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第二章 長安編
蕭王
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更始二年(西暦24年)十二月、鄧禹は西へ向かって進んでいた。
むろん一人でではない。二万の軍勢とともにである。これは劉秀軍精鋭のほぼ半数であり、それほどの大軍を預けられるだけの大任を、鄧禹は主君から与えられているのだ。
長安占拠と関中併合である。
長安は漢・新の帝都。関中は長安を含む中華の中心地。王郎を破ったとはいえいまだ北州を完全平定していない劉秀に、本来そのような余裕があるはずもないが、これを強行するだけの事態が起こったのだ。
赤眉の関中侵攻である。
この時期の赤眉は中華における最大勢力(およそ十万)だったが、長安を拠点とする更始帝に一応は臣従していた。王莽打倒と新しい王朝を建てる大義名分の最たるものが「漢再興」で、更始帝はその象徴だったからである。赤眉も自らの立場を正当化し、拠りどころを得るためのにも、この流れに乗る必要があったのだ。
だが更始政権の乱脈統治は長安を混乱に陥れ、赤眉をはじめ臣従してきた勢力への配慮も欠けていた。これではせっかくの臣従にも旨味がない。
また十万の兵や民を維持するには膨大な食糧が不可欠で、そのためには食のあるところ、あるところへと常に移動する必要があった。
かといってどの方向に動いても構わないわけではなかった。赤眉兵の大半は山東半島など東方の出身で、そちらへ向かって移動すれば彼らは帰心を刺激され、なし崩しに脱走し、軍を崩壊させててしまう可能性が高かったのだ。
樊崇たち赤眉の首脳陣は、それら様々な事情から首都圏で食も豊富であろう西へ向けての進軍を決意し、実行したのである。
この時期の劉秀は、北州の平定に全力を注いでいた。
約半年前、この年の五月に最大勢力である王郎を滅ぼしたが、まだまだ敵対勢力は多い。彼らを平定し北州を完全に支配下に置かなければ、劉秀の地盤は確立されない。
またこのときの劉秀には謝躬という同じ更始政権下の敵手もいる。邯鄲陥落の主力になったのは劉秀だが、同じく包囲に参加していた謝躬に功なしとは言えない。まして主君である更始帝は劉秀の分離独立を恐れており、それを牽制するために謝躬を派遣してきた向きもあるのだ。
その証拠ともいうべき一つの勅旨が長安の更始帝から劉秀へ届けられた。
「私を蕭王に封じるゆえ、軍を解散して長安へ戻れとのことだ」
勅旨を届けた使者を下がらせた劉秀は、近くにいた鄧禹、寇恂、呉漢らにその内容を告げたが、その表情は憮然に近く、聞かされた三人のそれも似たようなものだった。
「聞けませぬな、その勅命」
呉漢が短く言うことに鄧禹と寇恂もうなずく。
王とは爵位において最高位であり、例外はあれど一般的には皇族にしか下賜されない。
これだけなら更始帝が劉秀の功績に対し最大限の報奨を与えたかに見えるが、軍を解散して長安へ戻れと言うなら話は簡単ではない。兵権を取り上げられ、無力になった劉秀がのこのこ長安へ赴けば、彼の生殺与奪のすべては更始帝に握られることになるのだ。いや劉縯の例を考えればほぼ間違いなく殺されてしまう。
王郎のいなくなった北州は、解散させた劉秀の兵を吸収した謝躬に平定させればよく、彼ならば叛かれる心配はない。
「これが長安(更始帝陣営)の考えていることでござろう」
呉漢の言に寇恂もうなずく。
「狡兎死して走狗烹らる。長安の意図はあまりに見え透いておる」
「その狡兎とてもまだ狩りつくしておらぬ。謝躬ごときにそれが為せるとお考えか、陛下は」
「考えておるのでしょうな」
