5分間の短編集

相良武有

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第24話 夕晴れの蒼い空

72 紗由美、中国ツアーで大学助教授の武田と親しくなる

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 出発直前にアクシデントが起きた。
一緒に行く予定だった友人の圭子が自宅マンションのベランダで転び、手摺りで胸を強打した。旅行はとても無理であった。紗由美は一人でツアーに参加することになった。
旅先は中国で、上海に始まって杭州、西安、北京を巡る十日間の旅程だった。紗由美は子供の頃、上海に住んで居たことがある。商社マンだった父親の転勤に伴って家族皆で上海に移り住み三年ほどを過ごした。幼児だった紗由美の記憶に残っている上海の思い出は、ブーゲンビリヤやハイビスカスの花の咲いている庭とか、母に連れられて行ったサーカスとか、のんびりと愉しかったことばかりである。紗由美は以前から、上海へは行けたら行ってみたい、と思っていたのだった。
 
 出発の日、紗由美は少し気分が昂っていた。三十二歳にして初めての外国旅行であった。
一向は二十人で、夫婦が五組ほど加わって老若男女が入り混じっていた。
ゲートを潜って搭乗口から機内へ入ると、隣の席に三十代半ばの男性が座った。長身で細身の童顔、前髪を少し垂らして相対的に若々しい感じがした。飛行機が離陸し水平飛行に移って安全ベルトを外した頃に、その男性が紗由美に話し掛けて来た。
「旅は道連れ、袖すり合うも他生の縁。私、武田健一と言います。どうか宜しく」
そう言って胸ポケットから名刺を取り出して紗由美に手渡した。
“K大学文学部史学科 助教授 武田健一“
学者というイメージにはちょっと遠いな、という印象を紗由美は受けた。
大学の住所は京都市左京区の百万遍で、彼は下鴨に住まっていた。紗由美は北白川に住んで居る。話の穂がその辺りからすんなりと解けた。
武田にも連れは居ないようだった。
「このご旅行はお一人で?」
ちょっと不躾な質問だったが、武田は悪びれずに答えを返して来た。
「実を言うと、二年前に妻が亡くなりまして・・・僕自身は別にしょんぼりしている心算はもう無いんですが、周りから見ると哀れな男寡に見えるのでしょうか、好きな中国へでも行って来いよ、って言われて、こうして・・・」
中国近代史が専攻で、中国訪問はプライベートでももう数回に及ぶと言う。
「西安郊外の、秦の始皇帝の兵馬陵を見学するのを楽しみにしているんですよ、今回は」
西安の東約三十キロの驪山の麓に、中国を統一した秦の始皇帝が築いた巨大な陵が有ると言う。そんな話をする武田は気さくな人柄のようだった。
 最初は硬くなって座っていた紗由美も、機内食が運ばれて来る頃には、自然に肩から力が抜けて寛いだ気分になっていた。
 
 上海に着いたその日から、紗由美は見るもの聞くものに仰天した。
ツアーは先ず租界時代の歴史建築が並ぶ外灘から南京東路へ赴き、上海きっての繁華街でショピングを愉しむことになった。壮大な歴史建築の建ち並ぶ外灘の夜景は、魔都と呼ばれる隆盛を極めた租界時代の上海を彷彿とさせた。
オールド上海を観てみたいと思った紗由美は、中国らしさを色濃く残す庶民的な雰囲気の豫園商城へ向かった。武田が一緒に付き合ってくれた。
 市街は、何処へ行っても街路樹が綺麗だったが、道路を自転車が群がるように走り、その自転車を夥しい数の自動車がクラクションを鳴らして掻き分けながら走るのに紗由美は驚いた。表通りから一歩奥へ足を踏み入れると、建物は皆古く厳めしかった。特に遥か昔のイギリス租界やフランス租界の名残のビルはそう見えた。中国人の住む市内の家も古色蒼然たるものだった。新しいのは郊外に出来たマンションや団地くらいのものである。
折角、上海へ来たと言うのに、幼い頃の思い出は霧が架かったようにぼやけてしまっていた。
魯迅公園を歩きながら紗由美は吐息をついた。
「嘗て君が暮らした異国の土地を、再び訪れたというだけで十分じゃないですかね。二十五年といえば四半世紀ですよ」
そう言って武田が慰めてくれた。
 
 長江の河口に開けた上海からちょっと足を延ばした杭州へ出て、紗由美は西湖をバスから眺めて思わず声を挙げた。西湖は中国随一の景勝地で杭州はその畔に位置していた。
武田が教えてくれた。
「西湖は中国古代の美女・西施に喩えられ、古来より多くの詩人に詠まれて来た美しい湖
なんです。四季折々、朝な夕なに異なる佇まいを見せますよ」
上海では思い出せなかったものが、此処では鮮やかに二十五年前に駆け戻ることが出来た。白居易の名を取った白堤とそれに続く断橋の辺りは、父や母や兄たちと旅行に来た時の儘だった。
「そう言えば、確かに舟に乗ってあの中の島のような処へ上陸したわ」
ツアーは紗由美の幼時の思い出通りに湖上を遊覧し、長々と続く堤やその向こうに見える山容を眺めて紗由美は満足した。
 
 中国は何処へ行っても柳が多い。が、その葉は既に黄ばんでいた。
武田が六和塔の石段を登りながら紗由美に話した。
「柳の綿です。中国では柳絮と言いますが、柳の種子が綿にくるまれたようになって、風に舞うんです。まるで雪の粉を散らしたように、何処も彼処も・・・」
「まあ、それは、さぞかし、綺麗でしょうね」
「旅行者は喜びますが、それが口や鼻へ入ると、ちょっとしたアレルギーを起こすので、土地の人は柳絮公害などと言っていますよ」
石段を登り切ると高さ六十四メートルと言われる六面の塔が聳えていた。
「もともとは、銭塘江を上下する舟の為の、燈台の役目があったそうです」
階上に登ると悠々たる大河が流れていた。水は青っぽく、対岸は霞んで朧にしか見えない。
上海では思い出に焦っていた紗由美もこの辺りからはすっかり中国の旅に溶け込んでいた。それは、一つには、いつも傍に付いて居てくれる武田のガイド振りが見事だったし、又、彼の話題は豊富でウイットに溢れていたからである。
「手芸を教えて居られるそうですね」
グループで自己紹介を行った時に、紗由美は手芸教室を開いていることを話していた。
「それも君の手製ですか?」
武田が指摘したのは紗由美が手にしている麻のハンカチーフだった。それは上質の麻の周囲をごく平凡に纏め、同色の糸でイニシャルを花文字で入れてあるものだった。
杭州から西安まで旅が進んだところで紗由美と武田はすっかり打ち解け合っていた。
 西安はシルクロードの拠点となった古都で、高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典を保存するために建てられた大雁塔が佇んでいた。
「長安と呼ばれた唐の時代には、シルクロードの東の拠点として、遥かヨーロッパと東西の文物が行き交っていたんです」
武田が観たいと願望した秦の始皇帝陵と兵馬俑坑博物館は言葉に表せぬほど巨大で圧巻だった。二人は冷たい風の吹きつけるのも意に介さず、ただ黙然と見入って佇んだ。
「いやあ、百聞は一見に如かず、圧巻です、感動しました」
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