5分間の短編集

相良武有

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第25話 背信

76 「もしも、子供が出来たらどうする?」

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 三か月が過ぎた早春の温かい夜に郁子が龍二に言った。彼女はまるで母親に自分の失敗を恐る恐る告げる子供のようにおずおずと龍二に訊いた。
「ねえ、もしもの話だけど・・・」
「何だよ」
「もしもよ、子供が出来たらどうする?」
「子供?」
龍二はぎょっとしたような声を出した。そして急に笑い出した。
「脅かすんじゃないよ、君・・・」
「私、脅かしてなんか居ないわ」
郁子の声がキッとなった。
「ひょっとすると、そうかも知れないって、言っているの」
「・・・・・」
「だってもう二ヶ月もアレが無いのよ」
「まさか」
龍二はまた笑ったが、虚ろな笑い声だった。
「そうやって、俺の気持を試そうというのか?」
「そうじゃないってば!」
郁子は烈しい口調で言った。 
「ほんとうに妊娠したかも知れないのよ」
「・・・・・」
「どうする?」
「どうするって、・・・」
龍二は困惑したように言った。
「もう少し経ってみなきゃ解らんだろうが・・・」
「もう少し経って、もしほんとうだったら、どうするの?」
「・・・・・」
龍二は急に黙り込み、暫くして、彼は言った。
「信じられない」
「だって、そうなんだもの」
郁子はそう言うと、それ以上は何も言おうとしなかった。
二人のような性交渉の在る恋愛関係であれば、それは有って不思議の無い話であった。そのことを龍二が気遣わなかった訳ではない。が、龍二はいつも郁子に心も身体も固執し執着していたので、そういうことに常に気を配って居られる訳でもなかった。然し、龍二のそうした郁子への執着は然るべき時期を迎えても尚、結婚と言う形には結びつかなかった。
孤児の龍二には、結婚して家庭を持ち子供が出来て家族になると言うことがどういうことなのか、よく解らなかった。
 龍二は考えていた。
一体これはどういうことなのだ?郁子に子供が出来る、これは一体何なのだ?二人に子供が出来る、これは一体どういう事態なのだ?
然し、そうした問いの無意味さは龍二にも解っていた。それはそういうことであり、それだけのことであり、そして、どうしようも無いことであった。その対処の仕方は二つに一つ、産むか産まぬか、その何れかだけであった。が、そうであればどうすれば良いのか?
龍二は、今、眼の前で、自分と同じ様に思いあぐねている郁子の心を慮った。
俺の子供を自分の体内に身籠って、今、郁子が俺から期待して居る言葉は何なのだろうか?今、郁子は恐る恐るそのことを告げたばかりである。郁子も希望でも満足でもない人生に毎日追われ、それに圧し拉がれている。こんな中で子供を持ったらどうにもならない、そういう思いが郁子にも有るのだろうか?それともまた、これを契機に結婚して二人の新しい生活を始めることを願っているのだろうか?
 龍二は思った。
何れにしても、産むか産まぬか、二つに一つだ。産むのか殺すのか・・・俺には新しく出来た生命を殺す権利は無い。だが、俺は嫌だ!俺には、殺せ、ということは出来ないだろう、だが、産めと言うことも出来ないだろう。そして、産め、と言わないことは・・・
龍二はその先を考えることを止めた。そして、彼はその後、一時間以上もの間、何も言わずに不機嫌に押し黙って座っていた。
 その不機嫌さを見ながら、郁子は思った。
この子は産めないわ!父親のこんな不機嫌さに迎えられてこの世に出て来る子供。そんな不幸の中へ自分の子供を押し出すことは私には出来ない・・・
郁子はそう思った。そして、心の中で絶望的に呟いても居た。
ああ、私は間違えた。間違えてしまった・・・
 やがて、顔を上げた龍二が言った。
「真実に俺たちの子供なのか?」
それを聞いた郁子の顔が大きく歪んだ。
「あなた、何を言っているの?私があなた以外の誰の子を孕むと言うの?」
短い沈黙が在って、次の瞬間、郁子が叫ぶように言った。
「あなたは言ってはいけないことを言ってしまった。決して口に出してはいけないことを言ってしまったわ」
郁子の顔には絶望が張り付いていた。
ああ、この人は私の愛すべき人じゃなかった・・・
龍二は、自分が吐いた今の一言で、もう決して退き帰せない処に足を踏み込んでしまったことを覚った。
 郁子は身体を硬直させて立ち上がり、横の椅子からハンドバッグを手に取り上げて、龍二に背を向けた。そして、考えごとをするかのように屈託した足取りで、俯き加減に後ろ手にドアを閉めて部屋を出て行った。彼女は一度も振り返らなかった。龍二は茫然とそれを見送った。
 
 郁子は会社へ休暇届を出して旅に出、何もかもを一人で処置した。無論、両親にも話さなかった。
これは私自身の問題だ。自分ひとりで責任を取るのが当然なのだ。それに、二十四歳にもなる良い大人が親に話すことじゃないわ・・・
郁子はそう思って、最後まで他人の力は借りなかった、全部を一人で処理した。そして、龍二のことも、これで終わった、と踏ん切りをつけた。中絶手術のあと、郁子は泣かなかった。泣いてどうなるものか、と涙は溢さなかった。そして、夜通し一睡もせずに朝になった時、気持の整理だけは着いていた。

 その後、程無くして、龍二は四月の定期異動で、自ら志願して、北海道事業部の札幌支店へ転勤して行った。
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