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第22話 大晦日の夜に
67 妻は気持を切り替えるように明るい声で話を続けた
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妻は気持を切り替えるように明るい声で話を続けた。
「単身赴任で二年間留守になさった所為か、帰任してからはよく家族四人で出かけましたよね」
「そうだな。大晦日に、日本三景の一つである天橋立へ初日の出のご来光を拝みに行ったし、伊勢の二見浦で夫婦岩の間から昇る朝日に手を合わせたこともあった」
「その後、元日に新年を祝う歳亘祭の行われる伊勢神宮へ初詣にお参りしたのでしたね」
「伊勢への旅は小学校の修学旅行以来だったから、無性に懐かしい思い出が蘇えって来たのを今でも覚えているよ」
「娘が大学受験を迎える前年の夏休みには、中学生だった息子も連れて、あなたの母校である国立大学へ見学に行きましたね。正門の前に四人が並んで立ってそそり立つ時計台を見上げ、それから構内に入って広い学内を案内してくれました。あなたが学んだ学舎から学生食堂や生協のある建物など子供たちは初めて見る大学の中をさも興味深げに見やって居ました。あれは、あなたの子供達に対する進学の思いを伝えるのが目的だったのだと私は思いましたし、子供たちもそれは理解していましたわ」
「まあ、そういうことだったろうね」
「ですが、娘はあの大学には入らず、息子だけがその三年後に通い始めました」
「うん。世の中はそう親の思うようには行かないものさ」
「わたしが脱子宮に罹って手術入院した時、あなたは真実に良くしてくれました。今でも心から深く感謝していますよ」
「あの時は、もう子供達も大きくなっていたし、それほど大儀なことでもなかったんだ」
「いえいえ、子供達の事だけでなく、毎日病院へ見舞いに来てくれて、とても心強かったですよ。わたしはあの時、出産以来の入院でしたから結構不安だったんです。あなたの元気な姿が見えるとホッとしたものです。面会時間の切れる十分ほど前に、慌てて駆け込んで来るあなたを見た時には、涙が零れそうになったのを覚えていますから」
「然し、あの時には、手術に踏み切るまでに相当悩んだんじゃないのか?」
「そうですね。婦人科の先生から、女の先生でしたけど、子宮にリングを填めて暫く様子を見るか、子宮を全部摘出するか、何方かを選択して下さい、と言われて・・・結局、何れ摘出しなければならないのなら、思い切って今やろう、って決心したんです、あなたも後を押してくれましたし、ね」
「だが、退院後、お前はかなり落ち込んでいた」
「ええ。何だか女でなくなったような気がして。子宮が無くなって子供が産めない体になりましたし、女らしい優しさやしおらしさや可愛さが自分から失われてしまったように感じたんです。だから、それが哀しくて・・・」
吉井は、それは男の俺には解らぬことだった、俺は其処まで考えを及ぼすことが出来なかった、と改めて苦い悔やむ思いを胸に沸き立たせた。
「それに、その後あなたは、わたしが求めない限り、わたしを抱こうとはなさいませんでしたしね」
「それはお前の身体のことを第一に考えたからだよ、他に他意なんか無かったよ」
「外に女でも出来たのかと気を揉みましたよ」
「何を馬鹿なことを言っている!俺は生涯、お前ひとりだよ」
「どうだか解るもんですか」
妻は上目遣いに吉井を睨む仕草をした。
「娘が結婚の相手を引き合わせた時は、複雑な気持ちでしたね、特にあなたはそうだったんじゃないですか?」
「嫁に行く日なんか来なけりゃ良い、と男親なら誰でも思うもんだ。俺だって人の親だし人の子だ、そう思っても不思議じゃないだろう。結婚式のあいつは綺麗だった。一生に一度有るか無しかの輝いた顔だった。あの輝きの何分の一かでも持ち続けることが出来れば、それはあいつの幸せと言うものだ、とあの時つくづくそう思った」
