まひびとがたり

パン治郎

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 三つの口を持つ朱雀門が、大きな音を立ててゆっくりと開いた。
 煌びやかな甲冑を着た衛士たちが露払いとばかりに門から駆け出してゆく。その後を官人たちが続き、帝王のために戦場への道が拓かれた。
 鳳凰を象った輦輿の上でシュウジンは短く言った。
「前へ」
 輦輿のながえを担ぐ何十人もの力者たちが、まったく等しい動作で動き出す。音を立てず、露と揺らさず、穏やかな湖面を滑るがごとくである。
 御堂の指図により、輦輿の御簾は上げられている。これから戦地に赴く帝の勇気を民衆に示す必要がある。今日という日が新時代の幕開けとなり、その先頭に立つ帝の雄姿を人々の心に焼き付けなければならない。
 まさに新帝の姿をひと目見ようと、門前に群衆が押し寄せていた。
 シュウジンは静かに瞑目した。前に父と話した時の記憶がよみがえる。
「この世でわしの思い通りにならぬことが三つある。一つは賀茂川の水。一つは賽の目。そして――燦々と陽が降り注ぐ中、一人気ままに散歩することだ」
 たしか、そんなことを言っていた。

 帝――日ノ本に君臨するただ一人の人間。治天の君――。

「父上、私です」
 シュウジンは即位してすぐに先帝(前の帝)に会いに行った。先帝は変わらず五条の東洞院にいた。背中を丸め、部屋から荒廃した庭先を見ている。
 そばにいた弓御前が恭しく頭を垂れた。
「これはこれは宗人親……いえ、ご即位なされたのでしたね。よくぞお出で下さいました――帝。もてなしも出来ぬ非礼をお許し下さい」
 シュウジンは小さく頷いた。
「構わないよ、弓御前。少しだけ二人にしてくれないか?」
「ええ、時の許すまで」
 弓御前は衣擦れの音もなく部屋から出て行った。
「父上」
 シュウジンは先帝の背中に呼びかける。だが、返事はない。虚ろな視線を浮かべるのみで、何も捉えてはいなかった。言葉も届いてはいまい。が、シュウジンはそれでも父の背中に言葉をかけた。
「今日は天気が好いですよ」
 荒れ果てた庭に暖かな日差しが当たっている。
「僕は帝になりました……小さい頃から、いつかその日が来るとは思っていましたが、まさかこんなに早く来るなんて」
 シュウジンは先帝の隣に座り、草が伸び放題の庭先を眺めた。
「父上、僕はあなたを父だと思ったことがありません。抱っこしてもらったことも、一緒に歩いたことも、歌を詠んだこともない。ですが、今、ようやくあなたを父だと思える気がしています」
 俯いていた先帝がわずかに顔を上げ、シュウジンの方を向いた。
「父上……?」
 しかし、先帝の目はシュウジンではなくひらひらと舞う蝶を捉えていた。そうとわかったシュウジンはゆっくりと空を見上げた。雲間から日輪が覗いている。眩しくなって目を細めた。
「慣例により、あなたに『上帝』の尊号を贈ります。どうかご心配なく。私は立派に務めを果たしてみせますから――」

 シュウジンは目を開いた。
 今、輦輿の上から見下ろす人々はみな、ひとしく帝の臣民である。
 期待と不安がないまぜになった視線を一身に受け、シュウジンは奇妙な感覚にとらわれた。
 誰もが自分を見ていながら、まるで見ていない。自分の肉体が透明になったかのように、人々の視線が通り抜けてゆく。
「そっか……あれは優しさだったんだな……三つどころじゃなかった」
 ふと、無数の群衆の中に二つの目を感じた。セナだった。
(すまない、セナ――どうか僕を見ないでくれ……僕はもう……)
 シュウジンはセナの目を避けるように、ただ前だけを見つめた。

