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第五章 同級生、印刻師の菅原

⑫菅原の仕事は果々しくなかった

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 だが、菅原の仕事は果々しくなかった。相変わらず細かい小さな仕事ばかりで、是と言う仕事は何処からも貰えなかった。頑張っている由紀の為にも、独り立ちでやって行ける目鼻を早くつけたかった。しっかり打ち込める仕事がしたかった。
 菅原は考えていた。
今までと同じ世界で、岡本龍鳳と同じワールドで仕事をしていても駄目だ。個人が買ってくれる、持てば楽しくなるような、癒されて和むような新しい何かを創らなければ道は拓け無い。何かの賞を取るような高価で格式ばったものは必要無い。誰もが気軽に手にしてくれるようなもので良い。
 菅原はネットで検索し、電話帳を繰って、調べ始めた。
ふと気が引かれたのは、市民新聞に掲載された講習会の記事だった。それは「小枝遊印」と名付けられた印章に関するものだった。菅原の胸に、嘗て駆け出しの新米の頃に、指のリハビリに懸命に頑張る少女に贈る為に彫った祈念印のことが鮮明に思い出された。
 
 早速に菅原はその講習会に参加してみた。
講師は加藤和子と言う有名な印章彫刻師で、五十歳前後の和服の良く似合う女性だった。肩書には「市女職人の会理事」「市優秀技能者」「優秀技能者市長賞受賞」「市マイスター認定者」などが並んでいた。高校卒業後直ぐに印章彫刻師の父親に師事し、自然木の遊印を考案して実用新案を取得したということだった。
 菅原はメモを取り、映し出される写真を凝視して、熱心に聴講した。そして、終講後に講師控室の手前で彼女を捉まえた。
「先生、少しお話を伺いたいのですが」
菅原は自分の名刺を取り出して丁重に頭を下げた。
「(有)菅原印房 一級印刻師 菅原聖人」の名刺を一瞥した講師は、そうですか、では此方へどうぞ、と言って控室のドアを開けた。
勧められた椅子に腰掛けた菅原は早速に質問を始めた。
「お父さんが印章彫刻師の仕事をされていたのですか?」
「そうです。普通の街の判子屋で、柘とか象牙とか水牛などで彫っていました。でも私が師事して三、四年で父が倒れたんです。脳梗塞で右半身が痺れちゃって仕事が出来なくなりました。だから私の彫刻術はほぼ独学で習得したものです。そのお陰で、小枝遊印というオリジナルな判子が出来たのでしょうね。まともにやっていたら普通の判子屋さんから脱却出来なかったと思います」
「いつ頃、小枝を印章にしようと思いつかれたのですか?」
「職人展に出た時だから、十年くらい前ですね。機械彫りが一般的だったので、何か無いかなあ、と思って。そしたら、職人展でお客様から、お茶の木で判子作ったよ、って言われましてね。それで主人に山から茶の木を伐って来て貰って判子を作ってみたら、良いのが出来て、面白くなって来ちゃって・・・」
「はあ」
「最初は字だけ彫っていましたの、形が面白くてね。でも、私の干支が申だったので、猿がシンバルを叩いているのを早速作ってみたんですよ。そしたら可愛くてね、店頭に並べてみたらお客様が、これ欲しい、って好評を得ましたの。更に、これに名前を入れて貰えたらもっと良いんじゃないか、ってまたお客様から言われてね。ですから、私の作品はお客様のアイディアから生まれたんですよ」
「印章の創り方を教えて頂いて宜しいでしょうか?」
「最初に、ガラスなどを下に敷いて、印材をその上で擦って表面を平らにします。切ったばかりだと平に見えても真中が窪んで来ることもありますから。表面が平らになったら朱墨で赤くし、墨で字と絵を入れて行く。後は黒い所を残して彫って行く。これが一連の作業工程ですね」
「表面は何ミリくらい彫るのですか?」
「一ミリ彫ったら相当深いですね、其処まではいっていないと思います。名前を入れてから綺麗にしますから、そんなに深くは彫りませんね」
「一つの印章を完成させるのにどれ位かかるのですか?」
「絵柄を考えるのが大変なのね。それが決まってしまえば、それこそ二、三時間で。名前を入れればもう一時間くらい要りますかね」
「人気のある絵柄は何ですか?」
「その年の干支とかご自分の干支が人気ですね。それからお地蔵さんも売れます、癒されるって仰って。あとは、猫ちゃん、とかですね」
「お客様が買われる目的は何でしょうか?」
「プレゼント用が多いですね。出産のお祝い、結婚のお祝い、クリスマスのプレゼントとか。男の人がバレンタインのお返しに相手に渡すというのも有りましたね。相手の彼女が猫が好きなので、猫の印章にその人の名前を入れて欲しいという注文もありました。海外の方からプレゼント用として注文されることも結構ありますよ、木の質感が海外の人には良いんですね」
「小枝遊印の魅力を一言で言いますと?」
「先ず、木はそれぞれ堅さも形も違うし、何より木肌が全然違います。木はやっぱり手に優しいんですね、時間が経つと段々艶も出て来ますしね。それに、小枝遊印は世界で一つのものですから。手で作業するので同じ形や絵柄が出来上がることはありません。素材が堅いから彫るのは大変ですが、字だけ彫っているよりは楽しいですよ。一般的な判子は機械で彫っちゃうから全部同じになってしまう、それでは判子の意味が無くなってしまうんですね」
「なるほど、良く解かりました」
菅原は一呼吸擱いて、徐に訊ねた。
「僕も彫らして貰って宜しいでしょか?」
「あなたは何処で一級印刻師の免状をお取りになったの?」
「(有)龍鳳印刻堂です」
「ああ、岡本龍鳳先生のお弟子さんなのね、それじゃ問題無いわね」
「でも実用新案などに抵触することはありませんか?」
「龍鳳先生のものとは製法と言うか、作り方が少し違いますから、大丈夫です。なるべくなら私と同じ物を作らずに、ご自分の独創的なものを作ってみて下さい。出来上がって見せて頂けるのを楽しみにしていますわ」
菅原は、有難く、そして、嬉しかった。 
 
 菅原は心に決めた。
今の時代に独り立ちでやって行くには、人と同じことをやっていても駄目だ。自分独自のもの、この世に一つのもの、買ってくれるお客さんが喜んでくれるその人だけのもの、そういうものを作らなければ、先は開けない。
錬金術師が持て囃される時代に、それは前途多難で並大抵のことではないかも知れないが、惰眠を貪っていてはいけない。走らない兎は亀にも負けるのだ。現状に甘んじてはいけない、諦めてはいけない、格別な夢と希望を持ち続けなければいけない、アグレッシブに挑戦し続けなければいけない。
菅原は改めて覚悟を決めた。
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