「挙式の前の晩には親子四人で細やかな祝膳を囲みましたね、祝い懐石をお取り寄せして」
「そうだったな。あいつは改まって、お父さんお母さん、二十数年間も大事に慈しんで育ててくれて有難う、なんて頭を下げるもんだから、俺もお前も涙をポロポロ溢して、な」
「おまけに、息子が“娘よ”なんて言うヒット歌謡を聴かせるものだから益々感極まって、あなたはもうメロメロでしたよ」
「その割には、息子の結婚の時は、それほどにも感じなかったな。やっぱり、男だから大丈夫、という安心感が在ったのだろうかね」
「わたしは寂しかったですよ。嫁になる人に息子を手渡すのは当然のことながら、ああ、これでもう私の手の届かない処へ行ってしまう、そう思うと複雑な気持ちでした」
「女親の息子に対する思い入れはそんなものなんだろうよ、きっと、誰でも」
吉井も妻も殆ど趣味らしいものを持たなかったが、一つだけ、二人して共通に楽しんだものが在った。それは世界遺産を見て廻ることだった。と言っても、金銭的にも時間的にも大いに制約の有った二人は、実際に現地を訪ね歩くのは難しく、大概は本の写真かテレビの画面で見ることが多かった。ただ、とても嬉しくてハッピーな時とか、逆に、物凄く辛くて苦しくてきつい時とかには、二人で思い切ってさっと観に出かけた。壮大で荘厳な実物を見て神秘と謎の世界に浸っていると、日頃の喜怒哀楽や人生の悲喜こもごもなどいつの間にか何処かへ吹っ飛んでしまった。そして、人間って凄いなあ、とつくづく感じ入ってしまうのだった。妻の大好きな世界遺産の話で二人は大いに盛り上がった。
その後も二人は尽きること無く話を続けた。が、それは良いことずくめの話ばかりではなかった。結婚生活につきものの些細な事柄に関するゴタゴタや口論、余分なもので溢れている戸棚や洋服箪笥や冷蔵庫、毎日自分以外の人間の機嫌をとり、黙っていたい時にも喋らなければならない気苦労、そうした諸々のことから実際に二人は頻繁に諍って来た。然し、今はもうそんな話を思い出して傷つけ合うことはしたくないと吉井は思っている。
芳醇なワインを口に含みながら、吉井は妻との語らいを一先ず終えた。
「単身赴任で二年間留守になさった所為か、帰任してからはよく家族四人で出かけましたよね」
「そうだな。大晦日に、日本三景の一つである天橋立へ初日の出のご来光を拝みに行ったし、伊勢の二見浦で夫婦岩の間から昇る朝日に手を合わせたこともあった」
「その後、元日に新年を祝う歳亘祭の行われる伊勢神宮へ初詣にお参りしたのでしたね」
「伊勢への旅は小学校の修学旅行以来だったから、無性に懐かしい思い出が蘇えって来たのを今でも覚えているよ」
「娘が大学受験を迎える前年の夏休みには、中学生だった息子も連れて、あなたの母校である国立大学へ見学に行きましたね。正門の前に四人が並んで立ってそそり立つ時計台を見上げ、それから構内に入って広い学内を案内してくれました。あなたが学んだ学舎から学生食堂や生協のある建物など子供たちは初めて見る大学の中をさも興味深げに見やって居ました。あれは、あなたの子供達に対する進学の思いを伝えるのが目的だったのだと私は思いましたし、子供たちもそれは理解していましたわ」
「まあ、そういうことだったろうね」
「ですが、娘はあの大学には入らず、息子だけがその三年後に通い始めました」
「うん。世の中はそう親の思うようには行かないものさ」
「わたしが脱子宮に罹って手術入院した時、あなたは真実に良くしてくれました。今でも心から深く感謝していますよ」
「あの時は、もう子供達も大きくなっていたし、それほど大儀なことでもなかったんだ」
「いえいえ、子供達の事だけでなく、毎日病院へ見舞いに来てくれて、とても心強かったですよ。わたしはあの時、出産以来の入院でしたから結構不安だったんです。あなたの元気な姿が見えるとホッとしたものです。面会時間の切れる十分ほど前に、慌てて駆け込んで来るあなたを見た時には、涙が零れそうになったのを覚えていますから」
