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安土
四・決着(上)
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お鍋が本誓寺で不思議かつ奇妙な空想に遊んでいた時、中野城では忠三郎が、純粋に冬姫を愛しく思って、彼女を抱きしめていた。既に冬姫は忠三郎のまことの妻となっている。
早くも本誓寺の包囲が解かれたことを、冬姫も承知している。
冬姫は蒲生家に尽くしてくれる嫁だ。万が一何かあっても、冬姫は織田家ではなく、蒲生家のために生きてくれるような、忠三郎はそんな気がしていた。
(私のために――)
冬姫は忠三郎を守ってくれる。
忠三郎は抱きしめたまま、冬姫の顔を熱っぽく見つめた。
(なんて美しいんだ……)
一瞬でも目を逸らしたら勿体ないと、天衣無縫に見つめてくる忠三郎に、冬姫は堪えられなくなったか、顔を俯かせてしまった。それがまた可憐だ。
もう閨を共にしているとはいえ、まだ数回のことであり、少女の姫にはなおまだ羞じらいがまさるのだろう。
(私を助けて下さった。蒲生を許して下さった。私も織田家に尽くそう)
熱に浮かれる忠三郎。だが、冬姫の俯かせた顔には、恋だの愛だのという喜びだけではない表情が浮かんでいた。
お鍋もやっと中野城に着いた。加藤次兵衛が迎えてくれた。
立ち話のまま。
「本誓寺へ寄って来ました。包囲が解かれていて驚きました。何事もなかったとはいえ、随分早いのね。しかも、どうやら無罪放免のようで」
「そうなのです。隠居が勝手に決めてしまわれて」
次兵衛は憤慨していた。
「快幹軒殿(定秀)が決められたことなの?」
お鍋の心がぞわと波立った。
「そうです。お会いになられますか?」
「ええ」
最初の異変は、川副四郎兵衛が本誓寺へ行く定秀を目撃したことに始まる。
四郎兵衛は以前から、蒲生家を出たいと願っていたという。個人的に定秀に対して恨みがあるようであった。
南近江が信長の治世となってからも、城下にありながら蒲生家に逆らい、本願寺に従って一揆さえ起こした本誓寺。それに対して、ことごとく甘い対処をしてきた定秀に、不満がたまっていた。そんな彼が、たまたま本誓寺へ行く定秀を目撃してしまったのだ。
我慢の限界に達した。それで、幼い頃仕えていた佐久良城にいたお鍋に、仕官を願ったのである。
仕官を求めたその場で、本誓寺を見張るよう言われた四郎兵衛は、頗る驚き、また、お鍋への憧憬を強くした。そうして、言われるままに本誓寺を見張ったところ、顕忍が匿われていたのだ。
四郎兵衛からの報告を受け、お鍋は蒲生家に対して疑惑を持った。しかし、顕忍は偽物だし、蒲生家は嵌められたのだという。蒲生家が本誓寺に対して処分を下すとして、それまでの間、寺を包囲していたのだ。
いったんは引き下がったお鍋だが、僅か数日で寺の包囲は解消されていた。顕忍を語る少年は無罪放免。こんなにも早く、その決定を下したのは定秀だというのだから――。
(やはり、何かあるのでは?快幹軒殿には何か――)
ふと昔のことさえ、心が蒸し返しそうになる。
お鍋がまだ十歳になるかならないかの幼かった頃。伊勢へと出陣して行った養父の後ろ姿。
突然城下に上がった火の手に、幼いお鍋は震えた。そして、すぐに現れた甲冑武者たち。
「どうしよう、どうしよう、父上がお留守の時に。父上、早く帰ってきて!」
幼いお鍋には何もできなかった。城の守りをかたくすることも、敵と戦うことも。
恐怖に震え、右往左往するうちに、あっという間に敵に城を占拠され、領地も根こそぎ奪われた。
そして、その勢いにまかせて小倉家に、佐久良城の本丸に押し入ってきた賊の大将の顔――隣の定秀のその時の顔を、お鍋は今でもはっきり覚えている。
それから間もなく、養父は戦場の伊勢から帰る途中、すぐそこの市原で一揆勢に殺されたと聞かされた。そして、蒲生家から実隆が多数の家臣団を引き連れ、小倉家に乗り込んできたのだ。
養父の家臣たちは足蹴にされ、小倉家は蒲生家に乗っ取られた。
それからの日々は、お鍋は蒲生家に利用されるばかり。蒲生家の都合で結婚させられ、蒲生家に我が子を人質にとられ。お鍋自身も人質になった。
信長が攻めてくれば、お鍋はまた蒲生家の都合で岐阜に人質に出され――。
それなのに、蒲生家は今、小倉の本家の領地も、分家・山上の領地も信長から与えられ、挙げ句の果てには冬姫さえ賜っている。
お鍋にしてみたら、常に理不尽なほど、厚待遇を受け続けている蒲生家なのだ。六角時代から、いつも――。
(思えば全敗だった……)
今でこそ、信長の側室という身分のお鍋だが、こと蒲生を相手にした時には、いつも敗れている。
それでも、その恨みも負けた悔しさも忘れて、こうして穏やかに接してきているのだ。
実隆のことは好きだったし、その忘れ形見のことは甥として可愛く思っている。賢秀には恨みを抱かず、忠三郎とも親しくしてきた。
心で努力してきた。定秀に対しても。
だが、その肝心の定秀が、こうしてなお怪しげな行動を取っていると、努力して忘れたつもりでいた恨みが、またわき出してきてしまうではないか。
(快幹軒殿、話によっては許さないわ)
理不尽なほどの厚遇、ついに信長によって解消されるがいい。
お鍋はざわざわする心をもて余しながら、定秀に会った。
定秀は澄まして、本誓寺の包囲を解いたことについて答えた。
「事実が不明なうちは当然、幽閉して、真実がわかるまで拷問でも何でも致して、閉じ込めておかねばなりますまい。されど、冬姫様によって真実が明らかになったのに、いつまでも寺に押し込めておく理由もありますまい」
「包囲を解かれた理由はわかりました。されど、何故、無罪放免になされたのですか?」
