時代小説の愉しみ

相良武有

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第三話 錺簪師

②ああ、やっと一つやり遂げたぁ!

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 辰次は先ず、どんな簪にするかを考えた。
季節は夏の盛りだったが簪が実際に髪に飾られるのは秋の半ば頃になるだろうし、髪に差すのは五十三歳の上品な商家の老婦人であることを勘案して、銀杏に千鳥をあしらった簪にしようと決めた。だが、一枚板を切り抜く平打ちにするか、それとも、簪の上に錺が載っている形にするかで辰次は早速に迷った。仕方なく辰次は二通りの図柄を描き起すことにした。銀杏の葉に千鳥を透かす図案と千鳥が銀杏の葉に乗っている図案の二つだった。余り難しい技を要するものは今の自分には上手く作れそうもないと知っている辰次は出来る限り単純で簡略になるようにと考えた。
銀杏の葉の大きさを変え、千鳥の形や向きを変えて何枚もの下絵を描いてみたが、自信の持てる満足出来るものは二、三枚しか描けなかった。
次の日、辰次はその下絵を親方に見て貰った。
辰次の話を聞き、下絵をじっと見ていた親方は
「うん、なかなか面白そうだな、これで良いんじゃねぇか」
と賛同してくれた。選ばれたのは銀杏の葉に千鳥が透かしてある下絵の方だった。
「一寸難しいかも知れねぇからじっくり腰を落ち着けて頑張ってやれ」
親方はそう励ましてくれた。
 
 辰次は直ぐに千鳥の図案を清書しそれを銀板に貼付けて、先ずは切り回しの仕事に取り掛かった。
これまでの三年余りの修業で一通りの工順は解かってはいたが、上手く出来るかどうかは極めて不安で自信は無きに等しかった。が、辰次は自分ひとりで、自分の力だけで唯やり遂げることだけを考えることにした。窮すれば通じるだろう、と腹を括った。
糸鋸で銀杏の葉を切り回した後、簪本体も同じように清書した下絵を銀板に貼り付けて切り回しを行った。どちらも何とか納得出来る切り回しが出来たようだった。
 
 二つの飾りを切り終わった後はヤスリ掛けを行った。
表面と側面をヤスリで整える作業であるが、眼ではなかなか確認出来ない程のがたつきを、ヤスリを掛けて滑らかに整える。力を入れ過ぎるときちっとした滑面が出ずにがたつきが出てしまう。経験を積み、勘を掴めばきちんとした滑らかさが出るようになるが、未熟な辰次は何度も何度もやり直さなければならなかった。
「おい、辰次。ぼちぼちと、な。慌てるんじゃねぇぞ、じっくりと自分で納得の行く仕事をしろよ」
兄弟子の一人がそう言って励ましてくれた。

 何とか自分で納得の行く滑らかな質感を出せた辰次は次に銀杏に細かい葉脈を彫り入れる作業に取り掛かった。
これは銀杏に自然の質感を出す作業で、全体の印象を左右する重要な作業であった。辰次は葉脈の数や密度を全体のバランスを見ながら、最も美しい仕上がりになるように彫り上げていった。
 更に、銀杏に立体感を出す為に、金槌で叩いて反りをつける必要があった。辰次は慎重に丁寧に叩きながら自然の反り具合が現れるまでじっくりと叩き続けた。親方のような一流の簪職人は、それが真骨頂の如く、流麗な鎚捌きを冴え渡らせるが、慣れない未熟な辰次は丸一日も費やしてしまった。
 気が付けば、辰次は此処までの作業に凡そ五日間も掛かってしまった。初めて独りでする仕事は、未熟な技しか身についていない辰次には何もかもが初めてに等しかった。辰次は慣れない手つきで懸命に作業を続けた。
 翌日、辰次は、簪本体に錺を差し込む金具をロウ付けして、千鳥が透かされた銀杏の葉と本体を合体させた。

 これからが磨き上げという仕上げの仕事だった。
辰次は目の荒い砥石から使い始めて順繰りに目の細かい砥石に変え、徐々に丁寧に磨き上げて行った。銀杏の葉と千鳥に生き生きとした息吹を生み出し、錺職人が全身全霊で簪に生命を吹き込む最も大切な作業である。辰次は髪の毛一、二本くらいの僅かの微調整を二日の間、続けた。
後ろから兄弟子が、ほお~、という貌で覗き込んだ。
最後に磨き粉で銀本来の光と輝きを出して「銀杏に千鳥簪」は仕上がった。
漸く最終の微調整を終えて、これが完成品だ、と思えるものが出来上がった時、辰次の心に、やったあ、という満足感とこれまでに味わったことの無い幸福感が沸々と湧き上がって来た。
簪を手に取って見た親方が、う~ん、と唸った。
「良い出来栄えだ、辰次。お前ぇが心血を注いだこの十日間の全てが詰まっている。銀杏の葉脈の彫りと千鳥の透かしが絶妙の按配に出来上がっている。誰が見ても素晴しいと思うんじゃねぇか」
親方の褒め言葉を聞いて辰次は心の底から嬉しかった。初めて親方から褒められた!それから次第にホッとした安堵の気持が込み上げて来た。
・・・ああ、やっと一つやり遂げたぁ・・・
「簪の風合いには創った人間の人柄や生き方が出るものだからな、辰次」


 
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