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昨日来た場所と同じだなんて到底思えない。客が一人もいない店は案の定がらんとしており、電気代節約のためか、最小限の灯りしか付けられていない。家具が重厚で暗い色をしているのも相まって、店内は重苦しい空気に包まれていた。
黒瀬の向かいのソファには凍城が脚を組んで座っている。昨日見たと同じ執事服だが、鋭い目つきで履歴書を見る姿は接客中とはまるで別人のように黒瀬には見えた。
「若いなとは思っていましたが……。来月から大学生、ですか」
「はい」
黒瀬は黒いスキニーパンツで手汗を拭った。つい視線が下に落ちる。バイトの面接など初めてだった。日中をまるまる使って書いた履歴書も、こうなってくると途端に内容に自信が無くなってくる。
「バイト経験は?」
「無いです」
ふうん、と冷たい返事をして、凍城にはまた履歴書を眺める。やめておけばよかったかもしれない、と黒瀬は途端に昨日の自分を責めたくなった。あのときはいい案だと思ったが、ここで落ちたらもう店には行きにくくなる。
「うちにも一人いるんですよ、大学生のバイトの子が。でもぼちぼち就活が始まるからシフト減らしたいって言ってまして。だからちょうどいいといえばいいんですけど」
凍城は興味なさげに、履歴書を机に置いた。眼鏡を中指で押し上げながら黒瀬の目を真っ直ぐに見抜いてくる。
「君、昨日妹に連れられて初めて来たでしょう? なんでうちの店なんですか?」
黒瀬は数時間前に履歴書に書いた志望動機を思い出していた。先日訪れた際に、従業員の皆さまの接客の素晴らしさに感動しうんぬん。しかし凍城はそれを読んで上でわざわざ聞いてきているのである。だからと言って「あなたに一目惚れしたからです」などと言えるわけもない。
「……幼馴染の家に似てるんですよ。この店。いると落ち着くんです。ホームシックにならずに済むかなって」
凍城は返事をせず、じっと黒瀬を見つめたままだった。嘘だろうと言われている気がしてならないが、これ以上誤魔化しの言葉も思い浮かばない。黒瀬も黙っているしかなかった。
「まあ、いいでしょう。なんか隠している気がしてならないですけど。仕事さえきちんとこなすならそれでいいです」
制服用に採寸しましょうか、と言って凍城は、カウンターへ向かって歩いて行った。黒瀬は息を吐いた。面接のために黒瀬が店にやってきてから今まで、凍城は笑顔の一つも見せなかった。昨日の様子は完全に接客用のものであって、本来の凍城は初対面の相手ににこやかにしないし優しくもしない。きっと素はそんな人なんじゃないだろうか、と黒瀬は面接に来る前から考えていた。人によっては彼のことを非常に嫌うだろう。しかし黒瀬にとってはむしろ好ましかった。この手のタイプを見ると黒瀬は取り入りたくて仕方がなくなる。好かれたい、信用されたい、自分にだけ心を開いてほしい。そういった欲が黒瀬の中でふつふつと沸いてくる。
「ほら立ってください」
いつのまにかメジャーを持った凍城がソファの隣にいる。黒瀬は慌てて立ち上がった。
「あの、採用ってことでいいんですか」
「ええ、ただ……」
凍城はぐっと近づいてきて、黒瀬の前髪を右手でかきあげた。そのまま少しだけ下から顔を覗き込んでくる。
「美容院には行ってください。君、短いほうが似合うと思いますよ」
内面云々はともかくとして顔面も好みなのでこういうことはやめていただきたい。しかしそんなことが言えるはずもなく、黒瀬は赤べこのように頷くしかなかった。
『で、面接行ったの?』
『ああ』
『受かったの?』
『ああ』
『じゃあお兄ちゃん執事やるの?』
『ああ』
『まじで?』
『まじであの店でバイトすんの?』