定秀は顕忍を語る少年も本誓寺の兄弟僧も、門徒の領民たちも、あっさりすぐに、全員無罪放免にしてしまったのだ。
「あの者は偽物。当家を嵌めようとした者でござる。いつまでも領内にいられては迷惑千万。本物ならば、捕えてお屋形様の前に突き出し、わしも責任を負わねばなるまいが、偽物だということが明らかになった以上、速やかに出て行ってもらわねば」
蒲生家を嵌めようとした少年。その処分はあくまで蒲生家がするのであって、信長の判断を仰ぐまでのことではない。信長とて、本物の顕忍でもなく、蒲生家を嵌めようと、顕忍を語った偽物の少年の処分にまでは、介入するまい。蒲生家の好きなようにしろと言うに違いない。
判断は蒲生家の自由だが。それでも無罪放免はお鍋には解せない。
顔にそれが出ている。定秀はくふふと笑う。
昔は青々としていて、いかにも生臭な雰囲気を漂わせていた定秀の頭も、今はすっかり老人らしくなったが、癪に障るこの感じだけは相変わらずだ。
「当家を嵌めたことは許しがたいこと。なれど、我が領民。本来ならば死罪にしたいところだが、慈悲で助けてやったまで。我が領内から去り、金輪際、当家に迷惑をかけないという約束をさせた上でのことにござる。領民まではさすがに杓子定規には裁けませなんだ」
「なるほど、蒲生家の慈悲ですか」
「いかにも。ところで、お屋形様にはご報告なさるので?」
定秀は語気を変えて訊いてきた。
蒲生の様子を探れと言ってきたのは信長である。何事もなかったからと、報告しないわけにもいかないだろう。今回の騒動の顛末は、一応知らせる必要がある。
「蒲生の中での出来事は、次兵衛が逐一お屋形様に報告しており申す。それが彼の役目ですからな、此度のことも、彼が報告するでしょう。そして――。偽顕忍を最初に発見されたのは御方様ゆえ、御方様にもご報告の必要性がありましょうなあ」
定秀はのんびり、かつ飄々とした口調。報告されても、痛くも痒くもないといった表情だ。
「次兵衛が報告するでしょうが、当家からもご報告申す必要がありましょうなあ。次兵衛の使者と一緒に出発させますかな」
蒲生方の使者は誰を遣わそうかと顎に手をやる定秀。お鍋はにやりと心の中の面が笑った。
「なれば加藤次兵衛と親しい川副四郎兵衛はいかがです?親しい方が話もまとまりやすく、お屋形様の御前でも滞りなくご報告できましょう」
お鍋は毒を仕込んだ。
「ほ?」
「私からは小倉左近将監を遣わします」
小田城に戻ったお鍋は信長に書簡を書いた上で、相谷城から小倉左近将監良親を呼び、使者の役目を命じた。
「そのようなわけで、加藤次兵衛と川副四郎兵衛と一緒に出発して下さい」
「かしこまりました。しかし、蒲生の隠居はよく川副四郎兵衛という、御方様のご指名を受け入れましたなあ」
「四郎兵衛が長年、快幹軒殿に対して不穏な物を抱えていたこと、そして、私のために動いていたことに、気づいていないのでしょう。加藤次兵衛殿と親しいと伝えたら、四郎兵衛ならば、旅の間に次兵衛を丸め込めると思ったようで」
「なるほど」
三人の使者により、信長へは、今回の騒動には蒲生家は無関係であり、そもそも顕忍は偽物であったと報告される。それですむ話である。
しかし、四郎兵衛が使者ならば、初めに本誓寺に顕忍と思しき者が現れたことに気づいた経緯をも語るはずだ。
本誓寺に出入りする定秀、騒動を起こした罪人をあっさり無罪放免にした定秀。その定秀の言動が信長の耳に入ることになる。
(特に問題にもならないかもしれないけれど)
しかし、信長が定秀に疑惑を抱くようなことがあっても、それはそれで構わないのではないか。お鍋はそうなった時のことを想像して、ほくそ笑んでいる自覚があった。
(汚い心。でも、どうしても許しきれないわだかまりが、快幹軒殿に対してだけは残っているのよ……)
理不尽なまでの蒲生の厚遇が、お鍋にこんなにも拘りを抱かせていたのだ。
小倉良親は加藤次兵衛と川副四郎兵衛と共に岐阜へ向かった。十日ほどで彼らは戻ってきたが、信長からは特に何もなかったという。
お鍋は少しがっかりもしたが、何故かほっとする方が勝った。
「川副四郎兵衛殿が驚くべきことを申しておりましたが――」
良親は四郎兵衛が語った内容に、すなわち定秀と本誓寺の関係について、驚いていた。
*****************************
その頃、濃姫は姪の冲羅の法要を岐阜で行っていた。甲斐にいる快川に頼んで、甲斐でも法要してもらった。
甲斐にいる六角家の面々は、土岐頼芸と共にどうやら出席してくれたらしい。
この時期、甲斐では願証寺の顕忍の法要も行っていた。
武田勝頼の異母妹・菊姫は、武田家と本願寺との関係もあって、願証寺とも同盟するために、顕忍と婚約していたのだという。
織田家との同盟解消で松姫の婚約が消え、その織田によって願証寺が滅ぼされて、菊姫の婚約も消えた。勝頼も妹二人の不幸には気分が沈んだ。
それもあってか、遠山家から差し出された坊丸を厚遇していた。織田家の生まれの坊丸であったが、甲斐で嫌な目に遭わされたことは一度もない。
そして、そうこうしているうちに年は明け、天正三年(1575)になった。
三月。
信長は本願寺と戦うために岐阜を出たが、途中、小田城に立ち寄った。
戦の途中だが、平服で酌や鶴姫と戯れていた。そして、いつものように日野に使いを出し、冬姫を呼んだ。ところが、その内容はいつもと少々違っていた。
「隠居ももう年で、腰痛に悩まされていると聞く。岐阜で摘んだ腰痛に効く薬草を食わせてやろうと、持ってきた。冬姫は隠居の体を支えて連れてきてやってくれ。他の者は小田に来る必要はない、本願寺との戦に備え、出陣の支度を急げ」
冬姫はともかく、どうして定秀が呼ばれるのだろうか。しかも、蒲生家の当主である賢秀でもなければ婿の忠三郎でもない。二人にはわざわざ来るなとまで言っている。
