描きにとってはなかなか良いってことだ。俺の作品も彼女に売って貰いたいもんだよ。そうしたら学校の美術教師なんかしないで済むだろうからな」
ライトブルーのジャケットに身を包んだ若い女性が人をかき分けるようにして此方に向かって来ると、奥村はその女性の長い黒髪に触れながら向きを変えて行ってしまった。小高は画廊の壁に架かる黄色いキャンバスを眼の端の方で眺めながら、いつの間にか、壁の隅の方に押し流されていた。
その時、小高は、京都西郊の桂坂に在ったモダンなマンション風の学生寮で、皆と一緒に暮らしていた頃のことを思い出した。
その寮は京都芸術大学から二十分程の処に在った。彼は人体のディテールを描くとずば抜けて巧かったし、絵が滅茶苦茶に大好きな子供だったので、好きこそものの上手なれ、難関の芸大美術学部に入学出来ていたのである。
小高の部屋は最上階の大きくて陽当たりの良い角に在り、廊下を隔てて奥村が居たし、その直ぐ下の階には徳田洋子が居て、一階には田口繁雄が住んでいた。それは、ワインとアートとジャズを観たり聴いたり飲んだりする為に通ったあのショット・バー「フレンド・ハート」の全盛期の頃のことであった。
あの年の徳田洋子のような、細い眉に色白の瓜実顔、傷一つ無いすべすべの肌、表現力豊かな笑窪の刻まれる口元、見るからに一目で魅せられる女性、そんな女性にそれまで小高は一度も出逢ったことが無かった。洋子は岡山の広い山林田畑を有する資産家の家に生まれ、乗馬とアートが趣味の育ちの良い女性だったが、何故か安価な学生寮に住まっていた。
後で親しくなってから小高が訊ねると、彼女はいとも簡潔明瞭に答えた。
「先ず部屋代が安かったし、近かったし、それに住人が皆、同じ大学の学生ばかりだったから安全で安心で気易かったのよ。入居の許可を貰った時は、ラッキー!って思ったわ」
入学後の二、三か月間は、廊下で擦れ違う度に、高価そうな皮製の画帳を小脇に、片手には本を抱えて、洋子は忙しく足早に動き回っていた。
最初は、小高が「やあ」と声を掛け、洋子が「こんにちわ」と答えた。
次に、小高が「今、何時?」と時間を尋ね、彼女がデッサン用の木炭を貸して欲しいと言って来た。
それから、小高は洋子の食料の買出しを手伝い、彼女はクラスの先生について小高に質問して来た。夏休みに帰省した時には彼にも故郷岡山の名産「マスカットきびだんご」を手土産に買って来てくれた。
そして、前期試験の終わった十月初めに、小高は洋子に、絵のモデルになって欲しい、と頼んだ。
「良いわよ、解ったわ」
そう言って、洋子はある金曜日の夜に小高の部屋にやって来てバスルームで裸になった。彼女は、小高が画用紙に手早く、だが少し緊張しながらスケッチをしている間も、恥じる様子も無く全裸のまま歩き回り、椅子に腰を下ろして本を読んだり、彼に話しかけたりした。その時、小高が彼女とした話は、彼も読まなくてはならないことになっていた二人の著名な批評家の絵画論であった。それは、モダニズムについてであり、イメージの終焉についてであり、絵画の平面性の勝利といったことであり、また、肖像芸術の否定についてなどと言った説であった。芸術大学の学生と言えば、その頃は、誰もがそんな抽象的な話ばかりしていたのである。
そして、モンクのジャズCDを聴きながら洋子は初めて小高のことを訊ねた。
「あなたは何処の出身なの?」
「僕は人家の屋根が混み合う街並みの低い京都の西陣で生まれ育ったんだ。両親は僕が生まれる二年前に石川県の小松から京都に移り住んだ。親父は大工職人で母親は病院の看護師。弟も妹も何方も絵が巧いから僕と同じように美大に入りたいと言っているよ」
洋子の方も彼女が育った岡山の街や金持の暮らしとかについて語った。小高にはピンと来ない世界の話だった。
「ねえ、絵が描き上がったら、一度あなたの街へ連れて行ってくれない?」
「ああ、良いよ、そうするとしよう」
小高は洋子をモデルにして合計二十枚のドローイングを完成した。そして、二人はベッドを共にした。
仲秋の十月初め、少しひんやりとした夕闇の中に、数人の男女がギャラリーの入口辺りに集まっていた。
小高は頬から顎にかけて黒い髭を蓄えた男に会釈をしたが、その男の名前は思い出せなかった。男が話している連中の前を通り過ぎてギャラリーの中へ足を踏み入れると、中は既に人で一杯だった。受付で名簿にチェックを入れた小高が、「京都河原町画廊」の壁に架かっている巨大な黄色いキャンバス越しに見渡した時、壁際で茶色いスーツ姿の男と話している徳田洋子を見かけて、思わずハッと息を吐いた。
「おい、小高じゃないか」
声がして振り向くと、面長の男が眼を瞬いて立っていた。
「奥村か?奥村直久だな」
小高がそう言って微笑みかけると、奥村が右手を差し出し、二人は互いの手を握り合った。
「いやあ、久し振りだなぁ、元気だったのか?」
「うん、有難う。今夜は皆、揃って居るぞ、京都芸術大学の仲間たちが、な」
「ああ、三年振りだもんな、クラス会は」
「そうだな。三年に一度の開催で今年が三回目だから、卒業してもう九年も経った訳だ、月日の経つのは早いもんだな。先ほど、日下に逢ったんだが彼も感慨深げにそう言っていたよ」
