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安土
八・右大将家(壱)
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織田軍は十八日になって、ようやく長篠城に近い設楽ヶ原に到着した。
武田軍がいる方角に相対するように、連子川という川が流れているが、その後方に布陣した。この川を挟んで対峙する形である。
信長は極楽寺山、家康は弾正山、信康は松尾山に陣を布いた。そして、同行していた信長の嫡男・信忠(信重、奇妙丸)は天神山に着陣している。前戦の部隊は連子川のすぐ後方に布陣した。
折からの五月雨で、周辺にある川は何れも増水しており、さらに織田軍の前面の平地一帯はぬかるんでいた。そこは丘陵地に挟まれ、窪状になっているからである。
武田方は長篠城のある、高く急峻な丘陵地周辺におり、織田方がいるのはその隣の丘陵地だ。両丘が谷のような形を作っており、その間の谷底状になっている部分はそこそこ広く、平地として広がっている。その平地部分がぬかるんでいるのである。
連子川があるのはその平地の、織田方の丘のすぐ近くである。
信長は着陣早々、目の前の連子川の岸に沿って空濠を堀らせた。掘って出た土を使って、さらに土手を築く。
そして、その土塁の後方(織田の陣側)に木の柵を築かせる。非常に注意深く、強固に柵は築かれた。
連子川に平行して、延々と長く続く空濠、土手、柵がたった一日で作られた。柵には所々に木戸が設けられ、そこから自在に出撃もできる。
簡易の砦と言っても良いようなものだ。こんなものを築かれたら、武田軍も攻めにくかろう。
城や砦と同等の防御力があれば、城攻めは攻める側の人数が問題になってくるので、織田軍の方が多い今回の戦闘では、武田は絶対に落とせないだろう。
城攻めは、攻める側は、守る側の倍の兵数が必要となる。
武田にはここを攻めると、勝ち目はない。といって、長篠城の包囲を続ければ、織田軍が出撃してきて、そちらに攻撃をしかけてくる。
織田の援軍が到着した時点で長篠城がまだ落ちてはいず、かつ織田軍がこのような砦を築いたので、武田の勝利はあり得なくなった。この遠征は失敗である。
このまま潔くすぐに甲斐へ帰れば損害はないが、得るものもない。攻めるか引くか。
まごついていれば、織田が攻めてくる。
武田方では軍議が開かれていた。それはそれは鼎が沸くような騒ぎだった。
それは、古参の重臣層がこぞって同じような考えであったからだ。
「そもそも織田の援軍が来た時点で長篠城を落とせていなかったのだから、今回は失敗だったのだ。失敗ならば、即諦め、速やかに撤退すれば良いだけのこと。素直に撤退すれば、兵は無傷」
当然、すぐに撤退になると思い込んでいた者が大半だったのだ。それゆえ、軍議を開くとはいえ、そのことを確認するためのもの、勝頼が皆に撤退を命じる席だと思っていたわけである。
ところが、いざ軍議を開いてみると、様子が違っていた。それで、紛糾したのである。
「歴戦の名将どもとは思えない、何とも情けないことを言う。敵に一矢も見舞いせず、そのまま撤退なぞ男が廃る。武田の軍団として、恥ではないか?」
勝頼がそう言ったのだ。
すると、諏訪の衆や新参の者、勝頼の近習らが追従した。
「無駄な一戦と思われる方々もおられるかもしれぬが、一戦交えてから帰るのでなければ、織田に嘲られ、天下の笑い者となりましょうぞ」
無駄であっても痛手であっても、男には戦わなければならない時がある。
皆一様に、それはもっともだとは思うのだ。だが、それでは少なからず兵に損害が出る。
「それでも兵の無駄な損傷は避けるべきでござろう。出さなくてもよい損害。兵は人、人の命である」
「武田の矜持にかけて、一戦交えてから帰るべきじゃ!」
議論を戦わせるうちに、次第に声高になっていったのだった。