蒲生家では困惑したに違いない。特に定秀は、顕忍騒動のことで問い詰められるのだろうかと、戦々恐々とした。何しろ、定秀が信長に呼ばれたことなど今までに一度もなかったのだ。
最近の冬姫に対して、定秀はほくそ笑んでいたけれども、信長からの出頭命令に、気味悪い思いがしないでもない。
(何を思う?何を知っている?何を信長に告げた?信長はわしに何をする気や?いや、あの餓鬼が顕忍ではないと証明せよと迫られたとしても……冬姫が顕忍ではないと暴いた、当家は一向宗に嵌められた被害者だと、言い張ることはできるがの。織田信長。その娘か……。六角定頼様ではないが、それでも……)
定秀にとっての主君は六角定頼だけだが。こうなったら、冬姫におんぶして、どこまでも織田家にしがみつくつもりだ。それでも、小田に行ったとたんに、斬首される予感もあって、定秀はその晩、夢見が悪かった。
翌朝、冬姫は定秀を伴い、小田城へ登城した。
冬姫は浮かない顔だが、父に会える喜びはあるだろう。終始顔色悪く緊張しているのは定秀だ。
あの信長故に、城に入る前に斬首される可能性も考えていた定秀は、入城できたことにはほっとした。しかし、薬草を馳走してやるというわりには、私的な部屋ではなく、ひどく無機質な場所に通されたのには、やはりぞっとした。
小田城も信長の好みで絢爛豪華にしてある。だが、金の襖絵もなければ、鮮やかな敷物もない、剥き出しの板に高麗畳一枚ない、黒い板戸に囲まれた部屋なのである。
やはり、自分に対する訊問なのだと、定秀は汗をかいた。
すぐに信長がお鍋と現れた。
(え、この部屋?)
お鍋も驚いた。
客の定秀の前には薬湯どころか、白湯さえ出ていない。冬姫でさえ茵のない床の上にいる。
信長は猛禽のような眼を娘とその義祖父に向け、着座した。お鍋はおろおろ、信長から少し離れて着席する。
平伏した定秀が口上しようと息を吸った時、藪から棒に、
「顕忍のことについて、話して聞かせよ」
と、信長が冷ややかに言った。
「そのことでしたら、私からも蒲生家からも、それに姫様からもご報告……」
さっと手を払って、信長はお鍋を黙らせる。うるさいと言う代わりに。
「まことに顕忍ではなかっただと?どうしてそう決めつけることができる。もしも本物の顕忍だったならば、冬姫であっても処罰してくれる。脇で黙って見ていたお鍋も同じよ。無論、蒲生は言うに及ばず」
どうして今更と思う一方で、川副四郎兵衛の報告のせいに違いないと、お鍋は思った。
(あの時は何もおっしゃらず、今までご沙汰もなかったのに。蒲生家もほっとしていたであろうに)
すっかり油断していたであろう。三ヶ月も経ってから問いただされるとは、夢にも思わなかったに違いない。
ついに、この時が来たのだ。理不尽なまでの蒲生の度重なる厚遇が、ついに崩壊する時が――。
とはいえ、お鍋も高笑いばかりもしていられない。話によっては、お鍋も処分を受ける可能性がある。
(駄目よ!蒲生家だけが罰を受けるのでなければ!)
お鍋がとばっちりを受けるわけにはいかない。お鍋は高い所から、崩壊する蒲生家を笑って眺めていなければならないのだ。
「隠居よ。うぬは本誓寺に、顕忍を匿うように言いに行ったに相違あるまい。うぬが本誓寺に行った直後から、顕忍がそこに潜むようになったと聞く」
定秀は顔面蒼白で、過呼吸気味である。
「顕忍が現れる直前、うぬが本誓寺を訪ねるのを見た者がいるのだ」
怒鳴りはしないが、言葉に力が込もっている。静かなだけに、よけいに怒りが凝縮されているようで、信長の歯切れの強さに、定秀は完全に圧倒されていた。
「顕忍だったのだろう?それを匿うよう、本誓寺に命じたのだろう?お鍋がせっかく突き止めたのに、姫、そなたもどうして謀叛に加担したか?お鍋もお鍋だ。姫の茶番にどうして騙される?それとも、そなた、姫に頼まれ、騙された振りでもしたか?」
「滅相もない!」
反射的にお鍋は反論していた。
「私はあの者が顕忍かもしれないと思いました。確かに蒲生家を疑いました。しかし、偽物と判明して……騒ぎ立てたことに、恥じ入っていたのです」
「では、お鍋は本気で偽物だと思ったわけよな?」
「それは……」
疑いが完全に晴れたわけではない。だからこそ、四郎兵衛を信長のもとに遣わそうとしたのだ。
「冬姫の茶番にころっと騙されるとは」
信長はため息と共に首を左右に振った。
馬鹿な女だと呆れているのか、見下しているのか。
お鍋もそれ以上言えない。定秀が本誓寺に行ったことは事実でも、何をしに行ったのか、その目的は明らかではないのだ。仮に顕忍が本物だったとして、それを匿うよう命じたという証拠もない。
お鍋が下を向くと、気味の悪い沈黙が流れた。信長の視線はじっと向き合う冬姫と定秀に注がれている。
「……父上は私のお婿様に、忠三郎様を選ばれました……」
ぽつりと冬姫が言葉を発した。
「ああそうだ」
瞳も動かさず、信長は口だけでそう相槌した。
「父上のお志を継ぐのは忠三郎様だと仰有いました」
「ああ言うた」
覚悟を決めて言い出したら、冬姫の小さな口から湯水の如く、言葉が溢れてくる。
「なれば、忠三郎様の、蒲生家のなすことは正しいはずです。蒲生家の決めたことに間違いはないのです。私は蒲生家が必ず正しいことを知っているので、顕忍が偽物で、蒲生家を一向宗が嵌めたのだということをも知っているのです。父上が後継に決められた方に、誤りなどありません。忠三郎様が右と判断なさったら、必ず右になります。だから、蒲生家が右と言えば、必ず右なのです」
きっぱりと、冬姫は信長を真っ直ぐ見て、瞬きもせず言いきった。
信長はぐっと何か飲み込んだが、冬姫をしばし見つめた後、にやっと口もとをつり上げた。そして、飲み込んだ後の喉の奥をくっと鳴らした。
(この子!)
