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7章

真夜中の刺客

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 浅い眠りを漂っていたリリアルーラは、スウッと眠りから浮上した。うっすらと目を開け、帳越しにも眩いランタンにもう一度目を閉じる。隣にはまだ、愛するサジャミールの姿はない。彼が来るのはともすれば夜明け近くとわかっているのに、訪れが心待ち過ぎて何度も目を覚ましてしまう自分に微笑み――かすかに空気が動く気配に気づいた。
 もしかして、扉が開く音で目覚めてしまったのだろうか? 今が何時かはわからないが、思っていたよりサジャミールの訪れは早かったらしい。いや、何度も目覚めたからこそどれだけ寝られたのかもわからないから、もう随分遅いのかも……そんなことをくるくると考えながら、リリアルーラは寝たふりを決め込む。彼がベッドに入ってきたら驚かせるつもりなのだ。
 だが、人の気配を感じはするのに、ベッドへと入り込んでは来ない。サジャミールは何をしているのだろう? 
 そっと目を開けたリリアルーラの心臓が跳ねた。
 天蓋から下りた薄い帳の向こうに誰かがいる。だが、それはサジャミールではない。ランタンの灯りに照らされてなお闇のように黒い衣に包まれた姿は、愛する金獅子よりも細く見える。
(誰?)
 こんな時間に訪れてくるなど、サジャミール以外には考えられない。リリアルーラはできる限り目を細め、起きていることを悟られぬよう呼吸を続ける。ドクリドクリと鳴る鼓動が帳の向こうに聞こえてしまいそうだが、こればかりは彼女にもどうしようもない。
 サジャミールに及ばない体格とは言え、男性であることは間違いないだろう。部屋の前には護衛がついているはずだが、彼らの目をかいくぐって入り込んできたのだろうか? ああ、だとしたらこの男の目的は――。
 静かに帳が上げられる。リリアルーラは咄嗟に起き上がり男から距離を取った。男は身体のみならず顔も黒い布で覆っていて、ギラリと光る黒い瞳だけが個を示している。彼女が目覚めていたことに気づき一瞬虚をつかれたようだが、起きているなら遠慮は無用とでも決めたのか、男はベッドへと乗り上げた。しかし勢いが良かったのはそこまで、手を伸ばせばすぐに捉えられる距離だというのに、あえて焦らすかのようにゆっくりと近づいてくる。
「どなた、ですか」
 矜持をかき集め果敢に尋ねれば、ふっと鼻で笑う気配がした。
『なに言ってっかわかんねえけど、俺が誰とか訊いてんのか? かっわいい顔して、随分と勇敢なお姫様だ。そりゃあ族長も焦るよなあ』
 体格に比して野太い声に、リリアルーラはいっそうすくみ上がる。しかし、男が話したのは何語だろう? シャファーフォン語ともまた違う響きを帯びている気がする。
「何の、ご用ですか」
『だーから、何言ってるかわかんねえって。せめてシャファの言葉で話せよ』
 シャファ、と言う言葉は聞き取れた。だがそれ以外は何も。やはりシャファーフォン語ではない。
 恐怖に犯されながらもリリアルーラは必死で後退る。髪に何かが触れ、それがベッドの下端に垂らされた帳と気づいた。このまま下がれば床に落ちてしまう――が、それしか逃げる術はない。
『大丈夫、殺しゃあしねえよ。しかし、王女様の初物をいただくなんざあ、こっちが金を払っても良いくらいの仕事だぜ』 
 下卑た口調にリリアルーラの頭が瞬いた。強烈な既視感が訪れる。黒衣と、下卑た声。聞き取れない言葉。だが、それ以上は思い出せない。そうして今は、そんなことを気にしている場合ではない。
 決死の覚悟で逃げようとしたリリアルーラの身体が、ガクンッとベッドに沈んだ。男が細い足首を掴み上げている。
『おおっと、逃がさないぜ。お遊びもここまで、ってな。時間がねえ。ちいっと痛いかもしれないが、悪く思うなよ、王女様』
 男が何を話しているのかわからないが、リリアルーラは必死で身を捩ってはジタバタとあがいた。業を煮やしたらしい男が万力のような力でリリアルーラの足首を握り、骨にまで鋭い痛みが走っても、彼女は決して諦めない。
 だが、ドスッと鈍い音が響いた途端、リリアルーラは全身を凍りつかせ男を見つめた。何かしらの刃物が寝間着ごと縫い付けるようにベッドに突き立てられている。
『時間がねえって言ったろ』
