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天正へ
一・斎藤家の姫君(上)
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冲羅。
呼ばれた気がして、振り返れば、人影もない。
聞いたことのない女人の声である。鬱蒼とした深い森の中に響いたその声は、気のせいだったか。
(幻聴?疲れているのかしら?いいえ、こうしてはいられないわ。必ず殿と再会するのだから!)
先程別れた夫が気にかかる。夫は石榑峠。自分は八風峠。
一緒に出たが、途中で別れた。だが、しばらく辛抱すれば、また会える。行き先は同じ、甲斐なのだから。
(八風峠まであと少し!)
疲れてなどいられなかった。
再び前を向く。己を奮い立たせて一歩。力いっぱい踏み出した。
「御方様!」
声をかけられた。
「何か?」
伴っているのは侍一人、侍女一人である。侍女が怯えたように声を震わせる。
「気配が致します」
「気配とな?」
咄嗟に先程の幻聴を思った。
(物の怪か?)
懐剣を衣の上からぎゅっと握った瞬間、馬の蹄を聞いた。それも、数十騎の。
「まさか!」
物の怪ではない。瞬時に絶望的になった。すばやく辺りに目をやり、幹の太い杉の木を見つける。
「あれへ!」
杉の根元目指して踏み出した時、騎馬武者の姿が見えた。ということは、こちらの姿も見つかったことになる。
「これまでかっ!」
侍と侍女は、その声を合図のように、刀を抜いた。侍女は自分の短い懐剣である。
あっという間に騎馬武者二十騎弱に囲まれた。
「御方様、お逃げ下さいまし!ここは我等が応戦致します。その間に――」
侍が身構えながら注意する。
「しかし――!」
「六角家ご内室井口御方様とお見受け致します」
騎馬武者の長が言った。
「人違いです」
「いいや、人違いなはずがない、それがしは御身を見知っており申す」
騎馬武者は馬から下りるや、三人の前に恭しく頭を垂れた。片膝をつき、義治の妻に言った。
「かつて六角家よりご恩を受けし、小倉左近将監良親にございまする。小倉は本家分家何れも重代の臣下にて。それがしもかつては、御方様を主君と仰ぎおりました者。御方様、何卒我が城に御出座し下さりませ」
「小倉とな?」
義治の奥方は苦々しく顔を歪めさせた。
「小倉なれば、敵。是非もない、斬りなされ」
多勢に無勢。逃れられぬと悟ったか、彼女は素直に殺されようとした。
「いいえ、それがしは御方様をお迎えに参ったのです」
「生け捕りにせよと、信長からの命か?」
「御方様!それがしも、我が主・お鍋の方様も、御方様にご恩を受けた身。何としてもお助け申したいのです。ご恩に報いさせて下され」
「恩に報いたいとな?なれば、このまま見逃してくれぬか?」
「それはできませぬ。小倉家にお迎え致します。御方様がお嫌ならば、織田家には引き渡しませぬ。ずっと小倉家にいて下さい。お望みなら……」
「ええい!敵の施しなぞ受けぬ!斬れ!」
捕まって生き恥をさらすくらいならば、死ぬ。だが、良親はこのまま死なせるつもりはないようだ。
(なれば、殺す以外にないようにしてやる!)