          ※

 豪奢な輦輿で戦場に赴くシュウジンを、セナは群衆の中から見上げた。
 いつもの微笑は掻き消え、口元はきつく結ばれている。日月星辰の宝冠も、淡い黄金色の錦の衣装も、何だか重そうに見える。
「シュウジン……」
 京の都の民衆は、二度と見られない新帝の姿を目に焼き付けようと肩をぶつけ合っていた。帝に声をかけることは許されていない。威圧する衛士の頭越しに、すがるような表情で新帝に不安な気持ちや憂いを訴えていた。
「あの帝は若すぎる……御堂様お一人で大丈夫なのか」
「前の帝はどうしてしまったんだ。これから一体どうなる……」
「また都で戦が起こるのかな……」
 新帝が通り過ぎたあと、方々から声が漏れ聞こえる。
 東国から大軍が押し寄せている。再び戦火が都を覆うことを恐れているらしい。
 セナはただ一人、別の思いでシュウジンの姿を見つめていた。
(本当に……これでいいの……?)
 もうすぐシュウジンと実真が戦場であいまみえる。
 どうしてこうなってしまったのか。
 自分の中に存在する大事な人たちが、そうとは望まぬまま、時代の波に押し流されて、ついに戦いの道を交差させた。時は待ってはくれない。