寇恂の言に呉漢が憮然としたまま言い、鄧禹もやや苦笑しながら応じる。「狡兎死して走狗烹らる」とは「価値がある時は重宝されるが用済みになれば掌を返すように殺される」という意味の諺だが、それすら中途半端な見識でおこなう更始政権に彼らは怒り、あきれているのである。
「……」
劉秀は黙っていた。臣下たちの話を聞いていないわけではない。劉秀も同じことを考えていたため問答に加わる必要がなかったのだ。
それに答えはすでに決まっている。三人の言う通り「否」である。そうでなければ殺されてしまうのだから仕方がない。そのためこの沈黙の時間は思考ではなく、劉秀の覚悟のためのものだった。
この招聘を断れば、劉秀と更始帝の間に必ず隙が生まれる。そしてそれは決して修復されないものとなるだろう。どちらかが相手を殺すか、あるいは完全に屈服させる以外には。
「…すべてを拒む必要はなかろう。蕭王の位は喜んで受け取っておくことにしようか」
おもむろに口を開いた劉秀は、いささか人が悪い表情で笑いながら言った。招聘は断るが王位は頂くというのは、確かに少々虫がいい。劉秀は諧謔好きではあるし、更始帝たちに言いたいことは山ほどあるだろう。そもそも更始帝たちは劉秀の兄、劉縯の仇なのだ。それゆえこれは更始政権への嫌がらせにも見え、そのため三人の臣下も笑ったが、鄧禹は劉秀のもう一つの真意も感じ取っていた。
「時間を稼ごうというのだな」
王位を受けるとは更始帝の勅命を半分は受け入れたということであり、劉秀がまだ自分たちに従う意思があると彼らに期待させる一因になりうる。その期待が彼らの劉秀への攻撃や牽制を遅らせる可能性はあった。実際どこまで効果があるかはわからないが、それでも打てる手は全部打っておくべきと劉秀は考えたのだろう。
劉秀は使者に「王位はありがたく頂戴するなれど、北州いまだ定まらず。ゆえに長安への帰参は平定した北州を手土産にしてのことといたしとうございます」と告げて追い返した。
これで先へ進むしか道はなくなった。劉秀らはあらためて北州平定へ全力で邁進しはじめた。
むろん一人でではない。二万の軍勢とともにである。これは劉秀軍精鋭のほぼ半数であり、それほどの大軍を預けられるだけの大任を、鄧禹は主君から与えられているのだ。
長安占拠と関中併合である。
長安は漢・新の帝都。関中は長安を含む中華の中心地。王郎を破ったとはいえいまだ北州を完全平定していない劉秀に、本来そのような余裕があるはずもないが、これを強行するだけの事態が起こったのだ。
赤眉の関中侵攻である。
この時期の赤眉は中華における最大勢力(およそ十万)だったが、長安を拠点とする更始帝に一応は臣従していた。王莽打倒と新しい王朝を建てる大義名分の最たるものが「漢再興」で、更始帝はその象徴だったからである。赤眉も自らの立場を正当化し、拠りどころを得るためのにも、この流れに乗る必要があったのだ。
だが更始政権の乱脈統治は長安を混乱に陥れ、赤眉をはじめ臣従してきた勢力への配慮も欠けていた。これではせっかくの臣従にも旨味がない。
また十万の兵や民を維持するには膨大な食糧が不可欠で、そのためには食のあるところ、あるところへと常に移動する必要があった。
かといってどの方向に動いても構わないわけではなかった。赤眉兵の大半は山東半島など東方の出身で、そちらへ向かって移動すれば彼らは帰心を刺激され、なし崩しに脱走し、軍を崩壊させててしまう可能性が高かったのだ。
樊崇たち赤眉の首脳陣は、それら様々な事情から首都圏で食も豊富であろう西へ向けての進軍を決意し、実行したのである。
この時期の劉秀は、北州の平定に全力を注いでいた。
約半年前、この年の五月に最大勢力である王郎を滅ぼしたが、まだまだ敵対勢力は多い。彼らを平定し北州を完全に支配下に置かなければ、劉秀の地盤は確立されない。