なんて姫だろうか。お鍋は思考できないほど驚いた。だが、馬鹿な娘だとは思えなかった。
「冬姫よ、鶴姫が姉上と遊びたいとうるさくてかなわん。すぐに行って遊んでやれ。お鍋、鶴姫の所に連れて行ってやってくれ。俺は隠居に薬草を食わせる約束だからな」
信長はにやにやと、冬姫を見たままお鍋に命じた。
何を考えているかわからない。信長の意思が変わらないうちに出ようと、お鍋は速やかに立ち上がった。
定秀が救いを乞うような目で冬姫を横目でちらり。
お鍋は気づいたが、それを無視して、
「さ、姫様」
と、冬姫を急かす。
定秀の視線に気づかないのか、冬姫は顔色一つ変えず、すっと信長に額付いてから、楚々とお鍋について出て行った。
いつもの豪華な部屋に向かってお鍋はするすると行く。後ろから衣擦れの音が付いてくるので、冬姫もちゃんと来ているのだろう。
角を曲がり、麗しい庭が見えたところで、お鍋は立ち止まり、振り返った。それから、庭に視線を向ける。庭には鮮やかに春の花々が咲き乱れている。
お鍋も冬姫も、その百花に負けていない。いや、かえって花が引き立て役となっている。二人を美しく華やかに飾り立てていた。
お鍋は信長の子を育てることの難しさを思った。
「姫様、先程お父上様に申されたことは、本気ですか?」
何のことかと言わんばかりに、当然のように冬姫は頷いた。
「父の決めた方は、間違ったりしません」
「それはそうでしょうけど……信じ過ぎでは?」
少しの疑いも持たない、一途に信じきっては、ただの阿呆ではないか。
「それは父を疑うことにもなります」
「ううむ……」
話が通じないというか。お鍋は少々困惑した。
(お市御寮人様とはまるで違う姫ね……蒲生が浅井みたいにならないという保証はないのに。こんなに信じきっていたら、あの快幹軒殿なら、しめたとほくそ笑んで、よからぬことを企むだろう……)
「蒲生家に怪しげなところがあれば、お父上様にお知らせしないと」
だが、冬姫は微笑んで、首を左右に振った。
「父はそのようなこと、私には命じていません。父は忠三郎様を息子に欲しいのだと言いました。父の志を継ぐのは忠三郎様なのだと。父は忠三郎様と仲良く暮らせと、ただそれだけ私に命じました。私は忠三郎様を大事にしなければいけないのです」
「……」
冬姫は春風みたいに爽やかな笑みだ。無垢な、天衣無縫な――。
「人は言います。蒲生家は長らく六角家に仕えた危険な家だと。いつ裏切るとも知れない。その前に、その芽を摘めと」
加藤次兵衛が、日頃から言って聞かせているのだろうとお鍋は思った。
「でも、蒲生家は知恵に聡い家です。私や次兵衛では太刀打ちできません。次兵衛が何か仕掛けて尻尾を掴もうとしても、絶対にそんなことは不可能です。私や次兵衛では歯が立たないくらいの家なんです、父が選んだ忠三郎様ですから。父に叛くような真似をしたら、取り返しのつかないことになることくらい、蒲生家はわかっています。たとえ未だに六角を慕う気持ちがあっても、父を恨んでいても、父に叛くよう誰かに仕掛けられても、次兵衛が小細工して嵌めようとしても、絶対に父には叛かないし、企みには知恵で必ず対処してしまうのです。だから、どんなに叩いても埃は出ないし、絶対に父に叛かないことを、私は知っています。それに、そもそも父は蒲生家を潰すために私を送り込んだのではありません。忠三郎様を息子にするためです。私は織田家と蒲生家の橋渡しなのです。蒲生家が織田家と一つになるため、嫁いだのです。だから、蒲生家を疑うことなどあり得ません」
はっとした。この天女のような無垢さ、阿呆さが大事なのではないか。
お鍋は妙に納得してしまった。
(少しでも疑えば、嫁家の心が離れるということね。嫁家を全く疑わず、信じきってこそ、嫁家の心も実家に繋ぎとめられるというわけだわね。仮に嫁家が陰謀を企むようなことがあっても、あまりに無垢な嫁の姿に、情にほだされ陰謀も打ち砕かれるのかしら?)