 ならば――セナは小さく拳を握る。

「このまま……終われない」
 セナは駆け出した。向かう先は謡舞寮。みんなのいる場所。朱雀門から右手に折れて、塀よりも大きな松の木が目印。セナは門をくぐった。
「セナ!!!」
 白砂の庭に生徒たちが勢揃いしていた。静乃、りつ、サギリもいる。
「おかえり、セナ――」
 静乃がセナの手を取った。セナもその手を握り返す。
「ここで会えると思っていたよ、静乃」
「人助けは出来たのか?」
 りつがそう言うと、サギリも、どうなのよ? とセナを見る。
「うん……そうだと思いたい」
 あやふやな返事に、りつはフッと笑う。
「まあいいさ、こうしてセナも静乃も戻って来たんだ。やっと、謡舞寮は元の姿を取り戻した。長かったけど、終わってみればあっという間だな」
 その言葉を、他の生徒たちも感慨深そうに聞いていた。
「でも、これからどうするの?」
 サギリが不安げに言った。戦乱の嵐がすぐそこまで迫っている。京の都は空気を重くし、暗く沈んでいる。鳥も犬も何かを感じて鳴くのをやめた。
 セナが生徒たちの中心に進み出た。
「みんなにお願いがある。でもその前に、一つだけ聞いてほしい」
 静乃はセナの思惑にピンと来た。
 それを察したようにセナは静乃に頷く。大丈夫、と言うように。
「みんなに黙っていたことがある――実は私……鬼なんだ」
 生徒たちは静かに目を見合わせた。りつとサギリも互いに見合う。
「私は黒鬼という鬼に育てられた。謡舞寮に来たのは帝に近づくため。そして暗殺する命令を受けていた。それも結局、有耶無耶になったけど……だから、みんなとは違うの。空っぽだったの。そんな気持ちで謡舞寮に入ってごめんなさい。ずっと黙っていてごめんなさい」
 セナは俯いた。すると、一斉に笑いが噴き出すのが聴こえてきた。
「え……」
 顔を上げると、笑顔のりつが涙を指で拭いながら言った。
「何かと思えばそんなことかよ」
「今さらそれぐらいで動じないわよ。さんざん人を振りまわしといて」
 サギリも笑いを噛み殺して言った。他の生徒たちも同じようだった。
「前にも言ったろ?」と、りつが言った。「あのときセナが諦めなかったから、あたしはここにいる。サギリもそうだろ?」
「ま、そんなこともあったわね、あはは」
 だからさ、とりつは続ける。
「どうでもいいんだよ、昔のことなんて。今はどう? まだ空っぽ? そんなことないよな。だって、あたしたちがいるんだから」
 みんな微笑みを浮かべながら、うんうんと頷いていた。セナはフッと身体が軽くなった気がした。腹の底から自然と嬉しさが込み上げてくる。
「良かったね、セナ」
 静乃がセナの背にやさしく手を置いた。
「うん……」
「それで? 頼みって何だ? 言ってみろよ」と、りつ。
「ま、あんたに驚かされるのも慣れっこだからね」と、サギリ。
「うん、ありがとう。あのね、戦を止めたいの」
 セナはサラッと言った。すると、一瞬にして沈黙の幕が下りた。
「ええええええ!?」
 みんな一斉に驚きの声を上げた。松の木が揺れるほどだった。りつもサギリもあんぐりと口を開け、他の生徒たちも肌から色味を失い、さすがの静乃も予想外の展開に言葉を探しあぐねていた。
「……え?」
 みんなが驚いている。セナは首をかしげた。
「え? じゃねえよ! 自分で何言ってるかわかってんのか!?」
 りつはセナの肩を掴んだ。サギリも続いて両手でぎゅうっと頬を挟む。
「そうよあんた! い、いく、戦を止めるってなな何? どういうこと? まったく理解出来ないんですけど!」
「そのままだけど……」
「戦って、実真様と新しい帝のことよね?」
 静乃も困惑を眉宇に浮かべている。セナは頷く。
「そう。私は二人に戦って欲しくない。実真も、シュウジンも、本当は戦いなんて望んでいないはず」
「シュウジンってあの時のあいつか?」
「あの、大学寮の美少年!?」
 サギリの本音にりつはじーっと見つめる。
「な、何よ」
「へぇ……って思った」
「うるさいうるさい! それより、そのシュウジンが新しい帝なの?」