またこのときの劉秀には謝躬という同じ更始政権下の敵手もいる。邯鄲陥落の主力になったのは劉秀だが、同じく包囲に参加していた謝躬に功なしとは言えない。まして主君である更始帝は劉秀の分離独立を恐れており、それを牽制するために謝躬を派遣してきた向きもあるのだ。
その証拠ともいうべき一つの勅旨が長安の更始帝から劉秀へ届けられた。
「私を蕭王に封じるゆえ、軍を解散して長安へ戻れとのことだ」
勅旨を届けた使者を下がらせた劉秀は、近くにいた鄧禹、寇恂、呉漢らにその内容を告げたが、その表情は憮然に近く、聞かされた三人のそれも似たようなものだった。
「聞けませぬな、その勅命」
呉漢が短く言うことに鄧禹と寇恂もうなずく。
王とは爵位において最高位であり、例外はあれど一般的には皇族にしか下賜されない。
これだけなら更始帝が劉秀の功績に対し最大限の報奨を与えたかに見えるが、軍を解散して長安へ戻れと言うなら話は簡単ではない。兵権を取り上げられ、無力になった劉秀がのこのこ長安へ赴けば、彼の生殺与奪のすべては更始帝に握られることになるのだ。いや劉縯の例を考えればほぼ間違いなく殺されてしまう。
王郎のいなくなった北州は、解散させた劉秀の兵を吸収した謝躬に平定させればよく、彼ならば叛かれる心配はない。
「これが長安(更始帝陣営)の考えていることでござろう」
呉漢の言に寇恂もうなずく。
「狡兎死して走狗烹らる。長安の意図はあまりに見え透いておる」
「その狡兎とてもまだ狩りつくしておらぬ。謝躬ごときにそれが為せるとお考えか、陛下は」
「考えておるのでしょうな」
寇恂の言に呉漢が憮然としたまま言い、鄧禹もやや苦笑しながら応じる。「狡兎死して走狗烹らる」とは「価値がある時は重宝されるが用済みになれば掌を返すように殺される」という意味の諺だが、それすら中途半端な見識でおこなう更始政権に彼らは怒り、あきれているのである。
「……」
劉秀は黙っていた。臣下たちの話を聞いていないわけではない。劉秀も同じことを考えていたため問答に加わる必要がなかったのだ。
それに答えはすでに決まっている。三人の言う通り「否」である。そうでなければ殺されてしまうのだから仕方がない。そのためこの沈黙の時間は思考ではなく、劉秀の覚悟のためのものだった。
この招聘を断れば、劉秀と更始帝の間に必ず隙が生まれる。そしてそれは決して修復されないものとなるだろう。どちらかが相手を殺すか、あるいは完全に屈服させる以外には。
「…すべてを拒む必要はなかろう。蕭王の位は喜んで受け取っておくことにしようか」
おもむろに口を開いた劉秀は、いささか人が悪い表情で笑いながら言った。招聘は断るが王位は頂くというのは、確かに少々虫がいい。劉秀は諧謔好きではあるし、更始帝たちに言いたいことは山ほどあるだろう。そもそも更始帝たちは劉秀の兄、劉縯の仇なのだ。それゆえこれは更始政権への嫌がらせにも見え、そのため三人の臣下も笑ったが、鄧禹は劉秀のもう一つの真意も感じ取っていた。
「時間を稼ごうというのだな」
王位を受けるとは更始帝の勅命を半分は受け入れたということであり、劉秀がまだ自分たちに従う意思があると彼らに期待させる一因になりうる。その期待が彼らの劉秀への攻撃や牽制を遅らせる可能性はあった。実際どこまで効果があるかはわからないが、それでも打てる手は全部打っておくべきと劉秀は考えたのだろう。
劉秀は使者に「王位はありがたく頂戴するなれど、北州いまだ定まらず。ゆえに長安への帰参は平定した北州を手土産にしてのことといたしとうございます」と告げて追い返した。
これで先へ進むしか道はなくなった。劉秀らはあらためて北州平定へ全力で邁進しはじめた。
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