「織田との全面対決はなるべく避けるべき」
先代・信玄の影響がなお強い武田家中では、信玄の方針を今でも貫き通そうという輩も多い。何かにつけて先代を引き合いに出しては、勝頼を苛立たせてきた。今も、織田との全面対決は避けようなどと発言するのであるから――。
「あんなものを築くとは、織田も弱腰よ」
そう嘲りながらも、
「やはり、織田も我らとは戦いたくないのだ」
と、互いに全面戦争を避けたい意思があると、勝手に推量している。
織田軍の陣には脆弱な柵が築かれていることを、武田方も察知していた。
勝頼はそんな面々につい怒りがこみ上げてきた。それを察して、近習が吠えた。
「織田に戦う気がない故にこそ、こちらに勝機があるのだ!あんな脆弱な柵なぞ、騎馬で突撃すれば、あっという間に倒して、織田の陣中を突破できるわ。あんなものを築く弱腰な織田なら、容易に蹴散らしてくれようぞ!」
「いや、その前面の原一面ぬかるみよ。ぬかるみに足を取られるうちに、鉄砲でも撃たれたら、どうする?矢も玉も、動いていれば当たらないが、静止していると、命中しやすくなるぞ」
古参の重臣層は一見して弱腰のような発言が目立つ。
「梅雨が明けて、からりと晴れるまで待っては?ぬかるみが消えるまで待つのよ」
どうにも今、織田の陣に攻めて行きたくない者が多いらしい。このまま甲斐へ帰国すべきという意見ばかりなので、ついに勝頼の堪忍袋の緒が切れた。
「馬鹿が!地面がぬかるんでいるということは、大雨長雨だということよ。湿気た鉄砲なんぞ使いものにならぬ!ぬかるみが消えるほどからりと晴れたら、鉄砲とて役に立つようになってしまうわえ!攻めるのは、今!今をおいて他にはないのだ!」
高い湿度に澱む空気を、勝頼の怒声が切り裂く。
せっかく長篠城を、あと一歩というところまで追い込んだのに。このまま諦めて撤退しては、また一からやり直しだ。
勝頼は織田の本陣を攻めることにこそ、意味を見出だしている。無駄な一戦などとは毛頭思っていない。勝機はそこにこそあるのだ。
なぜなら、織田の陣を落としさえすれば、長篠城はすぐに手に入るというところにまできているからだ。
勝頼は織田の陣を落としたい。そして、長篠城を今、手に入れたい。
「次なぞない!今だ、今なのだ!」
「ご短気な……」
ひそかに家臣達の間で囁かれた。織田の陣に突撃することに賛成の者でも、さすがに今回の遠征で長篠城を獲得しようなどとは思っていない。
せっかくの好機ではあったが、諦めも大事だ。また一からやり直しになっても、今回は諦め、また改めて出直すべきである。信玄なら、そうする、いや、そうしてきた。城を取るとはそういうものだ。
「雨をうんでいる怠け者どもめ!雨が止んだら、出撃だ!止み間に織田の柵なぞ突破して、信長の首を討ってくれる!」
あんなものは砦ですらない。勝頼の出撃の意志はかたかった。
とはいえ、この時の織田軍の正式な兵数をきちんと把握できていない。
「脆弱な柵とはいえ、侮ってはなりませぬ。兵数をしかと確認せずに突っ込むのは――」
親族衆はじめ、古参の家臣団はなお柵を気にした。
「なれば、鶴翼に布陣すればよいではないか。敵数多かろうと、左右を猛将どもで配置すれば、勝算はある。だいたい、此度の敵の目的は長篠城への救援なのよ。このまま本陣に閉じ籠っているはずがない。長篠城の面々は首を長くして待っているのだからな。敵は長篠城やその付城に兵を差し向けるのではないか?さすれば、本陣は手薄になる。勝機はある」
無駄な一戦だとなお本陣への攻撃を嫌がる面々に、一発逆転の可能性もあると、勝頼はそう言うのだ。
「まあ、戦は水のもの。やってみなければわかりはしませぬが……」
絶対に負けると思われた戦でも、奇跡が起きて、大将を討ち果たすこともある。それこそ信長の桶狭間での奇跡のように。
