29 / 46
第二話 独立
⑧「お腹が痛いのよ、鳩尾の辺りが」
しおりを挟む
「どうした?もう食べないのか?」
「ちょっと・・・」
不意に由紀は箸を置いて立ち上がるとトイレに駆け込んだ。直ぐに吐く音がした。
「どうした?由紀」
返事は無く、そのまま静かになって、由紀が出て来る気配も無かった。
「おい、どうしたんだ?」
菅原は慌ててトイレを覗きに行った。
「一寸、これ、見て」
由紀の声は弱々しかった。菅原が今までに聞いたことも無いか細い声音だった。菅原は直感的に胸が騒いだ。
「吐いたのか?腹の具合が悪いんだな」
その時、菅原は血の臭いを嗅いだ気がした、が、紅い血の色は何処にも見当たらなかった。
「お腹が痛いのよ、鳩尾の辺りが」
菅原に顔を向けた由紀は、子供のように訴える口調で言った。
菅原が便器に顔を近づけてもう一度臭いを嗅いでみると、先程より強い血の臭いが生臭かった。菅原は頭から血の気が引く思いがした。
「どうだ?病院へ行くか?」
「今吐いたところだから、少し様子を見てみる」
「そうか、じゃ、ベッドで横になって居ろ、な」
抱えるようにしてベッドの脇へ連れて行き、衣服を脱がせようとすると、由紀は、自分でするから大丈夫、と言った。布団をかけてやった後、枕元のベッドライトを点けたが、そうしている間も、菅原の胸は動機を打ち続けた。先程嗅いだ血の臭いが何か悪夢の前触れのように感じられた。
「痛みはどうだ?」
「少し楽になったけど・・・。吃驚した」
由紀の顔からは血の気が失せていた。
「急に吐き気をもよおしたのか?」
由紀は顔を振った。
「何日からだ?」
「一週間ほど前からか、な」
ぎょっとして菅原は思わず強い口調になった。
「何故早く言わなかったんだ!」
「だって、直ぐに治ると思ったんだもの」
由紀は甘えるように言った。菅原は布団の中に手を差し入れて腹を探った。由紀の腹は豊かで温かった。
「痛いのはこの辺か?」
「もう少し上みたい」
くすぐったいわ、由紀はまた甘えた声を出した。滑らかな肌は菅原の手の下で柔らかく凹んだが、結局、何処が痛いのか、はっきりとは解からなかった。
「大分楽になったわ。あなた食べてよ、冷めてしまうから」
由紀はそう言って布団の中で身繕いをした。安堵の気持が少し菅原の胸に戻って来た。
菅原はリビングに戻るとクローゼットを開いて薬箱を取り出した。風邪薬や目薬、便秘薬、傷テープ、水虫の薬、下痢止め薬、鎮痛剤などが出て来た。市販の売薬だが無いよりは良いだろうと胃腸薬を探したが、それは無かった。由紀が既に飲んでしまったようだった。
菅原は何か大事なものを見忘れていた気がした。自分の独り立ちとその仕事のことにしか考えが及ばず、その間に、かけがえの無い大事なものを見忘れていたように思った。菅原はクローゼットの前で肩を落として自分を悔いた。そして、その萎える気持ちを掻き立てるようにベッドの由紀に声をかけた。
「腹が痛くなったのは、本当は何日からなんだ?」
「・・・・・」
「ずうっと前からなんだな」
答が無かった。
菅原がベッドルームに入ると、由紀は眼を閉じて仰向けに寝ていた。その目尻からうっすらと涙が滴っていた。その涙は菅原の胸を締め付けた。
「いつ頃からだ?」
由紀は記憶を手繰るように眼を開けて視線を動かした。
幾日か前の明け方、未だ日が昇る前であった。はっきりとは目覚めていないが、そうかと言って深く眠っている訳でもない由紀が、急に腹の上部に圧迫感を覚えた。痛みは無いが耐え難いほどの圧力を感じた。二、三度身体に震えが走り、それから胸が圧迫された。由紀は額に汗を滲ませ、吐き気を堪え、身体の震えが止るのを待った。五分か、十分か、やがて、潮が引くように収まって行った。
「一月ほど前から、ずうっと苦しかったの」
由紀が菅原に眼を向けて詫びるように言った。
「どうしてもっと早く言わなかったんだ?うん?」
「直ぐに治まるだろうと思っていたのよ、でも一向に癒らなくて、怖くなって来ちゃって、言えなくなったの。あなたは独立したばかりで忙しそうだし、私の身体のことぐらいで心配掛けたくなかったし・・・」
