鄧禹

橘誠治

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第三章 敗残編

放棄

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 次の日から、鄧禹と赤眉との小競り合いが始まった。
 正確には鄧弘と、華陰や湖近辺にいる赤眉の小部隊との小競り合いである。
 鄧禹たちは湖の近くに駐屯地を設営し、城邑に入ることはなかった。鄧禹も総大将である以上、湖城内ではなくそちらに常駐しているが、それはあまり馮異と顔を合わせたくないからだったかもしれない。


 鄧禹には馮異の言いたいことはすべてわかっていた。こんなところに居座らず、素直に劉秀のもとへ帰るべきなのだ。そもそもそれは勅命であり、逆らえば死を賜っても仕方のない重罪である。
 鄧禹はそのこともわかっていて我を通している。それは死を賭しての行為ともいえるが、同時に劉秀に甘えているとも言えるだろう。
 鄧禹にはその自覚もあり、しかし今の彼は頭で理解していてもそのすべてが心に届いておらず、ゆえにこのような一種の暴挙を続けているのだ。


 馮異もそれは理解している。が、彼に鄧禹を止める術はなかった。
 今の状況における馮異と鄧禹の地位関係は、かなり微妙で複雑なものだった。
 もし馮異が完全に鄧禹の上位者であれば、すぐに帰還命令を出し、もし逆らえば捕縛して劉秀のもとへ送るか、いっそのことその場で処刑しても罪には問われないだろう。
 だが征西将軍の地位は剥奪はくだつされたが、鄧禹はいまだ大司徒である。それは皇帝しか上位者が存在しない人臣における最高位で、馮異といえど頭ごなしに命令するなど不可能な地位なのだ。
 それゆえ馮異は鄧禹が合流したことを伝える使者をすでに劉秀に発しており、彼に対して帰還を強制できる勅使の派遣を求めている。あるいはそれでも鄧禹が言うことを聞かなければ、馮異に鄧禹を捕縛して洛陽へ送り返す許可を与える勅旨を。
 それまでは鄧禹に好きにさせておくしかなかった。


 とはいえ馮異は、鄧禹の理性はまだ完全に枯渇していないとも感じていた。
「車騎将軍しか出撃していていないのが何よりの証だ」
 鄧禹軍の陣営から日々飛び出してゆくのは鄧弘の部隊ばかりである。彼の場合、下手に押し込めて不満を蓄積させる方が危険かもしれず、戦意を小出しにしている方が制御はしやすいかもしれない。
 鄧禹自身は出撃せず、また他の将軍は抑えているところを見ると、鄧禹の目も頭も完全には曇っていないと思えるのだ。
「しかし間に合えばよいが…」
 今のところ鄧弘が小競り合いを繰り返しているのは赤眉の小部隊ばかりだが、長安から出撃した本隊・主力が徐々にこちらに迫ってきている。彼らが今現在どこにいるのかを馮異は常に把握しているが、劉秀からの勅使とどちらが先にたどり着くか微妙なところであった。
 今のところ鄧禹の理性は最後の一線を越えていないようだが、赤眉本隊を実見したときにどうなるか。鄧禹が鄧弘の出撃を黙認(おそらく)しているのは、抑え込めないということもあろうが、「抑え込まない」「抑え込みたくない」という意思もあるのではないか。
 鄧禹も本心は赤眉を攻めたいのだ。正面から。そして赤眉本隊を撃ち破り、長安失陥からここまでの屈辱をそそぎたい。繰り返される鄧弘の浪費のような突進は、漏れ出る鄧禹の願望であるかもしれなかった。
 であるなら赤眉本隊がやってきたとき、鄧禹は自分を抑えられるだろうか。馮異にはどちらとも断言できなかった。
 それゆえ赤眉襲来前に劉秀の勅使が湖に到着して、鄧禹を連れ帰ってくれるよう望まぬにはいられないのだ。


 が、馮異のその期待はかなわなかった。
 ついに赤眉本隊が湖へ近づいてきたのだ。相当の脱落者がいるであろうに、その数はいまだ二十万近く。鄧禹どころか馮異でも正面決戦は自殺行為だった。
「間に合わなかったか」
 それでも馮異は鄧禹を信じていた。むしろこれが帰還(退却)の契機になるかもしれない。
 本来、赤眉本隊の接近は予定通りなのだ。馮異だけであればここで湖を放棄し、自軍を埋伏させ、彼らが通り過ぎるのを待ち、その後を追尾して、劉秀の本隊と挟撃する。あるいはそう見せるだけで、様々な意味で消沈している彼らなら武器を捨て、降伏してくる可能性すらある。
 そのことは鄧禹にもわかっているはずなのだ。
「出撃準備」
 すでに湖退去の準備を終えている馮異は部下に命令を下すと、自らは鄧禹の屯営地へ向かおうとする。
 が、それより早く鄧禹屯営地に動きがあった。見慣れた光景である。鄧弘の軍が飛び出していったのだ。当然赤眉本隊、あるいはその先鋒を迎撃に向かったのである。


「大司徒!」
 屯営地へ踏み込んだ馮異は、本営にいた鄧禹へ大股で近づいてゆく。自分を見た鄧禹の表情は変わらなかったが、その目に怯えがかすめたように馮異には感じられた。
 それでも馮異は鄧禹へ進言する。
「ただちに車騎将軍へ帰還命令をお出しください。そして大司徒はそのまま陛下の御許おんもとへ。我らも当初の予定通り湖を放棄し埋伏いたします」
 馮異の進言は力強くありながら鄧禹への惻隠そくいんにも満ちている。
 それを感じ取ったか、鄧禹は喉から出る声を抑えるような表情でわずかに黙考すると、ようやく口を開いた。
「…わかった。馮将軍の言う通りにしよう」
「ありがとう存じます、大司徒」
 馮異は鄧禹のその言に安堵し、同時にひそかに喜んだ。やはり鄧禹はぎりぎりのところでまだ彼のままだったのだ。


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