奥方は疾風のように懐剣を抜くや、良親に襲いかかったが、それより先に良親が後方に跳んだ。侍、侍女も同時に敵に向かう。
あまりに数の差があり過ぎる。侍女はすぐに斬られ、侍は一人斬ったところで斬り殺された。
「殺すな!生け捕りにせよ!」
良親の怒号が飛ぶ。
奥方はあっという間に捕らえられ、懐剣も振り落とされてしまった。
「放せ!」
両脇を屈強な武者どもに抑えられながらも暴れる。
良親は深くため息をついた。
「仕方ない……されば、御方様、小倉家には今、織田のお屋形様のお子を宿したお鍋の方様が滞在しておられまする故、そのお子をどうにかしてやろうとお思いになれば宜しかろう?」
良親はそんなことまで言って、相谷城に奥方を連れ帰った。
身重のお鍋はわざわざ相谷城まで出向いた。
お鍋が奥方・井口殿と対面した時、すでに観念したのか、井口殿は暴れもせず逃げもせず、高麗半畳に茵を敷いたその上に、凛と座っていた。
お鍋はその姿を目にした瞬時、はっと息を飲んだ。
お鍋の知る井口殿はまだどこか幼さが残っていて、舅や姑の目を気にする頼りない儚げな姫君だった。唯一の頼りであるはずの夫もあてにならず、南近江の女主であるはずなのに、隅に追いやられて、力もなく、いつもしょんぼりしていた。
そんな悲運の姫君の面影は一切ない。
(さてもお変わりになられたもの……)
女だ。一人の大人の女が隙のない目でお鍋を見やっていた。
お鍋はさほど親しく交際したこともなく、会ったことさえ数回程度だったが、影の薄い人とはいえ、彼女の印象を忘れたわけではない。
はっきり言って価値のない人――家中の目はそんなふうに井口殿を見ていた。そんな人々の内心をすっかり感じとって、井口殿は表に出ることもなく、常に隅でひっそりしていたのだ。
この変わりようをしげしげと眺めて、お鍋はほうと感嘆しつつ、下座に腰を下ろした。
(さすがに御台様の姪、血筋ね。斎藤家の娘はやはり気が強いのだわ、一見おとなしくても、芯はしっかりしている。初めて会った頃の御台様がいかにも儚げだったのと同じように、昔のこの人も――。でも、それは表面上のことに過ぎなかったのね)
全く力がなかったとはいえ、かつての女主人である。南近江の女主。六角家の室だ。六角家の重臣の娘であるお鍋の主筋である。
しかし、今は敗将の妻だ。一方お鍋は勝者の側室。
お鍋は下座に座りはしたが、へりくだることはしなかった。
「一色冲羅様、お久しぶりでございます」
かつての主筋ではなく、濃姫の姪として扱うことにした。
最後に会ったのはいつだっただろうか。信長による観音寺城攻めよりも随分前から、会っていなかった気がする。
「ご健勝なご様子、叔母君・御台様もさぞかしほっとなさっておられましょう」
「叔母?」
井口殿の声は冷たかった。
「織田の内室のことですか?会ったこともありません。叔母の身内のと言われてもね」
身内の情に訴えようという気だろうが、それには乗らないと、井口殿の瞳が語っている。
「ところで、小倉家には随分と煮え湯を飲まされました。またしても小倉家によって、かような無礼を受けようとは。そなたも大きなお腹をして、よくも恥ずかしくもなく、敵の閨になぞ侍り、子を身籠ったものだこと」
小倉家の一部には確かに、早くから六角家への離反があった。六角家に楯突いたのは右近大夫。それに呼応する者、呼応せざるを得なかった者もいる。
だが、その右近大夫を討つよう命じた義治は、誰あろう小倉実隆に対してその命を下したのである。
また、成り行きで一時は右近大夫に従っても、結局は六角家に臣従を誓った者もいる。
井口殿の言動は正確であるとは言えなかったが、お鍋はあえて何も言わなかった。
「織田家による侵攻の折には、小倉家も降伏致しました。弁解のしようもございませぬ。されど、冲羅様。私は織田家に参り、岐阜に住み、御台様と知り合うことができて、まことによかったと思うておりまする。冲羅様がお生まれになり、お育ちになった岐阜は素晴らしきところ。叔母君の御台様は、お美しく聡明で、慈悲深い御方にございます」
「ふん」
「ご夫君が織田家と和睦されてより、つい先日までは、ご庇護を受けておられたではございませぬか。叔母君様はとても心配しておられました。もう一度、その庇護をお受けになられませ」
「確かに、今まで庇護を受けてきました……なれど、今後、私が織田家にあれば、夫の足手まといになるのです。私が織田家に囚われているせいで、夫が身動きとれ……」
「おほほほほほ!」
お鍋は不意に笑った。
「身動きなぞ!冲羅様が思われるほど、ご夫君は動けますまい」
「何と申した?無礼な!夫は武田信玄と合流して、すぐにも織田を踏み潰す!」