「ま、余り心配するな。明日一緒に病院へ行こう、な」
菅原は自分の心に広がる不安を打ち消すように明るい声で言った。
「暫く仕事は休んで、早く治すことだ」
そう言って菅原は、余り食欲も無い夕食を摂る為に、ダイニングキッチンへ入って行った。
冷めて不味い食事を噛み締めていると、由紀が声をかけて来た。
「何だか楽になって来た。あなたに介抱して貰ったら、急に利いて来たわ」
「何言っているんだ、馬鹿」
「ご免ね、あなた。心配掛けて、本当にご免ね」
「謝ることはないよ、お前は心配しないで寝て居れば良いんだよ」
由紀は元々丈夫なたちで冬でも滅多に風邪など引かなかったし、昼間働いた後も家の中をきちんと切り回して、疲れた風も見せなかった。食事の献立から買物、炊事、洗濯、掃除、家計の遣り繰り、マンションの寄り合いや葬祭・・・あいつは休み無く働き通しだった、と菅原は思った。医者に診て貰ってゆっくり養生させれば、またこれまでのように元気になるだろう。
「ちょっと・・・」
不意に由紀は箸を置いて立ち上がるとトイレに駆け込んだ。直ぐに吐く音がした。
「どうした?由紀」
返事は無く、そのまま静かになって、由紀が出て来る気配も無かった。
「おい、どうしたんだ?」
菅原は慌ててトイレを覗きに行った。
「一寸、これ、見て」
由紀の声は弱々しかった。菅原が今までに聞いたことも無いか細い声音だった。菅原は直感的に胸が騒いだ。
「吐いたのか?腹の具合が悪いんだな」
その時、菅原は血の臭いを嗅いだ気がした、が、紅い血の色は何処にも見当たらなかった。
「お腹が痛いのよ、鳩尾の辺りが」
菅原に顔を向けた由紀は、子供のように訴える口調で言った。
菅原が便器に顔を近づけてもう一度臭いを嗅いでみると、先程より強い血の臭いが生臭かった。菅原は頭から血の気が引く思いがした。
「どうだ?病院へ行くか?」
「今吐いたところだから、少し様子を見てみる」
「そうか、じゃ、ベッドで横になって居ろ、な」
抱えるようにしてベッドの脇へ連れて行き、衣服を脱がせようとすると、由紀は、自分でするから大丈夫、と言った。布団をかけてやった後、枕元のベッドライトを点けたが、そうしている間も、菅原の胸は動機を打ち続けた。先程嗅いだ血の臭いが何か悪夢の前触れのように感じられた。
「痛みはどうだ?」
「少し楽になったけど・・・。吃驚した」
由紀の顔からは血の気が失せていた。
「急に吐き気をもよおしたのか?」
由紀は顔を振った。
「何日からだ?」
「一週間ほど前からか、な」
ぎょっとして菅原は思わず強い口調になった。
「何故早く言わなかったんだ!」
「だって、直ぐに治ると思ったんだもの」
由紀は甘えるように言った。菅原は布団の中に手を差し入れて腹を探った。由紀の腹は豊かで温かった。
「痛いのはこの辺か?」
「もう少し上みたい」
くすぐったいわ、由紀はまた甘えた声を出した。滑らかな肌は菅原の手の下で柔らかく凹んだが、結局、何処が痛いのか、はっきりとは解からなかった。
「大分楽になったわ。あなた食べてよ、冷めてしまうから」
由紀はそう言って布団の中で身繕いをした。安堵の気持が少し菅原の胸に戻って来た。
菅原はリビングに戻るとクローゼットを開いて薬箱を取り出した。風邪薬や目薬、便秘薬、傷テープ、水虫の薬、下痢止め薬、鎮痛剤などが出て来た。市販の売薬だが無いよりは良いだろうと胃腸薬を探したが、それは無かった。由紀が既に飲んでしまったようだった。
菅原は何か大事なものを見忘れていた気がした。自分の独り立ちとその仕事のことにしか考えが及ばず、その間に、かけがえの無い大事なものを見忘れていたように思った。菅原はクローゼットの前で肩を落として自分を悔いた。そして、その萎える気持ちを掻き立てるようにベッドの由紀に声をかけた。
「腹が痛くなったのは、本当は何日からなんだ?」
「・・・・・」
「ずうっと前からなんだな」
答が無かった。