お鍋は冬姫の自分を見上げる笑みに、引き摺られるように苦笑を浮かべた。
「姫様はそこまで忠三郎殿を無条件に信じ込んでいらっしゃるの……」
「父が選んだお婿様は絶対です」
無邪気に頷いた。
「そう。忠三郎殿を疑うこと、蒲生家を疑うことは、お父上様に対して疑問を抱くことになってしまうのね」
(蒲生の罪はお屋形様の失策……か。お屋形様のために間者として嫁家に入ったお市御寮人様。お屋形様のために夫を信じきって嫁家を疑わない冬姫様。お屋形様の、織田家の娘を育てるのは、何と難しいことか……)
信長はこのまま冬姫を許すのだろうか。後に残された定秀の処分が気になった。
お鍋は冬姫を鶴姫のもとへ連れて行き、しばらく様子を見た後、そこは三崎殿にまかせて、また先程の曲輪へと戻って行った。
早くも本誓寺の包囲が解かれたことを、冬姫も承知している。
冬姫は蒲生家に尽くしてくれる嫁だ。万が一何かあっても、冬姫は織田家ではなく、蒲生家のために生きてくれるような、忠三郎はそんな気がしていた。
(私のために――)
冬姫は忠三郎を守ってくれる。
忠三郎は抱きしめたまま、冬姫の顔を熱っぽく見つめた。
(なんて美しいんだ……)
一瞬でも目を逸らしたら勿体ないと、天衣無縫に見つめてくる忠三郎に、冬姫は堪えられなくなったか、顔を俯かせてしまった。それがまた可憐だ。
もう閨を共にしているとはいえ、まだ数回のことであり、少女の姫にはなおまだ羞じらいがまさるのだろう。
(私を助けて下さった。蒲生を許して下さった。私も織田家に尽くそう)
熱に浮かれる忠三郎。だが、冬姫の俯かせた顔には、恋だの愛だのという喜びだけではない表情が浮かんでいた。
お鍋もやっと中野城に着いた。加藤次兵衛が迎えてくれた。
立ち話のまま。
「本誓寺へ寄って来ました。包囲が解かれていて驚きました。何事もなかったとはいえ、随分早いのね。しかも、どうやら無罪放免のようで」
「そうなのです。隠居が勝手に決めてしまわれて」
次兵衛は憤慨していた。
「快幹軒殿(定秀)が決められたことなの?」
お鍋の心がぞわと波立った。
「そうです。お会いになられますか?」
「ええ」
最初の異変は、川副四郎兵衛が本誓寺へ行く定秀を目撃したことに始まる。
四郎兵衛は以前から、蒲生家を出たいと願っていたという。個人的に定秀に対して恨みがあるようであった。
南近江が信長の治世となってからも、城下にありながら蒲生家に逆らい、本願寺に従って一揆さえ起こした本誓寺。それに対して、ことごとく甘い対処をしてきた定秀に、不満がたまっていた。そんな彼が、たまたま本誓寺へ行く定秀を目撃してしまったのだ。
我慢の限界に達した。それで、幼い頃仕えていた佐久良城にいたお鍋に、仕官を願ったのである。
仕官を求めたその場で、本誓寺を見張るよう言われた四郎兵衛は、頗る驚き、また、お鍋への憧憬を強くした。そうして、言われるままに本誓寺を見張ったところ、顕忍が匿われていたのだ。
四郎兵衛からの報告を受け、お鍋は蒲生家に対して疑惑を持った。しかし、顕忍は偽物だし、蒲生家は嵌められたのだという。蒲生家が本誓寺に対して処分を下すとして、それまでの間、寺を包囲していたのだ。
いったんは引き下がったお鍋だが、僅か数日で寺の包囲は解消されていた。顕忍を語る少年は無罪放免。こんなにも早く、その決定を下したのは定秀だというのだから――。
(やはり、何かあるのでは?快幹軒殿には何か――)
ふと昔のことさえ、心が蒸し返しそうになる。
お鍋がまだ十歳になるかならないかの幼かった頃。伊勢へと出陣して行った養父の後ろ姿。
突然城下に上がった火の手に、幼いお鍋は震えた。そして、すぐに現れた甲冑武者たち。
「どうしよう、どうしよう、父上がお留守の時に。父上、早く帰ってきて!」
幼いお鍋には何もできなかった。城の守りをかたくすることも、敵と戦うことも。
恐怖に震え、右往左往するうちに、あっという間に敵に城を占拠され、領地も根こそぎ奪われた。
そして、その勢いにまかせて小倉家に、佐久良城の本丸に押し入ってきた賊の大将の顔――隣の定秀のその時の顔を、お鍋は今でもはっきり覚えている。
それから間もなく、養父は戦場の伊勢から帰る途中、すぐそこの市原で一揆勢に殺されたと聞かされた。そして、蒲生家から実隆が多数の家臣団を引き連れ、小倉家に乗り込んできたのだ。
養父の家臣たちは足蹴にされ、小倉家は蒲生家に乗っ取られた。
それからの日々は、お鍋は蒲生家に利用されるばかり。蒲生家の都合で結婚させられ、蒲生家に我が子を人質にとられ。お鍋自身も人質になった。
信長が攻めてくれば、お鍋はまた蒲生家の都合で岐阜に人質に出され――。
それなのに、蒲生家は今、小倉の本家の領地も、分家・山上の領地も信長から与えられ、挙げ句の果てには冬姫さえ賜っている。
お鍋にしてみたら、常に理不尽なほど、厚待遇を受け続けている蒲生家なのだ。六角時代から、いつも――。
(思えば全敗だった……)
今でこそ、信長の側室という身分のお鍋だが、こと蒲生を相手にした時には、いつも敗れている。
それでも、その恨みも負けた悔しさも忘れて、こうして穏やかに接してきているのだ。
実隆のことは好きだったし、その忘れ形見のことは甥として可愛く思っている。賢秀には恨みを抱かず、忠三郎とも親しくしてきた。
心で努力してきた。定秀に対しても。
だが、その肝心の定秀が、こうしてなお怪しげな行動を取っていると、努力して忘れたつもりでいた恨みが、またわき出してきてしまうではないか。
(快幹軒殿、話によっては許さないわ)
理不尽なほどの厚遇、ついに信長によって解消されるがいい。
お鍋はざわざわする心をもて余しながら、定秀に会った。
定秀は澄まして、本誓寺の包囲を解いたことについて答えた。
「事実が不明なうちは当然、幽閉して、真実がわかるまで拷問でも何でも致して、閉じ込めておかねばなりますまい。されど、冬姫様によって真実が明らかになったのに、いつまでも寺に押し込めておく理由もありますまい」