それから、口調を変えて奥村が静かに訊いた。
「小高、お前と逢うのは六年振りだが、その後、どうしていたんだ?」
「特に変わったことは無いよ、例のスタジオは其の侭在るし・・・」
そう言いながら小高は煙草を取り出したが、一瞬、喫うのを思い留まって、また胸のポケットへ仕舞い込んだ。
「この展覧会は画廊を一儲けさせそうだな」
奥村が応えた。
「うん、そうだな。かなりの作品に売約済みの赤札が着いて居るもんな」
「全部売り切れちゃうかも知れないぞ。描いた作家は早々に引退して優雅な生活を送るってとこか・・・」
「ところで、徳田洋子にはもう会ったのか?」
それを聞いた瞬間、もう何年もの間封印して来たあることが蘇って、小高の表情が忽ち暗く曇った。
「先ほど、ちょっと見かけたよ。未だ話してないけどね」
「彼女はなかなか辣腕にこの画廊を経営しているらしいぞ。絵を描くのはからっきし駄目だったが、経営にかけてはタフなようだな」
奥村が続けた。
「タフって言う意味は、クライアントに対して、ということだぞ。だから、絵描きにとってはなかなか良いってことだ。俺の作品も彼女に売って貰いたいもんだよ。そうしたら学校の美術教師なんかしないで済むだろうからな」
ライトブルーのジャケットに身を包んだ若い女性が人をかき分けるようにして此方に向かって来ると、奥村はその女性の長い黒髪に触れながら向きを変えて行ってしまった。小高は画廊の壁に架かる黄色いキャンバスを眼の端の方で眺めながら、いつの間にか、壁の隅の方に押し流されていた。
その時、小高は、京都西郊の桂坂に在ったモダンなマンション風の学生寮で、皆と一緒に暮らしていた頃のことを思い出した。
その寮は京都芸術大学から二十分程の処に在った。彼は人体のディテールを描くとずば抜けて巧かったし、絵が滅茶苦茶に大好きな子供だったので、好きこそものの上手なれ、難関の芸大美術学部に入学出来ていたのである。
小高の部屋は最上階の大きくて陽当たりの良い角に在り、廊下を隔てて奥村が居たし、その直ぐ下の階には徳田洋子が居て、一階には田口繁雄が住んでいた。それは、ワインとアートとジャズを観たり聴いたり飲んだりする為に通ったあのショット・バー「フレンド・ハート」の全盛期の頃のことであった。
あの年の徳田洋子のような、細い眉に色白の瓜実顔、傷一つ無いすべすべの肌、表現力豊かな笑窪の刻まれる口元、見るからに一目で魅せられる女性、そんな女性にそれまで小高は一度も出逢ったことが無かった。洋子は岡山の広い山林田畑を有する資産家の家に生まれ、乗馬とアートが趣味の育ちの良い女性だったが、何故か安価な学生寮に住まっていた。
後で親しくなってから小高が訊ねると、彼女はいとも簡潔明瞭に答えた。
「先ず部屋代が安かったし、近かったし、それに住人が皆、同じ大学の学生ばかりだったから安全で安心で気易かったのよ。入居の許可を貰った時は、ラッキー!って思ったわ」
入学後の二、三か月間は、廊下で擦れ違う度に、高価そうな皮製の画帳を小脇に、片手には本を抱えて、洋子は忙しく足早に動き回っていた。
最初は、小高が「やあ」と声を掛け、洋子が「こんにちわ」と答えた。
次に、小高が「今、何時?」と時間を尋ね、彼女がデッサン用の木炭を貸して欲しいと言って来た。
それから、小高は洋子の食料の買出しを手伝い、彼女はクラスの先生について小高に質問して来た。夏休みに帰省した時には彼にも故郷岡山の名産「マスカットきびだんご」を手土産に買って来てくれた。
そして、前期試験の終わった十月初めに、小高は洋子に、絵のモデルになって欲しい、と頼んだ。
「良いわよ、解ったわ」
そう言って、洋子はある金曜日の夜に小高の部屋にやって来てバスルームで裸になった。彼女は、小高が画用紙に手早く、だが少し緊張しながらスケッチをしている間も、恥じる様子も無く全裸のまま歩き回り、椅子に腰を下ろして本を読んだり、彼に話しかけたりした。その時、小高が彼女とした話は、彼も読まなくてはならないことになっていた二人の著名な批評家の絵画論であった。それは、モダニズムについてであり、イメージの終焉についてであり、絵画の平面性の勝利といったことであり、また、肖像芸術の否定についてなどと言った説であった。芸術大学の学生と言えば、その頃は、誰もがそんな抽象的な話ばかりしていたのである。
そして、モンクのジャズCDを聴きながら洋子は初めて小高のことを訊ねた。
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「僕は人家の屋根が混み合う街並みの低い京都の西陣で生まれ育ったんだ。両親は僕が生まれる二年前に石川県の小松から京都に移り住んだ。親父は大工職人で母親は病院の看護師。弟も妹も何方も絵が巧いから僕と同じように美大に入りたいと言っているよ」
洋子の方も彼女が育った岡山の街や金持の暮らしとかについて語った。小高にはピンと来ない世界の話だった。
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