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オメガ性不安定症

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昼食後、俺は人目を避けて一人で保健室にやってきていた。
口にくわえた薄い金属の棒に彫られた模様の色が赤から緑に変わる。
検査完了の合図に俺は棒を口から抜いて、渡されていた清潔な布で口に含んでいた部分を拭いて包んだ。
「終わりました」
「ん。オーケー。どれどれ」
魔力検査の魔道具を保険医に渡すと、包んだ布を無造作に置かれた箱に捨てるように入れて、棒は机の上に置かれた正円が書かれた紙の上に置く。
印画紙に反応して魔道具の文様が光り、その下からまるで植物の根が蔓延るように何かしらの幾何学模様が円の中に広がっていった。
しばらく待つと情報をすべて転写し終えた棒から光が消え、文様の色が緑から赤に戻る。
それ以上の変化がないことを確認して、保険医は検査に使った魔法具を消毒用アルコールの入った瓶にひょいと放り込んだ。
「ふむ……」
知識の無い俺には描かれた魔法陣が何を表しているのかさっぱりだが、保険医は俺のカルテを手に取り、しげしげと眺めている。
黒縁眼鏡の奥で光る琥珀色の眼差しが、紙面上をあちこちと見比べているのが見て取れた。
頭の上から伸びる狐族の耳が時折動くのはたぶん、考え事をするときの彼女の癖。
若く見えるが、年齢の話には無言の笑顔で圧をかけてくるので正確な年齢を知る生徒はいない。
肩口にかかるほど伸ばした稲穂色の金髪が気になるのか、カルテを凝視したまま時々手で直していた。
俺はただ、白衣の女性が告げる言葉を座して待つ。
「……少し、前より不安定になっているね。何か、精神的に弱っているようだ」
ハスキーボイスで伝えられた言葉に、俺は肩を落とした。
「実習のせいでしょうか」
「ああ、うん。そう言えば帰ったばかりだそうだね。だとするとこれは一時的なものか。いや……」
保険医はちらっとこちらを見て、机横の棚に収められた一つのファイルを取り出した。
ファイル名は見えなかったが、俺のカルテだろう。
今までの検査結果と今回の結果を見比べているようだ。
「……一時的な乱れの要因とは考えられるけど、直接影響が出たという感じじゃないね。今まで通り緩やかに悪化、という具合だ」
「そうですか……」
「ああ、悪く取らないでくれ。つまりは現状維持ということだよ。なにぶん、多感な時期だ。ブレが大きくなるのは仕方のないことだよ」
フォローされたが、俺の気持ちは晴れない。
保険医はカルテを机に置いて、俺を見て苦笑いを浮かべる。
「待て待て、そんなに落ち込むんじゃない。特別珍しい症状ってわけじゃないんだ。同じ症状の患者は今もどこかにいるし、大半は自覚症状のないまま思春期を終えて安定するもんさ。君だって変異が始まるレベルには程遠い。よく食べ、よく寝る。そして思いつめない。それがこの病気の唯一で最大の治療法だよ」
「はい……」
それは、何度も言われているからわかっている。
わかっているが、それは何もできることが無いのと同じだ。
これでも十分、普通に過ごしているつもりだ。
それなのにちっとも良くならないのでは、焦りもする。
そんな俺の心の内を見透かしたように、保険医が鼻を鳴らした。
「せいぜいがあと一年ってところだよ。それまでの辛抱だ。悪くなってると言ってしまったが、この様子なら変異のレベルに到達することはないから安心したまえ。繰り返すけど、この病気は思春期の若者なら無自覚に起きていて何もないまま安定することの多い、ありふれたものなんだ。それでも不安なら、いつものように安定剤を出しておくけど」
「お願いします」
「オーケイ。ちょっと待ちたまえ」
すがるような気持ちで首を縦に振ると、保険医は薬品棚から箱を取り出し、中にあった小瓶を一つ取り出す。
ラベルを確認して差し出されたそれを、俺は受け取った。
「一日二回、朝食後と夕食後に一粒。わかっているね?」
「はい」
「よし。じゃあ診察は終わりだ。お疲れさん」
「ありがとうございました」
「青春を謳歌したまえ、若人わこうどよ」
冗談なのか応援なのかわからない言い回しで送り出され、俺は保険医に頭を下げて保健室の扉に手をかけた。

