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 カーテンは閉じられ、部屋中の電気も消えたままだ。黒瀬は自室のベッドの上で座り込んでいた。あれから何日経ったのか分からない。今が何時なのか分からない。最後に外に出たのが、食事をしたのが、風呂に入ったのが、眠ったのが、それがいつなのか分からない。しかし黒瀬は食欲も睡眠欲も感じなかった。部屋の様子が視界に入っているのに脳に認識されない。山積みになっている衣服もごみ袋も、物質としてただそこにあった。黒瀬は頭の中にモヤがかかったようにただじっとそこに座っていた。それからしばらくしてなにか大きな音が響き出した。人の声も聞こえてくる。それは黒瀬にも届いていた。しかしただじっと座っていた。金属音がした。視界の色が変わった。ビニールが擦れる音がした。胸元を掴まれて引き寄せられた。きれいな黒髪に細身の眼鏡、その奥の瞳がじっと黒瀬を見つめていた。
「黒瀬くん、大丈夫ですか」
 黒瀬は返事をしようと口を開いた。そのとき黒瀬は初めて自分の口内が、それどころか喉の奥まで乾ききっていることに気がついた。ケホ、と小さな咳が出る。ガラガラの声で黒瀬は彼の名を呼んだ。
「凍城さん」
 凍城は安心したように小さく笑った。ほら、と黒瀬をひっぱって立ち上がらせる。そのまま黒瀬の手を引いて外に出た。黒瀬はただ連れて行かれるまま歩いていった。

 車に乗って数十分、たどり着いたのはきれいなマンションだった。「まずはシャワー浴びてきなさい」と浴室に押し込まれ、黒瀬は黙々と自分を洗った。湯とともに流れていく泡を眺めながら黒瀬はじわじわと思考を取り戻していった。同時に自分の醜態も思い出す。理不尽な暴力とその後の無断欠勤。まずは凍城に謝らなければならない。しかし許してもらえるのだろうか。少なくとも昔の鏡也は許してくれなかった。
 再度顔を合わせるのは怖いがいつまでも浴室に籠もっているわけにもいかない。黒瀬はあがることにした。体を拭いて凍城が用意してくれたスウェットを着る。丈も袖も少しだけ足らなかった。タオルを被ったまま黒瀬はそっとリビングへ戻る。ドアを開けた瞬間、なにやら美味しそうな匂いが黒瀬まで届いた。カウンター式のキッチンで凍城がフライパンを振るっている。黒瀬に気づいた凍城は、優しそうな顔で手招きをした。
「ご飯食べられます?」
 覗き込んでくる表情も声色もとにかく柔らかい。それでも早い方がいい。黒瀬は凍城に向かって頭を下げた。
「すみませんでした」
「こっちこそごめんね。頑張らせすぎました。ちゃんと見ててあげなきゃいけなかった」
 でも、と黒瀬は頭を上げて食い下がったが、凍城の左頬にまだ残っている線が視界に入って言葉に詰まってしまった。
「大学も行ってなかったでしょ。君の友達たちが心配して店まで来たんですよ。期末試験始まるからってすごく心配してました」
「……今日って何日ですか?」
「十二月八日ですよ。金曜日」
 なら期末は来週からだ。黒瀬はほっと胸をなでおろした。
「ご飯食べながらちゃんと話しましょう。だからちょっとだけ待っててください」
 はい、と差し出されたマグカップを受け取る。そこから漂う匂いはいつも店で嗅いでいるもとの全く同じだった。凍城に背を押されて黒瀬はダイニングテーブルの横にある椅子に座った。それを飲みながら黒瀬はふとロテュスに入ったばかりのころを思い出していた。当時は少しでも早く覚えようとティーセットを買って毎日家で紅茶を淹れる練習をしていた。あのティーセットを最後に使ったのはいつだっただろうか。いったいどこにしまい込んでしまったのか。黒瀬は記憶を辿ってみるが思い出すことができなかった。
 おまたせしました、と凍城がダイニングテーブルへ料理を持ってきてくれる。皿に乗っているのはナポリタンであった。釣られるように黒瀬の腹が鳴る。数日間もまともに食事を取っていなかったのだから仕方がない。二人で手を合わせて食べ始める。しばらくして凍城が「一応伝えておきますね」とポツポツ話しだした。
 鏡也を一年前ロテュスで雇ったが一ヶ月も続かなかったこと、裏口の嫌がらせは未菜が黒瀬を指名したころに始まったこと、そして犯人は鏡也だったこと。
「宇洞さんに間に入ってもらって、彼のホストクラブと話をつけました。これで嫌がらせは止むはずです」
 幼馴染の愚行を知らされて黒瀬は思わず食べる手が止まった。しかしその原因は元々彼の客であった未菜がこちらに頻繁に通うようになったことであり、ならばそれは実質自分のせいなのではないか。自分が居なければそもそも凍城は苦しまずに済んだのではないか、などとネガティブな感情が渦巻いてくる。
「黒瀬くん、彼と知り合いなんですよね」
「はい、幼馴染です。……でも」
 どこまで話すべきか黒瀬には分からなかった。とりあえず「中学のころに仲違いして、そこから連絡とってませんでした」と続けた。
「まあ、うちの店としては今後彼と関わることはないと思います。なので柳田くんの話は終わりです」
「はい」
「それで黒瀬くんの話ですけど」
「はい」と返事をしつつ黒瀬は身構えた。
「今後はアプリ集客一切禁止です。ダイエットも一旦中止」
「はい」
「あとは大学の友人たちに謝罪とお礼をちゃんとすること」
「はい」
「それくらいですかね」と凍城はナポリタンに入っているベーコンにフォークを突き立てている。凍城から出てきた言葉があまりにも想像も違ったので、黒瀬は「あの」と恐る恐る聞いてみた。
「俺、クビじゃないんですか」
「クビじゃないですよ。人手がたらなくなるじゃないですか」
 確かにそれはそうなのだが、自分がしでかしたことのヤバさをさすがに黒瀬も理解していた。店長の首を絞めたのにそのまま雇われるなど常識的に考えておかしいだろう。
「今まで何度も助けてもらいましたからね」
 だから一回やらかしたくらいじゃ首切りませんよ、と凍城はぽつりと言う。
「凍城さん、俺に甘すぎませんか」
 そうですねと凍城は笑った。
「でももう一回やったらさすがにクビにしますよ」
「はい。もうやらないです」
「……ところでなんで私の首絞めたんですか?」
「えっと……。好きだからです」
 数秒考えてから凍城は「よく分からないですね」と言った。分かるわけないよな、と黒瀬は自分の頭を掻いた。
「まあいいです。ちょっとずつ知っていけばいいので」
 ごちそうさま、と凍城が手を合わせるので黒瀬もつられて手を合わせる。使った皿を持った黒瀬は凍城の後ろに続いてキッチンへ行く。そのときふとテレビボードの上にある封筒に目がいった。宛名には佐々木肇様と書かれている。
「佐々木肇って誰ですか?」
「私ですよ」
 え、と黒瀬は驚きの声を出す。
「凍城って本名じゃないんですか?」
「源氏名ですよ。ホスト時代から使ってるやつです」
「凍城さんホストだったんですか!?」
 そうですよ、と平然といいながら凍城は皿を洗い始めた。自分だって凍城のことなにも知らないんだな、と黒瀬は肩の力が抜けるような気がした。
「ちょっとずつでいいじゃないですか。まだまだうちの店で働いてもらわないと困りますから」
 愛さん来月から週二って言うんですよ。と凍城は続けた。戦力としてきちんと見てくれることを黒瀬は素直に嬉しく思った。
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