妹のLINEを既読無視して、黒瀬はロッカーにスマホを放り込む。この店に黒瀬が来たのは三回目だった。妹に騙されて来た初来店、その翌日の面接、そして今日が初出勤である。打ちっぱなしのコンクリートの壁には銀色のロッカーが六つ並んでいた。きらびやかな店内と比べて、バックヤードは無骨で狭苦しい。
「左から二番目のロッカーを使ってください。制服もそこに入ってますから、着替えたら表に来てください」
告げられた出勤時間の一五分前に到着した黒瀬に、凍城はそう言った。凍城はすでに制服を来て店内の掃除をしていた。早めに行ったら私服の凍城が見られるんじゃないか、という邪な期待を裏切られてガッカリした反面、一番に来て仕事を初めている姿があまりにもイメージ通りで黒瀬は少し嬉しくもあった。
着替えを終えた黒瀬は、ロッカーが並んだ壁の反対側にある大きな姿見の前に立つ。ここの制服はタキシードである。黒いジャケットとスラックス。カマーバンド調の、胸元がU字型に大きく開いたベストは濃紺色だ。蝶ネクタイもベストと同じ色をしている。その全てを身につけた黒瀬は鏡の前で上半身を左右に捻った。面接時に採寸されただけあって、丈はどこもおかしくないし、動きにくさも感じない。しかし似合っているか、と問われたら正直自分ではさっぱり分からない。入学式用に買ったスーツより先に、バイト先でもっと格式が高い服を着る羽目になるなど高校卒業時には考えてもみなかった。黒瀬が鏡の前で顔を捻っていると店内からガヤガヤとした声が聞こえる。誰か来たな、と黒瀬が認識してすぐ、バックヤードのドアが開いた。
「お、噂の新人!」
「……え、あれ?」
金髪で細身の男は入ってきてそうそうに黒瀬を指さした。その一歩後ろには、随分と長身の男が首を傾げている。ここの従業員だろう。黒瀬はとっさに頭を下げた。
「黒瀬です。今日からお世話になります」
「俺三神な。んでこっちは森崎」
三神は屈託のない笑顔で言った。服装も相まってまるでホストのような外見だが、人当たりは良さそうだ。後ろの森崎は小さく会釈をした。パーマがかかった黒髪が目元を隠していて、表情がうまく読み取れない。
「聞いたぜー凍城さんに直談判して入ったんだろ?」
「いや、直談判というか……。まあ、そうなるんですかね」
「間違ってもすぐにバックレたりすんなよなあ。前のやつ一ヶ月も持たずに飛んじまってさあ。前って言っても一年前だけど」
三神はそのままべらべらと喋りながら黒瀬の隣のロッカーを開ける。
「お前の制服、ジャケットの裏に蜘蛛の刺繍あるだろ? 普通は仕立てるときに好きな柄を入れてくれるんだけど、お前はそのバックレたやつと背格好が一緒だから使い回されてたんだよ。残念だったなあ」
黒瀬は着たばかりのジャケットの襟をつかんで裏側を見る。左胸にあるポケットの裏側あたりに、たしかに蜘蛛の刺繍が入っていた。趣味が悪いなとすぐに襟から手を離した。それにしてもおしゃべりな人だなあ、と黒瀬はのんきに三神を眺めた。ふと隣に気配を感じて振り向くと、森崎がこちらの顔をじっと覗き込んでいる。黒瀬の肩がびくりと跳ね上がった。
「あの……俺の顔になにか」
「先週店に来た子、って聞いてたんだけど……」
そう言って森崎は首をかしげる。ああ、と黒瀬は納得した。それと同時に、一見の客の顔を覚えていることに素直に感心した。
「髪、染めたんですよ」
「ああ、だよね」
森崎は嬉しそうにうなずいて、三神の隣のロッカーへ向かった。面接の後、凍城に教えてもらった美容院に行ったのだ。髪を染めるのは初めてだった。黒瀬はもう一度鏡へ向き直る。赤っぽい茶髪と刈られた襟足は未だに慣れない。執事っぽくはない気がするのだが、本当に大丈夫なのだろうか。黒瀬が鏡の前で困惑していると、ドアからひょっこりと凍城が顔を出す。