「包囲を解かれた理由はわかりました。されど、何故、無罪放免になされたのですか?」
定秀は顕忍を語る少年も本誓寺の兄弟僧も、門徒の領民たちも、あっさりすぐに、全員無罪放免にしてしまったのだ。
「あの者は偽物。当家を嵌めようとした者でござる。いつまでも領内にいられては迷惑千万。本物ならば、捕えてお屋形様の前に突き出し、わしも責任を負わねばなるまいが、偽物だということが明らかになった以上、速やかに出て行ってもらわねば」
蒲生家を嵌めようとした少年。その処分はあくまで蒲生家がするのであって、信長の判断を仰ぐまでのことではない。信長とて、本物の顕忍でもなく、蒲生家を嵌めようと、顕忍を語った偽物の少年の処分にまでは、介入するまい。蒲生家の好きなようにしろと言うに違いない。
判断は蒲生家の自由だが。それでも無罪放免はお鍋には解せない。
顔にそれが出ている。定秀はくふふと笑う。
昔は青々としていて、いかにも生臭な雰囲気を漂わせていた定秀の頭も、今はすっかり老人らしくなったが、癪に障るこの感じだけは相変わらずだ。
「当家を嵌めたことは許しがたいこと。なれど、我が領民。本来ならば死罪にしたいところだが、慈悲で助けてやったまで。我が領内から去り、金輪際、当家に迷惑をかけないという約束をさせた上でのことにござる。領民まではさすがに杓子定規には裁けませなんだ」
「なるほど、蒲生家の慈悲ですか」
「いかにも。ところで、お屋形様にはご報告なさるので?」
定秀は語気を変えて訊いてきた。
蒲生の様子を探れと言ってきたのは信長である。何事もなかったからと、報告しないわけにもいかないだろう。今回の騒動の顛末は、一応知らせる必要がある。
「蒲生の中での出来事は、次兵衛が逐一お屋形様に報告しており申す。それが彼の役目ですからな、此度のことも、彼が報告するでしょう。そして――。偽顕忍を最初に発見されたのは御方様ゆえ、御方様にもご報告の必要性がありましょうなあ」
定秀はのんびり、かつ飄々とした口調。報告されても、痛くも痒くもないといった表情だ。
「次兵衛が報告するでしょうが、当家からもご報告申す必要がありましょうなあ。次兵衛の使者と一緒に出発させますかな」
蒲生方の使者は誰を遣わそうかと顎に手をやる定秀。お鍋はにやりと心の中の面が笑った。
「なれば加藤次兵衛と親しい川副四郎兵衛はいかがです?親しい方が話もまとまりやすく、お屋形様の御前でも滞りなくご報告できましょう」
お鍋は毒を仕込んだ。
「ほ?」
「私からは小倉左近将監を遣わします」
小田城に戻ったお鍋は信長に書簡を書いた上で、相谷城から小倉左近将監良親を呼び、使者の役目を命じた。
「そのようなわけで、加藤次兵衛と川副四郎兵衛と一緒に出発して下さい」
「かしこまりました。しかし、蒲生の隠居はよく川副四郎兵衛という、御方様のご指名を受け入れましたなあ」
「四郎兵衛が長年、快幹軒殿に対して不穏な物を抱えていたこと、そして、私のために動いていたことに、気づいていないのでしょう。加藤次兵衛殿と親しいと伝えたら、四郎兵衛ならば、旅の間に次兵衛を丸め込めると思ったようで」
「なるほど」
三人の使者により、信長へは、今回の騒動には蒲生家は無関係であり、そもそも顕忍は偽物であったと報告される。それですむ話である。
しかし、四郎兵衛が使者ならば、初めに本誓寺に顕忍と思しき者が現れたことに気づいた経緯をも語るはずだ。
本誓寺に出入りする定秀、騒動を起こした罪人をあっさり無罪放免にした定秀。その定秀の言動が信長の耳に入ることになる。
(特に問題にもならないかもしれないけれど)
しかし、信長が定秀に疑惑を抱くようなことがあっても、それはそれで構わないのではないか。お鍋はそうなった時のことを想像して、ほくそ笑んでいる自覚があった。
(汚い心。でも、どうしても許しきれないわだかまりが、快幹軒殿に対してだけは残っているのよ……)
理不尽なまでの蒲生の厚遇が、お鍋にこんなにも拘りを抱かせていたのだ。
小倉良親は加藤次兵衛と川副四郎兵衛と共に岐阜へ向かった。十日ほどで彼らは戻ってきたが、信長からは特に何もなかったという。
お鍋は少しがっかりもしたが、何故かほっとする方が勝った。
「川副四郎兵衛殿が驚くべきことを申しておりましたが――」
良親は四郎兵衛が語った内容に、すなわち定秀と本誓寺の関係について、驚いていた。
*****************************
その頃、濃姫は姪の冲羅の法要を岐阜で行っていた。甲斐にいる快川に頼んで、甲斐でも法要してもらった。
甲斐にいる六角家の面々は、土岐頼芸と共にどうやら出席してくれたらしい。
この時期、甲斐では願証寺の顕忍の法要も行っていた。
武田勝頼の異母妹・菊姫は、武田家と本願寺との関係もあって、願証寺とも同盟するために、顕忍と婚約していたのだという。
織田家との同盟解消で松姫の婚約が消え、その織田によって願証寺が滅ぼされて、菊姫の婚約も消えた。勝頼も妹二人の不幸には気分が沈んだ。
それもあってか、遠山家から差し出された坊丸を厚遇していた。織田家の生まれの坊丸であったが、甲斐で嫌な目に遭わされたことは一度もない。
そして、そうこうしているうちに年は明け、天正三年(1575)になった。
三月。
信長は本願寺と戦うために岐阜を出たが、途中、小田城に立ち寄った。
戦の途中だが、平服で酌や鶴姫と戯れていた。そして、いつものように日野に使いを出し、冬姫を呼んだ。ところが、その内容はいつもと少々違っていた。
「隠居ももう年で、腰痛に悩まされていると聞く。岐阜で摘んだ腰痛に効く薬草を食わせてやろうと、持ってきた。冬姫は隠居の体を支えて連れてきてやってくれ。他の者は小田に来る必要はない、本願寺との戦に備え、出陣の支度を急げ」