今回は、武田にとって、かつての信長の桶狭間のように、絶望的な状況ではない。無駄くらいの程度である。だったら、勝つ可能性は十分ある。
「どうせ退却はするのだ。このまま何もせずに帰るか、一戦交えてから帰るかである。このまま帰るのも確かに癪だから――」
一門衆の武田信豊が言った。彼の言い様は、あくまで武田の矜持を見せるための一戦なのであって、設楽ヶ原が長篠城獲得のための決戦とはしていない。退却を前提にして言っているのだから。
信豊にそんなふうに言われれば、古参どもも、それもそうかという気持ちも働く。それで、武田軍は勝頼の意志に引き摺られることになった。
しかし、信豊以下の多くがその発言のままに、武田の面目のために、ちょっと織田を相手にするのだという程度の気持ちしかなかった。帰国前に軽く戦い、面目を果たす。遊びとは言わないが、本気度が薄いというか。そこまで本気でない者が多かったのである。
大雨である。信長は天候を気にしていたが、その夜、夜襲を決行することにした。
信長は多数の兵を、奥の谷の陰に潜ませて隠していた。その中から、鉄砲隊を多数選んで、夜襲隊に加えた。
夜襲隊を率いるのは徳川家臣の酒井忠次。兵二千である。
長篠城の付城には鳶ヶ巣山砦がある。これを中心に四つの砦があった。武田軍はこれらの付城に兵を残すと、主力は高台を降りてきて、織田の本陣に相対する柳田に着陣した。
武田軍のいる場所は台地になっていて、織田軍の前面に広がる設楽ヶ原を見下ろす形になる。
武田軍はここから一気に駆け降りて、勢いのままに織田の本陣に突撃するのである。
五月二十一日早暁である。連日続いていた雨はからりと上がった。なお武田の陣から設楽ヶ原辺りは靄に包まれていたが、よく晴れた朝であった。
酒井忠次の夜襲はすでに決行されている。武田軍もそれは聞いている。酒井軍は強く、武田側はかなり劣勢とのこと。酒井軍はかなりの鉄砲を持った、かなりの人数らしいのだ。
「なれば、本陣の兵は少ない。本陣はこちらが頂くまでよ」
勝頼は突撃を命じた。
武田の赤備えとは、天下にその名を知られ、恐れられる日本最強の軍団である。その軍団の山県昌景が、泥濘をものともせずに先陣として突撃した。
武田は横に広がる鶴翼の布陣。中央に武田の一門衆が、左右は豪傑たちが、織田の本陣に迫ってきた。
しかし、低地の設楽ヶ原は泥濘んでいる。いかに足の強い木曾駒でも、歩みは鈍くなる。そして、織田軍の前に流れる連子川はかなり増水していた。
柵目掛けて、一気に突進というようにはいかない。緩慢な動きになって、連子川に引き付けられている間に、織田軍から鉄砲が発砲された。それもかなりの数。
しかも、織田軍は騎馬武者ばかり狙って撃つ。名のある武将ばかりを狙い撃ちした。山県昌景があっという間に討たれてしまった。
先鋒隊の大将の、それも山県昌景が討たれて、大将を失った山県隊は乱れに乱れた。しかも、山県が死んだと聞いて、勝頼が死んだと言われたくらいに武田軍は動転したのだ。
開戦直後の青天の霹靂に、武田軍は小山田信茂、武田逍遙軒、内藤昌豊、原昌胤など、次々に攻めるが、何れも猛将として高名な原も内藤も集中砲火を浴びて、討ち死にしていく。
「これはいかん!」
武田の一門衆が死んでは、それこそ武田の存亡に関わる。このままでは率いる隊と共に死に、隊も全滅するだろう。一門衆は、逃げろという古参の名将たちに従い、次々に退却して行く。
彼らを逃がしたことで、左右の猛将たちの隊は大混乱に陥り、益々鉄砲の犠牲になって行く。
天下に名高い歴戦の猛将ばかり。これまでに何十回と野戦をしてきたかわからない。数えきれない経験の中で、今回の織田軍のような陣構えには初めて出会った。実は信長自身、これは初めてなのだが。
野戦に柵を築くなど、どこにそんな人間がいるか。
武田は今回初めて信長と正面からぶつかったが。初めての相手の、あまりな勝手の違いに、なす術もない。
戸惑ううちに、どんどん武将ばかりが討たれて行く。