井口殿は色をなした。
「何もご存知なく、お気の毒に存じますが。冲羅様の御身が織田家にあるせいで、ご夫君が西上を躊躇われることはありませぬ。その頼みの綱の武田信玄が、肝心の武田が動けないので。武田が動かねば、客将のご夫君には何もできませぬ。冲羅様の御身に何ら問題は……」
「どういう意味か、武田が動かぬとは!」
「武田信玄は間もなく死にまする。いえ、もう死んだやもしれませぬ。死病を患い、西上を途中でやめてしまいましたから」
「まさか、さような出鱈目、私が信じるとでも?くっ」
井口殿は先ほどまでの興奮から一転、馬鹿にしたように笑った。
「出鱈目ではありません。お信じ頂けないならば仕方ありませんが。何れにせよ、ご夫君は武田の力を借りられません。公方様も織田家に降伏されたことですし、冲羅様もお諦めになり、御台様の姪として織田家でお過ごし下さいませ」
「嫌なことです」
井口殿はそっぽを向いた。
「織田は我が父、兄の敵です」
「恐れながら、六角家はその斎藤家、いえ一色家の敵でした。しかし、敵であった家との和議、同盟のため、かつての敵の六角に嫁がれた方が、今何故、織田は終生の敵のと左様に頑なになられまする?昨日の敵は今日の味方、そうでございましょう」
井口殿は答えない。お鍋はそれを窮したからだと見た。
「岐阜へ戻られませ。叔母君・御台様のことは、敵の織田の室とお恨みにも思われましょうが、御台様のもとには、数多の斎藤家の方々がおられるのです。冲羅様の母上様もおわします。叔母君方も。母上様に御孫様のお顔を見せて差し上げて下さい」
はっと井口殿がお鍋を見た。きっと鋭い目付きであるが、その中の瞳孔に明らかに動揺が見てとれる。
「冲羅様、以前はおとなしゅう織田方の掛人として観音寺城におわしましたのに、今はどうしても逃れようとなされるのは、ご懐妊に気付かれたからではございませぬか?」
井口殿はついに動揺を隠せず、おどおどと下を向いてしまった。
「左様なお体で、よくご無理を重ねられましたなあ。何としても織田家の魔の手から逃れ、お子をお産みになろうと思われたのでしょう。なれど、ご案じなさいますな。御台様が必ず冲羅様を守って下さいます。私もお屋形様にお願いをしましょう。ですから、岐阜で安全にお子をお産みに……」
「無理よ!」
井口殿は不意に面を上げた。
「六角の子よ、信長が殺さないはずがないわ!どんなに叔母上が頼んでも……」
生まれるのが女子ならば、殺されることはないかもしれない。だが、男子であった場合は、絶対殺されないとは言いきれなかった。
いや、姫であっても、殺される可能性が全くないわけでもない。
何しろあの信長なのだ。濃姫は助命を嘆願するだろうが、信長がどうする気か不明だ。
「……どうしてそなたにはわかってしまったの……?」
懐妊は織田家には知られてはならないことだった。
「私も身重ですから、何となくわかるものですよ」
ふっとお鍋は薄く笑った。
目の下の感じやら窶れ方やら、頷ける部分がある。自分と同類なればこそ。
何より井口殿の変化が顕著だった。娘から母の顔に変わっていた。必死に我が子を守らんとするその気迫。
お鍋には好感が持てたし、無事に産ませてあげたいとも思う。お鍋は一つ息を吐き出し、そっと言葉を紡いだ。
「義治殿に戻ってきて頂けばよいのです」
「馬鹿言わないで!それならば、父子共々殺されるだけよ。夫だけでも助からなくては……」
或いは、義治が出頭してきたならば、義治には腹を切らせ、そのかわりに妻子の命は助けるということになるかもしれない。
織田家は多数の美濃衆、近江衆を従えるようになっている。美濃の姫で近江の女主人であるこの井口殿にあまり手厳しくしては、彼らが不満を抱くだろう。
濃姫の血を引くこの井口殿母子は、信長の庇護対象になる。義治が腹を切れば、まず間違いない。
だが、さすがにそうも言えないので、お鍋は中途な表現にとどめておく。
「義治殿が自ら出頭し、降伏すれば、公方様と和睦したのですもの、お屋形様もお許しになるでしょう」
「何よ!公方様と和睦しながら、鯰江城を一方的に攻めたのは織田よ!」
すかさず、井口殿が声を上げた。お鍋は内心ひやりとしつつも、当然のように――。
「それは、一揆を起こしたのが義治殿だからでしょう?百済寺の援助を受けて、鯰江城の防備も固めた。義治殿が逆らったから、攻撃したのでしょう」
「いい加減なことを!」
確かに井口殿の指摘は鋭い。信長は六角と武田の合流を恐れ、はっきりと反旗を翻したわけでもない鯰江城を、先に討ってしまったのだ。
(それだけに、後ろめたいお気持ちがおありになるだろう。このお方だけでなく、お子をもお許しになるのではないかしら?)