「そう。宗人親王。前の帝の子供だった。でも、そんなことはどうでもいい。あのシュウジンが戦をしたがってるとは思えない。実真もそう。二人とも戦いなんか向いていない」
 セナは言い切った。一方は東国の盟主。一方は治天の君。
 さすがにみんな戸惑った。戦は遠い別世界の出来事で、その指導者の頭の中など想像したこともない。いち民衆は、とかく火の粉をかぶらないようにして生きて来た。まさかその戦を止めようとは、絵物語に飛び込むようなものだ。
「それで、何か考えはあるの?」
 静乃が問う。
「ない。だから一緒に考えてほしい。それが私のお願い……お願いします」
 そうして深々と頭を下げる。生徒たちは不安そうに顔を見合わせた。だが、答えは決まっていた。戸惑う視線はしだいに定まり、意志を確認し合うように互いに頷いて見せる。腹はくくった。たった一人の友のために。
「こうなったらやるしかない! 作戦会議だ!」
 りつのひと声で、みんな修練用の大広間で輪になって座った。
 みんな思い思いに考え、言葉にし始めた。
「で、どうする?」
「どうするって……戦をやめてって言うしか……」
「言って止まるのかな?」
「でも、一回も言われてなかったら? 偉い人から戦をやるぞって言われてみんなやるんでしょ? じゃあ、やめようって言う」
「そうかもだけど、戦場にはその偉い人もいるんでしょ? 難しいと思う」
「ほんとはやりたくなくても、言い出せないよね」
「じゃあ出来なくするのは?」
「どうやって?」
「武器を捨てちゃう。そしたら戦なんて出来ないよ」
「なるほど、良い考え……でも、全部なくせるかな? もし誰かが隠し持ってたらその人の一人勝ちになるんじゃない?」
「時間をかければ出来るかもしれない。けど、目の前の戦は止められない」
「そっかぁ、難しいなあ」
「それに素手でも殴り合いは出来るしな」
「あのさ! そもそも何で戦って起こるの?」
「うー、そもそもねぇ」
「それは……」
「それって戦をしたい人がいるから? それとも、たとえ嫌でも戦はやらなきゃいけないものと思い込んでるから?」
「戦は絶対に止まらないって?」
「そうそう」
「あり得る。あり得るわ。大いにあり得る」
「じゃあ、戦をしたい人に戦は出来ないと思わせるの?」
「それと、他のみんなも戦なんかしたくないよって、気付かせる」
「そして、戦は止められるんだって」
「そこで私たちに出来ること……」
「ねえ、私たちが出来ることなんて、たかが知れてない?」
「はは、そうね。知れてるわ」
「無謀よ無謀。それをやろうってんだから、バカよね私たち」
「はっはっは! 大バカだ!」
 みんな顔を見合わせ、小さな笑いが大きな笑いにふくらんだ。
 そして深い沈黙が訪れた。だが、沈んだ空気はゆっくりと動き始める。
 セナが顔を上げ、口を開いた。
「私たちに出来ること……でも、私たちにしか出来ないこと」
 その場の全員が、たった一つの答えを頭の中に思い浮かべた。
「あああああーっ!!!!!」
 唐突に叫んだのは静乃である。こんなに声を張り上げるような娘ではないと思われていたので、みんな唖然としていた。
「ど、どうしたんだよ静乃」と、りつ。
「あんた、そんな子だっけ?」と、サギリ。
「ば、ば、ば」と、静乃。
「ば?」と、セナは首をかしげる。
「万里の国よ! 万里の国。やっとわかったわ。そうだったんだ」
「何の話だよ?」
「憶えてない? 前に先の帝がここに来ておっしゃってたこと」
 サギリはポンと手を合わせる。
「あったあった。たしかあの時……」
 みんな思い出したようだった。謡舞寮に入って間もないころ、先帝が話した、万里の国の半分を一人で魅了した歌上手のことを。あの時は一人の女官が先帝の問いに答えられずに謡舞寮を追放された。鮮明に記憶に残っている。
「歌上手がもし京の都にいたらってヤツだよね?」
「あの女官の人、可哀想だったな……」
「何で追い出されたんだっけ? 間違えたから?」
 みんなの視線を受けて静乃が応える。
