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私二十八歳
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父親が肺癌になった。長年の喫煙と、工場勤めで粉塵を吸い込んでいたからではないかと母親が言っていた。
私は二十五歳で親許を離れて、今は創作料理屋で働いていた。滅多に炊事の手伝いなどしなかったのに、料理が好きだと気付いたのは二十歳を超えてからだった。独立するのが夢だった。
父親は家族の中で一番疎遠な人で、若い頃は嫌ったこともあったが現在はどうでもいいというが本音だったので、癌であると連絡が来たときは色々な意味で衝撃だった。父親は六十になるので、癌になってもおかしくない年齢なのだ。しかし癌の人は身近におらず、ドラマでしか見たことのない世界だった。手術はせずに、抗癌剤をやることになった。進行しているんだと思った。抗癌剤も、入院は最初だけであとは通院だった。母親が付き添える時もあったが、今や彼女は管理職になっておりつまり忙しく、会社員の兄よりも研修医の妹よりも大学生の弟よりも飲食の私が日中自由がきくため付き添うことが多かった。
父親は女子が苦手なのだな、と気付いたのはいつだろうか。私や妹より、兄と弟を可愛がった。私達女を、何やら警戒して接していた。我が家は女性の権力やキャラクターが強い家庭だった。父親自体がこう言ってはなんだが母親に比べて持っているものも仕事への情熱も何もかもが劣っていて、そのくせ見栄っ張りでプライドが高いのでいじけると始末が悪かった。どうせ俺は、というオーラをいつも醸し出していたのである。どうせ俺はを、俺たちはにしたかったのだと思う。しかし兄はマイペースで、周囲を気にしない男だった。デザインの才能があり、文才があり、勉強もそこそこ。弟は医学部は諦めたが、放射線技師になるために勉強している。知的職業についていない私が、プライドが高いがいじけるしかできない私が、なんだかんだで父親に近い。
「お父さん、先生の話きいてた?」
「なんかよくわからん」
私と父親は、二人とも医療に疎くて医師の話が理解できない。今日から抗癌剤を変えるという。多分、今までの薬では効果があまりないのだ。抗癌剤が変わるのは四回目だ。父親が良くない状態ということだけは、私もわかった。
「俺はじじいになる前に死にそうだな」
父親は最近未婚ばかりのきょうだいに、こんな皮肉を言う。父親の時代とは違うと言っても、彼の中では二十代の後半で未婚だったり、結婚の見通しが立っていないのは信じられないことらしい。特に女子に大しては、子供が産めなくなるぞなどとハラスメントしてくる。
「子供が子供を持ったら、ようやく大人に育てたような気分になるんだ」
父親はいつも自己中心的だ。抗癌剤の後はやはり具合が悪いらしく、楽しい会話などはまったく望めない。いや、今まで生きてきて、父親と楽しく会話したことなどあっただろうか。久しぶりの関わりであるが、幸せな気持ちになることは決してない。
ある日仕事場に兄と妹が食事に来た。勤務時間内だが、個人商店らしくしばりがきつくないため、私もちょっぴりテーブルに顔を出すことになった。兄と妹が揃って登場ということは、軽く家族会議的な意味合いがあるのだと思う。
「いやぁー、ニサんちは兄ちゃんも妹もそっくりだな!」
オーナーがからかう。可愛いと言われ続けている妹や、隠れイケメンと言われることもある兄と、可愛くない私も似てはいる。少しパーツの大きさや場所が異なるだけで、随分違った人生になるものだと思う。
「お父さん、どうなの?」
妹が口を開いた。妹が研修している病院と、父がかかっている病院は異なる。私が父親の状態や治療のことを話すと、妹は専門用語を取り入れながら興味深そうに頷いた。
「私やっぱり腫瘍内科にしようかな。抗癌剤って、ものすごく奥が深い。お父さんのお陰で興味が湧いた」
「あれ? こないだはERがどうとか言ってたのに」
「体力的にやっぱりきついわ、ER。常勤するのはなかなか覚悟がいる」
妹は今専門とする科を模索中なのだ。
「でね、俺の話してもいい? 実は転勤で◯◯市の方にって打診されてんだよね」