お鍋は信長の思考を想像した。
「冲羅様、どう騒いでも、今あなた様は小倉家の中におわします。もう逃げる道はないのです。運命を受け入れて下さい。織田家の中にあって、お子を守る、その方法を考える以外に、選択肢はないのですよ」
お鍋のその言葉に、井口殿は捕らえられた時の良親の言葉を思い出していた。
鯰江城が片付いたので、信長も近江国内を北上して行く。
六角承禎、義治、左京の逃亡にはやれやれという様子である。逃げられたのに、あまり怒っているようには見えない。
「六角なんぞどうでもよいわ。拠点を全て失い、もはや何もできまい。それより、武田よ。信玄はもしや死んだか?」
信長が気になるのはそこだ。
武田は信玄の遺言に従い、その死は隠している。だが、信玄の生死は信長にとって重要な情報だ。それは義昭にとってもそうだろうが――。
武田がひた隠しにするその真実を、何としても探り出そうとしていた。
信長が安土まで来た時、丹羽長秀が千代姫を連れて来た。千代姫はすっかり神妙な様子である。
「苦労をかけたな」
信長は姪を労った。一度は嫁がせた姪だが、再び織田家で養うつもりである。
だが、叔父の思いとは裏腹な姪。すっかり憔悴しきった様子ではあるが、千代姫は信長の前に身を投げ出すと、必死に懇願した。
「叔父上、私を罰して下さい!夫を逃がしたのは私です!私がわざと夫を逃がしたのです!」
取り乱して身を揉んだ。
信長の瞳は憐れそうに姪を見ていた。
「岐阜へ帰るぞ」
それだけ言うと、また長秀に彼女の身を預けて、相谷城へと向かった。
義治の妻を捕え、相谷城で幽閉している、それをお鍋が監視しているという連絡は、守山にいた時から受けていた。
途中まで来たところで、蒲生家の忠三郎が待っていた。
「忠三郎、此度の働き褒めてつかわす。百済寺の焼き討ちなど、まことに鮮やかであった」
忠三郎は信長と馬を並べて進みながら、恐縮しきり。だが、褒められてまんざらでもないらしく、やや俯かせた頬は赤く上気している。
そんな素直な反応はまだまだ子供だと、信長は微笑ましく思った。
何やら居心地悪くなったか、忠三郎は不意に懐から覗いていた文に手を押しあてた。
「冬姫様より、御文をお預かりして参りました。父上様にお読み頂きたいと――」
その文を渡すために待っていたのだ。
忠三郎は冬姫の文を恭しく、脇を行く信長に手渡した。
受け取る仕草はぞんざいでも、信長の顔が嬉しげにゆるみ、目が輝いている。
忠三郎はそんな信長の横顔を垣間見て、何故か自分までうきうき嬉しくなってきた。
信長は器用に馬を操りながら、娘の文を開いた。
揺れる馬上でもしっかり読める、相変わらずの麗しい筆跡である。
父を気遣う内容に始まり、蒲生家の素晴らしさ、自分がいかに幸せかということが書かれてある。だが、その後で、義治の妻のことが書かれてあった。
彼女の助命の嘆願書だったのである。しかも、濃姫も彼女の身を心配しているという。
どうやら、岐阜にいる濃姫が、心配のあまり頻繁に冬姫に文を送り、姪の近況について問い合わせているらしい。
「御台め。冬姫の口から、冲羅の助命をさせようという魂胆だな。御台が願っても、俺は聞き入れまいが、姫が懇願すれば聞き入れると思ったようだ。くくく」
信長のひきつった笑いに、忠三郎は急に笑みを萎ませ、やや眉をしかめさせた。
「駄目なんですか……?」
「いや」
信長はそれだけ言うと、文を畳んで袂にしまった。
「忠三郎、ついて来て見届けろ。で、姫に報告してやれ」
信長は相谷城に忠三郎を伴った。
呼ばれた気がして、振り返れば、人影もない。
聞いたことのない女人の声である。鬱蒼とした深い森の中に響いたその声は、気のせいだったか。
(幻聴?疲れているのかしら?いいえ、こうしてはいられないわ。必ず殿と再会するのだから!)