織田方の夜襲は成功したという情報が、敵味方両方にもたらされている。
鳶ヶ巣砦が落ち、そこを守っていた武田信実が討ち死に。残りの砦も全て落ちた。
「このままでは挟み撃ちに遭います。退却を!」
武田の陣営は、織田方の夜襲隊に背後から攻められる危険性も出てきた。正面の設楽ヶ原では、三割の兵が死んでいる。
「敵に一矢見舞いするのが目的だった。もうこれ以上続けては、無駄死にばかりよ!」
いつまでも戦を続けるのに、一門衆も重臣層も焦った。
こうなると、勝手に退却し始めてしまうもの。一人が退却すると、次々に戦線離脱していった。
これでは戦にならない。ついに勝頼も退却を決めた。
退き陣の合図の太鼓が鳴り響く。
柵の内にいた織田軍が、続々と繰り出してきて、武田軍を追い討ちし始める。
この追い討ちでさらに武田軍は犠牲を増やした。むしろ、退却中に討ち死にした者の方が多い。
望月義勝、山県昌景、内藤昌秀、原昌胤、馬場信春、甘利信康、真田信綱、昌輝など、名高い猛将が多数討ち死にしてしまった。
一門衆での死者は望月義勝と武田信実くらいで、あとは無事だったが、今後の武田家が立ち行かなくなるほど、あまりにも沢山の重臣を失ってしまった。
何故、ただの一回の戦で、武田家が消滅するほどの結果になってしまったのか。
織田軍とて目を丸くした。ただの徳川への援軍のはずが、気づけば驚くべき成果となっていたのだ。巨大な武田を、何故か呆気なく完膚なきまでに叩きのめしていたのだから、織田軍としても信じられない。
初めからこうなる計算をしていたのは信長だけだ。
武田軍がいる方角に相対するように、連子川という川が流れているが、その後方に布陣した。この川を挟んで対峙する形である。
信長は極楽寺山、家康は弾正山、信康は松尾山に陣を布いた。そして、同行していた信長の嫡男・信忠(信重、奇妙丸)は天神山に着陣している。前戦の部隊は連子川のすぐ後方に布陣した。
折からの五月雨で、周辺にある川は何れも増水しており、さらに織田軍の前面の平地一帯はぬかるんでいた。そこは丘陵地に挟まれ、窪状になっているからである。
武田方は長篠城のある、高く急峻な丘陵地周辺におり、織田方がいるのはその隣の丘陵地だ。両丘が谷のような形を作っており、その間の谷底状になっている部分はそこそこ広く、平地として広がっている。その平地部分がぬかるんでいるのである。
連子川があるのはその平地の、織田方の丘のすぐ近くである。
信長は着陣早々、目の前の連子川の岸に沿って空濠を堀らせた。掘って出た土を使って、さらに土手を築く。
そして、その土塁の後方(織田の陣側)に木の柵を築かせる。非常に注意深く、強固に柵は築かれた。
連子川に平行して、延々と長く続く空濠、土手、柵がたった一日で作られた。柵には所々に木戸が設けられ、そこから自在に出撃もできる。
簡易の砦と言っても良いようなものだ。こんなものを築かれたら、武田軍も攻めにくかろう。
城や砦と同等の防御力があれば、城攻めは攻める側の人数が問題になってくるので、織田軍の方が多い今回の戦闘では、武田は絶対に落とせないだろう。
城攻めは、攻める側は、守る側の倍の兵数が必要となる。
武田にはここを攻めると、勝ち目はない。といって、長篠城の包囲を続ければ、織田軍が出撃してきて、そちらに攻撃をしかけてくる。
織田の援軍が到着した時点で長篠城がまだ落ちてはいず、かつ織田軍がこのような砦を築いたので、武田の勝利はあり得なくなった。この遠征は失敗である。
このまま潔くすぐに甲斐へ帰れば損害はないが、得るものもない。攻めるか引くか。
まごついていれば、織田が攻めてくる。
武田方では軍議が開かれていた。それはそれは鼎が沸くような騒ぎだった。
それは、古参の重臣層がこぞって同じような考えであったからだ。
