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第26話 幼友達の誼
78 茉莉が実家に戻って二ヶ月が過ぎた
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茉莉が実家に戻って二ヶ月が過ぎた。
既に桜が散りつつじが散り皐月が散って、眼に染みる新緑も愈々深みが増している季節になっていた。茉莉はこの二ヶ月の間、そんな季節の移り変わりは眼にも心にも留めることなく、じっと自室に閉じ籠ったまま暮らし続けて来た。
謙一が茉莉を外へ連れ出しにやって来た。
空には薄雲が所々にふんわりと浮かんでいるだけで良く晴れていた。
二人は繁華街や大通りを避けて、山手の方へダラダラ坂を登って行った。やがて、曲がりくねった山沿いの道の眼下に大きな川が見えて来た。ダムからの豊量な水を湛えた川面には、近くの山々の深い青葉が折からの風に揺らめいていた。
二人は摂り止めも無い話をしながらゆっくりと歩を進めた。茉莉は両手を空に伸ばしながら、大きく息を吸い込み、そして、ふう~っと吐いた。
突然、謙一が足を止めて茉莉と向き合い、予期しなかったことを言った。
「なあ茉莉、何日までもそうやって毎日打ちひしがれていてもどうにも成りゃしないだろう。俺は音楽のことは良く解らないが、メロディーが美しく、リズムが生き生きとして、夫々の楽器が響き合うのが音楽だろう。メロディーは自分自身の姿、リズムは鼓動、響き合うハーモニーは人と人とが共存する為に最も大切なもの、音楽とはそういうものではないのか?どうだ、作曲でも始めてみないか?お前は小さい頃から曲を作るのは好きだったんだろう?」
「難聴のわたしが曲を作るの?」
「何を言っているんだよ、全聾でも交響曲を作っている作曲家が居るんだぞ。お前の右耳はちゃんと聞こえるんだろう、だったら、ピアノの鍵盤を叩いて採譜するくらいは出来るんじゃないのか」
茉莉はハッと我に帰った気がした。
そうか、作曲か・・・音楽は耳で聴くだけが全てじゃない、絶対音感が有れば頭と心で音楽を作ることが出来るかもしれない。ピアノを弾いたり他の楽器を奏でたり歌を唄ったりするのはプロとして無理かも知れないけれど、曲作りなら私にも出来るかも知れない・・・
茉莉はそう思うと、一筋の光が眼の前に見えたように思った。
このままピアニストに拘り続けても、この先、どうなるものでもない。いっそ思い切って、もう一度、一から出直してみようか、それも悪くはないかも知れない、駄目だったとしても元々ではないか、何とかなるだろう・・・
茉莉は少し楽になった、気がした。
悲しみは消えはしないし容易く乗り越えることも出来ないが、曲作りを始めれば時が少しずつ癒してくれるかもしれない、生きるに支障が無い程度に回復してくれればそれで良い、茉莉はそう思って謙一に微笑みかけた。が、その貌は泣き笑いの顔だった。
「俺は、自分の道は自分で切り開く、固くそう思っている。そりゃ躓きよろけることもあるだろうが、その時には、泥水が撥ねたこの瞼に「忍」の字を書いて涙を食い止める心算だ。なあ茉莉、花は咲いて初めて綺麗なんだろう?綺麗な花を咲かせる為に生まれた時から死ぬ日まで、一心に打ち込むのが人というものじゃないのか?」
「・・・・・」
「人間、頼れるのは自分一人だぞ。人は墓場に行く日まで自分の選んだ道を守り通すものだ。夢を捨てるのは命を閉じる時だ。お前には楽曲作りという夢が有るじゃないか」
茉莉には言う言葉が無かった。茉莉は嬉しかった。謙一の言葉は憐憫や同情から出たものではなかった。心から茉莉の再生を願う真実の言葉だった。茉莉は黙って謙一を見詰めた。何を言うことも何をすることも出来なかった。
散歩から戻った茉莉は、ふと、応接間に在るピアノの天蓋を開けてみた。ピアノは其処にずうっと在り続けていたが、今日まで茉莉の眼にも心にも留まることはなかった。
茉莉は人差指で鍵盤をポロン、ポロンと叩いてみた。ピアノ教室に通っていた子供の頃の、小さな指の音が聞こえた。それから、徐に、その頃の練習曲を軽くさらってみた。心と頭が独り手に音を紡ぎ出した。茉莉の眼から涙が零れ落ちた。子供の頃の懐かしい日々がふつふつと甦って来た。
それから茉莉は、自室の本棚に立て掛けられた幼い頃の音楽ノートを取り出して、ページを捲ってみた。そこには子供の頃に自分で作った幾つかの曲が五線紙の上に音符を並べていたが、そのどれもが茉莉の頭の中で楽曲として甦り、その頃イメージした情景が心の中に鮮明に浮かんで来た。茉莉はまた眼に涙してあの頃を懐かしんだ。胸の中には温かいものが込み上げていた。