先程別れた夫が気にかかる。夫は石榑峠。自分は八風峠。
一緒に出たが、途中で別れた。だが、しばらく辛抱すれば、また会える。行き先は同じ、甲斐なのだから。
(八風峠まであと少し!)
疲れてなどいられなかった。
再び前を向く。己を奮い立たせて一歩。力いっぱい踏み出した。
「御方様!」
声をかけられた。
「何か?」
伴っているのは侍一人、侍女一人である。侍女が怯えたように声を震わせる。
「気配が致します」
「気配とな?」
咄嗟に先程の幻聴を思った。
(物の怪か?)
懐剣を衣の上からぎゅっと握った瞬間、馬の蹄を聞いた。それも、数十騎の。
「まさか!」
物の怪ではない。瞬時に絶望的になった。すばやく辺りに目をやり、幹の太い杉の木を見つける。
「あれへ!」
杉の根元目指して踏み出した時、騎馬武者の姿が見えた。ということは、こちらの姿も見つかったことになる。
「これまでかっ!」
侍と侍女は、その声を合図のように、刀を抜いた。侍女は自分の短い懐剣である。
あっという間に騎馬武者二十騎弱に囲まれた。
「御方様、お逃げ下さいまし!ここは我等が応戦致します。その間に――」
侍が身構えながら注意する。
「しかし――!」
「六角家ご内室井口御方様とお見受け致します」
騎馬武者の長が言った。
「人違いです」
「いいや、人違いなはずがない、それがしは御身を見知っており申す」
騎馬武者は馬から下りるや、三人の前に恭しく頭を垂れた。片膝をつき、義治の妻に言った。
「かつて六角家よりご恩を受けし、小倉左近将監良親にございまする。小倉は本家分家何れも重代の臣下にて。それがしもかつては、御方様を主君と仰ぎおりました者。御方様、何卒我が城に御出座し下さりませ」
「小倉とな?」
義治の奥方は苦々しく顔を歪めさせた。
「小倉なれば、敵。是非もない、斬りなされ」
多勢に無勢。逃れられぬと悟ったか、彼女は素直に殺されようとした。
「いいえ、それがしは御方様をお迎えに参ったのです」
「生け捕りにせよと、信長からの命か?」
「御方様!それがしも、我が主・お鍋の方様も、御方様にご恩を受けた身。何としてもお助け申したいのです。ご恩に報いさせて下され」
「恩に報いたいとな?なれば、このまま見逃してくれぬか?」
「それはできませぬ。小倉家にお迎え致します。御方様がお嫌ならば、織田家には引き渡しませぬ。ずっと小倉家にいて下さい。お望みなら……」
「ええい!敵の施しなぞ受けぬ!斬れ!」
捕まって生き恥をさらすくらいならば、死ぬ。だが、良親はこのまま死なせるつもりはないようだ。
(なれば、殺す以外にないようにしてやる!)