 苛立ちに粘つく声が落ちた。ランタンの灯りに照らされてなお闇に溶けるような黒ずくめの男は、全身で唯一色が異なる白目を不吉に光らせもう片方の足を掴んだ。
 絶望に囚われたリリアルーラの視界が涙でけぶる。今すぐ叫ばなければと思うのに喉が張りついて動かない。助けて、と心の中だけで叫ぶ。ただ、サジャミールを求める。
 だが、どうあれど男に屈するつもりはない。いざとなれば舌を噛んでしまおうと思いながら、大きく目を開けこぼれ落ちそうな涙を抑えた。
『お、い。聞いてねえぞ』
 男はひどく慌てた声で言った。男はリリアルーラの左足首に嵌められた足輪をつまんでいる。サジャミールに送られた足輪。
『かっわいい顔して王女様、あばずれかよ。まあいいさ、せいぜい楽しませてくれよ』
 リリアルーラの左足を掴んだまま、男は片手でベッドに突き刺さった刃物を引き抜いた。刃渡りが長く軽く反り返ったそれがダガーだと知れる。しかし、知れたところで切っ先を喉元に突きつけられては、抗う術はない。
 カラカラに乾いていたリリアルーラの口腔に唾液がどっと湧いた。涙がひとすじこぼれ落ちる。ああ、決して泣きたくはなかったのに。
(サジャミール様……)
 愛しさのすべてを込め、心の内で呼びかける。犯されるにせよ殺されるにせよ、もうリリアルーラに逃げ場はない。どちらにせよ、愛する彼には二度と会えないのだから。
 純潔を奪われるなら、潔く死を選ぶつもりだ。
 どこからか、ピイイイと耳を震わせるような高音が響いた。次の瞬間ドカッっと大きな音を立てて扉が開く。
「リリアルーラ! 無事か!」 
 その怒声を耳にした途端、リリアルーラの瞳から涙が噴き出した。凍りついていた身体に熱が戻り、刃を突きつけられていることも気にせず身を翻す。どさっと床に落ちた身体に痛みが走るが、駈け寄ってくる足音に目を上げサジャミールを認めれば、安堵以外のすべてが消える。
「リリー!」
 かき抱いてくる腕の力強さに、再び涙が噴き出した。もう何も怖くないと思うのに、今さら歯の根がカチカチと鳴り始める。
「怪我は?」
 短く問われて首を振れば、サジャミールはくしゃりと顔を歪ませた。それが安堵とリリアルーラが気づいた瞬間、彼は震え上がりそうに冷たい表情に変わる。
『どこの部族の者だ』
 答えはない。サジャミールの視線の先で、ダガーを構えた男がじりじりと扉へ向かっている。
『今すぐ私にひれ伏し許しを請え。首謀者さえ明らかにすればお前の家族は助けてやろう。それ以外――死を選ぼうと、必ず突き止め部族全員に罪をあがなわせる。ああ、ここから逃げられるなどと思うなよ』
「――っ」
 男が大きく息を呑み、扉へと目を向けた。途端、忙しない足音が響いてくる。
 カラン、と乾いた音。床に落ちたダガーの脇で、男が床に額をつけ黒衣の身体を投げ出すようにひれ伏した。それを目にしたリリアルーラの脳裏がチカッと閃く。いつかこんな光景を見た気がする。降って湧いた困惑に包まれた瞬間、部屋にどっと兵士たちがなだれ込んできた。サジャミールがリリアルーラの頭をぎゅっと抱え、自らの胸元に押しつける。男が捕縛される姿など、見せたくはないのだろう。
「リリアルーラ、怖かったでしょう。もう大丈夫ですよ」
 サジャミールに優しく話し掛けられているのに、まるで落ち着かない。なだれ込んできた兵士たちの姿にも、強烈な既視感があったのだ。ドッドッドッと騒がしい鼓動に干上がりそうで、リリアルーラはゴクリと唾液を呑み込む。
『一時間以内にすべて吐かせよ。手段は問わぬが、殺すな。ああ、お前、早く話した分だけお前にくれる焼きごてを減らしてやろう』
『ぞ、族長だ! ゾマ族長!』
 男の絶叫に、サジャミールの身体が強張り、リリアルーラを抱える腕の力が緩んだ。何ごとかと恐る恐るそちらを見やると、なおも叫ぶ男を兵士が殴りつけている。吹き出した鼻血が兵士の白い長衣に散った。
 リリアルーラの脳裏に再び閃光が走る。逃げるようにサジャミールを見上げると、男を見据える彼の瞳は冷徹な光を宿していた。その、色。ああ、ああ、ああ!
 砂漠の夜。おぞましい布を被った男たちの視線。突然現れた兵士たちと、絶叫。赤が散る白。どんな青よりも深い紺碧の瞳。記憶の奔流が、リリアルーラを襲った。
「イヤーーーー!」
 絹を裂くような悲鳴が響き渡る。リリアルーラはそのまま意識を手放した。
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