兄が車で三時間かかる都市の名を口にした。
「はぁ?」
「受けるの?」
「転勤したら課長補佐に昇進なわけよー」
「遠すぎ。左遷じゃないのそれ。使えないから僻地に的な……」
「お父さんがこんな時に」
「いやそれでね、引っ越し必須になるし、この際結婚しちゃうかって話が出てんの」
「えっ? 誰と?」
兄はどうやらこの報告がしたかったらしい。随分昔に別れたかと思っていた年上の彼女と実はまだ付き合っていたことが発覚した。
構わない。一番上だし、三十路だし、兄が結婚するのは順当だし。
ただ、なんだろう。誰も父親のことは心配していない。兄や妹は、自分の未来のことで手一杯で、死にゆく父親のことは誰かがやってくれるだろう、心配かけないようにすればいいだろうと思っている。
私だって独立に向けて色々頑張りたい時期ではある。三十歳を目標にしている。父親の受診は今は週に一回だ。そこまで負担ではないが、何も協力しない彼らを見て少し気持ちがざわついた。
かと言って私も、本気で父親を心配しているかと問われると微妙だ。弱って卑屈になった父親と、週一顔を付き合わせて関わるのが苦痛。死んでしまえとは思わないが、何故私が、と感じることはある。
「お父さん、孫がどうとか言ってたから、そしたら伊知也が早く子供作って安心させてあげるのがいいんじゃない」
私どうしてこんなこと言うんだろう。兄がムカつく。自分のことだけに夢中で、自分だけ幸せそうにしている。そういえばそんなところは父親にそっくりな兄。
「そうなんだよねーもうすぐ彼女三十四だから、急がないと」
「お母さんには言ったの?」
「……まだ。絶対合わないと思うんだよねあの二人」
「えっどんなところが?」
兄と妹は結婚話で盛り上がっている。母親の悪口を言っている。
母親は堅実な兄の決めたことなら文句は言えど反対はしないだろう。彼女はこんなに何も協力しない兄や妹に寛大だ。私が一番協力しているのに、恐らく彼女は私が飲食店をやると言ったら反対する。面倒なことは全部私に押し付ける癖に。
父親がこの間、「案外俺の最期を見届けるのはニサかもしれないな」と言っていた。面倒だ。皆がよってたかって、私に面倒を押し付けようとしてくる。
私が兄よりも先に結婚したら、少しは私を見直してくれるだろうか?
私は二十五歳で親許を離れて、今は創作料理屋で働いていた。滅多に炊事の手伝いなどしなかったのに、料理が好きだと気付いたのは二十歳を超えてからだった。独立するのが夢だった。
父親は家族の中で一番疎遠な人で、若い頃は嫌ったこともあったが現在はどうでもいいというが本音だったので、癌であると連絡が来たときは色々な意味で衝撃だった。父親は六十になるので、癌になってもおかしくない年齢なのだ。しかし癌の人は身近におらず、ドラマでしか見たことのない世界だった。手術はせずに、抗癌剤をやることになった。進行しているんだと思った。抗癌剤も、入院は最初だけであとは通院だった。母親が付き添える時もあったが、今や彼女は管理職になっておりつまり忙しく、会社員の兄よりも研修医の妹よりも大学生の弟よりも飲食の私が日中自由がきくため付き添うことが多かった。
父親は女子が苦手なのだな、と気付いたのはいつだろうか。私や妹より、兄と弟を可愛がった。私達女を、何やら警戒して接していた。我が家は女性の権力やキャラクターが強い家庭だった。父親自体がこう言ってはなんだが母親に比べて持っているものも仕事への情熱も何もかもが劣っていて、そのくせ見栄っ張りでプライドが高いのでいじけると始末が悪かった。どうせ俺は、というオーラをいつも醸し出していたのである。どうせ俺はを、俺たちはにしたかったのだと思う。しかし兄はマイペースで、周囲を気にしない男だった。デザインの才能があり、文才があり、勉強もそこそこ。弟は医学部は諦めたが、放射線技師になるために勉強している。知的職業についていない私が、プライドが高いがいじけるしかできない私が、なんだかんだで父親に近い。
「お父さん、先生の話きいてた?」
「なんかよくわからん」
私と父親は、二人とも医療に疎くて医師の話が理解できない。今日から抗癌剤を変えるという。多分、今までの薬では効果があまりないのだ。抗癌剤が変わるのは四回目だ。父親が良くない状態ということだけは、私もわかった。