奥方は疾風のように懐剣を抜くや、良親に襲いかかったが、それより先に良親が後方に跳んだ。侍、侍女も同時に敵に向かう。
あまりに数の差があり過ぎる。侍女はすぐに斬られ、侍は一人斬ったところで斬り殺された。
「殺すな!生け捕りにせよ!」
良親の怒号が飛ぶ。
奥方はあっという間に捕らえられ、懐剣も振り落とされてしまった。
「放せ!」
両脇を屈強な武者どもに抑えられながらも暴れる。
良親は深くため息をついた。
「仕方ない……されば、御方様、小倉家には今、織田のお屋形様のお子を宿したお鍋の方様が滞在しておられまする故、そのお子をどうにかしてやろうとお思いになれば宜しかろう?」
良親はそんなことまで言って、相谷城に奥方を連れ帰った。
身重のお鍋はわざわざ相谷城まで出向いた。
お鍋が奥方・井口殿と対面した時、すでに観念したのか、井口殿は暴れもせず逃げもせず、高麗半畳に茵を敷いたその上に、凛と座っていた。
お鍋はその姿を目にした瞬時、はっと息を飲んだ。
お鍋の知る井口殿はまだどこか幼さが残っていて、舅や姑の目を気にする頼りない儚げな姫君だった。唯一の頼りであるはずの夫もあてにならず、南近江の女主であるはずなのに、隅に追いやられて、力もなく、いつもしょんぼりしていた。
そんな悲運の姫君の面影は一切ない。
(さてもお変わりになられたもの……)
女だ。一人の大人の女が隙のない目でお鍋を見やっていた。
お鍋はさほど親しく交際したこともなく、会ったことさえ数回程度だったが、影の薄い人とはいえ、彼女の印象を忘れたわけではない。
はっきり言って価値のない人――家中の目はそんなふうに井口殿を見ていた。そんな人々の内心をすっかり感じとって、井口殿は表に出ることもなく、常に隅でひっそりしていたのだ。
この変わりようをしげしげと眺めて、お鍋はほうと感嘆しつつ、下座に腰を下ろした。
(さすがに御台様の姪、血筋ね。斎藤家の娘はやはり気が強いのだわ、一見おとなしくても、芯はしっかりしている。初めて会った頃の御台様がいかにも儚げだったのと同じように、昔のこの人も――。でも、それは表面上のことに過ぎなかったのね)
全く力がなかったとはいえ、かつての女主人である。南近江の女主。六角家の室だ。六角家の重臣の娘であるお鍋の主筋である。
しかし、今は敗将の妻だ。一方お鍋は勝者の側室。
お鍋は下座に座りはしたが、へりくだることはしなかった。
「一色冲羅様、お久しぶりでございます」
かつての主筋ではなく、濃姫の姪として扱うことにした。
最後に会ったのはいつだっただろうか。信長による観音寺城攻めよりも随分前から、会っていなかった気がする。
「ご健勝なご様子、叔母君・御台様もさぞかしほっとなさっておられましょう」
「叔母?」
井口殿の声は冷たかった。
「織田の内室のことですか?会ったこともありません。叔母の身内のと言われてもね」
身内の情に訴えようという気だろうが、それには乗らないと、井口殿の瞳が語っている。
「ところで、小倉家には随分と煮え湯を飲まされました。またしても小倉家によって、かような無礼を受けようとは。そなたも大きなお腹をして、よくも恥ずかしくもなく、敵の閨になぞ侍り、子を身籠ったものだこと」
小倉家の一部には確かに、早くから六角家への離反があった。六角家に楯突いたのは右近大夫。それに呼応する者、呼応せざるを得なかった者もいる。
だが、その右近大夫を討つよう命じた義治は、誰あろう小倉実隆に対してその命を下したのである。
また、成り行きで一時は右近大夫に従っても、結局は六角家に臣従を誓った者もいる。
井口殿の言動は正確であるとは言えなかったが、お鍋はあえて何も言わなかった。
「織田家による侵攻の折には、小倉家も降伏致しました。弁解のしようもございませぬ。されど、冲羅様。私は織田家に参り、岐阜に住み、御台様と知り合うことができて、まことによかったと思うておりまする。冲羅様がお生まれになり、お育ちになった岐阜は素晴らしきところ。叔母君の御台様は、お美しく聡明で、慈悲深い御方にございます」
「ふん」
「ご夫君が織田家と和睦されてより、つい先日までは、ご庇護を受けておられたではございませぬか。叔母君様はとても心配しておられました。もう一度、その庇護をお受けになられませ」
「確かに、今まで庇護を受けてきました……なれど、今後、私が織田家にあれば、夫の足手まといになるのです。私が織田家に囚われているせいで、夫が身動きとれ……」
「おほほほほほ!」
お鍋は不意に笑った。
「身動きなぞ!冲羅様が思われるほど、ご夫君は動けますまい」
「何と申した?無礼な!夫は武田信玄と合流して、すぐにも織田を踏み潰す!」