「私ね、あの時の問いの答えは間違ってなかったと思うの。もし万里の国の半分を魅了する歌上手が京の都にいたら、きっと国中を魅了したはずだもの。でも、それだけじゃ先の帝は満足しなかった」
「答えだけじゃ五分だって言ってたっけ」
「そう、五分。だけど残りの五分が今ようやくわかった」
 それは? とみんなが静乃に注目する。
「心よ――弓御前さまは最初から教えてくださってたんだわ」
 心ぉ? とみんな首をかしげた。
「それがどう関係があるんだ?」と、りつ。
「うん、あのね、ちょっと想像してみて――もし歌が剣だったら」
「歌が剣……うーん」
「ある街に凄まじい剣の使い手がいたとして、それだけで国中を恐れさせることが出来る? たとえ使い手が目の前にいても、逃げてしまえばもうおしまい」
「……あっ!」
 生徒たちからぽつぽつと表情を明るくする者が現れ始めた。
「でも歌は違う。場所も身分も関係ない。人の心に伝わって、それが波紋のように響き合うの。だからこそ国中に伝わって魅了できる!」
 みんながそれぞれの顔を見合わせる。希望めいた予感が腹の底から押し寄せるのをくすぐったく感じ、衝動がざわざわと皮膚の上を走った。
「風だ――」セナが最後に顔を上げた。「やるべきことが、今、わかった」
「うん、何をすればいい?」
 瞳を輝かせた静乃の問いにセナは深く頷く。
「私たちに出来ることはただ一つ。戦場を舞台に変えること」
「舞台に!?」
 全員から驚きの声が漏れた。
「そう、舞台。歌と舞で戦なんか吹き飛ばしてやる」
 その時だった。修練の広間の戸が勢いよく開いた。望月たち謡舞寮の女官が勢揃いしている。広間に入るや生徒たちと対峙した。
「話は聞いた。お前たち、まさか戦場に行く気か?」
 望月の冷たいほど凛とした声が通る。セナはみんなをゆっくりと見渡した。視線が重なるたびに、一人一人が頷きを返す。
 セナは望月と正面から向かい合う。
「はい」
「戦場に行って、歌と舞を披露すると?」
「そうです」
「戦場がどんなところかわかっているのか?」
「もちろん」
「お前たちが歌と舞を披露したところで、何かが変わるとでも?」
「やってみないとわからない」
「いいや、まったく無謀だ。自分たちだけでこの世を動かすつもりか? 傲慢にも程がある。身の程を知れ!」
 その一喝が広間の空気を砕いた。しかし、生徒たちはいっせいに望月を見た。物言いたげな目で。それを受けて、望月は優しい声で言った。
「なぜ私たちを頼らない」
「……え?」
「お前たちはまだまだ未熟だ。私たち大人だって完璧とは言えない。が、少しは多くを知っているつもりだ。お前たちに教えられるほどな」
「望月さま……」静乃が驚きの声を漏らした。
「私たちにも手伝わせてほしい」
 望月はたしかにそう言った。他の女官たちもしっかりと頷いて見せる。
「戦場には何万もの兵士がいる。お前たちの歌声や舞姿だけでは届かずとも、私たちが合わされば届くやもしれん」
 その申し出に生徒たちは沸いた。修練ではとても恐ろしい女官たちが味方になってくれる。こんなに心強いことはない。嬉しさと安堵が混じった笑みの吐息が広間に充満した。
「そうか……」セナがただ一人、何かに気付いたように呟く。
「どうしたの?」と、静乃。
「全部が変わればいいんだ」
「全部?」
「そう、だからもっともっと必要」
「何が……?」
「都を動かす」
「都を!?」
「みんなに呼びかけるの。戦は目の前に迫ってる。無関係じゃいられない」
「セナ、本気か?」
 望月がセナを真正面から見据えた。セナは頷く。すると生徒たちから笑い声が漏れ聞こえる。そこでりつが言った。
「ははは、それでこそセナだ。よし、やるぞ!」
「都が燃えたら私の居場所が無くなっちゃうもんね」
 サギリも続いた。不思議とみんなの気持ちが落ち着いた。目標が大きければ大きいほど腹も据わって来るものらしい。ついに望月たちも笑った。
「こうなれば我らが研鑽した技のすべてをご披露しよう。謡舞寮から楽器と衣装を自由に持ち出してかまわない――問答は終わりだ。私が許可する!」

