お鍋の方【11月末まで公開】

国香

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織田家の室

十・覚悟(下)

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 野洲河原での戦に敗れた六角承禎・義治父子は、三雲氏の居城の石部城を目指していた。妻をそこに置いていたから、義治はさっさと戻って、風呂で戦垢を落とし、ゆっくり食事がしたかった。

「おのれ!このままでは終わらぬ!何としても我が所領を取り返す!近江は我のものよ!ええい、どうやって兵を集めようか?」

 美味しい物が食べられて、ゆっくり寝られて、命の危険がない暮らしができればそれで良い義治と違って、傍らの父の執念は凄まじい。太陽が西から昇っても、信長から近江を奪い返す気だ。

「織田に靡いた旧臣どもを誘うしかないですね。あとはまた東海道を押さえ、伊勢まで行って、織田方になってしまった伊勢の面々を誘うか」

 三千近くの兵を失い、残りは四散した。兵を集め直さなくてはならない。旧臣たちが戻ってきてくれれば、万の兵となるが。

「うむ」

 承禎は真面目に頷いた。

「まず、近江は誰から誘うか。皆、織田の武将の与力になっているから――」

「じゃ、蒲生で。蒲生は市原一帯の領主どもを与力にしているそうですよ、二千三千、兵を持っている」

「馬鹿者っ!」

 承禎が叫んだ。

「その蒲生こそ、織田信長の娘を迎えて、今や織田の連枝衆だわえ!蒲生なんか我らに従うかっ!」

「だから、その娘こそ我が妻の身内。娘に付けられて蒲生に入った者の半分は尾張の者でも、半分は美濃の者でしょう。もとは一色家(斎藤家)の者も少なくありますまい。その中には、我が妻と親しい者もいるでしょう。そやつを使って、蒲生をこちらに引き入れてですな。おお、そや!美濃衆の中には、内心織田が気に入らない者もありましょう。父上、だから我が妻は使えるでしょう?」

「知らん!」

「もう、父上!今はそのどこの馬の骨ばかりなんですよ?」

「我が佐々木六角は名門や!おぬしには誇りはないのか?矜持は?自尊心は?」

「朝倉だって、斯波家から下克上した成り上がり、浅井だって織田だって。どこの馬の骨の時代なんです、一色だけやない」

 はあっと息を吐き、承禎は首を左右に振った。

「父上、蒲生に帰って来いと使者を出しても――?」

「無駄やろ」

「ええ?」

「ああっ、もういい!駄目でもともとや、使者くらい出したら良いわい!」

「そんなにかりかりして。だったら、父上には他に何かあてがあるんですか?」

 無いから、苛立っているのだ。義治はそう思っている。

「父上」

「何や!」

「武田に使者は出さないんですか?若狭でなくて、甲斐ですよ」

「出したわ!織田を包囲する、当たり前やろ!」

「じゃあ、何故、本願寺を説得しないんです?身内なのに」

「なに?」

 初めて承禎が心底感心したような眼を息子に向けた。

 一向宗は各地で非常に強い勢力を持っている。その総本山が本願寺だ。

 本願寺の門主・顕如の妻は左大臣三条公頼の三女だが、承禎の父・定頼が養女にしていたので、彼女は承禎の妹でもある。定頼の死後、承禎の手により顕如のもとに嫁がせた。また、細川晴元の妻は三条公頼の長女、後妻は承禎の姉妹。甲斐の武田信玄の妻は公頼の次女だ。

「本願寺を説得すれば、全国の一向衆が我のものよ!義治、どうしてその知恵を観音寺城にいた時に働かさぬ!?」

 一向宗の門徒衆を立ち上がらせれば、数万、数十万の兵となる。

「それだけの兵が我がものとなれば、余裕で近江を取り返せるな!」

「御上人(顕如)に命じて頂きましょう。門徒衆の御上人への信仰心は凄まじい。御上人のためとあらば、農民、女子供までもが挙って一揆を起こしてくれます。蒲生の領内にも一向宗の寺があり、門徒衆がおりますから、彼らも一揆を起こすでしょう。門徒衆は領主よりも御上人の御意に従いますからね。蒲生の領内で反信長の狼煙が上がれば、信長が怒って蒲生を絶縁するでしょう。さすれば、蒲生は我らのもとに戻るしかなくなる。蒲生は我らに最も忠勤の者でしたしね。で、最大の力を持つ蒲生が帰ってくれば、旧臣どもも続々と戻ってくるでしょ」

「ふむ?」

 そううまく行くかは不明だが、本願寺を蜂起させるのは、至極の策であること間違いない。近江を奪還できてなお有り余る兵数だ。

「とりあえず、最初に父上がなさるべきは東海道です。再度しっかり押さえて、さらに軍を伊勢に向けて。亀山に攻めて行って、そこでも一揆を起こさせる」

「一揆勢と我とで、関盛信を討つのよな」

「討ちはったら駄目ですよ!ははははは!関盛信は蒲生賢秀の妹婿。信長の倅の養父の神戸具盛とは相婿。関家にしつこくしつこく毎日使いを遣れば、関家と我等との間に行き来があるように見えるでしょ?関家が我等と通じているかもしれないとなれば、信長は関と親族の神戸と蒲生にも疑いを抱くではないですか。そしたら、関も神戸も蒲生もぐちゃぐちゃになって、織田方は勝手に分断する」