「そもそも織田の援軍が来た時点で長篠城を落とせていなかったのだから、今回は失敗だったのだ。失敗ならば、即諦め、速やかに撤退すれば良いだけのこと。素直に撤退すれば、兵は無傷」
当然、すぐに撤退になると思い込んでいた者が大半だったのだ。それゆえ、軍議を開くとはいえ、そのことを確認するためのもの、勝頼が皆に撤退を命じる席だと思っていたわけである。
ところが、いざ軍議を開いてみると、様子が違っていた。それで、紛糾したのである。
「歴戦の名将どもとは思えない、何とも情けないことを言う。敵に一矢も見舞いせず、そのまま撤退なぞ男が廃る。武田の軍団として、恥ではないか?」
勝頼がそう言ったのだ。
すると、諏訪の衆や新参の者、勝頼の近習らが追従した。
「無駄な一戦と思われる方々もおられるかもしれぬが、一戦交えてから帰るのでなければ、織田に嘲られ、天下の笑い者となりましょうぞ」
無駄であっても痛手であっても、男には戦わなければならない時がある。
皆一様に、それはもっともだとは思うのだ。だが、それでは少なからず兵に損害が出る。
「それでも兵の無駄な損傷は避けるべきでござろう。出さなくてもよい損害。兵は人、人の命である」
「武田の矜持にかけて、一戦交えてから帰るべきじゃ!」
議論を戦わせるうちに、次第に声高になっていったのだった。
「織田との全面対決はなるべく避けるべき」
先代・信玄の影響がなお強い武田家中では、信玄の方針を今でも貫き通そうという輩も多い。何かにつけて先代を引き合いに出しては、勝頼を苛立たせてきた。今も、織田との全面対決は避けようなどと発言するのであるから――。
「あんなものを築くとは、織田も弱腰よ」
そう嘲りながらも、
「やはり、織田も我らとは戦いたくないのだ」
と、互いに全面戦争を避けたい意思があると、勝手に推量している。
織田軍の陣には脆弱な柵が築かれていることを、武田方も察知していた。
勝頼はそんな面々につい怒りがこみ上げてきた。それを察して、近習が吠えた。
「織田に戦う気がない故にこそ、こちらに勝機があるのだ!あんな脆弱な柵なぞ、騎馬で突撃すれば、あっという間に倒して、織田の陣中を突破できるわ。あんなものを築く弱腰な織田なら、容易に蹴散らしてくれようぞ!」
「いや、その前面の原一面ぬかるみよ。ぬかるみに足を取られるうちに、鉄砲でも撃たれたら、どうする?矢も玉も、動いていれば当たらないが、静止していると、命中しやすくなるぞ」
古参の重臣層は一見して弱腰のような発言が目立つ。
「梅雨が明けて、からりと晴れるまで待っては?ぬかるみが消えるまで待つのよ」
どうにも今、織田の陣に攻めて行きたくない者が多いらしい。このまま甲斐へ帰国すべきという意見ばかりなので、ついに勝頼の堪忍袋の緒が切れた。
「馬鹿が!地面がぬかるんでいるということは、大雨長雨だということよ。湿気た鉄砲なんぞ使いものにならぬ!ぬかるみが消えるほどからりと晴れたら、鉄砲とて役に立つようになってしまうわえ!攻めるのは、今!今をおいて他にはないのだ!」
高い湿度に澱む空気を、勝頼の怒声が切り裂く。
せっかく長篠城を、あと一歩というところまで追い込んだのに。このまま諦めて撤退しては、また一からやり直しだ。
勝頼は織田の本陣を攻めることにこそ、意味を見出だしている。無駄な一戦などとは毛頭思っていない。勝機はそこにこそあるのだ。
なぜなら、織田の陣を落としさえすれば、長篠城はすぐに手に入るというところにまできているからだ。
勝頼は織田の陣を落としたい。そして、長篠城を今、手に入れたい。
「次なぞない!今だ、今なのだ!」
「ご短気な……」
ひそかに家臣達の間で囁かれた。織田の陣に突撃することに賛成の者でも、さすがに今回の遠征で長篠城を獲得しようなどとは思っていない。
せっかくの好機ではあったが、諦めも大事だ。また一からやり直しになっても、今回は諦め、また改めて出直すべきである。信玄なら、そうする、いや、そうしてきた。城を取るとはそういうものだ。