          ※

 謡舞寮の生徒、女官たちはみな思い思いの装束に身を包んだ。
 そして龍笛、篳篥、琴に鼓に琵琶などなど、楽器を担当する女官たちはそれぞれの得意なものを手に持った。
「望月様――支度が整いました」
 生徒の一人が、弓御前の屋敷の一室にいた望月を呼びに行った。彼女の目の前には、一つの舞装束が飾られている。太陽の天冠、白綾の狩衣、薄色の袴――かつて浮世が纏っていた衣装である。
「セナと静乃を呼んでまいれ」
「は、はい」
 セナと静乃はそろって弓御前の屋敷に向かった。
「望月様……何用でしょうか」
 静乃の問いに望月は頷いて見せ、背後の舞装束に視線を移した。
「この舞装束は天女の衣と呼ばれている。初めて見ると思う。私も弓御前様から聞いただけだが、かつて天女の舞を差した舞人の衣らしい」
 セナと静乃は思わず目を合わせた。これを見るのは二度目である。それも謡舞寮に入って間もないころ、深夜に忍び込んだ時に。
「どうした?」
「いえ……」
 セナと静乃は無言のうちに、あれは内緒にしておこう、と目で示した。
「それで、これが?」セナは問う。
「この装束、これまで袖を通すにふさわしい者がいなかった。どんなに技量を磨いても、あふれる才を示しても、誰一人として弓御前様はお認めにならなかったのだ。むろん、この私にもだ……長い憧れだったよ」
 だが――と、望月はセナと静乃に微笑を向ける。
「どうしてだろうか、お前たちのどちらかならば、この装束にふさわしいとお認めになる気がするのだ」
「私たちが……」
 静乃は光に満たされた部屋で、あらためて天女の装束と対峙した。夜にも輝きを失わずにいた装束は、陽を浴びて美しさをより際立たせていた。まるで何層にも重なる光の霧を纏っているようである。
 見る者を惹きつけ、舞を艶やかにする。極上の舞装束に違いない。
(これは浮世さんの……だとしたら……)
 静乃は天女の衣の正体に気付いていた。
「私には不要。これは静乃が着るといい」
 セナは言い切った。静乃は驚いてセナを見る。
「えっ、でも」
「私には似合わない」
 そう言って、セナはニッと笑った。静乃はぽかんと口を開けた。
(そっか……そうだったんだ)
 静乃は望月に向き直る。
「望月様、私にも似合いません。なので辞退します」
「何だと? これほどの装束、日ノ本に二つとないのだぞ!?」
「いいえ、そんなことありません」
「どういう意味だ」
「それぞれがそれぞれでいいんです。私もセナも天女じゃない……だけど、だからこそ、私たちだけの舞を差すんです――でしょ?」
 静乃はセナに問いかける。セナは少し考え、頷く。
「わからない。だけど、それでいい」
 望月は二人のやりとりを見てフッと笑いをもらした。
「まったくお前たちと来たら……うらやましいよ」
 それから静乃は純白の地に錦で彩った舞装束を身に着け、みなの前に現れた。唇に紅を差し、髪に櫛を通したその姿は一人前の舞人と遜色ない。生徒たちはわぁっと声を上げ、その美しさに感嘆の息をもらした。
 そして、セナは紫がかった黒の舞装束を着て、白砂の庭に来た。
「セ、セナ、そんな衣装でいいのか?」
 りつは驚いて思ったままを口にする。
「私は昔こう呼ばれていた……愛宕の黒猫」
 そう言って、黒の舞装束を広げて見せる。髪の毛も瞳も、吸い込まれそうなほど深い黒を湛えている。新雪のような肌がそれを際立たせた。静乃のような洗練さはないが、見るほどに引きつけてやまない。
「みんなも綺麗」
 セナは微笑を浮かべて言った。みんな顔を見合わせて笑う。
「世辞でも嬉しいよ」
 りつは望月に視線を移した。
「準備は整いました」
 望月は深く頷く。
「このような舞台は二度とない。ここで学んだことだけでなく、これまで生きたすべてを出し切ると心得よ――往くぞ」
「はい!!!」
 少女たちの凛とした声が涼やかに響き渡った。