井口殿は色をなした。
「何もご存知なく、お気の毒に存じますが。冲羅様の御身が織田家にあるせいで、ご夫君が西上を躊躇われることはありませぬ。その頼みの綱の武田信玄が、肝心の武田が動けないので。武田が動かねば、客将のご夫君には何もできませぬ。冲羅様の御身に何ら問題は……」
「どういう意味か、武田が動かぬとは!」
「武田信玄は間もなく死にまする。いえ、もう死んだやもしれませぬ。死病を患い、西上を途中でやめてしまいましたから」
「まさか、さような出鱈目、私が信じるとでも?くっ」
井口殿は先ほどまでの興奮から一転、馬鹿にしたように笑った。
「出鱈目ではありません。お信じ頂けないならば仕方ありませんが。何れにせよ、ご夫君は武田の力を借りられません。公方様も織田家に降伏されたことですし、冲羅様もお諦めになり、御台様の姪として織田家でお過ごし下さいませ」
「嫌なことです」
井口殿はそっぽを向いた。
「織田は我が父、兄の敵です」
「恐れながら、六角家はその斎藤家、いえ一色家の敵でした。しかし、敵であった家との和議、同盟のため、かつての敵の六角に嫁がれた方が、今何故、織田は終生の敵のと左様に頑なになられまする?昨日の敵は今日の味方、そうでございましょう」
井口殿は答えない。お鍋はそれを窮したからだと見た。
「岐阜へ戻られませ。叔母君・御台様のことは、敵の織田の室とお恨みにも思われましょうが、御台様のもとには、数多の斎藤家の方々がおられるのです。冲羅様の母上様もおわします。叔母君方も。母上様に御孫様のお顔を見せて差し上げて下さい」
はっと井口殿がお鍋を見た。きっと鋭い目付きであるが、その中の瞳孔に明らかに動揺が見てとれる。
「冲羅様、以前はおとなしゅう織田方の掛人として観音寺城におわしましたのに、今はどうしても逃れようとなされるのは、ご懐妊に気付かれたからではございませぬか?」
井口殿はついに動揺を隠せず、おどおどと下を向いてしまった。
「左様なお体で、よくご無理を重ねられましたなあ。何としても織田家の魔の手から逃れ、お子をお産みになろうと思われたのでしょう。なれど、ご案じなさいますな。御台様が必ず冲羅様を守って下さいます。私もお屋形様にお願いをしましょう。ですから、岐阜で安全にお子をお産みに……」
「無理よ!」
井口殿は不意に面を上げた。
「六角の子よ、信長が殺さないはずがないわ!どんなに叔母上が頼んでも……」
生まれるのが女子ならば、殺されることはないかもしれない。だが、男子であった場合は、絶対殺されないとは言いきれなかった。
いや、姫であっても、殺される可能性が全くないわけでもない。
何しろあの信長なのだ。濃姫は助命を嘆願するだろうが、信長がどうする気か不明だ。
「……どうしてそなたにはわかってしまったの……?」
懐妊は織田家には知られてはならないことだった。
「私も身重ですから、何となくわかるものですよ」
ふっとお鍋は薄く笑った。
目の下の感じやら窶れ方やら、頷ける部分がある。自分と同類なればこそ。
何より井口殿の変化が顕著だった。娘から母の顔に変わっていた。必死に我が子を守らんとするその気迫。
お鍋には好感が持てたし、無事に産ませてあげたいとも思う。お鍋は一つ息を吐き出し、そっと言葉を紡いだ。
「義治殿に戻ってきて頂けばよいのです」
「馬鹿言わないで!それならば、父子共々殺されるだけよ。夫だけでも助からなくては……」
或いは、義治が出頭してきたならば、義治には腹を切らせ、そのかわりに妻子の命は助けるということになるかもしれない。
織田家は多数の美濃衆、近江衆を従えるようになっている。美濃の姫で近江の女主人であるこの井口殿にあまり手厳しくしては、彼らが不満を抱くだろう。
濃姫の血を引くこの井口殿母子は、信長の庇護対象になる。義治が腹を切れば、まず間違いない。
だが、さすがにそうも言えないので、お鍋は中途な表現にとどめておく。
「義治殿が自ら出頭し、降伏すれば、公方様と和睦したのですもの、お屋形様もお許しになるでしょう」
「何よ!公方様と和睦しながら、鯰江城を一方的に攻めたのは織田よ!」
すかさず、井口殿が声を上げた。お鍋は内心ひやりとしつつも、当然のように――。
「それは、一揆を起こしたのが義治殿だからでしょう?百済寺の援助を受けて、鯰江城の防備も固めた。義治殿が逆らったから、攻撃したのでしょう」
「いい加減なことを!」
確かに井口殿の指摘は鋭い。信長は六角と武田の合流を恐れ、はっきりと反旗を翻したわけでもない鯰江城を、先に討ってしまったのだ。
(それだけに、後ろめたいお気持ちがおありになるだろう。このお方だけでなく、お子をもお許しになるのではないかしら?)