「君たちおしゃべりばっかりしてないでさっさと支度しなさいよ」
「はーい」
三神と森崎のいかにも適当な返事にはとくに何の反応も示さず、凍城は黒瀬の方を向いた。
「まずは二人に開店準備の流れを教わってください。それが終わったら研修やりますよ」
「はい」
「いくぞ新人! 俺についてこい!」
いつのまにか着替え終わった三神が偉そうに言いながらバックヤードを後にする。はいと返事をして黒瀬はその後ろをついていった。
店の入り口横のカウンターに、黒瀬と三神は並んで立つ。「まずはレジのお金からだな」と三神はカウンターのうえに置いてある四角いクッキー缶を空けた。中には束になったお札と、細長いコインケースがいくつも入っている。
「凍城さんが朝来たら金庫からこれ出しておいてくれるから、数えてレジに入れていく。全部で十五万円分入ってて、五千円が六枚、千円が九十枚、五百円が三十枚で」
「ちょっとまってください」
黒瀬は慌ててポケットからメモ帳を取り出す。三神が言う数字を慌てて書きつけた。
「百円が百二十三枚、五十円が三十枚、十円が百枚で五円が二十枚。そんで一円が百枚」
「はい」
「書けたか? じゃあ俺小銭数えるから、お札数えて」
はい、と三神が輪ゴムで止められた札束を渡してくる。その分厚さに黒瀬は思わず「おお」と呟いた。大半が千円札とはいえ、なかなかの存在感がある。
「ん? レジ系のバイトとかしたことないタイプか?」
「人生初バイトです」
「マジか。うちの店厳しいけど頑張れよ」
お互いに釣り銭を数えながら雑談していたが、三神の「厳しい」という言葉に黒瀬は顔を上げた。
「厳しいんですか、ここ」
「そりゃあ、そのへんのコンビニとかファミレスに比べたら接客めちゃくちゃ厳しく言われるよ。でもここで接客できればどこでもいける」
大丈夫なのだろうか。不安が顔に出てしまったのだろう。小銭を数え終えた三神は「手が止まってんぞ」と黒瀬の方を小突く。
「ああ見えて凍城さん優しい所あるから。大丈夫だって」
「それは分かります。根は絶対いい人ですよね」
「……あの人、最初はぜってー怖がられるんだけど。お前みたいなやつ初めてかも」
「そうなんですか?」
「つーかお前何を根拠に、いやとりあえずさっさと札数えろ。めっちゃ睨まれてる」
黒瀬が視線を上げると、遠くから凍城が鋭い目でこちらを睨みつけていた。おしゃべりが過ぎたらしい。黒瀬は慌てて手元の千円札を数えることにした。
レジの準備ができたら店内の掃除。しかし閉店後にも掃除は行っているので、開店前はごく簡単なものだけ。その後は予約と食品類の在庫チェック。
「ここで『今日は当日客どのくらい入れられるかなー』って見ておくのが大事。つっても最初は分かんねーよなあ」
食品類に関しては凍城が在庫管理も発注も行っているので、他の従業員はどれだけあるか把握しておくだけでいい。極端に足りなくなったり廃棄したりすることは起こらないそうだ。三神はここまで早口駆け足で黒瀬に伝えてくる。黒瀬がメモし終わったところで、凍城が近づいてきた。
「終わりましたか三神くん」
「はい!」
「別にゆっくりでもいいですけどね。その分君と森崎くん二人で店を回す時間が増えるだけなので」
「終わりました! どうぞ研修やってください!」
そそくさと店の電気をつける三神に向かって、凍城はため息をついた。しかしすぐ黒瀬に向き直った。
「裏行きますよ。研修やりましょうか」
黒瀬は返事をして後をついていく。これから凍城と二人きりで研修である。黒瀬は先週の自分を褒めてあげたくなった。あのときバイトの案を思いついていなかったら、今頃自分はなけなしの金を握りしめて店の前にいたかもしれない。
バックヤードにつくなり凍城は「始めましょうか」と小さく笑った。黒瀬は口元が緩みそうになるのを必死で堪えながら「よろしくお願いします」と頭を下げた。
黒瀬の向かいのソファには凍城が脚を組んで座っている。昨日見たと同じ執事服だが、鋭い目つきで履歴書を見る姿は接客中とはまるで別人のように黒瀬には見えた。
「若いなとは思っていましたが……。来月から大学生、ですか」
「はい」
黒瀬は黒いスキニーパンツで手汗を拭った。つい視線が下に落ちる。バイトの面接など初めてだった。日中をまるまる使って書いた履歴書も、こうなってくると途端に内容に自信が無くなってくる。
「バイト経験は?」
「無いです」
ふうん、と冷たい返事をして、凍城にはまた履歴書を眺める。やめておけばよかったかもしれない、と黒瀬は途端に昨日の自分を責めたくなった。あのときはいい案だと思ったが、ここで落ちたらもう店には行きにくくなる。
「うちにも一人いるんですよ、大学生のバイトの子が。でもぼちぼち就活が始まるからシフト減らしたいって言ってまして。だからちょうどいいといえばいいんですけど」
凍城は興味なさげに、履歴書を机に置いた。眼鏡を中指で押し上げながら黒瀬の目を真っ直ぐに見抜いてくる。
「君、昨日妹に連れられて初めて来たでしょう? なんでうちの店なんですか?」
黒瀬は数時間前に履歴書に書いた志望動機を思い出していた。先日訪れた際に、従業員の皆さまの接客の素晴らしさに感動しうんぬん。しかし凍城はそれを読んで上でわざわざ聞いてきているのである。だからと言って「あなたに一目惚れしたからです」などと言えるわけもない。
「……幼馴染の家に似てるんですよ。この店。いると落ち着くんです。ホームシックにならずに済むかなって」
凍城は返事をせず、じっと黒瀬を見つめたままだった。嘘だろうと言われている気がしてならないが、これ以上誤魔化しの言葉も思い浮かばない。黒瀬も黙っているしかなかった。
「まあ、いいでしょう。なんか隠している気がしてならないですけど。仕事さえきちんとこなすならそれでいいです」
制服用に採寸しましょうか、と言って凍城は、カウンターへ向かって歩いて行った。黒瀬は息を吐いた。面接のために黒瀬が店にやってきてから今まで、凍城は笑顔の一つも見せなかった。昨日の様子は完全に接客用のものであって、本来の凍城は初対面の相手ににこやかにしないし優しくもしない。きっと素はそんな人なんじゃないだろうか、と黒瀬は面接に来る前から考えていた。人によっては彼のことを非常に嫌うだろう。しかし黒瀬にとってはむしろ好ましかった。この手のタイプを見ると黒瀬は取り入りたくて仕方がなくなる。好かれたい、信用されたい、自分にだけ心を開いてほしい。そういった欲が黒瀬の中でふつふつと沸いてくる。
「ほら立ってください」
いつのまにかメジャーを持った凍城がソファの隣にいる。黒瀬は慌てて立ち上がった。
「あの、採用ってことでいいんですか」
「ええ、ただ……」
凍城はぐっと近づいてきて、黒瀬の前髪を右手でかきあげた。そのまま少しだけ下から顔を覗き込んでくる。
「美容院には行ってください。君、短いほうが似合うと思いますよ」
内面云々はともかくとして顔面も好みなのでこういうことはやめていただきたい。しかしそんなことが言えるはずもなく、黒瀬は赤べこのように頷くしかなかった。
『で、面接行ったの?』
『ああ』
『受かったの?』
『ああ』
『じゃあお兄ちゃん執事やるの?』
『ああ』
『まじで?』
『まじであの店でバイトすんの?』
妹のLINEを既読無視して、黒瀬はロッカーにスマホを放り込む。この店に黒瀬が来たのは三回目だった。妹に騙されて来た初来店、その翌日の面接、そして今日が初出勤である。打ちっぱなしのコンクリートの壁には銀色のロッカーが六つ並んでいた。きらびやかな店内と比べて、バックヤードは無骨で狭苦しい。
「左から二番目のロッカーを使ってください。制服もそこに入ってますから、着替えたら表に来てください」
告げられた出勤時間の一五分前に到着した黒瀬に、凍城はそう言った。凍城はすでに制服を来て店内の掃除をしていた。早めに行ったら私服の凍城が見られるんじゃないか、という邪な期待を裏切られてガッカリした反面、一番に来て仕事を初めている姿があまりにもイメージ通りで黒瀬は少し嬉しくもあった。
着替えを終えた黒瀬は、ロッカーが並んだ壁の反対側にある大きな姿見の前に立つ。ここの制服はタキシードである。黒いジャケットとスラックス。カマーバンド調の、胸元がU字型に大きく開いたベストは濃紺色だ。蝶ネクタイもベストと同じ色をしている。その全てを身につけた黒瀬は鏡の前で上半身を左右に捻った。面接時に採寸されただけあって、丈はどこもおかしくないし、動きにくさも感じない。しかし似合っているか、と問われたら正直自分ではさっぱり分からない。入学式用に買ったスーツより先に、バイト先でもっと格式が高い服を着る羽目になるなど高校卒業時には考えてもみなかった。黒瀬が鏡の前で顔を捻っていると店内からガヤガヤとした声が聞こえる。誰か来たな、と黒瀬が認識してすぐ、バックヤードのドアが開いた。
「お、噂の新人!」
「……え、あれ?」
金髪で細身の男は入ってきてそうそうに黒瀬を指さした。その一歩後ろには、随分と長身の男が首を傾げている。ここの従業員だろう。黒瀬はとっさに頭を下げた。
「黒瀬です。今日からお世話になります」
「俺三神な。んでこっちは森崎」
三神は屈託のない笑顔で言った。服装も相まってまるでホストのような外見だが、人当たりは良さそうだ。後ろの森崎は小さく会釈をした。パーマがかかった黒髪が目元を隠していて、表情がうまく読み取れない。
「聞いたぜー凍城さんに直談判して入ったんだろ?」
「いや、直談判というか……。まあ、そうなるんですかね」
「間違ってもすぐにバックレたりすんなよなあ。前のやつ一ヶ月も持たずに飛んじまってさあ。前って言っても一年前だけど」
三神はそのままべらべらと喋りながら黒瀬の隣のロッカーを開ける。
「お前の制服、ジャケットの裏に蜘蛛の刺繍あるだろ? 普通は仕立てるときに好きな柄を入れてくれるんだけど、お前はそのバックレたやつと背格好が一緒だから使い回されてたんだよ。残念だったなあ」
黒瀬は着たばかりのジャケットの襟をつかんで裏側を見る。左胸にあるポケットの裏側あたりに、たしかに蜘蛛の刺繍が入っていた。趣味が悪いなとすぐに襟から手を離した。それにしてもおしゃべりな人だなあ、と黒瀬はのんきに三神を眺めた。ふと隣に気配を感じて振り向くと、森崎がこちらの顔をじっと覗き込んでいる。黒瀬の肩がびくりと跳ね上がった。
「あの……俺の顔になにか」
「先週店に来た子、って聞いてたんだけど……」
そう言って森崎は首をかしげる。ああ、と黒瀬は納得した。それと同時に、一見の客の顔を覚えていることに素直に感心した。
「髪、染めたんですよ」
「ああ、だよね」
森崎は嬉しそうにうなずいて、三神の隣のロッカーへ向かった。面接の後、凍城に教えてもらった美容院に行ったのだ。髪を染めるのは初めてだった。黒瀬はもう一度鏡へ向き直る。赤っぽい茶髪と刈られた襟足は未だに慣れない。執事っぽくはない気がするのだが、本当に大丈夫なのだろうか。黒瀬が鏡の前で困惑していると、ドアからひょっこりと凍城が顔を出す。
「君たちおしゃべりばっかりしてないでさっさと支度しなさいよ」
「はーい」
三神と森崎のいかにも適当な返事にはとくに何の反応も示さず、凍城は黒瀬の方を向いた。
「まずは二人に開店準備の流れを教わってください。それが終わったら研修やりますよ」
「はい」
「いくぞ新人! 俺についてこい!」
いつのまにか着替え終わった三神が偉そうに言いながらバックヤードを後にする。はいと返事をして黒瀬はその後ろをついていった。
店の入り口横のカウンターに、黒瀬と三神は並んで立つ。「まずはレジのお金からだな」と三神はカウンターのうえに置いてある四角いクッキー缶を空けた。中には束になったお札と、細長いコインケースがいくつも入っている。
「凍城さんが朝来たら金庫からこれ出しておいてくれるから、数えてレジに入れていく。全部で十五万円分入ってて、五千円が六枚、千円が九十枚、五百円が三十枚で」
「ちょっとまってください」
黒瀬は慌ててポケットからメモ帳を取り出す。三神が言う数字を慌てて書きつけた。
「百円が百二十三枚、五十円が三十枚、十円が百枚で五円が二十枚。そんで一円が百枚」
「はい」
「書けたか? じゃあ俺小銭数えるから、お札数えて」
はい、と三神が輪ゴムで止められた札束を渡してくる。その分厚さに黒瀬は思わず「おお」と呟いた。大半が千円札とはいえ、なかなかの存在感がある。
「ん? レジ系のバイトとかしたことないタイプか?」
「人生初バイトです」
「マジか。うちの店厳しいけど頑張れよ」
お互いに釣り銭を数えながら雑談していたが、三神の「厳しい」という言葉に黒瀬は顔を上げた。
「厳しいんですか、ここ」
「そりゃあ、そのへんのコンビニとかファミレスに比べたら接客めちゃくちゃ厳しく言われるよ。でもここで接客できればどこでもいける」
大丈夫なのだろうか。不安が顔に出てしまったのだろう。小銭を数え終えた三神は「手が止まってんぞ」と黒瀬の方を小突く。
「ああ見えて凍城さん優しい所あるから。大丈夫だって」
「それは分かります。根は絶対いい人ですよね」
「……あの人、最初はぜってー怖がられるんだけど。お前みたいなやつ初めてかも」
「そうなんですか?」
「つーかお前何を根拠に、いやとりあえずさっさと札数えろ。めっちゃ睨まれてる」
黒瀬が視線を上げると、遠くから凍城が鋭い目でこちらを睨みつけていた。おしゃべりが過ぎたらしい。黒瀬は慌てて手元の千円札を数えることにした。
レジの準備ができたら店内の掃除。しかし閉店後にも掃除は行っているので、開店前はごく簡単なものだけ。その後は予約と食品類の在庫チェック。
「ここで『今日は当日客どのくらい入れられるかなー』って見ておくのが大事。つっても最初は分かんねーよなあ」
食品類に関しては凍城が在庫管理も発注も行っているので、他の従業員はどれだけあるか把握しておくだけでいい。極端に足りなくなったり廃棄したりすることは起こらないそうだ。三神はここまで早口駆け足で黒瀬に伝えてくる。黒瀬がメモし終わったところで、凍城が近づいてきた。
「終わりましたか三神くん」
「はい!」
「別にゆっくりでもいいですけどね。その分君と森崎くん二人で店を回す時間が増えるだけなので」
「終わりました! どうぞ研修やってください!」
そそくさと店の電気をつける三神に向かって、凍城はため息をついた。しかしすぐ黒瀬に向き直った。
「裏行きますよ。研修やりましょうか」
黒瀬は返事をして後をついていく。これから凍城と二人きりで研修である。黒瀬は先週の自分を褒めてあげたくなった。あのときバイトの案を思いついていなかったら、今頃自分はなけなしの金を握りしめて店の前にいたかもしれない。
バックヤードにつくなり凍城は「始めましょうか」と小さく笑った。黒瀬は口元が緩みそうになるのを必死で堪えながら「よろしくお願いします」と頭を下げた。
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