鄧禹

橘誠治

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第三章 敗残編

敗走

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 まずは数名の兵に長安の城壁を越えさせ、内側から門を開く。城壁の警備兵は数も少なく、簡単にたおすことができた。
 開いた門から兵を突入させると、そのまま桂宮へ攻めかかる。
「皇帝を出せ! さすれば他の者は見逃す!」
 桂宮の城門に兵を集中させながら、鄧禹は宮内にいる兵や劉盆子の側近たちへ向け、声を張り上げる。こちらの目的を教え、命を保証すれば、抵抗も少なく皇帝を手に入れられるかもしれない。そうでなくとも中の人間たちの動揺は誘えるだろう。
 事実、桂宮を囲む障壁越しに鄧禹軍を防いでいた兵たちの攻撃が一瞬ゆるむ。だがすぐにこれまで以上の意気を込めた攻撃を仕掛けてくる。このあたり、さすがにまがりなりにも皇帝の親衛隊としての誇りと自覚があるのだろう。
 それでも皇帝の近侍らの心胆にくさびは打ち込まれたであろうし、奮戦する敵兵も旗色が悪くなれば寝返る可能性はある。
「さらに攻めよ!」
 内部への示威も狙い、鄧禹は兵たちへ攻撃強化を指示した。


 鄧禹は今夜の自分に運があると思っていたが、総体的に見るとやはりそうではなかった。
 近辺に赤眉のまとまった軍隊がいないかどうかを鄧禹は長安に近づいたところで偵察させたのは前記したが、これは南方へのみを指示していた。逄安ほうあんが出撃した方角は長安から見て南東であるし、赤眉の意識もそちらへ向かっている。まして北からはたった今自分が南下してきたのだ。その方向に軍隊がいれば気づかないはずがない。


 それがいたのである。この日、赤眉の有力武将の一人である謝禄しゃろくが、一隊を率いて北方へ出撃していたのだ。
 出撃といっても戦闘のためではない。狩猟のためだった。狩猟は古代の貴人にとって娯楽の一つであり、愛好する者が多かった。また多数の人員を使って獲物を追い立てる必要もあるため、軍隊の訓練としても重要なものであった。


 ただ謝禄の狩猟の主な理由は憂さ晴らしだった。
 赤眉は長安を再奪取したが、だからといって事態が好転しているわけではない。見識も展望もない彼らは、鄧禹が再建してきた長安を食い潰すのみで、物心両面でさらなる泥沼にはまっていくばかりなのだ。
 当然謝禄もそのような状況がおもしろいわけもなく、長安にいても鬱々うつうつと酒を飲むだけの日々で、その憂さから逃れるため、狩猟に出たのである。
 突発的に思いついたことなので兵もさほどの数ではなく、また貴人といっても謝禄は赤眉に立ち上げから関わっていたというだけの庶民であり、蜂起以前に狩猟の経験は一度もなかった。それゆえ収穫も大したことはなく、それなのにむきになって獲物を追っていたために、長安への帰参が遅くなってしまったのである。 


 憂さ晴らしのはずがさらに不満をためるだけだった一日に、謝禄は鬱屈が漏れ出るような表情で馬上にあった。
 日はとっくに暮れているが、野営などしたくもなく、行軍には向かない夜陰を進んでいる。それでも長安の城壁が見えてきたところで、彼はいぶかしさをおぼえた。
 有能とはいえないが歴戦の将である謝禄は、城壁の内部に不穏な空気を感じ取っていた。より正確に言えば戦闘の気配である。
「誰と誰だ」
 最初に考えたのが味方同士の内紛による戦闘のことだったのは、今の赤眉の内部事情からいえば無理もない。だがいち早く放った偵騎がたずさえてきた報告に謝禄は仰天した。
「桂宮の陛下が攻められていると!」
 いくら傀儡とはいえ皇帝が襲われているなど謝禄には信じられなかったが、それでも非常事態であることに変わりはない。誰が攻めているにしても、皇帝を救い出せば大手柄である。謝禄は兵を率い、桂宮へ向けて急ぎ長安の城門を抜け、突進していった。


 謝禄が驚いてからさほどの時間も置かず、今度は鄧禹が仰天する番だった。
 鄧禹は桂宮攻略中も各街区へ偵兵を放つことを忘れていなかったのだが、その一人がありえない方向からのありえない敵援軍の到来を告げたのだ。
「どこの誰だ!」
 鄧禹がそう叫ぶのも無理はないが、この場合、誰であるかはもうどうでもよいことだった。鄧禹の桂宮急襲軍は完全に必要最低限の兵しかつれてきていない。援軍に対して二正面作戦を敢行するなど不可能だったのだ。「風のように襲い、風のようにさらい、風のように去る」。これができなければ策戦は失敗で、そしてすでに失敗していた。
「……」
 鄧禹はこの時点ですぐさま引き上げるべきであった。普段の彼であれば躊躇なくそうしていただろう。だが今の彼は普段の鄧禹ではなかった。これまでの失敗がおりのように彼の手足にこびりつき、その動きを鈍らせる。
 それが致命傷になった。市街地を突進してきた謝禄が、その勢いのまま桂宮を囲む鄧禹軍に激突してきたのだ。
「陛下をお救いせよ!」
 凡将でもこのときこの場で取った行動は最も適切なものだった。謝禄の突撃により、兵数に余裕のない鄧禹軍の組織は一気に壊滅した。
「退け! 退却せよ!」
 さすがに鄧禹も我に返ると、蒼ざめながらの大声で兵へ退却を命じた。
 桂宮を囲っていた鄧禹兵は、今度は自らが追い立てられる形で、乱戦のまま長安街を逃げてゆく。


 鄧禹軍は、全滅はまぬがれた。理由はいくつかある。
 一つには、すでに夜だったことから視界が悪く、追跡が困難だったこと。これは逃げる鄧禹軍も同様なのだが、彼らは謝禄兵よりはましであった。理由は後述する。
 二つには、援軍として駆けつけた謝禄の兵が少なかったことがある。
 軍事訓練としての本格的なものならともかく、憂さ晴らしのためである以上、兵も最低限以下しか連れていかなかったのだ。総数からいえば鄧禹軍の方が多かったくらいである。それに加え桂宮にいる劉盆子の無事を確認したり、その後の一応の防御のために兵を割いたため、追撃に使える兵はさらに減り、鄧禹軍の逃走を助けたのである。
 そして三つには、鄧禹が最初から退却路を決めていて、それを兵や部隊指揮官に徹底させていたためである。今回の策戦の成功には、劉盆子をさらうだけでなく、その後の逃走速度も重大な要素だったためだが、その準備が活きたのだ。


 だが当然被害は皆無ではなかったし、なにより皇帝誘拐という目的は果たせず、今回の出陣が完全な無駄骨に終わったことが鄧禹を打ちのめしていた。
「……」
 鄧禹は暗澹あんたんとした表情で、敗残兵と化した自兵を引き連れ、高陵へ戻って行った。


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