既に桜が散りつつじが散り皐月が散って、眼に染みる新緑も愈々深みが増している季節になっていた。茉莉はこの二ヶ月の間、そんな季節の移り変わりは眼にも心にも留めることなく、じっと自室に閉じ籠ったまま暮らし続けて来た。
謙一が茉莉を外へ連れ出しにやって来た。
空には薄雲が所々にふんわりと浮かんでいるだけで良く晴れていた。
二人は繁華街や大通りを避けて、山手の方へダラダラ坂を登って行った。やがて、曲がりくねった山沿いの道の眼下に大きな川が見えて来た。ダムからの豊量な水を湛えた川面には、近くの山々の深い青葉が折からの風に揺らめいていた。
二人は摂り止めも無い話をしながらゆっくりと歩を進めた。茉莉は両手を空に伸ばしながら、大きく息を吸い込み、そして、ふう~っと吐いた。
突然、謙一が足を止めて茉莉と向き合い、予期しなかったことを言った。
「なあ茉莉、何日までもそうやって毎日打ちひしがれていてもどうにも成りゃしないだろう。俺は音楽のことは良く解らないが、メロディーが美しく、リズムが生き生きとして、夫々の楽器が響き合うのが音楽だろう。メロディーは自分自身の姿、リズムは鼓動、響き合うハーモニーは人と人とが共存する為に最も大切なもの、音楽とはそういうものではないのか?どうだ、作曲でも始めてみないか?お前は小さい頃から曲を作るのは好きだったんだろう?」
「難聴のわたしが曲を作るの?」
「何を言っているんだよ、全聾でも交響曲を作っている作曲家が居るんだぞ。お前の右耳はちゃんと聞こえるんだろう、だったら、ピアノの鍵盤を叩いて採譜するくらいは出来るんじゃないのか」
茉莉はハッと我に帰った気がした。
そうか、作曲か・・・音楽は耳で聴くだけが全てじゃない、絶対音感が有れば頭と心で音楽を作ることが出来るかもしれない。ピアノを弾いたり他の楽器を奏でたり歌を唄ったりするのはプロとして無理かも知れないけれど、曲作りなら私にも出来るかも知れない・・・
茉莉はそう思うと、一筋の光が眼の前に見えたように思った。
このままピアニストに拘り続けても、この先、どうなるものでもない。いっそ思い切って、もう一度、一から出直してみようか、それも悪くはないかも知れない、駄目だったとしても元々ではないか、何とかなるだろう・・・
茉莉は少し楽になった、気がした。
悲しみは消えはしないし容易く乗り越えることも出来ないが、曲作りを始めれば時が少しずつ癒してくれるかもしれない、生きるに支障が無い程度に回復してくれればそれで良い、茉莉はそう思って謙一に微笑みかけた。が、その貌は泣き笑いの顔だった。
「俺は、自分の道は自分で切り開く、固くそう思っている。そりゃ躓きよろけることもあるだろうが、その時には、泥水が撥ねたこの瞼に「忍」の字を書いて涙を食い止める心算だ。なあ茉莉、花は咲いて初めて綺麗なんだろう?綺麗な花を咲かせる為に生まれた時から死ぬ日まで、一心に打ち込むのが人というものじゃないのか?」
「・・・・・」
「人間、頼れるのは自分一人だぞ。人は墓場に行く日まで自分の選んだ道を守り通すものだ。夢を捨てるのは命を閉じる時だ。お前には楽曲作りという夢が有るじゃないか」
茉莉には言う言葉が無かった。茉莉は嬉しかった。謙一の言葉は憐憫や同情から出たものではなかった。心から茉莉の再生を願う真実の言葉だった。茉莉は黙って謙一を見詰めた。何を言うことも何をすることも出来なかった。
散歩から戻った茉莉は、ふと、応接間に在るピアノの天蓋を開けてみた。ピアノは其処にずうっと在り続けていたが、今日まで茉莉の眼にも心にも留まることはなかった。
茉莉は人差指で鍵盤をポロン、ポロンと叩いてみた。ピアノ教室に通っていた子供の頃の、小さな指の音が聞こえた。それから、徐に、その頃の練習曲を軽くさらってみた。心と頭が独り手に音を紡ぎ出した。茉莉の眼から涙が零れ落ちた。子供の頃の懐かしい日々がふつふつと甦って来た。
それから茉莉は、自室の本棚に立て掛けられた幼い頃の音楽ノートを取り出して、ページを捲ってみた。そこには子供の頃に自分で作った幾つかの曲が五線紙の上に音符を並べていたが、そのどれもが茉莉の頭の中で楽曲として甦り、その頃イメージした情景が心の中に鮮明に浮かんで来た。茉莉はまた眼に涙してあの頃を懐かしんだ。胸の中には温かいものが込み上げていた。
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