冬姫はともかく、どうして定秀が呼ばれるのだろうか。しかも、蒲生家の当主である賢秀でもなければ婿の忠三郎でもない。二人にはわざわざ来るなとまで言っている。
蒲生家では困惑したに違いない。特に定秀は、顕忍騒動のことで問い詰められるのだろうかと、戦々恐々とした。何しろ、定秀が信長に呼ばれたことなど今までに一度もなかったのだ。
最近の冬姫に対して、定秀はほくそ笑んでいたけれども、信長からの出頭命令に、気味悪い思いがしないでもない。
(何を思う?何を知っている?何を信長に告げた?信長はわしに何をする気や?いや、あの餓鬼が顕忍ではないと証明せよと迫られたとしても……冬姫が顕忍ではないと暴いた、当家は一向宗に嵌められた被害者だと、言い張ることはできるがの。織田信長。その娘か……。六角定頼様ではないが、それでも……)
定秀にとっての主君は六角定頼だけだが。こうなったら、冬姫におんぶして、どこまでも織田家にしがみつくつもりだ。それでも、小田に行ったとたんに、斬首される予感もあって、定秀はその晩、夢見が悪かった。
翌朝、冬姫は定秀を伴い、小田城へ登城した。
冬姫は浮かない顔だが、父に会える喜びはあるだろう。終始顔色悪く緊張しているのは定秀だ。
あの信長故に、城に入る前に斬首される可能性も考えていた定秀は、入城できたことにはほっとした。しかし、薬草を馳走してやるというわりには、私的な部屋ではなく、ひどく無機質な場所に通されたのには、やはりぞっとした。
小田城も信長の好みで絢爛豪華にしてある。だが、金の襖絵もなければ、鮮やかな敷物もない、剥き出しの板に高麗畳一枚ない、黒い板戸に囲まれた部屋なのである。
やはり、自分に対する訊問なのだと、定秀は汗をかいた。
すぐに信長がお鍋と現れた。
(え、この部屋?)
お鍋も驚いた。
客の定秀の前には薬湯どころか、白湯さえ出ていない。冬姫でさえ茵のない床の上にいる。
信長は猛禽のような眼を娘とその義祖父に向け、着座した。お鍋はおろおろ、信長から少し離れて着席する。
平伏した定秀が口上しようと息を吸った時、藪から棒に、
「顕忍のことについて、話して聞かせよ」
と、信長が冷ややかに言った。
「そのことでしたら、私からも蒲生家からも、それに姫様からもご報告……」
さっと手を払って、信長はお鍋を黙らせる。うるさいと言う代わりに。
「まことに顕忍ではなかっただと?どうしてそう決めつけることができる。もしも本物の顕忍だったならば、冬姫であっても処罰してくれる。脇で黙って見ていたお鍋も同じよ。無論、蒲生は言うに及ばず」
どうして今更と思う一方で、川副四郎兵衛の報告のせいに違いないと、お鍋は思った。
(あの時は何もおっしゃらず、今までご沙汰もなかったのに。蒲生家もほっとしていたであろうに)
すっかり油断していたであろう。三ヶ月も経ってから問いただされるとは、夢にも思わなかったに違いない。
ついに、この時が来たのだ。理不尽なまでの蒲生の度重なる厚遇が、ついに崩壊する時が――。
とはいえ、お鍋も高笑いばかりもしていられない。話によっては、お鍋も処分を受ける可能性がある。
(駄目よ!蒲生家だけが罰を受けるのでなければ!)
お鍋がとばっちりを受けるわけにはいかない。お鍋は高い所から、崩壊する蒲生家を笑って眺めていなければならないのだ。
「隠居よ。うぬは本誓寺に、顕忍を匿うように言いに行ったに相違あるまい。うぬが本誓寺に行った直後から、顕忍がそこに潜むようになったと聞く」
定秀は顔面蒼白で、過呼吸気味である。
「顕忍が現れる直前、うぬが本誓寺を訪ねるのを見た者がいるのだ」
怒鳴りはしないが、言葉に力が込もっている。静かなだけに、よけいに怒りが凝縮されているようで、信長の歯切れの強さに、定秀は完全に圧倒されていた。
「顕忍だったのだろう?それを匿うよう、本誓寺に命じたのだろう?お鍋がせっかく突き止めたのに、姫、そなたもどうして謀叛に加担したか?お鍋もお鍋だ。姫の茶番にどうして騙される?それとも、そなた、姫に頼まれ、騙された振りでもしたか?」
「滅相もない!」
反射的にお鍋は反論していた。
「私はあの者が顕忍かもしれないと思いました。確かに蒲生家を疑いました。しかし、偽物と判明して……騒ぎ立てたことに、恥じ入っていたのです」
「では、お鍋は本気で偽物だと思ったわけよな?」
「それは……」
疑いが完全に晴れたわけではない。だからこそ、四郎兵衛を信長のもとに遣わそうとしたのだ。
「冬姫の茶番にころっと騙されるとは」
信長はため息と共に首を左右に振った。
馬鹿な女だと呆れているのか、見下しているのか。
お鍋もそれ以上言えない。定秀が本誓寺に行ったことは事実でも、何をしに行ったのか、その目的は明らかではないのだ。仮に顕忍が本物だったとして、それを匿うよう命じたという証拠もない。
お鍋が下を向くと、気味の悪い沈黙が流れた。信長の視線はじっと向き合う冬姫と定秀に注がれている。
「……父上は私のお婿様に、忠三郎様を選ばれました……」
ぽつりと冬姫が言葉を発した。
「ああそうだ」
瞳も動かさず、信長は口だけでそう相槌した。
「父上のお志を継ぐのは忠三郎様だと仰有いました」
「ああ言うた」
覚悟を決めて言い出したら、冬姫の小さな口から湯水の如く、言葉が溢れてくる。
「なれば、忠三郎様の、蒲生家のなすことは正しいはずです。蒲生家の決めたことに間違いはないのです。私は蒲生家が必ず正しいことを知っているので、顕忍が偽物で、蒲生家を一向宗が嵌めたのだということをも知っているのです。父上が後継に決められた方に、誤りなどありません。忠三郎様が右と判断なさったら、必ず右になります。だから、蒲生家が右と言えば、必ず右なのです」
きっぱりと、冬姫は信長を真っ直ぐ見て、瞬きもせず言いきった。
信長はぐっと何か飲み込んだが、冬姫をしばし見つめた後、にやっと口もとをつり上げた。そして、飲み込んだ後の喉の奥をくっと鳴らした。
(この子!)
