鄧禹

橘誠治

文字の大きさ
上 下
72 / 81
第三章 敗残編

遠征の終わり

しおりを挟む
 鄧禹は人馬の流れの中にいた。 
 彼の意思はもうどこにも届かない。彼も潰走の大波の一滴に過ぎなかった。


 馮異の言う通り、鄧禹の兵は赤眉に木端微塵にされていた。
 赤眉の将の能力は予想以上で、鄧禹が彼の部隊へたどり着く前にすでに兵を集めきり、それどころか布陣まで終えていたのだ。そのような精強な将にひきいられた兵に、疲労と飢餓とにさいなまれた鄧禹の兵がかなうはずもなかった。


 鄧禹は逃げた。
 ただ逃げて、駆けて、駆け抜けて、そして止まった。
 彼は生き延びた。そのことに気づいたのは馬から降り、呆然と西を眺めて立ち尽くす自分に気づいたときだった。
「ぁ……」
 彼の顔も、身体も、服も、すべてが砂塵にまみれていた。彼は緩慢に首だけで後ろを振り向いた。そこには彼につき従い、彼に劣らぬほどの黄砂にまみれた部下たちがいる。
 その数、わずか二十四騎。
 この敗走で鄧禹は三千余の兵を死傷させた。その罪は重く、そして彼は、自分がすべてに失敗したことを知った。
「お…おおお…おおおおおっ!」
 彼は膝から崩れ落ちると、地にうずくまって泣き始めた。
 号泣だった。これほどに声を挙げ泣いたのは、彼が物心ついてから初めてだったかもしれない。


 鄧禹は正気に戻っていた。
 曇っていた目は晴れ、すべてを見通す明晰さも復活していた。
 その目から見た自分は――近過去の鄧禹は信じられないほど愚かだった。
 湖に着いたときからではない。長安を奪取する前、樊崇はんすうが死に、すべてを自分でやろうとした頃からである。


 今の鄧禹にならわかる。あの頃の自分がいかに無謀だったか。
 一人で何もかもできるはずがなかったのだ。いや、様々なことを他の将や部下に任せてきたつもりだった。だがやはりすべてに自分で目を配らなければ安心できない気質があった。
 それでは潰れる。自分だけではない。すべてが潰れるに決まっていた。


 その帰結がこれ、このありさまである。
 鄧禹はすべてを失った。
 劉秀が与えてくれた兵も、一時は百万を号するほどになった勢力も、その勢力をもって手に入れた長安も、培ってきた自負も、自信も、名誉も、誇りも、すべてをである。
 劉秀になんと言って詫びればよいのか。馮異にどれだけの損害を与えたのか。朝廷(王朝)にどれほどの害を為したのか。幾万人の兵(民)を死なせ、幾十万の遺族を作り出したのか。
「おおっ、おお…おお…おお…」
 死んで詫びる程度ではすまない。それどころか今の段階での死は鄧禹にとって救いでしかない。


「おおおお…おお…おお…」
 鄧禹の号泣はいつしかみつつあった。
 泣いているわけにはいかなかった。せめて劉秀に会って、罪を詫び、罰を賜らなければ、それこそ死んでも死にきれない。
「……」
 泣きやみ、鄧禹は静かに立ち上がった。
 今度は身体ごと振り向くと、兵はその場に変わらず立っていた。古代人は現代人より感情を素直にあらわにすることを自然と感じている。むしろこの状況で泣かない男の方が異常かもしれず、それだけに彼らに鄧禹に対する心配はあっても不信はなかった。
「…陛下のもとへ向かおう」
 泣きはらしたあとはそのままに、表情は常のものに戻った鄧禹は、彼らに静かに告げると、再度愛馬にまたがり、馬首を東へ向けた。
 劉秀はその方角にいる。
 部下たちも鄧禹に従い、東へ向けて馬を歩ませ始めた。


 劉秀の命により北州より出撃して二年余。
 完全なる失敗をもって、鄧禹の長安遠征は終わった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す

矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。 はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき…… メイドと主の織りなす官能の世界です。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

延岑 死中求生

橘誠治
歴史・時代
今から2000年ほど前の中国は、前漢王朝が亡び、群雄割拠の時代に入っていた。 そんな中、最終勝者となる光武帝に最後まで抗い続けた武将がいた。 不屈の将・延岑の事績を正史「後漢書」をなぞる形で描いています。 ※この作品は史実を元にしたフィクションです。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

北海帝国の秘密

尾瀬 有得
歴史・時代
 十一世紀初頭。  幼い頃の記憶を失っているデンマークの農場の女ヴァナは、突如としてやってきた身体が動かないほどに年老いた戦士トルケルの側仕えとなった。  ある日の朝、ヴァナは暇つぶしにと彼が考えたという話を聞かされることになる。  それは現イングランド・デンマークの王クヌートは偽物で、本当は彼の息子であるという荒唐無稽な話だった。  本物のクヌートはどうしたのか?  なぜトルケルの子が身代わりとなったのか?  そして、引退したトルケルはなぜ農場へやってきたのか?  トルケルが与太話と嘯きつつ語る自分の半生と、クヌートの秘密。  それは決して他言のできない歴史の裏側。

強いられる賭け~脇坂安治軍記~

恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。 こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。 しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。

処理中です...