「なるほど、蒲生に二重三重と仕掛けるわけよな。なれば、蒲生も我がもとに戻って来ずにいられなくなろう。浅知恵と思うてすまなんだの」

 承禎が息子の考えに感心して莞爾と笑うと、義治は暢気に欠伸した。

「さてさて、今は馬の骨の時代です。我らの所領を取り返すのは、卑しい土民どもの役目。我ら高貴は雑草の生育を、ゆっくり高嶺から見下ろしておれば良いのですよ。馬の骨の征伐は朝倉、浅井の雑草に任せて。早く風呂に入って食事して寝ませんか?それが高嶺の花の矜持ってやつです」

「何だと?」

「あはははは!」

 義治はまめまめしい父を嘲笑って、妻のところに帰って行った。

 石部城で風呂に入って、満腹になった義治は、眠い目を擦りながら、妻の膝にひっくり返っていた。下座には一人の男が控えている。

 男はふるふると小刻みに震えている。義治にも男の拳の震えが見てとれた。

 怒りか緊張か。

 雑草よと、義治は男の拳を眺めながら、大欠伸した。

「赤佐やったな?赤坂やったか?」

 両手で伸びしながら、問う。

「はっ」

 男はひれ伏した。

 男は赤佐という。赤座とも赤坂とも書く。近江の地侍の一族である。

 一昨年信長が侵攻して来た時にも従わず、自領で抵抗を続け、敵わないと知るや敗走した。そして、当時伊賀に逃亡していた承禎、義治と合流した。

 義治が観音寺城に君臨していた頃には、会ったことはあろうが、声をかけてやったこともないような男だ。

 そんな男でも、こうして寛いでいる場に召し出されるのだから、承禎が今の境遇に腹を立てているのも当然であろう。

 義治は先程、眠そうな声で。

「つい先日、蒲生がな、信長から五千石ほど加増されたんだと。その加増分の主なものは山上領らしいが――」

 赤佐とやらいう男は、それを聞いて、拳が震え始めたのだ。

 赤佐の名を確認すると、義治は続きを言った。

「ふむ、赤佐やな。その加増分に、横山や赤佐の所領も含まれていること、知ってるな?」

「はっ!」

 のんびりした義治の言い様を弾き返す勢いの男の返答だ。

 震えはやはり、緊張ではなかったらしい。

「そうかあ。では、取り返さんとなあ」

「はっ。取り返せるものなら、取り返しとうございまするが……」

 野洲河原で敗れて、どうやって取り返せよう。

「蒲生がこっちについたら――うぬの所領も蒲生が背負って来るよって、返ってくるだろうなあ」

「は?」

「蒲生に返してもらえ。そのために、蒲生を説得に行って来い。何なら横山も伴ったらいい。蒲生が信長を裏切って、わしのもとに帰ってきたならば、蒲生に奪われたうぬの所領は、わしが蒲生に返すよう命じ、安堵状を書いてやる」

 男はやや面食らったような顔をした。

 つまり、蒲生家を誘うようにと、義治の使者を命じられたわけだ。だが。

「蒲生家の子息は信長の婿であるとか。信長を裏切りましょうか?」

「わはははは、なんで皆、判で押したように父上とおんなじことを言う?」

 だが、義治に膝を与えている妻からも困惑が伝わってくる。

「蒲生は家中で最も忠義の者であった。成り行きで仕方なく信長に従うたに過ぎぬ。此度、信長は越前で敗れ、美濃に帰るのにも苦労した。信長の弱さが露呈したわけよ。蒲生め、わしのもとに帰りたくなっているに違いない」

「……は」

「心配ない心配ない」

 義治は身を起こした。そして、今まで自身の頭を置いていたやわらかな膝を撫で回した。

「信長の姫は、この姫の身内よ。もとは土岐家や一色家(斎藤家)に仕えていた者を、大勢引き連れている。奴らは信長に仕えていることを、内心では悔やんでいるに違いない。この姫の名を出し、奴らを抱き込めば、蒲生は動かせる」