「然し、あの時には、手術に踏み切るまでに相当悩んだんじゃないのか?」
「そうですね。婦人科の先生から、女の先生でしたけど、子宮にリングを填めて暫く様子を見るか、子宮を全部摘出するか、何方かを選択して下さい、と言われて・・・結局、何れ摘出しなければならないのなら、思い切って今やろう、って決心したんです、あなたも後を押してくれましたし、ね」
「だが、退院後、お前はかなり落ち込んでいた」
「ええ。何だか女でなくなったような気がして。子宮が無くなって子供が産めない体になりましたし、女らしい優しさやしおらしさや可愛さが自分から失われてしまったように感じたんです。だから、それが哀しくて・・・」
吉井は、それは男の俺には解らぬことだった、俺は其処まで考えを及ぼすことが出来なかった、と改めて苦い悔やむ思いを胸に沸き立たせた。
「それに、その後あなたは、わたしが求めない限り、わたしを抱こうとはなさいませんでしたしね」
「それはお前の身体のことを第一に考えたからだよ、他に他意なんか無かったよ」
「外に女でも出来たのかと気を揉みましたよ」
「何を馬鹿なことを言っている!俺は生涯、お前ひとりだよ」
「どうだか解るもんですか」
妻は上目遣いに吉井を睨む仕草をした。
「娘が結婚の相手を引き合わせた時は、複雑な気持ちでしたね、特にあなたはそうだったんじゃないですか?」
「嫁に行く日なんか来なけりゃ良い、と男親なら誰でも思うもんだ。俺だって人の親だし人の子だ、そう思っても不思議じゃないだろう。結婚式のあいつは綺麗だった。一生に一度有るか無しかの輝いた顔だった。あの輝きの何分の一かでも持ち続けることが出来れば、それはあいつの幸せと言うものだ、とあの時つくづくそう思った」
「挙式の前の晩には親子四人で細やかな祝膳を囲みましたね、祝い懐石をお取り寄せして」
「そうだったな。あいつは改まって、お父さんお母さん、二十数年間も大事に慈しんで育ててくれて有難う、なんて頭を下げるもんだから、俺もお前も涙をポロポロ溢して、な」
「おまけに、息子が“娘よ”なんて言うヒット歌謡を聴かせるものだから益々感極まって、あなたはもうメロメロでしたよ」
「その割には、息子の結婚の時は、それほどにも感じなかったな。やっぱり、男だから大丈夫、という安心感が在ったのだろうかね」
「わたしは寂しかったですよ。嫁になる人に息子を手渡すのは当然のことながら、ああ、これでもう私の手の届かない処へ行ってしまう、そう思うと複雑な気持ちでした」
「女親の息子に対する思い入れはそんなものなんだろうよ、きっと、誰でも」
吉井も妻も殆ど趣味らしいものを持たなかったが、一つだけ、二人して共通に楽しんだものが在った。それは世界遺産を見て廻ることだった。と言っても、金銭的にも時間的にも大いに制約の有った二人は、実際に現地を訪ね歩くのは難しく、大概は本の写真かテレビの画面で見ることが多かった。ただ、とても嬉しくてハッピーな時とか、逆に、物凄く辛くて苦しくてきつい時とかには、二人で思い切ってさっと観に出かけた。壮大で荘厳な実物を見て神秘と謎の世界に浸っていると、日頃の喜怒哀楽や人生の悲喜こもごもなどいつの間にか何処かへ吹っ飛んでしまった。そして、人間って凄いなあ、とつくづく感じ入ってしまうのだった。妻の大好きな世界遺産の話で二人は大いに盛り上がった。
その後も二人は尽きること無く話を続けた。が、それは良いことずくめの話ばかりではなかった。結婚生活につきものの些細な事柄に関するゴタゴタや口論、余分なもので溢れている戸棚や洋服箪笥や冷蔵庫、毎日自分以外の人間の機嫌をとり、黙っていたい時にも喋らなければならない気苦労、そうした諸々のことから実際に二人は頻繁に諍って来た。然し、今はもうそんな話を思い出して傷つけ合うことはしたくないと吉井は思っている。
芳醇なワインを口に含みながら、吉井は妻との語らいを一先ず終えた。
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