          ※

 京の都は嘘のように静まり返っていた。
 貴族、官人から庶民まで約十数万人が暮らす日ノ本一の巨大都市が、まるで息を潜めて身を隠すようにジッと気配を殺している。すべての門戸はかたく閉ざされ、嵐が過ぎ去るのを待っていた。
 謡舞寮の少女たち、そして女官たちは、無人の大路・小路に散らばって屋敷の奥にこもった都の住人達に呼びかけた。
「私たちの話を聞いてください! 歌と舞で戦そのものを無くします! 私たちだけじゃ無力だけど、みなさんの力が合わさればきっと出来るはずなんです! お願いです、力を貸してください!」
 街角の方々で、懇願する声が上がる。
「もうじき戦になる! また都が燃えるかもしれないんだぞ!」
「今ここで動かなきゃ、声を上げなきゃ、何も変わらないよ!」
「一緒に来てくれるだけでいい、みんなの声を届けたいの!」
 悲痛な叫びは静寂に吸い込まれた。都そのものが死んでいるようだった。
 ある民家の戸が開いた。ひと組の中年夫婦が出てくる。謡舞寮の生徒はパッと顔を明るくするも、彼らの鋭い目を見て青ざめた。
「お前たちうるさいぞ、バカなこと言ってんじゃない!」
「夢みたいなこと言ってみんなを惑わせないでちょうだい」
 そうして、戸はピシャリと閉められた。
 他の場所でも同じだった。顔を出してくれる者はみな、謡舞寮の生徒たちに批判を浴びせるのが目的だった。
「そんな綺麗ごと言って、何が目的なんだ。騙そうってのか!?」
「けっきょく戦場に連れて行く気でしょ? 怖いこと言わないでよ!」
「俺たちに関係ないだろ! いいかげんにしろ!」
 少女たちは何も言い返せなかった。自分たちだって心のどこかでそう思っているからだ。確信があるわけではない。
 かすかな希望に衝き動かされて街に飛び出したものの、現実は雲を掴むようなものだった。冷たい雨に打たれるように、むなしさが肩を重くした。
 諦めそうになる――すると、一人の男の声が上がった。
「歌と舞で戦を止めるだってェー? そんなことができるっていうのかー? だとしたらおれも手伝うぞー」
 なんともぎこちない演技丸出しの喋り方。声の主は隻眼の景平である。
「お前という男は……」
 静乃は呆れ気味に景平を見た。筆頭女官の望月がフッと小さく噴き出す。つられて他の生徒たちも笑った。ささやかな温もりが灯火のように生まれた。
「そうね、諦めちゃダメだわ」
 静乃は凍えそうになる表情をゆるませた。
「ほんとうに、止められるのかね?」
 背後から声がした。振り返ると一人の老婆が立っている。
「私の孫が戦場に駆り出されているんだ。もし、ほんとうに戦が止められるのなら……私に何かできることはあるかい?」
 老婆は切実な目で静乃を見た。静乃は深く頷く。
「できることはあります。ただ、戦が止まる保証はありません。でも、何もしなければ何も変わらないし、始まらない。だから行くんです」
「それでもいい。私は息子を前の戦で亡くした。もう、戦はごめんなんだ」
 その様子を見ていたのか、ぽつぽつと都の人々が朱雀門の前に集まり始めた。
 みんな誰もが戦で家族を失っていた。父と母、夫と妻、兄弟姉妹。そこに何の決まり事もなく、強ければ生き、弱ければ死ぬのでもない。ただ理不尽に、ただ無情に失われた命だった。
 セナは集まった人々を見渡す。言葉に乗せた想いはたしかに伝わった。
 だが、これでは足りない。どんなに想いが強くとも、数が少なすぎる。百にも満たないこの数では、殺意の嵐に蹂躙されてしまう。
「おい、セナ。時間だ。追いつけなくなるぞ」
 いつの間にかホオヅキが合流していた。
「うん……」
 決意の時だった。失敗する可能性はきわめて高い。みんなを危険にさらすだろう。だが、ここで諦めたら何もかもが無駄になる。セナは逡巡した。頭の中でぐるぐると思考が渦を巻く。
 そのとき、ふと頬に風を感じた。
 風の吹く先を見ると、なんと鬼童丸がいた。
 鬼童丸は篠笛を右手に持ち、ゆらりとこちらに歩いてくる。
「鬼童丸……」
「お頭……」
 セナとホオヅキは同時に声を漏らす。異様な気配が地を這うように広がり、朱雀門の門前広場は一気に静まり返った。謡舞寮の生徒たちも女官も鬼童丸の出現に気付いて言葉を呑む。緊張が走った。
 セナの前に立った鬼童丸が口を開いた。
「セナ、忘れちまったのか? 言葉で言ってダメな時、どうすんだ?」
「言葉で……?」
「教えたはずだ。忘れたとは言わせねえ」
「耳――」
 言葉でダメなら耳でわからせろ――鬼童丸の教えの一つだった。喧嘩で殺し合いにまで発展しそうな時、当事者たちの耳たぶを切って仲裁する。それはつまり痛みでわからせろという意味である。
「でも……」
「風は自在に形を変える。一つのことがすべてじゃない」
 そう言って、鬼童丸は篠笛を唇に当てた。懐かしい笛の音が響き渡る。
 雪解けの清流のような澄んだ無数の音がやさしく絡み合い、まるで糸をつむぐように一つになってゆく。それはたちまち音色となった。
 緊張と不安と絶望で凍えそうだった空気が一気にやわらぎ、ほぐれてゆくのを誰もが感じた。鬼童丸は目で微笑を作り、唇から笛を離す。
「風はいつでも吹いている――もちろん、今この瞬間にもだ」
「鬼童丸……」
「行ってこい、セナ――お前は風の子だ。自由の子だ」
 セナは力強く頷き、前を向いた。
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★第9回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 「近頃、吉原にて次々と遊女の美髪を根元より切りたる『髪切り』現れり。狐か……はたまた、物の怪〈もののけ〉或いは、妖〈あやかし〉の仕業か——」 江戸の人々が行き交う天下の往来で、声高らかに触れ回る讀賣(瓦版)を、平生は鳶の火消しでありながら岡っ引きだった亡き祖父に憧れて、奉行所の「手先」の修行もしている与太は、我慢ならぬ顔で見ていた。 「是っ非とも、おいらがそいつの正体暴いてよ——お縄にしてやるぜ」 ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」に関連したお話でネタバレを含みます。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

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大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

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 物事は上手くいかない。  それは異世界でも同じこと。  夢と好奇心に溢れる異世界の少女達は、恥辱に塗れた現実を味わうことになる。

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