「俺はじじいになる前に死にそうだな」
父親は最近未婚ばかりのきょうだいに、こんな皮肉を言う。父親の時代とは違うと言っても、彼の中では二十代の後半で未婚だったり、結婚の見通しが立っていないのは信じられないことらしい。特に女子に大しては、子供が産めなくなるぞなどとハラスメントしてくる。
「子供が子供を持ったら、ようやく大人に育てたような気分になるんだ」
父親はいつも自己中心的だ。抗癌剤の後はやはり具合が悪いらしく、楽しい会話などはまったく望めない。いや、今まで生きてきて、父親と楽しく会話したことなどあっただろうか。久しぶりの関わりであるが、幸せな気持ちになることは決してない。
ある日仕事場に兄と妹が食事に来た。勤務時間内だが、個人商店らしくしばりがきつくないため、私もちょっぴりテーブルに顔を出すことになった。兄と妹が揃って登場ということは、軽く家族会議的な意味合いがあるのだと思う。
「いやぁー、ニサんちは兄ちゃんも妹もそっくりだな!」
オーナーがからかう。可愛いと言われ続けている妹や、隠れイケメンと言われることもある兄と、可愛くない私も似てはいる。少しパーツの大きさや場所が異なるだけで、随分違った人生になるものだと思う。
「お父さん、どうなの?」
妹が口を開いた。妹が研修している病院と、父がかかっている病院は異なる。私が父親の状態や治療のことを話すと、妹は専門用語を取り入れながら興味深そうに頷いた。
「私やっぱり腫瘍内科にしようかな。抗癌剤って、ものすごく奥が深い。お父さんのお陰で興味が湧いた」
「あれ? こないだはERがどうとか言ってたのに」
「体力的にやっぱりきついわ、ER。常勤するのはなかなか覚悟がいる」
妹は今専門とする科を模索中なのだ。
「でね、俺の話してもいい? 実は転勤で◯◯市の方にって打診されてんだよね」
兄が車で三時間かかる都市の名を口にした。
「はぁ?」
「受けるの?」
「転勤したら課長補佐に昇進なわけよー」
「遠すぎ。左遷じゃないのそれ。使えないから僻地に的な……」
「お父さんがこんな時に」
「いやそれでね、引っ越し必須になるし、この際結婚しちゃうかって話が出てんの」
「えっ? 誰と?」
兄はどうやらこの報告がしたかったらしい。随分昔に別れたかと思っていた年上の彼女と実はまだ付き合っていたことが発覚した。
構わない。一番上だし、三十路だし、兄が結婚するのは順当だし。
ただ、なんだろう。誰も父親のことは心配していない。兄や妹は、自分の未来のことで手一杯で、死にゆく父親のことは誰かがやってくれるだろう、心配かけないようにすればいいだろうと思っている。
私だって独立に向けて色々頑張りたい時期ではある。三十歳を目標にしている。父親の受診は今は週に一回だ。そこまで負担ではないが、何も協力しない彼らを見て少し気持ちがざわついた。
かと言って私も、本気で父親を心配しているかと問われると微妙だ。弱って卑屈になった父親と、週一顔を付き合わせて関わるのが苦痛。死んでしまえとは思わないが、何故私が、と感じることはある。
「お父さん、孫がどうとか言ってたから、そしたら伊知也が早く子供作って安心させてあげるのがいいんじゃない」
私どうしてこんなこと言うんだろう。兄がムカつく。自分のことだけに夢中で、自分だけ幸せそうにしている。そういえばそんなところは父親にそっくりな兄。
「そうなんだよねーもうすぐ彼女三十四だから、急がないと」
「お母さんには言ったの?」
「……まだ。絶対合わないと思うんだよねあの二人」
「えっどんなところが?」
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母親は堅実な兄の決めたことなら文句は言えど反対はしないだろう。彼女はこんなに何も協力しない兄や妹に寛大だ。私が一番協力しているのに、恐らく彼女は私が飲食店をやると言ったら反対する。面倒なことは全部私に押し付ける癖に。
父親がこの間、「案外俺の最期を見届けるのはニサかもしれないな」と言っていた。面倒だ。皆がよってたかって、私に面倒を押し付けようとしてくる。
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