お鍋は信長の思考を想像した。
「冲羅様、どう騒いでも、今あなた様は小倉家の中におわします。もう逃げる道はないのです。運命を受け入れて下さい。織田家の中にあって、お子を守る、その方法を考える以外に、選択肢はないのですよ」
お鍋のその言葉に、井口殿は捕らえられた時の良親の言葉を思い出していた。
鯰江城が片付いたので、信長も近江国内を北上して行く。
六角承禎、義治、左京の逃亡にはやれやれという様子である。逃げられたのに、あまり怒っているようには見えない。
「六角なんぞどうでもよいわ。拠点を全て失い、もはや何もできまい。それより、武田よ。信玄はもしや死んだか?」
信長が気になるのはそこだ。
武田は信玄の遺言に従い、その死は隠している。だが、信玄の生死は信長にとって重要な情報だ。それは義昭にとってもそうだろうが――。
武田がひた隠しにするその真実を、何としても探り出そうとしていた。
信長が安土まで来た時、丹羽長秀が千代姫を連れて来た。千代姫はすっかり神妙な様子である。
「苦労をかけたな」
信長は姪を労った。一度は嫁がせた姪だが、再び織田家で養うつもりである。
だが、叔父の思いとは裏腹な姪。すっかり憔悴しきった様子ではあるが、千代姫は信長の前に身を投げ出すと、必死に懇願した。
「叔父上、私を罰して下さい!夫を逃がしたのは私です!私がわざと夫を逃がしたのです!」
取り乱して身を揉んだ。
信長の瞳は憐れそうに姪を見ていた。
「岐阜へ帰るぞ」
それだけ言うと、また長秀に彼女の身を預けて、相谷城へと向かった。
義治の妻を捕え、相谷城で幽閉している、それをお鍋が監視しているという連絡は、守山にいた時から受けていた。
途中まで来たところで、蒲生家の忠三郎が待っていた。
「忠三郎、此度の働き褒めてつかわす。百済寺の焼き討ちなど、まことに鮮やかであった」
忠三郎は信長と馬を並べて進みながら、恐縮しきり。だが、褒められてまんざらでもないらしく、やや俯かせた頬は赤く上気している。
そんな素直な反応はまだまだ子供だと、信長は微笑ましく思った。
何やら居心地悪くなったか、忠三郎は不意に懐から覗いていた文に手を押しあてた。
「冬姫様より、御文をお預かりして参りました。父上様にお読み頂きたいと――」
その文を渡すために待っていたのだ。
忠三郎は冬姫の文を恭しく、脇を行く信長に手渡した。
受け取る仕草はぞんざいでも、信長の顔が嬉しげにゆるみ、目が輝いている。
忠三郎はそんな信長の横顔を垣間見て、何故か自分までうきうき嬉しくなってきた。
信長は器用に馬を操りながら、娘の文を開いた。
揺れる馬上でもしっかり読める、相変わらずの麗しい筆跡である。
父を気遣う内容に始まり、蒲生家の素晴らしさ、自分がいかに幸せかということが書かれてある。だが、その後で、義治の妻のことが書かれてあった。
彼女の助命の嘆願書だったのである。しかも、濃姫も彼女の身を心配しているという。
どうやら、岐阜にいる濃姫が、心配のあまり頻繁に冬姫に文を送り、姪の近況について問い合わせているらしい。
「御台め。冬姫の口から、冲羅の助命をさせようという魂胆だな。御台が願っても、俺は聞き入れまいが、姫が懇願すれば聞き入れると思ったようだ。くくく」
信長のひきつった笑いに、忠三郎は急に笑みを萎ませ、やや眉をしかめさせた。
「駄目なんですか……?」
「いや」
信長はそれだけ言うと、文を畳んで袂にしまった。
「忠三郎、ついて来て見届けろ。で、姫に報告してやれ」
信長は相谷城に忠三郎を伴った。
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