「雨をうんでいる怠け者どもめ!雨が止んだら、出撃だ!止み間に織田の柵なぞ突破して、信長の首を討ってくれる!」
あんなものは砦ですらない。勝頼の出撃の意志はかたかった。
とはいえ、この時の織田軍の正式な兵数をきちんと把握できていない。
「脆弱な柵とはいえ、侮ってはなりませぬ。兵数をしかと確認せずに突っ込むのは――」
親族衆はじめ、古参の家臣団はなお柵を気にした。
「なれば、鶴翼に布陣すればよいではないか。敵数多かろうと、左右を猛将どもで配置すれば、勝算はある。だいたい、此度の敵の目的は長篠城への救援なのよ。このまま本陣に閉じ籠っているはずがない。長篠城の面々は首を長くして待っているのだからな。敵は長篠城やその付城に兵を差し向けるのではないか?さすれば、本陣は手薄になる。勝機はある」
無駄な一戦だとなお本陣への攻撃を嫌がる面々に、一発逆転の可能性もあると、勝頼はそう言うのだ。
「まあ、戦は水のもの。やってみなければわかりはしませぬが……」
絶対に負けると思われた戦でも、奇跡が起きて、大将を討ち果たすこともある。それこそ信長の桶狭間での奇跡のように。
今回は、武田にとって、かつての信長の桶狭間のように、絶望的な状況ではない。無駄くらいの程度である。だったら、勝つ可能性は十分ある。
「どうせ退却はするのだ。このまま何もせずに帰るか、一戦交えてから帰るかである。このまま帰るのも確かに癪だから――」
一門衆の武田信豊が言った。彼の言い様は、あくまで武田の矜持を見せるための一戦なのであって、設楽ヶ原が長篠城獲得のための決戦とはしていない。退却を前提にして言っているのだから。
信豊にそんなふうに言われれば、古参どもも、それもそうかという気持ちも働く。それで、武田軍は勝頼の意志に引き摺られることになった。
しかし、信豊以下の多くがその発言のままに、武田の面目のために、ちょっと織田を相手にするのだという程度の気持ちしかなかった。帰国前に軽く戦い、面目を果たす。遊びとは言わないが、本気度が薄いというか。そこまで本気でない者が多かったのである。
大雨である。信長は天候を気にしていたが、その夜、夜襲を決行することにした。
信長は多数の兵を、奥の谷の陰に潜ませて隠していた。その中から、鉄砲隊を多数選んで、夜襲隊に加えた。
夜襲隊を率いるのは徳川家臣の酒井忠次。兵二千である。
長篠城の付城には鳶ヶ巣山砦がある。これを中心に四つの砦があった。武田軍はこれらの付城に兵を残すと、主力は高台を降りてきて、織田の本陣に相対する柳田に着陣した。
武田軍のいる場所は台地になっていて、織田軍の前面に広がる設楽ヶ原を見下ろす形になる。
武田軍はここから一気に駆け降りて、勢いのままに織田の本陣に突撃するのである。
五月二十一日早暁である。連日続いていた雨はからりと上がった。なお武田の陣から設楽ヶ原辺りは靄に包まれていたが、よく晴れた朝であった。
酒井忠次の夜襲はすでに決行されている。武田軍もそれは聞いている。酒井軍は強く、武田側はかなり劣勢とのこと。酒井軍はかなりの鉄砲を持った、かなりの人数らしいのだ。
「なれば、本陣の兵は少ない。本陣はこちらが頂くまでよ」
勝頼は突撃を命じた。
武田の赤備えとは、天下にその名を知られ、恐れられる日本最強の軍団である。その軍団の山県昌景が、泥濘をものともせずに先陣として突撃した。
武田は横に広がる鶴翼の布陣。中央に武田の一門衆が、左右は豪傑たちが、織田の本陣に迫ってきた。
しかし、低地の設楽ヶ原は泥濘んでいる。いかに足の強い木曾駒でも、歩みは鈍くなる。そして、織田軍の前に流れる連子川はかなり増水していた。
柵目掛けて、一気に突進というようにはいかない。緩慢な動きになって、連子川に引き付けられている間に、織田軍から鉄砲が発砲された。それもかなりの数。