それの始まりは、特待科に進学してすぐの頃。
寮の風呂でルームメイトに、抜け毛のことを指摘されたところからだった。
Ωの彼にはそのような体毛がないから気になったのだろうが、排水溝に溜まる毛の量をよくよく見てみると、換毛期でもないのに多すぎる。
あげく、身だしなみのために尻尾を梳いたブラシにまでごっそりと毛が残るのを見て、俺は戦慄した。
まさかこの歳で脱毛症……?
恐ろしい不安と共にこっそり訪れた保健室で俺に告げられたのは、それ以上に衝撃的な病名。
オメガ性不安定症。
曰く、かつて大昔の人類は今でいうΩの姿をした者だけだった。
そこに何か、神話では人に神の加護がもたらされたとなっているが、歴史学者によると何らかの大厄災、あるいは大厄災に対抗するための手段として、獣の血をその身に宿す人類が誕生した。
それが亜人、今のβだ。
亜人は瞬く間にそれまでの人類から世代交代し、しかしその後、稀に旧人類の姿をした先祖返りの子供が生まれるようになった。
彼らはβと子供を作ることができず、体は小さく弱かったために劣等種の扱いを受けた。
それがΩだ。
さらに同時期に生まれ始めたのがα。
亜人より強く獣の加護を受けた、獣人の登場だった。
αはΩに対して本能的に親愛感情や庇護欲を持つ傾向が強く、生殖能力が無いと思われていたΩはαとの交わりによって、それまでの男女という性別とは関係なく子を作る能力があるということも知られていった。
そうして第二の性別、オメガ性という概念が全世界に広まったのだという。
話を戻すと、人類だけが持つ第二の性別、オメガ性。
その中でβは、αとΩの中間、中立の性別になる。
だから、あり得るのだ。
βとして生を受けながら成長期に性転換を起こす、そんな事例が。
その前兆がオメガ性不安定症と呼ばれていた。
原因不明、特効薬も無し。
ただ精神的な影響が大きいということ、成長期を終えると安定し性転換の兆候は無くなるということだけがわかっていて、だからこの病気の治療法はとにかく『気にしないこと』しかない。
そして、万が一にも性別が変異してしまったら二度とβには戻れない。
その病気の説明を聞いたときから、俺の心にはいつも靄がかかっていた。
鏡を見ると、耳が退化し、毛並みも抜け落ち、尻尾も千切れ落ちた自分の姿の幻が見える。
もし、自分がΩになってしまったら。
あんな、弱々しい姿に……
(冗談じゃない!)
想像するだけで、耐えられない。
Ω相手に偏見などは持っていないつもりだ。
だが、自分がΩになるかもしれないと聞かされては話が違う。
小さな町でも俺は貴族、領主の子。
将来は家を継ぎ、街の象徴となるべく生まれてきた。
弱くては駄目なのだ。
弱くては、守れない。
Ωの姿が目に入るたびに心の奥がざわざわとささくれ立つ、理屈じゃないその感情を、どう抑えたらいいのかわからないんだ。
気にするな、と言われるほどに気になる感情が多くなる。
ジュノ先輩に関してもそうだ。
あの人を前にして感じた、親近感と憧れの感情。
男ながらに、あの白い狼を美しいと思ったあの感情は……
あの胸の高鳴りはもしかしたら、内なるΩが起こした衝動ではないか?
先輩とΩの少年が抱き合う姿を見て感じたのは、Ωの嫉妬だったんじゃないのか?
そう考えずにいられない。
だから、

「あ……」
扉を開けると、同じタイミングで保健室に入ろうとしていた小さな影と危うくぶつかりそうになる。
港町の生まれと言っていた褐色の肌と銀髪。
同い年だというのに子供かと勘違いしそうな小さな体。
その弱々しい姿には、きっと誰もが庇護欲を刺激されるのだろう。
ハリムという名前のΩ。
俺の、ルームメイト。
「ご、ごめん」
と、扉の影に体を避けるその子を一瞥し、俺は無言で保健室を後にする。

だから俺はΩを見るとどうしても、どんな言葉をかければいいのかわからなくなってしまうのだ。
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