なんて姫だろうか。お鍋は思考できないほど驚いた。だが、馬鹿な娘だとは思えなかった。
「冬姫よ、鶴姫が姉上と遊びたいとうるさくてかなわん。すぐに行って遊んでやれ。お鍋、鶴姫の所に連れて行ってやってくれ。俺は隠居に薬草を食わせる約束だからな」
信長はにやにやと、冬姫を見たままお鍋に命じた。
何を考えているかわからない。信長の意思が変わらないうちに出ようと、お鍋は速やかに立ち上がった。
定秀が救いを乞うような目で冬姫を横目でちらり。
お鍋は気づいたが、それを無視して、
「さ、姫様」
と、冬姫を急かす。
定秀の視線に気づかないのか、冬姫は顔色一つ変えず、すっと信長に額付いてから、楚々とお鍋について出て行った。
いつもの豪華な部屋に向かってお鍋はするすると行く。後ろから衣擦れの音が付いてくるので、冬姫もちゃんと来ているのだろう。
角を曲がり、麗しい庭が見えたところで、お鍋は立ち止まり、振り返った。それから、庭に視線を向ける。庭には鮮やかに春の花々が咲き乱れている。
お鍋も冬姫も、その百花に負けていない。いや、かえって花が引き立て役となっている。二人を美しく華やかに飾り立てていた。
お鍋は信長の子を育てることの難しさを思った。
「姫様、先程お父上様に申されたことは、本気ですか?」
何のことかと言わんばかりに、当然のように冬姫は頷いた。
「父の決めた方は、間違ったりしません」
「それはそうでしょうけど……信じ過ぎでは?」
少しの疑いも持たない、一途に信じきっては、ただの阿呆ではないか。
「それは父を疑うことにもなります」
「ううむ……」
話が通じないというか。お鍋は少々困惑した。
(お市御寮人様とはまるで違う姫ね……蒲生が浅井みたいにならないという保証はないのに。こんなに信じきっていたら、あの快幹軒殿なら、しめたとほくそ笑んで、よからぬことを企むだろう……)
「蒲生家に怪しげなところがあれば、お父上様にお知らせしないと」
だが、冬姫は微笑んで、首を左右に振った。
「父はそのようなこと、私には命じていません。父は忠三郎様を息子に欲しいのだと言いました。父の志を継ぐのは忠三郎様なのだと。父は忠三郎様と仲良く暮らせと、ただそれだけ私に命じました。私は忠三郎様を大事にしなければいけないのです」
「……」
冬姫は春風みたいに爽やかな笑みだ。無垢な、天衣無縫な――。
「人は言います。蒲生家は長らく六角家に仕えた危険な家だと。いつ裏切るとも知れない。その前に、その芽を摘めと」
加藤次兵衛が、日頃から言って聞かせているのだろうとお鍋は思った。
「でも、蒲生家は知恵に聡い家です。私や次兵衛では太刀打ちできません。次兵衛が何か仕掛けて尻尾を掴もうとしても、絶対にそんなことは不可能です。私や次兵衛では歯が立たないくらいの家なんです、父が選んだ忠三郎様ですから。父に叛くような真似をしたら、取り返しのつかないことになることくらい、蒲生家はわかっています。たとえ未だに六角を慕う気持ちがあっても、父を恨んでいても、父に叛くよう誰かに仕掛けられても、次兵衛が小細工して嵌めようとしても、絶対に父には叛かないし、企みには知恵で必ず対処してしまうのです。だから、どんなに叩いても埃は出ないし、絶対に父に叛かないことを、私は知っています。それに、そもそも父は蒲生家を潰すために私を送り込んだのではありません。忠三郎様を息子にするためです。私は織田家と蒲生家の橋渡しなのです。蒲生家が織田家と一つになるため、嫁いだのです。だから、蒲生家を疑うことなどあり得ません」
はっとした。この天女のような無垢さ、阿呆さが大事なのではないか。
お鍋は妙に納得してしまった。
(少しでも疑えば、嫁家の心が離れるということね。嫁家を全く疑わず、信じきってこそ、嫁家の心も実家に繋ぎとめられるというわけだわね。仮に嫁家が陰謀を企むようなことがあっても、あまりに無垢な嫁の姿に、情にほだされ陰謀も打ち砕かれるのかしら?)
お鍋は冬姫の自分を見上げる笑みに、引き摺られるように苦笑を浮かべた。
「姫様はそこまで忠三郎殿を無条件に信じ込んでいらっしゃるの……」
「父が選んだお婿様は絶対です」
無邪気に頷いた。
「そう。忠三郎殿を疑うこと、蒲生家を疑うことは、お父上様に対して疑問を抱くことになってしまうのね」
(蒲生の罪はお屋形様の失策……か。お屋形様のために間者として嫁家に入ったお市御寮人様。お屋形様のために夫を信じきって嫁家を疑わない冬姫様。お屋形様の、織田家の娘を育てるのは、何と難しいことか……)
信長はこのまま冬姫を許すのだろうか。後に残された定秀の処分が気になった。
お鍋は冬姫を鶴姫のもとへ連れて行き、しばらく様子を見た後、そこは三崎殿にまかせて、また先程の曲輪へと戻って行った。
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