しかも、織田軍は騎馬武者ばかり狙って撃つ。名のある武将ばかりを狙い撃ちした。山県昌景があっという間に討たれてしまった。
先鋒隊の大将の、それも山県昌景が討たれて、大将を失った山県隊は乱れに乱れた。しかも、山県が死んだと聞いて、勝頼が死んだと言われたくらいに武田軍は動転したのだ。
開戦直後の青天の霹靂に、武田軍は小山田信茂、武田逍遙軒、内藤昌豊、原昌胤など、次々に攻めるが、何れも猛将として高名な原も内藤も集中砲火を浴びて、討ち死にしていく。
「これはいかん!」
武田の一門衆が死んでは、それこそ武田の存亡に関わる。このままでは率いる隊と共に死に、隊も全滅するだろう。一門衆は、逃げろという古参の名将たちに従い、次々に退却して行く。
彼らを逃がしたことで、左右の猛将たちの隊は大混乱に陥り、益々鉄砲の犠牲になって行く。
天下に名高い歴戦の猛将ばかり。これまでに何十回と野戦をしてきたかわからない。数えきれない経験の中で、今回の織田軍のような陣構えには初めて出会った。実は信長自身、これは初めてなのだが。
野戦に柵を築くなど、どこにそんな人間がいるか。
武田は今回初めて信長と正面からぶつかったが。初めての相手の、あまりな勝手の違いに、なす術もない。
戸惑ううちに、どんどん武将ばかりが討たれて行く。
織田方の夜襲は成功したという情報が、敵味方両方にもたらされている。
鳶ヶ巣砦が落ち、そこを守っていた武田信実が討ち死に。残りの砦も全て落ちた。
「このままでは挟み撃ちに遭います。退却を!」
武田の陣営は、織田方の夜襲隊に背後から攻められる危険性も出てきた。正面の設楽ヶ原では、三割の兵が死んでいる。
「敵に一矢見舞いするのが目的だった。もうこれ以上続けては、無駄死にばかりよ!」
いつまでも戦を続けるのに、一門衆も重臣層も焦った。
こうなると、勝手に退却し始めてしまうもの。一人が退却すると、次々に戦線離脱していった。
これでは戦にならない。ついに勝頼も退却を決めた。
退き陣の合図の太鼓が鳴り響く。
柵の内にいた織田軍が、続々と繰り出してきて、武田軍を追い討ちし始める。
この追い討ちでさらに武田軍は犠牲を増やした。むしろ、退却中に討ち死にした者の方が多い。
望月義勝、山県昌景、内藤昌秀、原昌胤、馬場信春、甘利信康、真田信綱、昌輝など、名高い猛将が多数討ち死にしてしまった。
一門衆での死者は望月義勝と武田信実くらいで、あとは無事だったが、今後の武田家が立ち行かなくなるほど、あまりにも沢山の重臣を失ってしまった。
何故、ただの一回の戦で、武田家が消滅するほどの結果になってしまったのか。
織田軍とて目を丸くした。ただの徳川への援軍のはずが、気づけば驚くべき成果となっていたのだ。巨大な武田を、何故か呆気なく完膚なきまでに叩きのめしていたのだから、織田軍としても信じられない。
初めからこうなる計算をしていたのは信長だけだ。
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1921年。すべての始まりはこの会議だった。伏見宮博恭王軍事参議官が将来の日本海軍は夜襲を基本戦術とすべきであるという結論を出したのだ。ここを起点に日本海軍は徐々に変革していく…。
今回もいつものようにこんなことがあれば良いなぁと思いながら書いています。皆さまに楽しくお読みいただければ幸いです!
ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す
矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。
はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき……
メイドと主の織りなす官能の世界です。
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