ルビコンを渡る

相良武有

文字の大きさ
上 下
38 / 46
第一話 転身

⑨後藤造園へ足を踏み入れてから三年の歳月が流れた

しおりを挟む
 専門学校や職業訓練校、設計事務所等の研修を終えて一区切りがついた頃、後藤造園の皆が美香を激励し慰労する会を催してくれた。初めて後藤造園へ足を踏み入れてから三年の歳月が経っていた。
「良く頑張りましたね、美香さん」
そう言って、今年三十六歳になる先輩の女性庭師が皆を代表して花束をプレゼントしてくれた。
社長の後藤俊介が簡単な挨拶を行った後、最年長の五十五歳のベテラン造園士が乾杯の音頭を取って楽しい宴が始まった。今日の料理は主人公の美香に合わせてイタリアンだった。美味しいパスタを食し円やかな白ワインを飲んで皆と歓談し、美香にとっては忘れられない夜が更けて行った。仲間達に対する感謝の念で美香の胸は一杯になった。
仕事の話は誰もが殆ど口にしなかった。酒席では会社の話や仕事の話をしないのが最上のエチケットだと皆が心得ていた。
「人生、山あり谷ありだよな。でも、そのことから何かを掴み取って立ち上がることが大切なんだな」
「色んな辛いことをバネにしている人の方が、人間味が有って他人の痛みも解る人になるのよね」
美香は、言われていることがまるで自分のことのようで、身につまされて涙が出そうになったし元気を貰った気もした。
終わり際に俊介が美香に言った。
「今日でうちの実習は終わりにする。此の儘うちに残って仕事を続けても良いし、独立して自分でやっても良い。但し、独り立ちでやっていくにしろ、うちからの仕事は最優先でやってくれることが大前提だぞ」
美香は俊介の思いやりが嬉しかった。独りでやっても食っていける保証は無い、後藤造園の下請をしながら当分の間は食い繋ぎ、その間に自分のお客さんを増やす努力をしろよ、そう言っているのが眼に見えていた。
「独り立ちでやらせて下さい」
美香は、自分の人生をやり直す為にも、普通の人の堅気の人生に仲間入りする為にも、自力で、独力で立ち上がらなければならない、と強く心に秘していた。
「美香さん、独りでやるにしても私達は皆、これからも仲間だからね。ずうっと仲間だからね」
先程の女性庭師がそう言って美香の肩を抱いた。
「有難うございます・・・」
言った切り顔を伏せて、美香は後の言葉が継げなかった。涙が頬を伝って落ちた。これまで、弾かれて憤怒の涙を流したことは幾度もあったが、受け入れられて感涙を溢すのは初めてだった。
 皆と別れて俊介と二人になった時、美香は彼に心から感謝の言葉を述べた。
「後藤さん、この三年間、真実に有難う。あなたのお陰で私は水商売の世界から足を抜いて、普通の人の人生に仲間入りするスタートが切れることになった。あなたが居なかったらこんな夢みたいなことは出来なかったわ。あなたの、陰に成り日向に成っての大きな支えと励ましがあったからこそ、何とか今日までたどり着くことが出来たの。月並みな言い方しか出来ないけれど、改めて、真実に、有難う!」
「何言っているんだよ。頑張ったのはお前だ。俺は別に大したことをした訳じゃないよ。俺は唯、お前にもう一度、学生の頃の輝きを取り戻して欲しかっただけだ」
美香はもう俊介のことを、以前のように「後藤君」と軽々しく呼ぶことは出来なくなっていた。美香の口を突いて出た「後藤さん」という呼び方に、彼への深い感謝の思いと淡い思慕の情が篭っていた。
 程無くして、美香はなけなしの貯金を叩いて「有限会社花木園」を設立した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

大人への門

相良武有
現代文学
 思春期から大人へと向かう青春の一時期、それは驟雨の如くに激しく、強く、そして、短い。 が、男であれ女であれ、人はその時期に大人への確たる何かを、成熟した人生を送るのに無くてはならないものを掴む為に、喪失をも含めて、獲ち得るのである。人は人生の新しい局面を切り拓いて行くチャレンジャブルな大人への階段を、時には激しく、時には沈静して、昇降する。それは、驟雨の如く、強烈で、然も短く、将に人生の時の瞬なのである。  

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

人生の時の瞬

相良武有
現代文学
 人生における危機の瞬間や愛とその不在、都会の孤独や忍び寄る過去の重みなど、人生の時の瞬を鮮やかに描いた孤独と喪失に彩られた物語。  この物語には、細やかなドラマを生きている人間、歴史と切り離されて生きている人々、現在においても尚その過去を生きている人たち等が居る。彼等は皆、優しさと畏怖の感覚を持った郷愁の捉われ人なのである。

半欠けの二人連れ達

相良武有
現代文学
 割烹と現代料理の店「ふじ半」の厨房から、店へやって来る客達の人生の時の瞬を垣間見る心揺するハートフルな物語の幾つか・・・  人は誰しも一人では不完全な半人前である。信頼し合う二人が支え合い補い合って漸く一人前になる。「半欠け」の二人が信じ合い解り合って人生を紡いで行く・・・

我ら同級生たち

相良武有
現代文学
 この物語は高校の同級生である男女五人が、卒業後に様々な形で挫折に直面し、挫折を乗り越えたり、挫折に押し潰されたりする姿を描いた青春群像小説である。   人間は生きている時間の長短ではなく、何を思い何をしたか、が重要なのである。如何に納得した充実感を持ち乍ら生きるかが重要なのである。自分の信じるものに向かって闘い続けることが生きるということである・・・

処理中です...