菅原がベッドルームに入ると、由紀は眼を閉じて仰向けに寝ていた。その目尻からうっすらと涙が滴っていた。その涙は菅原の胸を締め付けた。
「いつ頃からだ?」
由紀は記憶を手繰るように眼を開けて視線を動かした。
幾日か前の明け方、未だ日が昇る前であった。はっきりとは目覚めていないが、そうかと言って深く眠っている訳でもない由紀が、急に腹の上部に圧迫感を覚えた。痛みは無いが耐え難いほどの圧力を感じた。二、三度身体に震えが走り、それから胸が圧迫された。由紀は額に汗を滲ませ、吐き気を堪え、身体の震えが止るのを待った。五分か、十分か、やがて、潮が引くように収まって行った。
「一月ほど前から、ずうっと苦しかったの」
由紀が菅原に眼を向けて詫びるように言った。
「どうしてもっと早く言わなかったんだ?うん?」
「直ぐに治まるだろうと思っていたのよ、でも一向に癒らなくて、怖くなって来ちゃって、言えなくなったの。あなたは独立したばかりで忙しそうだし、私の身体のことぐらいで心配掛けたくなかったし・・・」
「ま、余り心配するな。明日一緒に病院へ行こう、な」
菅原は自分の心に広がる不安を打ち消すように明るい声で言った。
「暫く仕事は休んで、早く治すことだ」
そう言って菅原は、余り食欲も無い夕食を摂る為に、ダイニングキッチンへ入って行った。
冷めて不味い食事を噛み締めていると、由紀が声をかけて来た。
「何だか楽になって来た。あなたに介抱して貰ったら、急に利いて来たわ」
「何言っているんだ、馬鹿」
「ご免ね、あなた。心配掛けて、本当にご免ね」
「謝ることはないよ、お前は心配しないで寝て居れば良いんだよ」
由紀は元々丈夫なたちで冬でも滅多に風邪など引かなかったし、昼間働いた後も家の中をきちんと切り回して、疲れた風も見せなかった。食事の献立から買物、炊事、洗濯、掃除、家計の遣り繰り、マンションの寄り合いや葬祭・・・あいつは休み無く働き通しだった、と菅原は思った。医者に診て貰ってゆっくり養生させれば、またこれまでのように元気になるだろう。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
半欠けの二人連れ達
相良武有
現代文学
割烹と現代料理の店「ふじ半」の厨房から、店へやって来る客達の人生の時の瞬を垣間見る心揺するハートフルな物語の幾つか・・・
人は誰しも一人では不完全な半人前である。信頼し合う二人が支え合い補い合って漸く一人前になる。「半欠け」の二人が信じ合い解り合って人生を紡いで行く・・・
【Vtuberさん向け】1人用フリー台本置き場《ネタ系/5分以内》
小熊井つん
大衆娯楽
Vtuberさん向けフリー台本置き場です
◆使用報告等不要ですのでどなたでもご自由にどうぞ
◆コメントで利用報告していただけた場合は聞きに行きます!
◆クレジット表記は任意です
※クレジット表記しない場合はフリー台本であることを明記してください
【ご利用にあたっての注意事項】
⭕️OK
・収益化済みのチャンネルまたは配信での使用
※ファンボックスや有料会員限定配信等『金銭の支払いをしないと視聴できないコンテンツ』での使用は不可
✖️禁止事項
・二次配布
・自作発言
・大幅なセリフ改変
・こちらの台本を使用したボイスデータの販売
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
大人への門
相良武有
現代文学
思春期から大人へと向かう青春の一時期、それは驟雨の如くに激しく、強く、そして、短い。
が、男であれ女であれ、人はその時期に大人への確たる何かを、成熟した人生を送るのに無くてはならないものを掴む為に、喪失をも含めて、獲ち得るのである。人は人生の新しい局面を切り拓いて行くチャレンジャブルな大人への階段を、時には激しく、時には沈静して、昇降する。それは、驟雨の如く、強烈で、然も短く、将に人生の時の瞬なのである。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる