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四話
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完全に死んだと思った。
「今のところ異常は見受けられませんが、検査が済むまでは安静にしていてください」
ベッドの上で上半身を起こしている柊は「はあ」と気の抜けた返事をした。隣の丸椅子に座っている母親はずびずびと泣きながら何度も頷いている。医者は明日の十時からなんやかんやと話を続けた。柊がそれを他人事のように聞き流しているうちに全ての説明が終わったらしい。医者は部屋を出て行った。母はただ下を向いて泣いていた。
病室というものはとにかく白い。壁や床はもちろん、ベッドの寝具もその横に備え付けられた棚までも色がない。部屋の中央に備え付けられたベッドに座ったまま、柊は医者が出て行ったドアとは反対方向を見た。ベッドから離れた位置にある窓からは、大量に並んでいる街の建物が見えた。すぐ裏手にあるはずの公園は高さのせいかベッドの上からは見えなかった。
柊は病院が嫌いであった。とくに個室の病室には心底苦手意識が染みついていた。そこに母のすすり泣く声まで響いているのだ。今すぐここから逃げ出したいのが本音であった。
お父さんが着替えとか持ってきてくれるから、と母が途切れ途切れに言う。柊は窓の外を眺めたまま、相づちともため息とも取れない息を吐いた。
夏休み後も当然のように姫ヶ谷の幽霊助けは続いた。二学期に入ってからの姫ヶ谷は週三でコンビニへ突撃してくる。逆に昼休みに校舎裏へやってくることはなくなった。生徒会は文化祭の準備で忙しいらしい。昼間は毎日生徒会室でランチミーティングに勤しんでいるそうだ。その話を聞きて、サラリーマンかよ、と柊はイートインスペースで突っ込んだ。一ヶ月ほど前の話である。そんなわけで最近の柊は平和な昼休みを謳歌していた。暦では秋だがまだ日差しは夏の色をしていた。猫缶を地面へ置きながら湯を沸かす。最近のお気に入りはカップ焼きそばであった。その平生が崩れたのは今から三日前のことである。とっくに湯が沸いたにもかかわらず黒猫が姿を現さなかったのだ。いつもなら猫缶を置けばすぐに飛んできていた。首をひねりながら柊はカップ焼きそばを作る。湯を注いで三分待ちそれを捨てる。ソースを絡めて啜る。空になった容器と割り箸をレジ袋へ入れて口を縛る。手持ち無沙汰にスマホをいじる。予鈴五分前になっても黒猫は来なかった。柊は不審に思いながら校舎裏を後にした。
翌日も、そのまた翌日も猫は姿を見せなかった。昼食を食べ終えた柊はこちらから探すことにした。校舎裏をうろうろと歩き回る。鳴き声のような音が柊の耳へ届いたのは探し始めてから五分後のことであった。おそらく位置は塀の向こう側である。柊は足早に裏門をくぐった。道路の反対側から後ろ足を引きずりながら渡ってくる黒猫と、その右手側から走ってくる乗用車。柊がとっさに地面を蹴ると同時に周囲の景色がスローモーションになる。
猫は好きだ。でも猫のために命をかけるほどのお人好しではないはずであった。
さてその猫は無事だったのかどうか。当然柊には分からないし、隣ですすり泣いている母が知っているとも思えない。頭を打ったのは覚えている。それは昨日の出来事らしい。目が覚めたのは今朝であった。まだ痛む後頭部をさすりながら柊は自分が取るべき行動を考えた。
とにかくバイト先に連絡をしなければならない。ついでに姫ヶ谷へも言っておいたほうがいいだろう。柊は癖でポケットからスマホを取り出そうとした。しかし今の自分が着ているのは水色の病院着であり、当然ポケットにはなにも入っていない。
「俺のスマホは?」
母は棚の上を指さした。柊は上半身を伸ばしてそれを見る。画面にはびっしりとヒビが入り真っ白になっていた。たとえ中身が無事だったとしてもこれではなにも映らない。柊は手に取ることをやめて、ベッドへ寝そべった。
医者は異常がないと言うが、柊は形容しがたい違和感を覚えていた。いつもと同じように目を開けて周囲を見ているはずであり、そこに映る景色にもなんの問題もない。しかしときおりもやのような、ノイズがはしるような感覚がある。しかし実際に見づらくなっているわけではない。実際は明瞭に見えているのに「一瞬見ずらくなった」という感覚だけが脳に走るのだ。頭を打ったせいだろうか。寝ている間にあれこれ調べられたらしいが、明日も再度検査をするらしい。生活に困るわけではないが先ほどから地味にストレスがたまる。一時的なものであってほしいと願いながら、柊は症状を抑えるために目を閉じた。真っ暗な世界の中で母のすすり泣く音だけが聞こえる。これはこれでしんどいな、と柊が寝返りを打ったところで別の声が、よく知った声が耳に届いた。それは柊のすぐそばから、ちょうど寝返りを打った背中側から聞こえてくる。
「にゃあ」
柊は驚いて飛び起きた。当然真っ先に、己の空耳を疑った。上半身をひねってそちらを確認する。ベッドの上には見知った黒猫が鎮座していた。柊が見間違うはずもなかった。鳴き声も大きさも毛艶も、校舎裏にいる黒猫そのものである。しかし頭部だけは今までと様子が違った。左耳が三つに裂けて血濡れになっており、その下の頭蓋骨も陥没している。そしてあんなにも綺麗だった目の片方、左目が大きく飛び出していた。その姿を認識した瞬間に柊は恐怖の声を漏らした。それはあまりにも小さかったが、側に居た母には届いたらしい。彼女はタオルハンカチで顔の下部を押さえたまま柊へ視線を向ける。そして首を傾げて言う。
「どうしたの」
柊は母の顔を見た。まっすぐ自分に向けられた視線の画角には、必ずこの猫も収まっているはずである。柊は猫と母へ交互に視線を動かす。しかし母には理解できないらしい。なにも言わない柊にいらだったのか、そのうち眉間を寄せて「なに」と言った。猫はもう一度、まるで自分の存在をアピールするかのように「にゃあ」と鳴いた。
「なんでもない」
母へ誤魔化しの言葉をかけながら柊はそっと棚へ手を伸ばした。己の視界に入ったその手はブルブルと震えている。真っ先に思い浮かんだのは姫ヶ谷の顔であった。どう見ても動かないであろうスマホを柊は手に取った。一抹の望みをかけてロックボタンを長押しする。残念ながらそれは起動しなかった。
擦り傷と打撲、全治一週間。それが柊に下された診断であった。そんな訳で柊は早々に病院を追い出された。自分の頑丈さに驚きながら、柊は病院の玄関へ荷物を持って立っていた。「異常があってまだ入院が長引くなら連絡する。そうじゃなければ自力で帰る」と母には伝えていた。母は昨晩、自分のスマホと自宅の固定電話の番号を紙へ書いてくれた。そして十円玉と百円玉を数枚ずつ置いていった。
「病院の公衆電話からかけなさい。使い方分かる?」
柊は曖昧に頷いておいた。公衆電話など使ったことはないがまあ電話くらいできるだろうと思ったからだ。しかし退院を言い渡されたので使うことなく病院を後にすることとなった。
時刻は午後一時を過ぎている。病院の前は広いロータリーとなっており、自動ドアから数メートル離れた位置にバス停とタクシー乗り場の看板が無機質に立っている。人通りはほぼないのにロータリーの向こう側にある駐車場には大量の車が並んでいる。門から入ってきた車がその駐車場を通り越して奥へと進んでいった。そちらは立体駐車場となっていて、やはり壁の隙間から、そちらにも車がたくさん止まっている様子が見て取れた。距離的には自宅まで徒歩でも余裕で帰れる。しかし九月の終わりとはいえ昼間はまだ真夏のように暑かった。足下で黒猫がにゃあと鳴く。当然、頭の上部はグロテスクに潰れたままである。痛々しい見た目にどうしても「可愛い」より「可哀想」という感情が勝ってしまう。そしていつまでも柊についてくる猫に対して言及するものは未だゼロであった。まさか自分まで見えるようになるなど、柊は想像すらしていなかった。とにかく自宅へ帰りたくない。しかし母はパートを休んで家にいる。遅くなれば心配して病院へ連絡してくる可能性が高い。しかも金曜の昼間である。高校生が私服で外にいれば嫌でも目立つだろう。柊は一つため息をついて自宅と反対方向に歩き出した。
柊の入店を認識した店長は完全に面食らっていた。「だ、大丈夫なの?!」と吃りながら慌ててレジカウンターから出て駆け寄ってくる。昼休みのピークは過ぎたらしい。コンビニ内にはほとんど客がいなかった。
シフトに穴を開けたことを柊は謝った。店長は高速で首と手を振った。
「いいよそんなの! 親御さんから連絡があったから店は困らなかったし!」
「打撲と擦り傷だけだったので、明日からはちゃんと出れます」
店長はまだ動揺しているらしい。それでも首を振りながらきっぱりと断ってきた。
「いい! いいよ出なくて! 事故った直後の高校生に仕事なんてさせられないよ!」
柊は当然食い下がる。家になど居たくないのだ。明日は土曜日である。事故直後なのに意味もなく外出などしたらさすがに親から咎められる可能性が高い。休みにされては一日中自宅に居るはめになる。レジカウンターの前で二人は押し問答を続けたが「せめて土日だけでも休んでくれ」と店長に押し切られてしまった。
「今日だってわざわざ謝りになんかこなくてよかったんだよ」
「いや、まあ昼飯買うついでなので。イートインスペース使っていいですか?」
店長の表情が「まじかよこいつ」みたいなものへと変貌する。端から見た柊は「一昨日車にはねられて意識を失った人」なので店長の反応は尤もである。しかし実際は軽傷も軽傷であり、後遺症も幽霊が見えるようになった以外にはなにもない。「まあ、それは構わないけど……」という店長へ軽く会釈をして柊は店内をまわった。お茶とパンを手に取ってから、いつもの癖で缶詰コーナーで立ち止まる。柊は足下を見た。黒猫も立ち止まっておとなしく座り、柊を見上げている。買ってやったところで食えないだろう。しかし結局こいつを助けてやることはできなかったわけで、まあお供えだと思えばそれは十二分に「あり」であった。
結局柊は柊はいつもの猫缶も一緒に購入した。一番隅の、奥まった位置にあるいつもの席へ腰掛ける。音を立てないようゆっくりと猫缶を開封して、こっそり足下へ置いてみた。黒猫はすぐに近寄って匂いを嗅ぎ、柊を見上げて小さく鳴いた。そのまま隣へ座り込んでいる。よろこんでいるような気がする、たぶん。柊は安堵してパンを開封した。一人で黙々とそれを咀嚼しながら今後の立ち回りを考えることにした。
そもそも柊が明日と明後日も働こうとしたのは、当然穴を開けた罪悪感からではない。家に居たくないというのも本心だが、もう一つ理由があった。姫ヶ谷が来てくれるのはないか、という期待である。とりあえず見えるようになってしまった以上、柊はとにかく早く彼と接触したかった。とはいえ今から学校へ行くわけにもいかず、スマホは壊れて連絡も取れない。姫ヶ谷の自宅は当然知らない。であればバイト先のコンビニにいるのが一番会える可能性が高いと思ったのだ。なのでこれはもう月曜日までお預けである。変に謝らずしれっとした顔で明日出勤してしまえばよかったかもしれない。しかしそれはそれで追い返されそうだな、と柊は考えを改めた。それにしてもスマホがないのは不便極まりない。母は検査にかかる時間を知らない。十六時くらいまでに帰れば怪しまれないだろうと柊は踏んでいた。だからそれまでここで時間を潰したいのだが、なにせ手持ち無沙汰である。雑誌でも買ってみようかと席を離れて棚を眺めてみる。特に興味を持てる本は置いていない。帰りたくない、帰りたくないと頭の中で反芻する。結局ベタに週刊の漫画雑誌をレジへ持って行った。相変わらず店長は「まじかよこいつ」といわんばかりの顔をしていた。
雑誌の分だけ重たくなった鞄を持って柊は玄関をくぐった。なんども誌面を往復したが内容はさっぱり頭に入らなかった。十六時より少しだけ早くコンビニを出たがとにかく足取りは重かった。いつもより五割増しの時間をかけて自宅に到着する。さすがに自室へ直行するのはまずいだろうと、柊は脱いだ靴を備え付けの靴箱へ収めながらため息をついた。そのまままっすぐ廊下を進んでリビングへ繋がる戸を開ける。中を見て硬直した。キッチンに立ってる母は分かる。しかしなぜかソファへ父親が座っていた。柊はとっさに目を逸らした。仕事から帰ってくるには早すぎる。いないものだと思っていた。キッチン側からスリッパがパタパタと鳴る。母が駆け寄ってきているのだろう。
「大丈夫だったの?」
柊の手から鞄を取りながら母が言う。柊は下を向いたまま頷いた。ソファ側から低い声で名前を呼ばれる。
「座りなさい」
柊はゆっくりとソファへ足を運んだ。父と反対側の、向かい側に設置されたソファへそっと腰掛ける。
「検査の結果は?」
「……異常ないらしい。擦り傷と打撲だけ」
父は向かいで息を吐いた。それが安堵によるものなのか、それともため息なのか。柊には区別がつかなかった。
「しばらくずっとリビングに居なさい。学校はしかたがないが終わったらまっすぐ帰ってくること」
「いやだ」
柊は視線を落としたまま、しかしきっぱりと拒否した。
「コンビニ寄ってきた。月曜から出るって言ってある」
「だめに決まってるだろう」
「一時間に一回降りてくる。それでいいだろ」
柊は返事も聞かずに立ち上がった。さっさと背を向けてリビングを出る。後ろで「待ちなさい」と言う声を無視して階段を上がった。自室に入って鍵を閉める。ベッドサイドに置きっぱなしのワイヤレスイヤホンを手早く装着した。そしてスマホを取り出す。ボロボロで動かないそれを見て、柊は舌打ちをしながらベッドへ叩きつけた。
柊はベッドに座り込んでゲームに没頭していた。それは完全に現実逃避であった。手元のゲーム機からは黒い線が延びており、柊の両耳へ繋がっていた。しばらく使っていなかった有線のイヤホンを引っ張り出してきたのだ。無事に動くことを確認できたとき、柊は安堵した。部屋に戻ってから十分後、母が部屋に訪れた。一時間置きに自分が部屋まで確認しに来るからリビングまで降りてこなくてもいいこと、そして夜だけはリビングのソファで寝てほしい、自分も横のソファで寝るから、とのことであった。柊は内心では渋々であったが、それを承諾した。それから母は四回この部屋に訪れた。三回目のとき「晩ご飯は?」と聞いてきたが当然断った。昼にコンビニで購入した弁当はまだ机の上に置きっぱなしになっている。
遊んでいるゲーム機は一世代前のものであった。次世代機が出たのは一年と少し前だ。柊はそのとき親へねだることをしなかった。すでに親子間には会話がなくなっていた。手元のこれは六年前のクリスマスに買ってもらった物である。現行機が欲しいと思ったことは何度もある。しかし通帳と相談して断念した。別に買えるだけの金はあったが貯金を優先した。それに一世代前だからといって遊べないわけではなく、むしろ中古ならソフトも安く入手できる。一人で遊ぶ分には十分であった。
ドアの開く気配に気づいて柊はイヤホンを片方だけ外した。当然母であった。おそらく事前にノックをしているのだろう。柊が気づかないだけである。母は「お風呂空いてるから、そろそろ入りなさい」と言った。柊は顔も上げずに適当に返事をする。そのまま母は部屋の入り口にじっと立っていたが、結局追加で何かを言うでもなくドアを閉めた。彼女の足音が遠ざかっていくことを確認した柊は外したイヤホンを手に取る。そのまま左耳へはめようとした瞬間であった。一階、方向的に玄関である。そのから大きな声で「ただいまー!」と声が聞こえてきたのだ。柊は動きを止めた。止まってしまった。
「お、猫じゃん。……あーこれは痛かったなあ。可哀想に」
いつの間にか部屋から出て行った黒猫は、まだ我が家に居たらしい。そうだろ、可哀想だろ、助けられなかったんだよ。だから帰ってきたくなかったんだ。だから部屋に引きこもって耳を塞いでいたんだ。よしよし、と猫をあやしている声を聞きながら柊は両の腕からだらりと力が抜けていった。ゲーム画面では止まることなく敵が押し寄せて柊の分身を攻撃している。一階にいるはずの両親は何も言わない。柊の耳には彼の声以外、なにも届いてこない。ドアの音も足音もなにひとつしない。柊は右耳のイヤホンを外した。ゲーム機をベッドの上に放り投げて立ち上がる。絶対に会いたくなかった。だけど声が聞こえた以上、無視するわけにもいかなかった。柊はドアを開けて廊下へ出る。二階へ上がってきた彼の足下には黒猫がじゃれついている。柊が部屋から出てきたことに気がついたのだろう。彼は黒猫に気を取られたまま雑に挨拶をした。
「ただいま真二」
「……おかえり」
一階にいる両親に聞かれないよう、柊は小さな声で言った。それでも目の前にいる彼にはしっかり届いたらしい。彼ははじかれたように柊の顔を見た。柊もじっと、彼の目を見返す。短く刈られた黒髪に、これでもかと焼けた浅黒い肌。そして口元から首、着ている黄色いTシャツは赤茶色に汚れている。
「お前、今おかえりって言った?」
柊は震える手を後ろに隠したまま頷いた。マジで!? マジで!? と彼は言う。
「俺のこと見えんの!?」
柊は再度頷いた。緊張して目を見開いていた彼は相好を崩す。柊は泣きそうになった。声も話し方も笑顔も、なにも変わらない。そこにいたのは紛れもなく、三年前に亡くなった兄の篤であった。あまりに大声で喜ぶものだから柊はとっさにたしなめようとしてしまった。しかしすぐにやめた。彼の声は両親に届くことはない。柊は無言で自分の部屋を指さした。
「部屋に来いってことか?」
柊は頷いて開けっぱなしになっている自分の部屋へ戻った。兄と猫もその後へ続いた。
床の上をふよふよと浮く兄を見ながら、柊はベッドに腰掛けていた。兄弟と共に部屋へ戻ってきた黒猫はやはり兄の足下へじゃれついている。兄はしゃがみながら黒猫の背をゆっくりと撫でた。幽霊同士は触れるらしい。血濡れの人が血濡れの猫を撫でる様子を眺めながら柊は口を開いた。
「兄ちゃんどこ行ってたの」
「京都」
柊は困惑した。脳内で兄と京都の接点を必死に思い描こうとするも、なにひとつ見つからない。
「暇だからさあ、月一くらいで旅行してるんだよ。俺たち小っちゃいころから野球やってたから、あんまり遠出ってしたことないだろ?」
たしかにその通りであった。家族で出かけるときは大抵日帰りであり、それも両親の意向で海や山といった自然の多いところが大半であった。有名な観光地は修学旅行でしか訪れた記憶がない。
そんなことより、と兄は顔を上げる。その表情は昔と変わらず慈しみにあふれている。
「また真二と喋れるとはなあ。まあいつも勝手に見てはいたけど」
兄が亡くなってから、柊は野球をやめた。両親と対話することをやめた。今の自分は兄にどう映っているのか。柊は思わず視線を逸らした。兄ちゃんはさ、と言いかけたところで黒猫が鳴く。一拍遅れてコンコンとドアが叩かれた。不意になったその音に驚いた柊の肩が大きくはねる。容赦なくドアを開けたのは案の定母であった。
「早く入りなさいよ」
「行ってこいよ」
眉間にしわを寄せた母の言葉にかぶせるように兄が言う。柊は頷いて風呂場へと向かった。
柊篤は有名人であった。ここらの地域ではよく名前が知られており、なんなら街中で声をかけられることすらあった。特に彼を認知していたのは野球少年とその親世代である。我が高校初の甲子園出場、そのマウントに立っていたのがまだ一年生の篤であった。
「お兄ちゃんすごいね」と何度言われたか分からない。「お前も頑張れよ」と何度背を叩かれたか分からない。当時、柊は中学二年生であった。部活の同級生に、中等部の顧問に、父に、そして当時もやはり高等部の顧問を務めていた横溝に柊は背を叩かれた。それが重荷になって、自分の不甲斐なさと合わさって潰れる人もいるのだろう。しかし柊はそうならなかった。兄が褒められることも、お前も兄に続けと背を押されることも嬉しくて仕方がなかった。ピッチャーとしての素質はなかったが外野手として走り回った。残念ながらレギュラーにはなれなかったが同期の中では一番を自負していた。来年は間違いなくレギュラーになれるだろう。
それでも兄との違いを柊はきちんと自覚していた。それは野球の面ではなく勉強面である。篤の中学受験が終わってすぐに自分も同じところへ行きたいと騒いだ。両親は兄と同じように柊を塾に入れた。しばらくは少年野球と並行して塾へ通い、小六の夏からは受験勉強に専念させる。篤と同じルートを辿らせればいいと思っていた。しかし彼の成績は驚くほどに伸びなかった。塾からは当然のように日数の増加を提案される。柊は別にいい学校に入りたいわけではなかった。ただ少年野球に兄の姿がないことが寂しかっただけである。同じ学校に入ればまた一緒に野球ができる。兄はよくできた子供であった。勉強を自主的にしながら弟のこともよく構って面倒を見た。それが普通でないことに、次男の受験で両親はやっと気がついた。
「このままではお兄ちゃんと同じ学校はいけないから、野球はお休みしようか」
母の言葉に「イヤだイヤだ」と騒ぐ小学五年生に、兄は後ろからそっと近づいて肩を組んだ。
「俺もまた真二と野球したいよ。勉強教えてやるからさ、頑張ろうぜ」
結果は補欠合格。無事に繰り上げで入学できたものの、当時の両親は気が気でなかったらしい。本人はと言えばこれでやっと勉強しなくて済むと大喜びであった。受験こそ終わったものの次男の精神面が幼いことは、不安の種として両親の中へ残り続けた。それでも進学後は赤点も取らず部活へ打ち込む姿を見て、自然と時が解決してくれるだろうと改善に務めることはしなかった。兄弟仲良く笑う姿を見て、兄が居れば大丈夫だろうと自然に任せることにした。
柊の人生の中で最も長い風呂であった。事故でついた擦り傷に湯は随分としみた。その痛みに耐えながら柊はのぼせそうなくらいじっと湯船に浸かっていた。風呂から出た後、人生で最も入念に髪を乾かした。部屋に戻ったら兄がいる。亡くなってから三年間、彼は孤独な状態で留まり続けていた。幽霊の存在を知ってからずっと、兄はいるだろうな、と薄々思っていた。一切未練のない人生を送れる者がこの世にどれだけ存在するのだろうか。ましてや十代で亡くなったとなればなおさらである。聞かなければならないことがある。言わなければならないことがある。完全に乾いた髪をくしゃくしゃとかき混ぜながら、柊は洗面台の前から動けなかった。兄の未練を弟が晴らす義務など当然ない。それでも柊は知っていた。赤の他人の未練すら、見返りなしで晴らそうと奮起する人の姿を。せめてあいつに相談できたらなあ、と柊は心の中で嘆く。それと同時に見つけたのが自分でよかったな、とも思う。もっと早くに姫ヶ谷が兄を見つけていたら、直接対話することなく見送ることになっていたかもしれない。柊はドライヤーを片付けた。きちんと対話して見送ることが、自分ができる唯一の罪滅ぼしであることは理解している。しかし腹を括って兄と向かい合う勇気はまだ湧いてこなかった。
洗面所を出て階段を上がる。意を決して自室のドアを開けるとそこには誰もいなかった。拍子抜けして立ち尽くす柊の背後から、兄は声をかけてきた。
「真二、お前なにかあった?」
柊は振り向いて返事をしようとしたが、すぐに思い直した。中へ入るようジェスチャーで兄へ伝える。自室のドアをきちんと閉めてから兄へ向き直った。
「なにか、って?」
「居間でテレビでも見ようと思ったらついてなくてさ。なんか母さんも父さんも思い詰めた顔してずーっと黙ってんの。お通夜かよって感じ。あ、今の幽霊ジョークな」
「いや笑えんし」
「そう?」
で、なんかあったの?と兄は再度尋ねてくる。
「車に轢かれた」
「お前が?」
柊は頷いた。向かいで兄が「ひええ」とおどけたような悲鳴を上げる。
「お前も事故かよ。俺ら兄弟呪われてんのかな。で、怪我は?」
「全治一週間。でもリビングで寝ろって」
「そりゃそうだろ」と兄は真剣な顔で頷いた。「俺も見ててやるけどさ、見てることしかできないから」
「心霊現象とか起こせないの? ポルターガイストだっけ」
「無理無理。ポルターガイストも鏡や写真への映り込みも、夢見枕も全部無理」
「夢がないな」
「無理なものは無理なんだからしょうがねーじゃん。全部お前に試したんだぞ」
「マジで? 全然気づかなかった」
「だから無理なんだって」
とにかく暇人なんだぜ幽霊は、と言って兄は柊のベッドへ寝そべった。そのまま彼はいかに幽霊が暇を持て余しているか、という話を続けてくる。
「生きてる人はみんな俺のこと気づかないだろ? 幽霊同士は話せるけどさ、若い幽霊なんてほとんどいねーのよ。ジジババばっかりで話は合わないし、向こうもこんな若いのに可哀想に、みたいなことばっかり言ってくんの。そんなん言われても死んじまったからどうしようもねーじゃん? じゃあ一人で遊ぶにしたって物には触れないから、ゲームとか漫画は無理なわけ。だから幽霊初心者のころは誰かが見てるテレビやYoutubeを後ろからのぞき見するとか、映画館に堂々と忍び込んで無料で居座るとかそんなんばっかりしてた」
柊はベッドに腰掛けたまま「へえ」と相づちを打った。兄の話はまだ止まない。
「そのあとは東京まで出て舞台とかミュージカルとか見に行ったりな。お前見たことないだろ? 俺も死んでから初めて見たけど、意外と面白いぞ。目の前で人が演じてるから映画とはまた違った迫力があるんだよな。あとはプロ野球見に行ったりとか。美術館も行ってみたけど駄目だったな。俺には芸術とか分かんない。ゴッホ展に行ったんだよ。めっちゃ混んでたな。そしたらとある絵の横に幽霊が居てさ、歴史の教科書に載ってるような格好の外国人なんだよ。もしかしてゴッホか!? とか思って話しかけたんだけどまあ日本語通じなかったわ。そんでその絵を通り越したらゴッホの自画像が飾ってあって、見たら幽霊と全然似てなかったんだよ。じゃあさっきのおっさんは誰だったんだよ、って」
柊は兄の長話にひたすら相づちを打ちながら、彼の顔を盗み見た。上機嫌で饒舌に語る兄の姿に喜びと心苦しさの両方が胸に湧いてくる。生前は逆だった。柊がべらべらと兄へ話し、それをニコニコと相づちを打ちながら兄が聞いてくれるのが常であった。自分で言っていたとおり話す相手がいなかったのだろう。そんな状態でこの世に留まっている原因が己にあることを柊は自負していた。それに申し訳なさを覚えつつも、こうしてまた彼と会話ができることが、柊は素直に嬉しかった。
柊にとって生前の兄は保護者に近かった。柊にとって兄はかっこよくて優しい大人であった。しかし今、こうして自分のベッドに寝そべっている彼は十代半ばの、自分と同世代の子供にしか見えない。兄の年齢を追い越してしまったことを柊は今日、やっと自覚した。
結局、兄の話が尽きるよりも先に母が「寝なさい」と呼びに来てしまった。兄にも諭され柊は渋々リビングのソファへ横になる。母が用意したタオルケットを胸元まで引き上げた。その母は向かいのソファでやはり柊と同じように寝る準備をしている。
「おかしいと思ったらすぐ起こしなさいよ」
「うん」
「起きられなかったら枕元のそれひっぱりなさい」
「うん」
柊は枕元に置かれたそれを再度ちらりと見る。古ぼけたそれは柊兄弟が小学生のころに持たされていた防犯ブザーであった。「うわ、懐かしー!」とソファの前にしゃがんでいる兄が声を上げた。当然母には見えないので、柊も返事をするわけにいかない。そういえば幽霊は眠るのだろうか。少なくとも今の兄には寝ようという意思を微塵も感じない。
「おやすみ」と母はリビングの電気を消した。それでも兄はソファの横にしゃがみ込んだまま柊を凝視してくる。当然寝られるわけがないが抗議の声も上げられないので、柊は兄をにらみ返した。兄は首を傾げて不思議そうな顔をしていた。しかし数秒後にやっと理解したらしい。
「悪い悪い。寝れないよな」
兄は笑いながら体を反転させた。柊が寝ているソファを背もたれにするようにして床に座り直す。おやすみ、と兄は言った。柊は小さく頷いて、頭までタオルケットを引き上げた。
コツ、コツ、と向こう側から壁を叩く音がする。音がしたような気がした。それは日常であった。それは何も不思議なことではなかった。その日、柊はすでに微睡んでいた。柊はそれを聞こえないことにした。あるいはもう眠っていることにした。それもまた日常であった。それもまた不思議なことではなかった。次の日から音は鳴らなくなった。鳴らなくなったはずであった。それでもまだ柊の耳にはコツ、コツ、と音が届く。隣の部屋から叩いている。兄ちゃんが呼んでいる。兄ちゃんが呼んでいた。夜更かししたいとき、まだ遊び足りないとき、まだ話し足りないとき。コツ、コツ、と音がする。兄ちゃんが呼んでいる。兄ちゃんが呼んでいた。柊はそれを聞こえないことにした。もう眠っていることにした。今日はもう兄ちゃんと喋りたくなかった。柊はもう眠っていた。音がした。音なんてしなかった。次の日から聞こえなくなった。次の日からも聞こえた。兄ちゃんは呼んでいなかった。兄ちゃんが呼んでいた。
力任せに肩を揺さぶられている。「真二! 真二!!」と頭上から大声で自分の名を呼ぶ声が聞こえる。柊はゆっくりと目を開いた。母が必死の形相で叫んでいた。
「救急車!!」
ローテーブルに置かれたスマートフォンを取った母の手を、柊は慌ててつかんだ。自分の体がじっとりと汗ばんでいることを柊は自覚した。夢見が悪いのはいつものことである。しかし母がそれを知るはずもなかった。
「大丈夫だから。変な夢見ただけ」
でも! と母はやはり大声で言った。よほど魘されていたのだろう。端から見たらそれが苦しんでいるように見えるのは仕方がないことだった。「大丈夫、大丈夫」と柊は母に向かって諭し続けた。二階からバタバタと足音が聞こえる。それは階段を経由してリビングの入り口まで続いた。寝間着姿の父が慌ててリビングのドアを開く。
「どうした!?」
「真二が……」
「大丈夫だって」
夢見が悪かっただけだから、と柊は再度母を諭す。彼女はやっと静かになった。二人を交互に見ながら、状況を察したらしい父が口を開いた。
「体調は?」
「どこも悪くない」
柊は間髪入れずに答えた。
「……しばらくここに居なさい。母さん、朝食たのめるか?」
下を向いた母は小さく頷いてカウンターキッチンへと向かう。にわかに鼻を啜る音が聞こえた。兄はと言えば悲しそうな、それでいて申し訳なさそうにも見える顔でただ父の隣をふよふよと浮いていた。
柊は無言でソファに座った。父も同様に向かいへ座る。しばらく二人して黙ってじっとしていたが、そのうち父がローテーブルからリモコンを拾い上げてテレビをつけた。彼の選んだチャンネルはニュースのなかでも一番お堅いやつで、柊からしてみればつまらないことこの上なかった。しかしスマホが故障している今、ほかに時間を潰す当てもなかった。スーツを着たアナウンサーはにこりともせずに淡々と原稿を読み上げ、続いて街や人の映像へ切り替わる。詐欺、事故、事件、海外のデモ、経済の低迷。向かいの父はただ真剣にそれを見ていた。その隣に座る兄も同様であった。朝からこんな暗い話ばかり摂取してなにが楽しいのか、柊にはさっぱり分からなかった。
そのうちに母が朝食を作り終えたので、立ち上がってダイニングテーブルへ移動する。母の料理を食べるのは数年ぶりであった。焼きたてのトーストは当然まだ温かく、噛むと口の中にバターがしみ出してくる。柊は無言でそれと付け合わせの目玉焼きを食べた。サラダは父と母の前にしかない。どうせ出しても食べないことを、母はよく知っていた。
食べ終わった皿を流しへ片付けて、柊は「部屋に戻る」と言ってリビングを出た。父も母もなにも言わなかった。ただ兄だけが後ろから柊を追いかけてきた。
昨晩とは反対に、柊がベッドへ突っ伏して兄は縁に腰掛けている。部屋に戻ってしばらくしてから、柊は兄へ話しかけた。
「スマホ買いに行きたいんだけどさ、まずいかな」
「まずいだろ。さすがに今日は家に居てやれよ」
「だよなあ」と返事をしつつ柊はなにをするべきか悩んでいた。昨日のようにゲームで暇を消費してもいいが、隣には幽霊の兄がいる。自分が一人で遊んでいては彼が退屈だろう。一緒に動画でも見られればいいが、柊はパソコンもタブレットも所持していなかった。柊はさらに思考を進める。そういえば兄が旅行帰りであることを思い出した。
「兄ちゃんさあ、京都どうだったの」
「京都はすごいぞ。幽霊が大量にいる。そんで俺たちは入っちゃいけないところにも入れる」
「ほう」
そこからは昨日の一緒であった。ひたすら喋る兄へ相づちを打ち続ける。地元の幽霊による観光案内と歴史の解説はどうやら面白い物であったらしい。金閣寺や清水寺の中がどうなっているか知らないだろ、バッチリ見てきたぞ。と兄は内部の様子を饒舌に語ってくれた。京都だけではない。それ以前に行った各地の様子を、兄は幽霊特有の視点と体験で面白く話してくれる。柊はそれを笑いながら、驚きながら、感心しながら何時間も聞いていた。時折様子を見に来る母の対応をした。すっかり顔色のよくなった柊を見て母も安心したらしい。昼頃にはすっかりその頻度が下がっていた。
「食べ終わったら廊下に出しておいてくれればいいから」
母はそう言いながらトレーを持ってきた。そこには白い皿に盛られたカルボナーラと、柊が幼いころからこの家にある黄緑色のスープカップ、そして柊が見たことのないフォークが載っていた。簡単な礼を言いながら柊はそれを受け取って部屋の机へ置く。なんか引きこもりの人みたいだな、と心の中で自嘲した。しかし安堵もしていた。今日の食事は用意していないが、朝のように家族と食べるのはやはり気が引けるからだ。呼ばれたら昼食だけでも断ろうと思っていた。向こうから持ってきてくれるのは予想外であり、それでいてありがたかった。
相変わらず止むことのない兄の語りをBGMにしながら柊は食事に手をつけた。カルボナーラを一口分咀嚼して、その懐かしさに手を止めてしまった。特別これが多く出たわけでも自分の好物なわけでもない。それでも食べた瞬間にこれが母の味であることを柊は思い出した。
「食わねーの?」
「いや、食べるよ」
あっそう、と兄は大して気にとめる様子もなくまた話を続けた。今は和歌山にある動物園の話をしている。大人気のパンダを列に並ぶことなく檻もすり抜けて至近距離で見てきたらしい。実に羨ましいな、と柊は初めて幽霊に嫉妬した。
十五分ほどで平らげた柊はのびをしてまたベッドへ寝そべった。昨晩の寝心地の悪さと満腹感が相まって一気に眠気が襲ってくる。柊は目を閉じた。
「美味かった?」
「うん」
「食器出しとけよ?」
「うん」
頷いたものの起き上がる気力はない。柊は自分の腹の上に両手を開いて載せた。膨れた腹が手のひらでじんわりと温まっていく。それに合わせて意識もじんわりと遠のいていくのを感じた。
「兄ちゃんさあ、楽しそうだな」
「……そうでもねえよ」
兄の声は先ほどまでよりも一段小さく、そして一段低かった。
「生きてたころのほうがよっぽど楽しかった」
柊は返事ができなかった。遠のく意識では返答を考えることができなかった。そうしてぼんやり悩んでいるうちに意識を手放してしまった。
眠気を引きずることなく柊は目を覚ました。上体を起こすと真正面の窓が嫌でも視界に入る。カーテンは昼間に開けたままになっており、その外は完全に暗くなっていた。すぐに抜け出してカーテンを引く。部屋の電気は当然昼から着いたままである。おはよう、と声をかけてくる兄は椅子に座っていた。その隣にある机の上には食器が置かれていたはずだが、無くなっている。
「兄ちゃん、皿出しといてくれたのか?」
兄は「そんなわけないだろ」と笑った。
「母さんだよ。寝てるお前見て、めちゃくちゃ心配そうにしてたぞ」
柊は壁掛け時計に目をやる。七時半を過ぎたところであった。
「そろそろ晩飯だろ。下行ってこいよ」
「いや、腹減ってないし」
そっか、と兄は呟いた。数時間前まであんなに喋っていたのが嘘のように、それから兄は黙り込んでしまった。柊は少し迷って、ベッドサイドに置いていたゲーム機へ手を伸ばした。そのまま寝そべってイヤホンジャックを外す。音量を小さくしてそのまま遊びだした。このゲームを親に買ってもらったときは当然兄も生きており、そして兄も柊と同時にこのソフトを買ってもらっていた。通信することで協力プレイができるのがこのゲームの売りでもあり、手に入れた日は親の目を盗んで深夜まで二人でゲーム機にかじりついていた。何年も前の話である。今でも隣の、兄の部屋は片されることなく亡くなった当時のままになっており、つまりこのゲームも引き出しに本体ごと仕舞われているはずだ。しかしそれを引っ張り出してきたところで昔のように一緒に遊ぶことはできない。兄は椅子に座っている、ように見える。しかし彼の話を聞く限り物には触れられないらしい。ではあれはどういう状態なのか。柊はそれを兄に尋ねることができなかった。彼が亡くなる少し前まで、柊にとって彼は誰よりも近くて頼れて、自分を甘やかしてくれる人だった。生前、柊は兄に気を使った記憶が一切ない。生前の兄はそれをずっと許容してくれていた。しかし今は分からない。だから柊は彼に尋ねることができなかった。
柊が無言かつ無心でゲームをすること数十分。やはり母は昼同様にトレーを持って二階へ上がってきた。柊はベッドに寝そべったまま、顔を上げることもなくドア越しにそれを断った。母の足音が遠ざかって聞こえなくなったころ、ずっと無言で座っていた兄はぽつりと口を開いた。
「お前は楽しいのかよ」
「なに」
柊はやはり顔も上げずに言った。手元のゲーム機に視線を留めたまま両手を動かし続ける。兄を見ない、というより見ることができなかった。ゲームを止めないのではなく、止めることができなかった。続けることで脳みその容量をひたすらゲームに割いた。別の思考が割り込まないようにひたすらゲームで脳を埋めた。
「どんな生き方したってお前の勝手だけどさ、父ちゃん母ちゃん悲しませるのはいい加減やめろよ」
敵の攻撃が操作キャラクターへ直撃する。柊のキャラはその場に倒れた。画面は暗転しキャラクターはスタート地点へリスポーンしていく。そこに操作の余地はなく、柊はそれをただじっと眺めるほかない。倒れたキャラは数秒後にはもう立ち上がっている。柊がスティックを倒せば走り出す。しかし柊の手は止まったままであった。残機はあるのだから別にまだクリアはできる。しかし無敗報酬を獲得することはもうできない。最良の選択肢はもう途絶えてしまった。
「……それが兄ちゃんの未練なのかよ」
兄は返事をしなかった。ゲームのBGMだけが部屋に響いている。「違うだろ」と吐き捨てるように続けた。いくら優しくて立派な兄でも、現世に留まっている理由はもっと別であることくらい柊は理解していた。
「卒業したら家から出て行く。親とはもう関わらない」
「お前なあ」
「兄ちゃんとも関わらない。それで全部終わりにする」
柊はゲーム機を放り捨てて起き上がった。ひたすらに兄を視界へ入れないよう務めながらベッドから降り、財布を手に取って部屋のドアを開ける。
「着いてくんなよ」
吐き捨てると同時に後ろ手にドアを閉めて、柊はさっさと階段を降りた。そのまま足早に家から出る。玄関を開閉する音は嫌でもリビングへ届く。柊は外出したことに嫌でも親は気づくはずだ。柊は歩みを緩めることなくさっさと家から離れることにした。
すでに日は落ちている。立ち並んでいる住宅は柊家同様に明かりが灯され、漏れ出した夕食の匂いに乗って時折子供の走る足音や歓声が柊の元まで届いた。道行く人は皆足早で、柊の存在を前方に確認するや否や少しだけ端に寄った。そしてすれ違いざまに視線を下げて、やんわりと柊とは反対方向を見る。挨拶をするでもなく、かといって存在そのものを無視するわけでもない。認識した上で関わらないという意思表示を失礼にならない程度にふんわりと醸し出してくる。それは柊も同じであった。普段なら気にならないそれが、今日はヤスリのように柊の精神を削ってくる。見知った景色から逃げ出したいが知らない道を行く気力はなかった。とにかく住宅街を抜けることだけを考えてひたすらに足を進め続けた。行く当てがあるわけではない。頼れる人や駆け込める場所を作らない選択をしたのは紛れもなく柊自身であった。いつのまにかたどり着いた駅前は案の定ごった返しており、その人混みの中に自分を知っている人がいるのではないか、と感じもしない視線に柊は怯えた。誰も知らないところへ行きたかった。あと一年と少しで行けるはずだった。柊真二のことも柊篤のことも、誰もが知らない世界を夢見ていた。雑踏の中を歩くのが嫌だったがどこかへ入って立ち止まるのはもっと嫌だった。ひたすら下を向いて駅前を通り過ぎようとするその肩を後ろから叩かれたとき、柊は自分でも信じられないほど肩が跳ね上がった。
「食べる?」
眼前に突き出された赤い紙パックはライバル店の唐揚げであり、差出人が羽織っているパーカーの下には緑の制服がしっかりと見えている。何を考えているのか分からないような、何も考えていないかのような、ぼんやりした顔の先輩は反対の手で持ったパンをかじっていた。
「今日は俺のワンオペだからさあ、おいでよ」
柊は返事ができなかった。ただ張り詰めていた何かが、せき止められていた何かがほんの少しずつ、しかし確実に崩れていった。
スチーマーから出したばかりの肉まんは手がやけどしそうなほど熱い。柊は指先をこまめに弾ませながら裏の紙を剥いだ。レジカウンターの内側で隠れるようにしゃがみながら柊はぐずぐずと鼻を鳴らす。先輩は真横に立っていた。客はいなかった。
駅前からコンビニまで泣きながら後ろを歩く柊に、彼は何も言わなかった。ただ時折振り返っては柊がちゃんと着いてきているかを確認していた。無言のまま連れだってバイト先まで到着すると彼は「ちょっと隠れててね。坂田さんと店長が出てったら入っておいで」と柊を駐車場と反対側、店の裏手に誘導した。柊はおとなしく建物の陰から裏口を眺め、仕事の終わった二人が帰っていくところを見届けてから店に入る。バックヤードから店内へ行くと先輩がレジカウンター内で手招きをしていた。ここならあんまり見えないから、とホットスナック用のスチーマーの裏側を指されて柊はそこにしゃがみ込む。はい、と差し出された肉まんはブランド豚を使った新作であり、いつも売っている定番のものより数十円高い。涙が大分落ち着いた柊はお礼を言ってそれを受け取った。先輩は笑っていた。
柊が肉まんを半分食べ終えたころ、先輩は普段と変わらず緩い調子で口を開いた。
「お友達を呼ぶといいよ。こういうときは」
柊はしゃがみこんだまま首を振る。
「スマホ壊れちゃったんですよ」
そうなんだ、と言いながら先輩はなにやらゴゾゴゾとポケットからスマホを取り出した。数秒操作したあと「はい」と柊にそれを差し出してくる。メッセージアプリの通話呼び出し画面が表示されており、そこには『姫ヶ谷アレクサンダー太』と書かれている。柊は驚いて先輩の顔を見た。こないだ交換したんだよねえ、とのんきに言われる。
「お友達、すごい名前だね」
柊は思わず笑いながら頷いた。ちょっと借ります、と先輩に断りを入れてバックヤードへ下がる。休憩用のパイプ椅子を引きながらスマホを耳に当てた。柊が座ると同時にコール音が鳴り止む。「もしもし姫ヶ谷です」とあまりにも聞き慣れた声に柊は脱力した。
「あー、俺。柊だけど」
スピーカーからガタリと大きな音がする。それに負けずにやはり大きな声で姫ヶ谷が続けた。
「大丈夫なのか!? コンビニか!? 今行く!!」
「いや、いい! 来なくていい!」
柊は顔を上げた。バックヤードのドアに張られた鏡を見る。真っ赤に腫れた目元と鼻頭はあまりにも格好が悪い。「しかし……」と渋る姫ヶ谷を再度「いいから」となだめた。鼻を啜る音に気がついたのか、姫ヶ谷はおとなしくなった。
「別になんともない。明後日から普通に学校行くしな。スマホは壊れたけど」
「それならよかった。でもコンビニに居るのか? 親御さんは、その、相当心配しているだろう」
「……うん」
その件については肯定せざるをえなかった。誰もが知っていることだ。柊が話したわけでもないのに姫ヶ谷ですら知っている。三年間に野球部を乗せたバスが後ろから追突された。奇跡的に軽傷者のみであり、全員が当日中に自宅へ返された。
そしてその翌日にエースである柊篤はベッドで冷たくなっていた。
周囲のものは医療ミスだと叫んだ。病院側がもっとしっかり検査をすれば避けられた死だと声高々に言った。しかし柊の両親は訴えを起こさなかった。起こしたところで兄は帰ってこないからだ。
「兄ちゃんと俺の部屋って隣なんだけどさ」
「……うん?」
「親の手前寝たふりするけど、まだ起きて遊んでたいときってあるだろ? そうすると兄ちゃんがこう、俺の部屋側の壁を叩くわけだよ。そんで俺も起きてればゲーム機持って兄ちゃんの部屋に行くわけだ」
姫ヶ谷はなにも言わなかった。言いよどんでいるのだろう。頭のいいやつは察しがよくて助かるな、と柊は人ごとのように思った。
「寝てたんだよ、多分。少なくとも完全に起きてはなかった。だから分かんないんだよ。あれが現実だったのか夢だったのか。
母さんがめちゃくちゃ心配してさ、めちゃくちゃ様子見に来るんだよ。でもおかしいだろ。それは兄ちゃんのときにやるべきであって、俺のときはやらなくていいんだよ。兄ちゃんはそれで死んだんだから、俺もそうなるならそれで別にいいはずだろ。
別に夢だったのか現実だったのかはどうでもいいんだ。どっちでもいいから起きて兄ちゃんの部屋に行けばよかったんだから。事故って聞いてこっちはめちゃくちゃ心配したんだよ。なのにケロッとした顔で帰ってきてさ。なんだよ全然平気じゃんって。叩いてる音聞いてもさあ、事故ったばっかで夜更かししようとしてんなよ寝ろよ、って。たとえはっきり起きてたとしても多分俺は行かなかったよ。頭も性格も悪い弟のせいで兄ちゃんは死んだんだよ。だからそれを踏み台にして俺を生かそうとするのはおかしいだろ」
電話の向こうから弱々しく名を呼ばれる。しかし柊はそれを無視してさらに続けた。
「俺のことは別にいいんだよ。問題は兄ちゃんと母さんと父さんだよ。馬鹿のせいで死んだ兄ちゃんはどうしたらいいんだよ。馬鹿のせいで大事な息子が死んだ母さんと父さんはどうしたらいいんだよ」
「分かったから一回落ち着け!」
はっきりした声で制止されて柊は黙った。バックヤードは途端に静寂に包まれる。姫ヶ谷もはっきりと思考がまとまっているわけではないようだ。あー、とかうーん、とか唸る声が時折聞こえる。それでも何かを言おうとしているのは分かったので、柊はおとなしく待つことにした。しばらくしてやっと姫ヶ谷は弱々しく言葉を紡ぎだす。
「自分のせいでお兄さんは死んだ。だからお兄さんにも両親にも合わせる顔がない、って話でいいか?」
「……うん」
「まず曖昧な部分から潰していこう。そもそもお兄さんが自分の死をどう思っているのか、という部分から考えないか? きちんと納得して成仏しているなら別に君が気に病む必要は」
「いる」
「は?」
「兄ちゃんいる。家に。成仏してねえ」
「……なぜ君にそれが分かるんだ」
「なんか見えるようになった。俺も」
姫ヶ谷はまた電話の向こうで唸りだした。「いるのか……、そうか……」と絞り出すように言ってくる。
「それで、お兄さんの様子は……?」
「最初はなんか、俺と話せるようになって楽しそうだった。でも今はなんか、俺に怒ってる、多分」
「怒ってる、というのはなぜだ?」
「幽霊になってからの話を聞いてて、兄ちゃん楽しそうだな、って言ったら怒った。生きてるときの方がよっぽど楽しかった、って」
「……それは完全に君が悪いだろう」
「うん」
「しかし最初は楽しそうだったのだろう? なら君を恨んでる可能性は低いのでは?」
「じゃあなんで成仏せずに残ってるんだ、って話になるだろ」
「他にないのか心当たりは」
「父さん母さん悲しませるな、って言われた」
「じゃあそれだろう」
「そうかあ?」と疑問に思いながら柊はパイプ椅子の背に沈み込んだ。果たして自分を死より家族中を未練に残るだろうか。兄が優しかったことは事実だが、決して聖人君子だった訳ではないことを柊はよく知っていた。しばらく無言で思考を回す柊に、姫ヶ谷が恐る恐ると言った様子で「なあ」と言った。
「怖いのはよく分かる。自分が死なせてしまった、最後を辛いものにさせてしまった、恨まれているのではないかと考える気持ちはとてもよく分かる。しかしお兄さんは生き返らないし、幸か不幸か君はまたお兄さんと話せるようになった。
ならばもうきちんと向き合って対話する以外の道はないのでは? 恨まれているなら謝るしかないし、望みがあるなら叶えてやるしかない。それとも家に居る間、ずっとお兄さんから逃げ続けるか?」
それは、と言いかけて柊は黙った。少なくとも今までは父と母から逃げ続けた。高校卒業までやり過ごして就職と共に逃げ切るつもりでいた。それでいいと昨日まで本気で思っていた。
「どうしても無理なら、俺がお兄さんと話に行くが」
柊は数秒考えてから「いや、いい」と断った。
「流石に自分で話す。駄目だったらまあ、月曜にまた相談するわ」
電話の向こうで姫ヶ谷が「そうか」と笑った。数年間彷徨わせたツケは自分で払うべきだと柊は思った。そしてそれは数年間、目を逸らし続けたツケでもある。柊は姫ヶ谷の名を呼んだ。なんだ、と返事をする彼に気恥ずかしさを押し殺して「ありがとな」と礼を言う。俺は何もしていないぞ、とさらに笑う彼と月曜の昼に会う約束をして柊は電話を切った。スマホを先輩に返すべく立ち上がってバックヤードのドアの前へ立った。目元の腫れはもう随分と引いていた。
自宅の玄関を開けるや否や、ものすごい勢いで母がリビングから飛んできた。飛んではきたが何も言わない。なにも言えなくしているのは紛れもなく自分自身であることを柊はよく理解していた。柊は「ごめん」と謝った。そして「大丈夫だから」と続けた。そのまま母に背を向けて階段を上がっていく。母からしたら意味が分からないだろう。どちらかといえば母に向けた言葉ではない。柊は自分自身に言い聞かせていた。階段を上りながらも大丈夫、大丈夫とぶつぶつ繰り返している。いつもと変わらない階段を昇りきり、自室の前に立つ。兄はまだ自分の部屋にいるだろうか。いるとすれば自分が帰宅したことに気がついているはずだ。自室に入るのにこんなに緊張するのは生まれて初めてである。柊は一つ深呼吸をしてドアを開けた。こちらに背を向けて、兄は椅子に座っていた。
「ただいま」
柊はそっと部屋の戸を閉める。兄は何も言わなかった。振り返りもしなかった。柊の心臓が捕まれたようにぎゅっと痛む。うっすらと透き通っている後頭部を、柊は立ったまま眺めた。綺麗に短く刈り上げられ頭皮まで日焼けしている。運動場を走り回っている少年そのものであった。柊は意を決して口を開く。そのとき自分の口内が酷く乾いていることを自覚した。
「ごめん、兄ちゃん。ちゃんと話そう」
柊から出てきた声はあまりにも小さく震えていた。一拍置いて、兄はゆっくりと振り返る。見たことのない表情をしていた。怒りではない何かを噛みしめるような表情であった。こちらへ向き直ったものの兄は顔を伏せたままである。当然柊も同じであった。飛び出したときからつけっぱなしの蛍光灯がひたすら二人を上から照らしている。柊は自分の手が震えていることに気がついていた。本当は知りたくなかった。聞きたくなかった。夢であれば別に構わない。しかしはっきりと現実だと言われるのが怖くて仕方がなかった。そうなるくらいなら曖昧なほうが、夢である可能性が少しでも残っているほうがマシであった。しかしそれは一昨日までの話である。兄がこうして留まっていることを柊は知ってしまった。生者と死者が交わることはない。それができるのは幽霊が見えるごく一部の人だけである。自分が殺したかもしれない兄がそうして彷徨っている。最後の最後で酷い目に遭わせてしまった、と柊はずっと思っていた。でも違った。兄の最後はまだ来ていない。柊は息を吸った。手が、足が、唇が震えていた。
「兄ちゃん、あの日、壁叩いてた?」
兄は下を向いたままじっと黙っていた。身じろぎ一つせずにだたじっと座っていた。一瞬、口を開いてすぐに閉じる。三回ほどそうやって言いよどんだ後、兄はため息をついた。そして小さく「うん」と頷いた。
柊は何も言えなかった。ただ頭のどこかで「やっぱりな」と思った。あの夜は布団が肌に当たる感触が、隣から力なく鳴る音が、暗い部屋で視界がなじんでいく感覚が、あまりにもリアリティを帯びていた。初めから分かっていたのだ。ただ夢だと思い込みたいだけであった。柊は目の奥が熱くなる。やっと腫れの引いた目からは再度涙があふれてきた。それと同時に「ごめん」と謝罪の言葉も口からあふれてくる。
「ごめん、ごめん。気づいてた。音するなあって。兄ちゃん叩いてるなあって」
「だと思った」
兄はやっと振り返った。しかし下を向いてひたすら目元を拭う柊はその表情を確認できない。
「ずっと見てたからさ。俺が死んだ後の、お前の態度見て分かってたよ」
柊はなおさら顔が上げられなくなった。兄を殺してからずっと、どうしていいのか分からなかった。見殺しにしたことを親へ伝えて謝ればいいのか、夢だったことにして平然と生きればいいのか。そのどちらも柊はできなかった。抱えて生きるには辛すぎたが人に明け渡すことも忘れ去ることもできなかったのだ。だから一生抱えて生きると気負いながらも、いつか誰かに「お前のせいじゃない」って言ってもらうことを望んでいた。そのためにはいつか誰かに話さなければいけない。話せるような人間関係を築かねばならない。しかしそんな努力を柊は微塵もしてこなかった。どこからか急に現れて、自分を救ってくれやしないか、とひたすら神頼みをしていただけだ。結局、急に現れたのは死後の兄であった。「お前のせいじゃない」どころか己のせいであることが確定した。ならばどうするべきなのかと問われたら結局柊は分からなかった。死んだ兄に対して殺した自分ができることなど到底思いつかなかった。柊は喉を引き攣らせながら必死に兄へ問うた。
「俺どうしたらいい? 俺なにしたらいい? どうしようもないのは分かってるけど、生き返らせるとかもできないけど、俺は兄ちゃんになにができる? 兄ちゃんは俺にどうしてほしい?」
「聞きたいか?」と兄が言う。柊は必死で頷いた。
「甲子園優勝してほしかった。優勝して父ちゃん母ちゃん喜ばせてほしかった」
柊はとっさに首を振った。しかし泣きじゃくる柊相手に、兄は矢継ぎ早に言葉を投げてくる。
「他のみんなもそうだ。横溝先生も学校のやつらも、地元の人だって喜ばせてほしかった」
「俺の代じゃ無理でもお前の代なら行けただろ化け物みたいなやつばっかりだった」
「そのなかで頭一つ抜けてたんだぞお前は」
「みんな褒めてたよお前のこと。お前の弟すごいな、って何回言われたか分かんねーよ」
「中学であれだけ打てて拾えるやついねーよ。俺どっちもできなかったし」
「見たかったよお前が優勝するとこ」
柊はひたすら首を振りながら「ごめん、ごめん」と呟くほかなかった。兄の死とともに野球をやめてしまった。二年以上の時が経過してしまった。たとえ今から戻ったところで、ブランクを取り戻して三年の夏に間に合わせる時間はもう残されていない。柊が塞ぎ込んでいた間も必死で練習していた奴らに追いつけるほど甘い世界じゃない。それは柊も兄もよく分かっていた。
「ごめん。できない。間に合わない」
「死んだら何にもできないんだよ。見てることしかできない。ずっと見てたよお前のこと。なにやってんだよ」
柊はなにも答えられなかった。ただひたすらすすり泣くしかできない柊に向かって、兄は大きなため息をついてからまた矢継ぎ早に言い出した。
「さっき出てって、母ちゃん泣いてたぞ。父ちゃんは無言だったけど思い詰めた顔してた。俺が死んだときもそうだった」
「でもお前は生きてるだろ」
「晩飯残ってるから下行って食ってこい。風呂入ってさっさと寝ろ。そんで早く起きて、うちでちゃんと朝飯食ってけ」
柊は鼻を啜る合間に必死で頷いた。まだ兄の顔は見られない。しかしその声色から、先ほどまでの怒りのような熱が消えていることにはきちんと気づいていた。
「お前に殺されたなんて思ってない。だから、ちゃんと生きろよ」
柊はゆっくりと、そしてしっかりと頷いた。目元を強く拭ってやっと顔を上げる。
「分かったらさっさと下行ってこい」
小さくではあるが、兄は優しそうに笑っていた。それは生前何度も見た表情そのものだった。
鏡を見なくても自分の顔が悲惨なことくらいは分かる。顔中が熱を帯びていることを理解した上で柊は階段を下った。リビングのドアを開けると母と目が合った。明らかにぎょっとされた。しかしその母もやはり目元が赤く腫れ上がっていた。「晩飯、まだ残ってる?」と柊がよそよそしくも尋ねると、母はすぐに出してくれた。柊はゆっくりと咀嚼しながらそれを胃に収めた。食べ終わると同時に風呂へ入るよう諭されたので素直に従った。湯船に浸かって五分ほどしたところで意識を手放しそうになり、慌てて立ち上がり頭と体を洗う。髪を乾かすのも程々にして歯を磨き、さっさと自室へ戻ろうと階段の前まで行ったが、思い返してリビングへ顔を出した。洗い物をしている母へ柊は恐る恐る声をかける。
「明日からちゃんと起きて食べてくからさ。朝ご飯、俺の分も作ってもらっていい?」
「母さんは毎食真二の分も作ってる。お前が降りてこないだけだ」
答えたのは母ではなく、ソファに座る父であった。視線はテレビに向けられたままだ。柊は「ごめん」と俯くほかなかった。
「おかげで何キロ太ったと思ってる。いい加減健康診断で怒られそうだ」
だから朝も晩もちゃんと降りてきなさい、と父は続けた。柊は「うん」と頷きつつ再度謝罪した。今日はもう寝ることを告げて、おやすみと挨拶をしてリビングを後にする。家族に挨拶するのも二年振りだな、と部屋へ向かいながら柊は考えた。元通りとはいかないだろう。それでも今できる最良を選択していかなければならない。部屋ではまだ兄が座ってくつろいでいた。泣き疲れたのか考えつかれたのか、満腹のせいか体が温まったせいか、柊は限界に近かった。電気も消さずにそのままベッドへ横になる。今すぐ手放しそうな意識の端で兄の声が聞こえてきた。
「じゃあ俺もう行くから。あと……」
「アレックスと仲良くな」
アレックスって誰だよ。九割が睡魔に乗っ取られた脳みそでぼんやりと柊は考えたが、答えが出るより先に意識を手放してしまった。
「今のところ異常は見受けられませんが、検査が済むまでは安静にしていてください」
ベッドの上で上半身を起こしている柊は「はあ」と気の抜けた返事をした。隣の丸椅子に座っている母親はずびずびと泣きながら何度も頷いている。医者は明日の十時からなんやかんやと話を続けた。柊がそれを他人事のように聞き流しているうちに全ての説明が終わったらしい。医者は部屋を出て行った。母はただ下を向いて泣いていた。
病室というものはとにかく白い。壁や床はもちろん、ベッドの寝具もその横に備え付けられた棚までも色がない。部屋の中央に備え付けられたベッドに座ったまま、柊は医者が出て行ったドアとは反対方向を見た。ベッドから離れた位置にある窓からは、大量に並んでいる街の建物が見えた。すぐ裏手にあるはずの公園は高さのせいかベッドの上からは見えなかった。
柊は病院が嫌いであった。とくに個室の病室には心底苦手意識が染みついていた。そこに母のすすり泣く声まで響いているのだ。今すぐここから逃げ出したいのが本音であった。
お父さんが着替えとか持ってきてくれるから、と母が途切れ途切れに言う。柊は窓の外を眺めたまま、相づちともため息とも取れない息を吐いた。
夏休み後も当然のように姫ヶ谷の幽霊助けは続いた。二学期に入ってからの姫ヶ谷は週三でコンビニへ突撃してくる。逆に昼休みに校舎裏へやってくることはなくなった。生徒会は文化祭の準備で忙しいらしい。昼間は毎日生徒会室でランチミーティングに勤しんでいるそうだ。その話を聞きて、サラリーマンかよ、と柊はイートインスペースで突っ込んだ。一ヶ月ほど前の話である。そんなわけで最近の柊は平和な昼休みを謳歌していた。暦では秋だがまだ日差しは夏の色をしていた。猫缶を地面へ置きながら湯を沸かす。最近のお気に入りはカップ焼きそばであった。その平生が崩れたのは今から三日前のことである。とっくに湯が沸いたにもかかわらず黒猫が姿を現さなかったのだ。いつもなら猫缶を置けばすぐに飛んできていた。首をひねりながら柊はカップ焼きそばを作る。湯を注いで三分待ちそれを捨てる。ソースを絡めて啜る。空になった容器と割り箸をレジ袋へ入れて口を縛る。手持ち無沙汰にスマホをいじる。予鈴五分前になっても黒猫は来なかった。柊は不審に思いながら校舎裏を後にした。
翌日も、そのまた翌日も猫は姿を見せなかった。昼食を食べ終えた柊はこちらから探すことにした。校舎裏をうろうろと歩き回る。鳴き声のような音が柊の耳へ届いたのは探し始めてから五分後のことであった。おそらく位置は塀の向こう側である。柊は足早に裏門をくぐった。道路の反対側から後ろ足を引きずりながら渡ってくる黒猫と、その右手側から走ってくる乗用車。柊がとっさに地面を蹴ると同時に周囲の景色がスローモーションになる。
猫は好きだ。でも猫のために命をかけるほどのお人好しではないはずであった。
さてその猫は無事だったのかどうか。当然柊には分からないし、隣ですすり泣いている母が知っているとも思えない。頭を打ったのは覚えている。それは昨日の出来事らしい。目が覚めたのは今朝であった。まだ痛む後頭部をさすりながら柊は自分が取るべき行動を考えた。
とにかくバイト先に連絡をしなければならない。ついでに姫ヶ谷へも言っておいたほうがいいだろう。柊は癖でポケットからスマホを取り出そうとした。しかし今の自分が着ているのは水色の病院着であり、当然ポケットにはなにも入っていない。
「俺のスマホは?」
母は棚の上を指さした。柊は上半身を伸ばしてそれを見る。画面にはびっしりとヒビが入り真っ白になっていた。たとえ中身が無事だったとしてもこれではなにも映らない。柊は手に取ることをやめて、ベッドへ寝そべった。
医者は異常がないと言うが、柊は形容しがたい違和感を覚えていた。いつもと同じように目を開けて周囲を見ているはずであり、そこに映る景色にもなんの問題もない。しかしときおりもやのような、ノイズがはしるような感覚がある。しかし実際に見づらくなっているわけではない。実際は明瞭に見えているのに「一瞬見ずらくなった」という感覚だけが脳に走るのだ。頭を打ったせいだろうか。寝ている間にあれこれ調べられたらしいが、明日も再度検査をするらしい。生活に困るわけではないが先ほどから地味にストレスがたまる。一時的なものであってほしいと願いながら、柊は症状を抑えるために目を閉じた。真っ暗な世界の中で母のすすり泣く音だけが聞こえる。これはこれでしんどいな、と柊が寝返りを打ったところで別の声が、よく知った声が耳に届いた。それは柊のすぐそばから、ちょうど寝返りを打った背中側から聞こえてくる。
「にゃあ」
柊は驚いて飛び起きた。当然真っ先に、己の空耳を疑った。上半身をひねってそちらを確認する。ベッドの上には見知った黒猫が鎮座していた。柊が見間違うはずもなかった。鳴き声も大きさも毛艶も、校舎裏にいる黒猫そのものである。しかし頭部だけは今までと様子が違った。左耳が三つに裂けて血濡れになっており、その下の頭蓋骨も陥没している。そしてあんなにも綺麗だった目の片方、左目が大きく飛び出していた。その姿を認識した瞬間に柊は恐怖の声を漏らした。それはあまりにも小さかったが、側に居た母には届いたらしい。彼女はタオルハンカチで顔の下部を押さえたまま柊へ視線を向ける。そして首を傾げて言う。
「どうしたの」
柊は母の顔を見た。まっすぐ自分に向けられた視線の画角には、必ずこの猫も収まっているはずである。柊は猫と母へ交互に視線を動かす。しかし母には理解できないらしい。なにも言わない柊にいらだったのか、そのうち眉間を寄せて「なに」と言った。猫はもう一度、まるで自分の存在をアピールするかのように「にゃあ」と鳴いた。
「なんでもない」
母へ誤魔化しの言葉をかけながら柊はそっと棚へ手を伸ばした。己の視界に入ったその手はブルブルと震えている。真っ先に思い浮かんだのは姫ヶ谷の顔であった。どう見ても動かないであろうスマホを柊は手に取った。一抹の望みをかけてロックボタンを長押しする。残念ながらそれは起動しなかった。
擦り傷と打撲、全治一週間。それが柊に下された診断であった。そんな訳で柊は早々に病院を追い出された。自分の頑丈さに驚きながら、柊は病院の玄関へ荷物を持って立っていた。「異常があってまだ入院が長引くなら連絡する。そうじゃなければ自力で帰る」と母には伝えていた。母は昨晩、自分のスマホと自宅の固定電話の番号を紙へ書いてくれた。そして十円玉と百円玉を数枚ずつ置いていった。
「病院の公衆電話からかけなさい。使い方分かる?」
柊は曖昧に頷いておいた。公衆電話など使ったことはないがまあ電話くらいできるだろうと思ったからだ。しかし退院を言い渡されたので使うことなく病院を後にすることとなった。
時刻は午後一時を過ぎている。病院の前は広いロータリーとなっており、自動ドアから数メートル離れた位置にバス停とタクシー乗り場の看板が無機質に立っている。人通りはほぼないのにロータリーの向こう側にある駐車場には大量の車が並んでいる。門から入ってきた車がその駐車場を通り越して奥へと進んでいった。そちらは立体駐車場となっていて、やはり壁の隙間から、そちらにも車がたくさん止まっている様子が見て取れた。距離的には自宅まで徒歩でも余裕で帰れる。しかし九月の終わりとはいえ昼間はまだ真夏のように暑かった。足下で黒猫がにゃあと鳴く。当然、頭の上部はグロテスクに潰れたままである。痛々しい見た目にどうしても「可愛い」より「可哀想」という感情が勝ってしまう。そしていつまでも柊についてくる猫に対して言及するものは未だゼロであった。まさか自分まで見えるようになるなど、柊は想像すらしていなかった。とにかく自宅へ帰りたくない。しかし母はパートを休んで家にいる。遅くなれば心配して病院へ連絡してくる可能性が高い。しかも金曜の昼間である。高校生が私服で外にいれば嫌でも目立つだろう。柊は一つため息をついて自宅と反対方向に歩き出した。
柊の入店を認識した店長は完全に面食らっていた。「だ、大丈夫なの?!」と吃りながら慌ててレジカウンターから出て駆け寄ってくる。昼休みのピークは過ぎたらしい。コンビニ内にはほとんど客がいなかった。
シフトに穴を開けたことを柊は謝った。店長は高速で首と手を振った。
「いいよそんなの! 親御さんから連絡があったから店は困らなかったし!」
「打撲と擦り傷だけだったので、明日からはちゃんと出れます」
店長はまだ動揺しているらしい。それでも首を振りながらきっぱりと断ってきた。
「いい! いいよ出なくて! 事故った直後の高校生に仕事なんてさせられないよ!」
柊は当然食い下がる。家になど居たくないのだ。明日は土曜日である。事故直後なのに意味もなく外出などしたらさすがに親から咎められる可能性が高い。休みにされては一日中自宅に居るはめになる。レジカウンターの前で二人は押し問答を続けたが「せめて土日だけでも休んでくれ」と店長に押し切られてしまった。
「今日だってわざわざ謝りになんかこなくてよかったんだよ」
「いや、まあ昼飯買うついでなので。イートインスペース使っていいですか?」
店長の表情が「まじかよこいつ」みたいなものへと変貌する。端から見た柊は「一昨日車にはねられて意識を失った人」なので店長の反応は尤もである。しかし実際は軽傷も軽傷であり、後遺症も幽霊が見えるようになった以外にはなにもない。「まあ、それは構わないけど……」という店長へ軽く会釈をして柊は店内をまわった。お茶とパンを手に取ってから、いつもの癖で缶詰コーナーで立ち止まる。柊は足下を見た。黒猫も立ち止まっておとなしく座り、柊を見上げている。買ってやったところで食えないだろう。しかし結局こいつを助けてやることはできなかったわけで、まあお供えだと思えばそれは十二分に「あり」であった。
結局柊は柊はいつもの猫缶も一緒に購入した。一番隅の、奥まった位置にあるいつもの席へ腰掛ける。音を立てないようゆっくりと猫缶を開封して、こっそり足下へ置いてみた。黒猫はすぐに近寄って匂いを嗅ぎ、柊を見上げて小さく鳴いた。そのまま隣へ座り込んでいる。よろこんでいるような気がする、たぶん。柊は安堵してパンを開封した。一人で黙々とそれを咀嚼しながら今後の立ち回りを考えることにした。
そもそも柊が明日と明後日も働こうとしたのは、当然穴を開けた罪悪感からではない。家に居たくないというのも本心だが、もう一つ理由があった。姫ヶ谷が来てくれるのはないか、という期待である。とりあえず見えるようになってしまった以上、柊はとにかく早く彼と接触したかった。とはいえ今から学校へ行くわけにもいかず、スマホは壊れて連絡も取れない。姫ヶ谷の自宅は当然知らない。であればバイト先のコンビニにいるのが一番会える可能性が高いと思ったのだ。なのでこれはもう月曜日までお預けである。変に謝らずしれっとした顔で明日出勤してしまえばよかったかもしれない。しかしそれはそれで追い返されそうだな、と柊は考えを改めた。それにしてもスマホがないのは不便極まりない。母は検査にかかる時間を知らない。十六時くらいまでに帰れば怪しまれないだろうと柊は踏んでいた。だからそれまでここで時間を潰したいのだが、なにせ手持ち無沙汰である。雑誌でも買ってみようかと席を離れて棚を眺めてみる。特に興味を持てる本は置いていない。帰りたくない、帰りたくないと頭の中で反芻する。結局ベタに週刊の漫画雑誌をレジへ持って行った。相変わらず店長は「まじかよこいつ」といわんばかりの顔をしていた。
雑誌の分だけ重たくなった鞄を持って柊は玄関をくぐった。なんども誌面を往復したが内容はさっぱり頭に入らなかった。十六時より少しだけ早くコンビニを出たがとにかく足取りは重かった。いつもより五割増しの時間をかけて自宅に到着する。さすがに自室へ直行するのはまずいだろうと、柊は脱いだ靴を備え付けの靴箱へ収めながらため息をついた。そのまままっすぐ廊下を進んでリビングへ繋がる戸を開ける。中を見て硬直した。キッチンに立ってる母は分かる。しかしなぜかソファへ父親が座っていた。柊はとっさに目を逸らした。仕事から帰ってくるには早すぎる。いないものだと思っていた。キッチン側からスリッパがパタパタと鳴る。母が駆け寄ってきているのだろう。
「大丈夫だったの?」
柊の手から鞄を取りながら母が言う。柊は下を向いたまま頷いた。ソファ側から低い声で名前を呼ばれる。
「座りなさい」
柊はゆっくりとソファへ足を運んだ。父と反対側の、向かい側に設置されたソファへそっと腰掛ける。
「検査の結果は?」
「……異常ないらしい。擦り傷と打撲だけ」
父は向かいで息を吐いた。それが安堵によるものなのか、それともため息なのか。柊には区別がつかなかった。
「しばらくずっとリビングに居なさい。学校はしかたがないが終わったらまっすぐ帰ってくること」
「いやだ」
柊は視線を落としたまま、しかしきっぱりと拒否した。
「コンビニ寄ってきた。月曜から出るって言ってある」
「だめに決まってるだろう」
「一時間に一回降りてくる。それでいいだろ」
柊は返事も聞かずに立ち上がった。さっさと背を向けてリビングを出る。後ろで「待ちなさい」と言う声を無視して階段を上がった。自室に入って鍵を閉める。ベッドサイドに置きっぱなしのワイヤレスイヤホンを手早く装着した。そしてスマホを取り出す。ボロボロで動かないそれを見て、柊は舌打ちをしながらベッドへ叩きつけた。
柊はベッドに座り込んでゲームに没頭していた。それは完全に現実逃避であった。手元のゲーム機からは黒い線が延びており、柊の両耳へ繋がっていた。しばらく使っていなかった有線のイヤホンを引っ張り出してきたのだ。無事に動くことを確認できたとき、柊は安堵した。部屋に戻ってから十分後、母が部屋に訪れた。一時間置きに自分が部屋まで確認しに来るからリビングまで降りてこなくてもいいこと、そして夜だけはリビングのソファで寝てほしい、自分も横のソファで寝るから、とのことであった。柊は内心では渋々であったが、それを承諾した。それから母は四回この部屋に訪れた。三回目のとき「晩ご飯は?」と聞いてきたが当然断った。昼にコンビニで購入した弁当はまだ机の上に置きっぱなしになっている。
遊んでいるゲーム機は一世代前のものであった。次世代機が出たのは一年と少し前だ。柊はそのとき親へねだることをしなかった。すでに親子間には会話がなくなっていた。手元のこれは六年前のクリスマスに買ってもらった物である。現行機が欲しいと思ったことは何度もある。しかし通帳と相談して断念した。別に買えるだけの金はあったが貯金を優先した。それに一世代前だからといって遊べないわけではなく、むしろ中古ならソフトも安く入手できる。一人で遊ぶ分には十分であった。
ドアの開く気配に気づいて柊はイヤホンを片方だけ外した。当然母であった。おそらく事前にノックをしているのだろう。柊が気づかないだけである。母は「お風呂空いてるから、そろそろ入りなさい」と言った。柊は顔も上げずに適当に返事をする。そのまま母は部屋の入り口にじっと立っていたが、結局追加で何かを言うでもなくドアを閉めた。彼女の足音が遠ざかっていくことを確認した柊は外したイヤホンを手に取る。そのまま左耳へはめようとした瞬間であった。一階、方向的に玄関である。そのから大きな声で「ただいまー!」と声が聞こえてきたのだ。柊は動きを止めた。止まってしまった。
「お、猫じゃん。……あーこれは痛かったなあ。可哀想に」
いつの間にか部屋から出て行った黒猫は、まだ我が家に居たらしい。そうだろ、可哀想だろ、助けられなかったんだよ。だから帰ってきたくなかったんだ。だから部屋に引きこもって耳を塞いでいたんだ。よしよし、と猫をあやしている声を聞きながら柊は両の腕からだらりと力が抜けていった。ゲーム画面では止まることなく敵が押し寄せて柊の分身を攻撃している。一階にいるはずの両親は何も言わない。柊の耳には彼の声以外、なにも届いてこない。ドアの音も足音もなにひとつしない。柊は右耳のイヤホンを外した。ゲーム機をベッドの上に放り投げて立ち上がる。絶対に会いたくなかった。だけど声が聞こえた以上、無視するわけにもいかなかった。柊はドアを開けて廊下へ出る。二階へ上がってきた彼の足下には黒猫がじゃれついている。柊が部屋から出てきたことに気がついたのだろう。彼は黒猫に気を取られたまま雑に挨拶をした。
「ただいま真二」
「……おかえり」
一階にいる両親に聞かれないよう、柊は小さな声で言った。それでも目の前にいる彼にはしっかり届いたらしい。彼ははじかれたように柊の顔を見た。柊もじっと、彼の目を見返す。短く刈られた黒髪に、これでもかと焼けた浅黒い肌。そして口元から首、着ている黄色いTシャツは赤茶色に汚れている。
「お前、今おかえりって言った?」
柊は震える手を後ろに隠したまま頷いた。マジで!? マジで!? と彼は言う。
「俺のこと見えんの!?」
柊は再度頷いた。緊張して目を見開いていた彼は相好を崩す。柊は泣きそうになった。声も話し方も笑顔も、なにも変わらない。そこにいたのは紛れもなく、三年前に亡くなった兄の篤であった。あまりに大声で喜ぶものだから柊はとっさにたしなめようとしてしまった。しかしすぐにやめた。彼の声は両親に届くことはない。柊は無言で自分の部屋を指さした。
「部屋に来いってことか?」
柊は頷いて開けっぱなしになっている自分の部屋へ戻った。兄と猫もその後へ続いた。
床の上をふよふよと浮く兄を見ながら、柊はベッドに腰掛けていた。兄弟と共に部屋へ戻ってきた黒猫はやはり兄の足下へじゃれついている。兄はしゃがみながら黒猫の背をゆっくりと撫でた。幽霊同士は触れるらしい。血濡れの人が血濡れの猫を撫でる様子を眺めながら柊は口を開いた。
「兄ちゃんどこ行ってたの」
「京都」
柊は困惑した。脳内で兄と京都の接点を必死に思い描こうとするも、なにひとつ見つからない。
「暇だからさあ、月一くらいで旅行してるんだよ。俺たち小っちゃいころから野球やってたから、あんまり遠出ってしたことないだろ?」
たしかにその通りであった。家族で出かけるときは大抵日帰りであり、それも両親の意向で海や山といった自然の多いところが大半であった。有名な観光地は修学旅行でしか訪れた記憶がない。
そんなことより、と兄は顔を上げる。その表情は昔と変わらず慈しみにあふれている。
「また真二と喋れるとはなあ。まあいつも勝手に見てはいたけど」
兄が亡くなってから、柊は野球をやめた。両親と対話することをやめた。今の自分は兄にどう映っているのか。柊は思わず視線を逸らした。兄ちゃんはさ、と言いかけたところで黒猫が鳴く。一拍遅れてコンコンとドアが叩かれた。不意になったその音に驚いた柊の肩が大きくはねる。容赦なくドアを開けたのは案の定母であった。
「早く入りなさいよ」
「行ってこいよ」
眉間にしわを寄せた母の言葉にかぶせるように兄が言う。柊は頷いて風呂場へと向かった。
柊篤は有名人であった。ここらの地域ではよく名前が知られており、なんなら街中で声をかけられることすらあった。特に彼を認知していたのは野球少年とその親世代である。我が高校初の甲子園出場、そのマウントに立っていたのがまだ一年生の篤であった。
「お兄ちゃんすごいね」と何度言われたか分からない。「お前も頑張れよ」と何度背を叩かれたか分からない。当時、柊は中学二年生であった。部活の同級生に、中等部の顧問に、父に、そして当時もやはり高等部の顧問を務めていた横溝に柊は背を叩かれた。それが重荷になって、自分の不甲斐なさと合わさって潰れる人もいるのだろう。しかし柊はそうならなかった。兄が褒められることも、お前も兄に続けと背を押されることも嬉しくて仕方がなかった。ピッチャーとしての素質はなかったが外野手として走り回った。残念ながらレギュラーにはなれなかったが同期の中では一番を自負していた。来年は間違いなくレギュラーになれるだろう。
それでも兄との違いを柊はきちんと自覚していた。それは野球の面ではなく勉強面である。篤の中学受験が終わってすぐに自分も同じところへ行きたいと騒いだ。両親は兄と同じように柊を塾に入れた。しばらくは少年野球と並行して塾へ通い、小六の夏からは受験勉強に専念させる。篤と同じルートを辿らせればいいと思っていた。しかし彼の成績は驚くほどに伸びなかった。塾からは当然のように日数の増加を提案される。柊は別にいい学校に入りたいわけではなかった。ただ少年野球に兄の姿がないことが寂しかっただけである。同じ学校に入ればまた一緒に野球ができる。兄はよくできた子供であった。勉強を自主的にしながら弟のこともよく構って面倒を見た。それが普通でないことに、次男の受験で両親はやっと気がついた。
「このままではお兄ちゃんと同じ学校はいけないから、野球はお休みしようか」
母の言葉に「イヤだイヤだ」と騒ぐ小学五年生に、兄は後ろからそっと近づいて肩を組んだ。
「俺もまた真二と野球したいよ。勉強教えてやるからさ、頑張ろうぜ」
結果は補欠合格。無事に繰り上げで入学できたものの、当時の両親は気が気でなかったらしい。本人はと言えばこれでやっと勉強しなくて済むと大喜びであった。受験こそ終わったものの次男の精神面が幼いことは、不安の種として両親の中へ残り続けた。それでも進学後は赤点も取らず部活へ打ち込む姿を見て、自然と時が解決してくれるだろうと改善に務めることはしなかった。兄弟仲良く笑う姿を見て、兄が居れば大丈夫だろうと自然に任せることにした。
柊の人生の中で最も長い風呂であった。事故でついた擦り傷に湯は随分としみた。その痛みに耐えながら柊はのぼせそうなくらいじっと湯船に浸かっていた。風呂から出た後、人生で最も入念に髪を乾かした。部屋に戻ったら兄がいる。亡くなってから三年間、彼は孤独な状態で留まり続けていた。幽霊の存在を知ってからずっと、兄はいるだろうな、と薄々思っていた。一切未練のない人生を送れる者がこの世にどれだけ存在するのだろうか。ましてや十代で亡くなったとなればなおさらである。聞かなければならないことがある。言わなければならないことがある。完全に乾いた髪をくしゃくしゃとかき混ぜながら、柊は洗面台の前から動けなかった。兄の未練を弟が晴らす義務など当然ない。それでも柊は知っていた。赤の他人の未練すら、見返りなしで晴らそうと奮起する人の姿を。せめてあいつに相談できたらなあ、と柊は心の中で嘆く。それと同時に見つけたのが自分でよかったな、とも思う。もっと早くに姫ヶ谷が兄を見つけていたら、直接対話することなく見送ることになっていたかもしれない。柊はドライヤーを片付けた。きちんと対話して見送ることが、自分ができる唯一の罪滅ぼしであることは理解している。しかし腹を括って兄と向かい合う勇気はまだ湧いてこなかった。
洗面所を出て階段を上がる。意を決して自室のドアを開けるとそこには誰もいなかった。拍子抜けして立ち尽くす柊の背後から、兄は声をかけてきた。
「真二、お前なにかあった?」
柊は振り向いて返事をしようとしたが、すぐに思い直した。中へ入るようジェスチャーで兄へ伝える。自室のドアをきちんと閉めてから兄へ向き直った。
「なにか、って?」
「居間でテレビでも見ようと思ったらついてなくてさ。なんか母さんも父さんも思い詰めた顔してずーっと黙ってんの。お通夜かよって感じ。あ、今の幽霊ジョークな」
「いや笑えんし」
「そう?」
で、なんかあったの?と兄は再度尋ねてくる。
「車に轢かれた」
「お前が?」
柊は頷いた。向かいで兄が「ひええ」とおどけたような悲鳴を上げる。
「お前も事故かよ。俺ら兄弟呪われてんのかな。で、怪我は?」
「全治一週間。でもリビングで寝ろって」
「そりゃそうだろ」と兄は真剣な顔で頷いた。「俺も見ててやるけどさ、見てることしかできないから」
「心霊現象とか起こせないの? ポルターガイストだっけ」
「無理無理。ポルターガイストも鏡や写真への映り込みも、夢見枕も全部無理」
「夢がないな」
「無理なものは無理なんだからしょうがねーじゃん。全部お前に試したんだぞ」
「マジで? 全然気づかなかった」
「だから無理なんだって」
とにかく暇人なんだぜ幽霊は、と言って兄は柊のベッドへ寝そべった。そのまま彼はいかに幽霊が暇を持て余しているか、という話を続けてくる。
「生きてる人はみんな俺のこと気づかないだろ? 幽霊同士は話せるけどさ、若い幽霊なんてほとんどいねーのよ。ジジババばっかりで話は合わないし、向こうもこんな若いのに可哀想に、みたいなことばっかり言ってくんの。そんなん言われても死んじまったからどうしようもねーじゃん? じゃあ一人で遊ぶにしたって物には触れないから、ゲームとか漫画は無理なわけ。だから幽霊初心者のころは誰かが見てるテレビやYoutubeを後ろからのぞき見するとか、映画館に堂々と忍び込んで無料で居座るとかそんなんばっかりしてた」
柊はベッドに腰掛けたまま「へえ」と相づちを打った。兄の話はまだ止まない。
「そのあとは東京まで出て舞台とかミュージカルとか見に行ったりな。お前見たことないだろ? 俺も死んでから初めて見たけど、意外と面白いぞ。目の前で人が演じてるから映画とはまた違った迫力があるんだよな。あとはプロ野球見に行ったりとか。美術館も行ってみたけど駄目だったな。俺には芸術とか分かんない。ゴッホ展に行ったんだよ。めっちゃ混んでたな。そしたらとある絵の横に幽霊が居てさ、歴史の教科書に載ってるような格好の外国人なんだよ。もしかしてゴッホか!? とか思って話しかけたんだけどまあ日本語通じなかったわ。そんでその絵を通り越したらゴッホの自画像が飾ってあって、見たら幽霊と全然似てなかったんだよ。じゃあさっきのおっさんは誰だったんだよ、って」
柊は兄の長話にひたすら相づちを打ちながら、彼の顔を盗み見た。上機嫌で饒舌に語る兄の姿に喜びと心苦しさの両方が胸に湧いてくる。生前は逆だった。柊がべらべらと兄へ話し、それをニコニコと相づちを打ちながら兄が聞いてくれるのが常であった。自分で言っていたとおり話す相手がいなかったのだろう。そんな状態でこの世に留まっている原因が己にあることを柊は自負していた。それに申し訳なさを覚えつつも、こうしてまた彼と会話ができることが、柊は素直に嬉しかった。
柊にとって生前の兄は保護者に近かった。柊にとって兄はかっこよくて優しい大人であった。しかし今、こうして自分のベッドに寝そべっている彼は十代半ばの、自分と同世代の子供にしか見えない。兄の年齢を追い越してしまったことを柊は今日、やっと自覚した。
結局、兄の話が尽きるよりも先に母が「寝なさい」と呼びに来てしまった。兄にも諭され柊は渋々リビングのソファへ横になる。母が用意したタオルケットを胸元まで引き上げた。その母は向かいのソファでやはり柊と同じように寝る準備をしている。
「おかしいと思ったらすぐ起こしなさいよ」
「うん」
「起きられなかったら枕元のそれひっぱりなさい」
「うん」
柊は枕元に置かれたそれを再度ちらりと見る。古ぼけたそれは柊兄弟が小学生のころに持たされていた防犯ブザーであった。「うわ、懐かしー!」とソファの前にしゃがんでいる兄が声を上げた。当然母には見えないので、柊も返事をするわけにいかない。そういえば幽霊は眠るのだろうか。少なくとも今の兄には寝ようという意思を微塵も感じない。
「おやすみ」と母はリビングの電気を消した。それでも兄はソファの横にしゃがみ込んだまま柊を凝視してくる。当然寝られるわけがないが抗議の声も上げられないので、柊は兄をにらみ返した。兄は首を傾げて不思議そうな顔をしていた。しかし数秒後にやっと理解したらしい。
「悪い悪い。寝れないよな」
兄は笑いながら体を反転させた。柊が寝ているソファを背もたれにするようにして床に座り直す。おやすみ、と兄は言った。柊は小さく頷いて、頭までタオルケットを引き上げた。
コツ、コツ、と向こう側から壁を叩く音がする。音がしたような気がした。それは日常であった。それは何も不思議なことではなかった。その日、柊はすでに微睡んでいた。柊はそれを聞こえないことにした。あるいはもう眠っていることにした。それもまた日常であった。それもまた不思議なことではなかった。次の日から音は鳴らなくなった。鳴らなくなったはずであった。それでもまだ柊の耳にはコツ、コツ、と音が届く。隣の部屋から叩いている。兄ちゃんが呼んでいる。兄ちゃんが呼んでいた。夜更かししたいとき、まだ遊び足りないとき、まだ話し足りないとき。コツ、コツ、と音がする。兄ちゃんが呼んでいる。兄ちゃんが呼んでいた。柊はそれを聞こえないことにした。もう眠っていることにした。今日はもう兄ちゃんと喋りたくなかった。柊はもう眠っていた。音がした。音なんてしなかった。次の日から聞こえなくなった。次の日からも聞こえた。兄ちゃんは呼んでいなかった。兄ちゃんが呼んでいた。
力任せに肩を揺さぶられている。「真二! 真二!!」と頭上から大声で自分の名を呼ぶ声が聞こえる。柊はゆっくりと目を開いた。母が必死の形相で叫んでいた。
「救急車!!」
ローテーブルに置かれたスマートフォンを取った母の手を、柊は慌ててつかんだ。自分の体がじっとりと汗ばんでいることを柊は自覚した。夢見が悪いのはいつものことである。しかし母がそれを知るはずもなかった。
「大丈夫だから。変な夢見ただけ」
でも! と母はやはり大声で言った。よほど魘されていたのだろう。端から見たらそれが苦しんでいるように見えるのは仕方がないことだった。「大丈夫、大丈夫」と柊は母に向かって諭し続けた。二階からバタバタと足音が聞こえる。それは階段を経由してリビングの入り口まで続いた。寝間着姿の父が慌ててリビングのドアを開く。
「どうした!?」
「真二が……」
「大丈夫だって」
夢見が悪かっただけだから、と柊は再度母を諭す。彼女はやっと静かになった。二人を交互に見ながら、状況を察したらしい父が口を開いた。
「体調は?」
「どこも悪くない」
柊は間髪入れずに答えた。
「……しばらくここに居なさい。母さん、朝食たのめるか?」
下を向いた母は小さく頷いてカウンターキッチンへと向かう。にわかに鼻を啜る音が聞こえた。兄はと言えば悲しそうな、それでいて申し訳なさそうにも見える顔でただ父の隣をふよふよと浮いていた。
柊は無言でソファに座った。父も同様に向かいへ座る。しばらく二人して黙ってじっとしていたが、そのうち父がローテーブルからリモコンを拾い上げてテレビをつけた。彼の選んだチャンネルはニュースのなかでも一番お堅いやつで、柊からしてみればつまらないことこの上なかった。しかしスマホが故障している今、ほかに時間を潰す当てもなかった。スーツを着たアナウンサーはにこりともせずに淡々と原稿を読み上げ、続いて街や人の映像へ切り替わる。詐欺、事故、事件、海外のデモ、経済の低迷。向かいの父はただ真剣にそれを見ていた。その隣に座る兄も同様であった。朝からこんな暗い話ばかり摂取してなにが楽しいのか、柊にはさっぱり分からなかった。
そのうちに母が朝食を作り終えたので、立ち上がってダイニングテーブルへ移動する。母の料理を食べるのは数年ぶりであった。焼きたてのトーストは当然まだ温かく、噛むと口の中にバターがしみ出してくる。柊は無言でそれと付け合わせの目玉焼きを食べた。サラダは父と母の前にしかない。どうせ出しても食べないことを、母はよく知っていた。
食べ終わった皿を流しへ片付けて、柊は「部屋に戻る」と言ってリビングを出た。父も母もなにも言わなかった。ただ兄だけが後ろから柊を追いかけてきた。
昨晩とは反対に、柊がベッドへ突っ伏して兄は縁に腰掛けている。部屋に戻ってしばらくしてから、柊は兄へ話しかけた。
「スマホ買いに行きたいんだけどさ、まずいかな」
「まずいだろ。さすがに今日は家に居てやれよ」
「だよなあ」と返事をしつつ柊はなにをするべきか悩んでいた。昨日のようにゲームで暇を消費してもいいが、隣には幽霊の兄がいる。自分が一人で遊んでいては彼が退屈だろう。一緒に動画でも見られればいいが、柊はパソコンもタブレットも所持していなかった。柊はさらに思考を進める。そういえば兄が旅行帰りであることを思い出した。
「兄ちゃんさあ、京都どうだったの」
「京都はすごいぞ。幽霊が大量にいる。そんで俺たちは入っちゃいけないところにも入れる」
「ほう」
そこからは昨日の一緒であった。ひたすら喋る兄へ相づちを打ち続ける。地元の幽霊による観光案内と歴史の解説はどうやら面白い物であったらしい。金閣寺や清水寺の中がどうなっているか知らないだろ、バッチリ見てきたぞ。と兄は内部の様子を饒舌に語ってくれた。京都だけではない。それ以前に行った各地の様子を、兄は幽霊特有の視点と体験で面白く話してくれる。柊はそれを笑いながら、驚きながら、感心しながら何時間も聞いていた。時折様子を見に来る母の対応をした。すっかり顔色のよくなった柊を見て母も安心したらしい。昼頃にはすっかりその頻度が下がっていた。
「食べ終わったら廊下に出しておいてくれればいいから」
母はそう言いながらトレーを持ってきた。そこには白い皿に盛られたカルボナーラと、柊が幼いころからこの家にある黄緑色のスープカップ、そして柊が見たことのないフォークが載っていた。簡単な礼を言いながら柊はそれを受け取って部屋の机へ置く。なんか引きこもりの人みたいだな、と心の中で自嘲した。しかし安堵もしていた。今日の食事は用意していないが、朝のように家族と食べるのはやはり気が引けるからだ。呼ばれたら昼食だけでも断ろうと思っていた。向こうから持ってきてくれるのは予想外であり、それでいてありがたかった。
相変わらず止むことのない兄の語りをBGMにしながら柊は食事に手をつけた。カルボナーラを一口分咀嚼して、その懐かしさに手を止めてしまった。特別これが多く出たわけでも自分の好物なわけでもない。それでも食べた瞬間にこれが母の味であることを柊は思い出した。
「食わねーの?」
「いや、食べるよ」
あっそう、と兄は大して気にとめる様子もなくまた話を続けた。今は和歌山にある動物園の話をしている。大人気のパンダを列に並ぶことなく檻もすり抜けて至近距離で見てきたらしい。実に羨ましいな、と柊は初めて幽霊に嫉妬した。
十五分ほどで平らげた柊はのびをしてまたベッドへ寝そべった。昨晩の寝心地の悪さと満腹感が相まって一気に眠気が襲ってくる。柊は目を閉じた。
「美味かった?」
「うん」
「食器出しとけよ?」
「うん」
頷いたものの起き上がる気力はない。柊は自分の腹の上に両手を開いて載せた。膨れた腹が手のひらでじんわりと温まっていく。それに合わせて意識もじんわりと遠のいていくのを感じた。
「兄ちゃんさあ、楽しそうだな」
「……そうでもねえよ」
兄の声は先ほどまでよりも一段小さく、そして一段低かった。
「生きてたころのほうがよっぽど楽しかった」
柊は返事ができなかった。遠のく意識では返答を考えることができなかった。そうしてぼんやり悩んでいるうちに意識を手放してしまった。
眠気を引きずることなく柊は目を覚ました。上体を起こすと真正面の窓が嫌でも視界に入る。カーテンは昼間に開けたままになっており、その外は完全に暗くなっていた。すぐに抜け出してカーテンを引く。部屋の電気は当然昼から着いたままである。おはよう、と声をかけてくる兄は椅子に座っていた。その隣にある机の上には食器が置かれていたはずだが、無くなっている。
「兄ちゃん、皿出しといてくれたのか?」
兄は「そんなわけないだろ」と笑った。
「母さんだよ。寝てるお前見て、めちゃくちゃ心配そうにしてたぞ」
柊は壁掛け時計に目をやる。七時半を過ぎたところであった。
「そろそろ晩飯だろ。下行ってこいよ」
「いや、腹減ってないし」
そっか、と兄は呟いた。数時間前まであんなに喋っていたのが嘘のように、それから兄は黙り込んでしまった。柊は少し迷って、ベッドサイドに置いていたゲーム機へ手を伸ばした。そのまま寝そべってイヤホンジャックを外す。音量を小さくしてそのまま遊びだした。このゲームを親に買ってもらったときは当然兄も生きており、そして兄も柊と同時にこのソフトを買ってもらっていた。通信することで協力プレイができるのがこのゲームの売りでもあり、手に入れた日は親の目を盗んで深夜まで二人でゲーム機にかじりついていた。何年も前の話である。今でも隣の、兄の部屋は片されることなく亡くなった当時のままになっており、つまりこのゲームも引き出しに本体ごと仕舞われているはずだ。しかしそれを引っ張り出してきたところで昔のように一緒に遊ぶことはできない。兄は椅子に座っている、ように見える。しかし彼の話を聞く限り物には触れられないらしい。ではあれはどういう状態なのか。柊はそれを兄に尋ねることができなかった。彼が亡くなる少し前まで、柊にとって彼は誰よりも近くて頼れて、自分を甘やかしてくれる人だった。生前、柊は兄に気を使った記憶が一切ない。生前の兄はそれをずっと許容してくれていた。しかし今は分からない。だから柊は彼に尋ねることができなかった。
柊が無言かつ無心でゲームをすること数十分。やはり母は昼同様にトレーを持って二階へ上がってきた。柊はベッドに寝そべったまま、顔を上げることもなくドア越しにそれを断った。母の足音が遠ざかって聞こえなくなったころ、ずっと無言で座っていた兄はぽつりと口を開いた。
「お前は楽しいのかよ」
「なに」
柊はやはり顔も上げずに言った。手元のゲーム機に視線を留めたまま両手を動かし続ける。兄を見ない、というより見ることができなかった。ゲームを止めないのではなく、止めることができなかった。続けることで脳みその容量をひたすらゲームに割いた。別の思考が割り込まないようにひたすらゲームで脳を埋めた。
「どんな生き方したってお前の勝手だけどさ、父ちゃん母ちゃん悲しませるのはいい加減やめろよ」
敵の攻撃が操作キャラクターへ直撃する。柊のキャラはその場に倒れた。画面は暗転しキャラクターはスタート地点へリスポーンしていく。そこに操作の余地はなく、柊はそれをただじっと眺めるほかない。倒れたキャラは数秒後にはもう立ち上がっている。柊がスティックを倒せば走り出す。しかし柊の手は止まったままであった。残機はあるのだから別にまだクリアはできる。しかし無敗報酬を獲得することはもうできない。最良の選択肢はもう途絶えてしまった。
「……それが兄ちゃんの未練なのかよ」
兄は返事をしなかった。ゲームのBGMだけが部屋に響いている。「違うだろ」と吐き捨てるように続けた。いくら優しくて立派な兄でも、現世に留まっている理由はもっと別であることくらい柊は理解していた。
「卒業したら家から出て行く。親とはもう関わらない」
「お前なあ」
「兄ちゃんとも関わらない。それで全部終わりにする」
柊はゲーム機を放り捨てて起き上がった。ひたすらに兄を視界へ入れないよう務めながらベッドから降り、財布を手に取って部屋のドアを開ける。
「着いてくんなよ」
吐き捨てると同時に後ろ手にドアを閉めて、柊はさっさと階段を降りた。そのまま足早に家から出る。玄関を開閉する音は嫌でもリビングへ届く。柊は外出したことに嫌でも親は気づくはずだ。柊は歩みを緩めることなくさっさと家から離れることにした。
すでに日は落ちている。立ち並んでいる住宅は柊家同様に明かりが灯され、漏れ出した夕食の匂いに乗って時折子供の走る足音や歓声が柊の元まで届いた。道行く人は皆足早で、柊の存在を前方に確認するや否や少しだけ端に寄った。そしてすれ違いざまに視線を下げて、やんわりと柊とは反対方向を見る。挨拶をするでもなく、かといって存在そのものを無視するわけでもない。認識した上で関わらないという意思表示を失礼にならない程度にふんわりと醸し出してくる。それは柊も同じであった。普段なら気にならないそれが、今日はヤスリのように柊の精神を削ってくる。見知った景色から逃げ出したいが知らない道を行く気力はなかった。とにかく住宅街を抜けることだけを考えてひたすらに足を進め続けた。行く当てがあるわけではない。頼れる人や駆け込める場所を作らない選択をしたのは紛れもなく柊自身であった。いつのまにかたどり着いた駅前は案の定ごった返しており、その人混みの中に自分を知っている人がいるのではないか、と感じもしない視線に柊は怯えた。誰も知らないところへ行きたかった。あと一年と少しで行けるはずだった。柊真二のことも柊篤のことも、誰もが知らない世界を夢見ていた。雑踏の中を歩くのが嫌だったがどこかへ入って立ち止まるのはもっと嫌だった。ひたすら下を向いて駅前を通り過ぎようとするその肩を後ろから叩かれたとき、柊は自分でも信じられないほど肩が跳ね上がった。
「食べる?」
眼前に突き出された赤い紙パックはライバル店の唐揚げであり、差出人が羽織っているパーカーの下には緑の制服がしっかりと見えている。何を考えているのか分からないような、何も考えていないかのような、ぼんやりした顔の先輩は反対の手で持ったパンをかじっていた。
「今日は俺のワンオペだからさあ、おいでよ」
柊は返事ができなかった。ただ張り詰めていた何かが、せき止められていた何かがほんの少しずつ、しかし確実に崩れていった。
スチーマーから出したばかりの肉まんは手がやけどしそうなほど熱い。柊は指先をこまめに弾ませながら裏の紙を剥いだ。レジカウンターの内側で隠れるようにしゃがみながら柊はぐずぐずと鼻を鳴らす。先輩は真横に立っていた。客はいなかった。
駅前からコンビニまで泣きながら後ろを歩く柊に、彼は何も言わなかった。ただ時折振り返っては柊がちゃんと着いてきているかを確認していた。無言のまま連れだってバイト先まで到着すると彼は「ちょっと隠れててね。坂田さんと店長が出てったら入っておいで」と柊を駐車場と反対側、店の裏手に誘導した。柊はおとなしく建物の陰から裏口を眺め、仕事の終わった二人が帰っていくところを見届けてから店に入る。バックヤードから店内へ行くと先輩がレジカウンター内で手招きをしていた。ここならあんまり見えないから、とホットスナック用のスチーマーの裏側を指されて柊はそこにしゃがみ込む。はい、と差し出された肉まんはブランド豚を使った新作であり、いつも売っている定番のものより数十円高い。涙が大分落ち着いた柊はお礼を言ってそれを受け取った。先輩は笑っていた。
柊が肉まんを半分食べ終えたころ、先輩は普段と変わらず緩い調子で口を開いた。
「お友達を呼ぶといいよ。こういうときは」
柊はしゃがみこんだまま首を振る。
「スマホ壊れちゃったんですよ」
そうなんだ、と言いながら先輩はなにやらゴゾゴゾとポケットからスマホを取り出した。数秒操作したあと「はい」と柊にそれを差し出してくる。メッセージアプリの通話呼び出し画面が表示されており、そこには『姫ヶ谷アレクサンダー太』と書かれている。柊は驚いて先輩の顔を見た。こないだ交換したんだよねえ、とのんきに言われる。
「お友達、すごい名前だね」
柊は思わず笑いながら頷いた。ちょっと借ります、と先輩に断りを入れてバックヤードへ下がる。休憩用のパイプ椅子を引きながらスマホを耳に当てた。柊が座ると同時にコール音が鳴り止む。「もしもし姫ヶ谷です」とあまりにも聞き慣れた声に柊は脱力した。
「あー、俺。柊だけど」
スピーカーからガタリと大きな音がする。それに負けずにやはり大きな声で姫ヶ谷が続けた。
「大丈夫なのか!? コンビニか!? 今行く!!」
「いや、いい! 来なくていい!」
柊は顔を上げた。バックヤードのドアに張られた鏡を見る。真っ赤に腫れた目元と鼻頭はあまりにも格好が悪い。「しかし……」と渋る姫ヶ谷を再度「いいから」となだめた。鼻を啜る音に気がついたのか、姫ヶ谷はおとなしくなった。
「別になんともない。明後日から普通に学校行くしな。スマホは壊れたけど」
「それならよかった。でもコンビニに居るのか? 親御さんは、その、相当心配しているだろう」
「……うん」
その件については肯定せざるをえなかった。誰もが知っていることだ。柊が話したわけでもないのに姫ヶ谷ですら知っている。三年間に野球部を乗せたバスが後ろから追突された。奇跡的に軽傷者のみであり、全員が当日中に自宅へ返された。
そしてその翌日にエースである柊篤はベッドで冷たくなっていた。
周囲のものは医療ミスだと叫んだ。病院側がもっとしっかり検査をすれば避けられた死だと声高々に言った。しかし柊の両親は訴えを起こさなかった。起こしたところで兄は帰ってこないからだ。
「兄ちゃんと俺の部屋って隣なんだけどさ」
「……うん?」
「親の手前寝たふりするけど、まだ起きて遊んでたいときってあるだろ? そうすると兄ちゃんがこう、俺の部屋側の壁を叩くわけだよ。そんで俺も起きてればゲーム機持って兄ちゃんの部屋に行くわけだ」
姫ヶ谷はなにも言わなかった。言いよどんでいるのだろう。頭のいいやつは察しがよくて助かるな、と柊は人ごとのように思った。
「寝てたんだよ、多分。少なくとも完全に起きてはなかった。だから分かんないんだよ。あれが現実だったのか夢だったのか。
母さんがめちゃくちゃ心配してさ、めちゃくちゃ様子見に来るんだよ。でもおかしいだろ。それは兄ちゃんのときにやるべきであって、俺のときはやらなくていいんだよ。兄ちゃんはそれで死んだんだから、俺もそうなるならそれで別にいいはずだろ。
別に夢だったのか現実だったのかはどうでもいいんだ。どっちでもいいから起きて兄ちゃんの部屋に行けばよかったんだから。事故って聞いてこっちはめちゃくちゃ心配したんだよ。なのにケロッとした顔で帰ってきてさ。なんだよ全然平気じゃんって。叩いてる音聞いてもさあ、事故ったばっかで夜更かししようとしてんなよ寝ろよ、って。たとえはっきり起きてたとしても多分俺は行かなかったよ。頭も性格も悪い弟のせいで兄ちゃんは死んだんだよ。だからそれを踏み台にして俺を生かそうとするのはおかしいだろ」
電話の向こうから弱々しく名を呼ばれる。しかし柊はそれを無視してさらに続けた。
「俺のことは別にいいんだよ。問題は兄ちゃんと母さんと父さんだよ。馬鹿のせいで死んだ兄ちゃんはどうしたらいいんだよ。馬鹿のせいで大事な息子が死んだ母さんと父さんはどうしたらいいんだよ」
「分かったから一回落ち着け!」
はっきりした声で制止されて柊は黙った。バックヤードは途端に静寂に包まれる。姫ヶ谷もはっきりと思考がまとまっているわけではないようだ。あー、とかうーん、とか唸る声が時折聞こえる。それでも何かを言おうとしているのは分かったので、柊はおとなしく待つことにした。しばらくしてやっと姫ヶ谷は弱々しく言葉を紡ぎだす。
「自分のせいでお兄さんは死んだ。だからお兄さんにも両親にも合わせる顔がない、って話でいいか?」
「……うん」
「まず曖昧な部分から潰していこう。そもそもお兄さんが自分の死をどう思っているのか、という部分から考えないか? きちんと納得して成仏しているなら別に君が気に病む必要は」
「いる」
「は?」
「兄ちゃんいる。家に。成仏してねえ」
「……なぜ君にそれが分かるんだ」
「なんか見えるようになった。俺も」
姫ヶ谷はまた電話の向こうで唸りだした。「いるのか……、そうか……」と絞り出すように言ってくる。
「それで、お兄さんの様子は……?」
「最初はなんか、俺と話せるようになって楽しそうだった。でも今はなんか、俺に怒ってる、多分」
「怒ってる、というのはなぜだ?」
「幽霊になってからの話を聞いてて、兄ちゃん楽しそうだな、って言ったら怒った。生きてるときの方がよっぽど楽しかった、って」
「……それは完全に君が悪いだろう」
「うん」
「しかし最初は楽しそうだったのだろう? なら君を恨んでる可能性は低いのでは?」
「じゃあなんで成仏せずに残ってるんだ、って話になるだろ」
「他にないのか心当たりは」
「父さん母さん悲しませるな、って言われた」
「じゃあそれだろう」
「そうかあ?」と疑問に思いながら柊はパイプ椅子の背に沈み込んだ。果たして自分を死より家族中を未練に残るだろうか。兄が優しかったことは事実だが、決して聖人君子だった訳ではないことを柊はよく知っていた。しばらく無言で思考を回す柊に、姫ヶ谷が恐る恐ると言った様子で「なあ」と言った。
「怖いのはよく分かる。自分が死なせてしまった、最後を辛いものにさせてしまった、恨まれているのではないかと考える気持ちはとてもよく分かる。しかしお兄さんは生き返らないし、幸か不幸か君はまたお兄さんと話せるようになった。
ならばもうきちんと向き合って対話する以外の道はないのでは? 恨まれているなら謝るしかないし、望みがあるなら叶えてやるしかない。それとも家に居る間、ずっとお兄さんから逃げ続けるか?」
それは、と言いかけて柊は黙った。少なくとも今までは父と母から逃げ続けた。高校卒業までやり過ごして就職と共に逃げ切るつもりでいた。それでいいと昨日まで本気で思っていた。
「どうしても無理なら、俺がお兄さんと話に行くが」
柊は数秒考えてから「いや、いい」と断った。
「流石に自分で話す。駄目だったらまあ、月曜にまた相談するわ」
電話の向こうで姫ヶ谷が「そうか」と笑った。数年間彷徨わせたツケは自分で払うべきだと柊は思った。そしてそれは数年間、目を逸らし続けたツケでもある。柊は姫ヶ谷の名を呼んだ。なんだ、と返事をする彼に気恥ずかしさを押し殺して「ありがとな」と礼を言う。俺は何もしていないぞ、とさらに笑う彼と月曜の昼に会う約束をして柊は電話を切った。スマホを先輩に返すべく立ち上がってバックヤードのドアの前へ立った。目元の腫れはもう随分と引いていた。
自宅の玄関を開けるや否や、ものすごい勢いで母がリビングから飛んできた。飛んではきたが何も言わない。なにも言えなくしているのは紛れもなく自分自身であることを柊はよく理解していた。柊は「ごめん」と謝った。そして「大丈夫だから」と続けた。そのまま母に背を向けて階段を上がっていく。母からしたら意味が分からないだろう。どちらかといえば母に向けた言葉ではない。柊は自分自身に言い聞かせていた。階段を上りながらも大丈夫、大丈夫とぶつぶつ繰り返している。いつもと変わらない階段を昇りきり、自室の前に立つ。兄はまだ自分の部屋にいるだろうか。いるとすれば自分が帰宅したことに気がついているはずだ。自室に入るのにこんなに緊張するのは生まれて初めてである。柊は一つ深呼吸をしてドアを開けた。こちらに背を向けて、兄は椅子に座っていた。
「ただいま」
柊はそっと部屋の戸を閉める。兄は何も言わなかった。振り返りもしなかった。柊の心臓が捕まれたようにぎゅっと痛む。うっすらと透き通っている後頭部を、柊は立ったまま眺めた。綺麗に短く刈り上げられ頭皮まで日焼けしている。運動場を走り回っている少年そのものであった。柊は意を決して口を開く。そのとき自分の口内が酷く乾いていることを自覚した。
「ごめん、兄ちゃん。ちゃんと話そう」
柊から出てきた声はあまりにも小さく震えていた。一拍置いて、兄はゆっくりと振り返る。見たことのない表情をしていた。怒りではない何かを噛みしめるような表情であった。こちらへ向き直ったものの兄は顔を伏せたままである。当然柊も同じであった。飛び出したときからつけっぱなしの蛍光灯がひたすら二人を上から照らしている。柊は自分の手が震えていることに気がついていた。本当は知りたくなかった。聞きたくなかった。夢であれば別に構わない。しかしはっきりと現実だと言われるのが怖くて仕方がなかった。そうなるくらいなら曖昧なほうが、夢である可能性が少しでも残っているほうがマシであった。しかしそれは一昨日までの話である。兄がこうして留まっていることを柊は知ってしまった。生者と死者が交わることはない。それができるのは幽霊が見えるごく一部の人だけである。自分が殺したかもしれない兄がそうして彷徨っている。最後の最後で酷い目に遭わせてしまった、と柊はずっと思っていた。でも違った。兄の最後はまだ来ていない。柊は息を吸った。手が、足が、唇が震えていた。
「兄ちゃん、あの日、壁叩いてた?」
兄は下を向いたままじっと黙っていた。身じろぎ一つせずにだたじっと座っていた。一瞬、口を開いてすぐに閉じる。三回ほどそうやって言いよどんだ後、兄はため息をついた。そして小さく「うん」と頷いた。
柊は何も言えなかった。ただ頭のどこかで「やっぱりな」と思った。あの夜は布団が肌に当たる感触が、隣から力なく鳴る音が、暗い部屋で視界がなじんでいく感覚が、あまりにもリアリティを帯びていた。初めから分かっていたのだ。ただ夢だと思い込みたいだけであった。柊は目の奥が熱くなる。やっと腫れの引いた目からは再度涙があふれてきた。それと同時に「ごめん」と謝罪の言葉も口からあふれてくる。
「ごめん、ごめん。気づいてた。音するなあって。兄ちゃん叩いてるなあって」
「だと思った」
兄はやっと振り返った。しかし下を向いてひたすら目元を拭う柊はその表情を確認できない。
「ずっと見てたからさ。俺が死んだ後の、お前の態度見て分かってたよ」
柊はなおさら顔が上げられなくなった。兄を殺してからずっと、どうしていいのか分からなかった。見殺しにしたことを親へ伝えて謝ればいいのか、夢だったことにして平然と生きればいいのか。そのどちらも柊はできなかった。抱えて生きるには辛すぎたが人に明け渡すことも忘れ去ることもできなかったのだ。だから一生抱えて生きると気負いながらも、いつか誰かに「お前のせいじゃない」って言ってもらうことを望んでいた。そのためにはいつか誰かに話さなければいけない。話せるような人間関係を築かねばならない。しかしそんな努力を柊は微塵もしてこなかった。どこからか急に現れて、自分を救ってくれやしないか、とひたすら神頼みをしていただけだ。結局、急に現れたのは死後の兄であった。「お前のせいじゃない」どころか己のせいであることが確定した。ならばどうするべきなのかと問われたら結局柊は分からなかった。死んだ兄に対して殺した自分ができることなど到底思いつかなかった。柊は喉を引き攣らせながら必死に兄へ問うた。
「俺どうしたらいい? 俺なにしたらいい? どうしようもないのは分かってるけど、生き返らせるとかもできないけど、俺は兄ちゃんになにができる? 兄ちゃんは俺にどうしてほしい?」
「聞きたいか?」と兄が言う。柊は必死で頷いた。
「甲子園優勝してほしかった。優勝して父ちゃん母ちゃん喜ばせてほしかった」
柊はとっさに首を振った。しかし泣きじゃくる柊相手に、兄は矢継ぎ早に言葉を投げてくる。
「他のみんなもそうだ。横溝先生も学校のやつらも、地元の人だって喜ばせてほしかった」
「俺の代じゃ無理でもお前の代なら行けただろ化け物みたいなやつばっかりだった」
「そのなかで頭一つ抜けてたんだぞお前は」
「みんな褒めてたよお前のこと。お前の弟すごいな、って何回言われたか分かんねーよ」
「中学であれだけ打てて拾えるやついねーよ。俺どっちもできなかったし」
「見たかったよお前が優勝するとこ」
柊はひたすら首を振りながら「ごめん、ごめん」と呟くほかなかった。兄の死とともに野球をやめてしまった。二年以上の時が経過してしまった。たとえ今から戻ったところで、ブランクを取り戻して三年の夏に間に合わせる時間はもう残されていない。柊が塞ぎ込んでいた間も必死で練習していた奴らに追いつけるほど甘い世界じゃない。それは柊も兄もよく分かっていた。
「ごめん。できない。間に合わない」
「死んだら何にもできないんだよ。見てることしかできない。ずっと見てたよお前のこと。なにやってんだよ」
柊はなにも答えられなかった。ただひたすらすすり泣くしかできない柊に向かって、兄は大きなため息をついてからまた矢継ぎ早に言い出した。
「さっき出てって、母ちゃん泣いてたぞ。父ちゃんは無言だったけど思い詰めた顔してた。俺が死んだときもそうだった」
「でもお前は生きてるだろ」
「晩飯残ってるから下行って食ってこい。風呂入ってさっさと寝ろ。そんで早く起きて、うちでちゃんと朝飯食ってけ」
柊は鼻を啜る合間に必死で頷いた。まだ兄の顔は見られない。しかしその声色から、先ほどまでの怒りのような熱が消えていることにはきちんと気づいていた。
「お前に殺されたなんて思ってない。だから、ちゃんと生きろよ」
柊はゆっくりと、そしてしっかりと頷いた。目元を強く拭ってやっと顔を上げる。
「分かったらさっさと下行ってこい」
小さくではあるが、兄は優しそうに笑っていた。それは生前何度も見た表情そのものだった。
鏡を見なくても自分の顔が悲惨なことくらいは分かる。顔中が熱を帯びていることを理解した上で柊は階段を下った。リビングのドアを開けると母と目が合った。明らかにぎょっとされた。しかしその母もやはり目元が赤く腫れ上がっていた。「晩飯、まだ残ってる?」と柊がよそよそしくも尋ねると、母はすぐに出してくれた。柊はゆっくりと咀嚼しながらそれを胃に収めた。食べ終わると同時に風呂へ入るよう諭されたので素直に従った。湯船に浸かって五分ほどしたところで意識を手放しそうになり、慌てて立ち上がり頭と体を洗う。髪を乾かすのも程々にして歯を磨き、さっさと自室へ戻ろうと階段の前まで行ったが、思い返してリビングへ顔を出した。洗い物をしている母へ柊は恐る恐る声をかける。
「明日からちゃんと起きて食べてくからさ。朝ご飯、俺の分も作ってもらっていい?」
「母さんは毎食真二の分も作ってる。お前が降りてこないだけだ」
答えたのは母ではなく、ソファに座る父であった。視線はテレビに向けられたままだ。柊は「ごめん」と俯くほかなかった。
「おかげで何キロ太ったと思ってる。いい加減健康診断で怒られそうだ」
だから朝も晩もちゃんと降りてきなさい、と父は続けた。柊は「うん」と頷きつつ再度謝罪した。今日はもう寝ることを告げて、おやすみと挨拶をしてリビングを後にする。家族に挨拶するのも二年振りだな、と部屋へ向かいながら柊は考えた。元通りとはいかないだろう。それでも今できる最良を選択していかなければならない。部屋ではまだ兄が座ってくつろいでいた。泣き疲れたのか考えつかれたのか、満腹のせいか体が温まったせいか、柊は限界に近かった。電気も消さずにそのままベッドへ横になる。今すぐ手放しそうな意識の端で兄の声が聞こえてきた。
「じゃあ俺もう行くから。あと……」
「アレックスと仲良くな」
アレックスって誰だよ。九割が睡魔に乗っ取られた脳みそでぼんやりと柊は考えたが、答えが出るより先に意識を手放してしまった。
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