「……はっ」

 半信半疑どころか、全く期待しない様子で赤佐は引き受け、目のやり場がないのか、すぐに飛ぶように退出して行った。

 義治はまた伸びをして、妻の柔肌をあちこち撫で回す。

「もう寝よう」

「……はい」

「うん。赤佐が失敗したら、そなたの女佐達を貸してね。信長の姫の所へ遣わすから」

 言いながら、返事しかけるその口を吸った。




****************************

 お鍋の居間には、また所狭しと献上品が溢れている。

「またなの?」

 喜ぶべきものであるはずなのに、お鍋は眉をひそめた。

 懐妊してから、各所より祝いの品が届けられている。それについては異様とは思われない。だが、最近おかしなことが起きていた。

 信長は京から美濃へと帰る途中、近江の各城に武将たちを配置したが、浅井軍の鯰江城からの撤退後、木下藤吉郎秀吉は犬上郡にいた。

 近く信長は浅井方と戦うつもりだが、今度は美濃から北近江へと侵攻する。それには、先ず国境付近から片付けなければならない。

 国境近辺は浅井方が防備を堅め、東山道は封鎖されている。伊吹山付近には、美濃からは近づくことができない。かつて、お鍋が信長と出会った成菩提院のある柏原辺りなどは、完全に浅井に封じ込められている。

 そこで、秀吉は五僧越という美濃への峠越の道を使って忍び衆を密かに往来させ、犬上郡から国境付近に潜入し、その辺りの諸城を調略しているのである。

 秀吉が犬上郡に入ってからというもの、お鍋のもとへ、この秀吉の妻女から頻繁に祝いの品が届くようになった。

 文の内容は、祝いや、お鍋の健康を祈る文言に溢れていたが、毎度必ず近江の内情についてご指導願いたいと書かれてあった。

 近江の地には暗いから、地理、天候から、いかなる地侍、寺院宗徒があるのか教えて欲しいというのだ。

 また、どこの誰が浅井と親しく、逆に北近江の誰ならば六角旧臣たちと親しいのか等、知りたいことが山ほどあるという。

 お鍋は冬姫の祝言の時に出会った秀吉の、実に人をそらさない屈託ない笑顔を思い浮かべた。

 妻には会ったことはない。だが、あの秀吉を支える女なのだ。やはり隙のない、似たような人種なのだろうと思った。

「これで三度目よ……」

 献上品がほんの数日間に三度も。

 近江のことが知りたいというのは事実だろうが、それにかこつけての、お鍋へのご機嫌とりだろう。

 その秀吉夫妻の心を読みとりつつも、献上品が届けられると、その都度お鍋はお礼の文を書いた。

 そして、それには必ず近江の情報を書いてやっていた。件の犬上郡の琵琶の名工・筋若の伝説も、信長とのやり取りなどを含め、笑い話を兼ねて書いている。

 お鍋からの情報が、秀吉の調略にどれほど役に立っているのかは知れない。

 ただ、割と最近まで、浅井家は六角家の傘下にあった。北近江の土豪の家々に、六角家旧臣の子弟が養子に入っていることも多かった。浅井家家臣と六角家旧臣は元は同僚に近い関係にあったから、実は今でも親交があることもある。

 そんな話はけっこう秀吉の役に立っているのかもしれない。

 今回、お鍋は様々な情報を与えたのだ。今後は秀吉を使うことも可能だろう。

 秀吉を味方につければ、織田家の中で力を持てるようになるかもしれない。味方の家臣は多い方が良い。

 秀吉の方から近寄ってきたならば、お鍋には好機到来のはずである。

(なんなのかしら……)

 しかし、お鍋にはまだ秀吉を召し使い、織田家でのしあがるという発想がなかった。擦り寄られて、かえって迷惑にさえ感じていたのだ。

 濃姫に勝ちたいと思っているのに。その願望と秀吉という駒が結びついていなかった。

 お鍋はその献上品を片付けさせる。今回は、気の早いことに、生まれてくる子の着物が作れるようにと、豪奢な反物の山である。

 礼状は夜にでも書こうと、せっせと働く侍女たちを見ながら、姿態を崩して寛ぎかけた時である。

「御台様のお越しでございます!」

 侍女が慌てて告げに来た。

 お鍋は急いで下座に移る。侍女たちは片付けに大わらわだ。

 濃姫は入側まで来る間に、反物の束を抱えてお鍋の部屋から出てくる侍女達数名とすれ違っている。しかし、彼女が部屋に到った時には、もう完全に片付けは完了していて、お鍋が下座で窮屈そうにかしこまっていた。

 濃姫は上座に腰を下ろし、調子はどうかと尋ねると、世間話のように反物について訊いた。

「……木下秀吉殿から、懐妊祝いだと――」

「ああ、秀吉、あの者ですか!」

 秀吉の名を口にする濃姫の声が、非常に明るく弾んでいる。

「何か朗報でも?」

 お鍋は顔を上げた。

「ええ、その秀吉がね。竹中半兵衛を使って――」

 竹中半兵衛。

 その名はお鍋にも印象深い。

 あれは、ちょうど後藤の騒動があった頃のことだ。

 近江では、六角義治が家臣たちに叛かれ、父ともども本拠の観音寺城を追われたが、美濃でも同じ頃、似たようなことが起きた。

 当時の美濃の主・斎藤龍興が、稲葉山城、つまり今のこの岐阜城を僅かな手勢に奪われ、追い出されたというもの。

 そのほんの数名で城を奪ったのが、竹中半兵衛だった。

 観音寺城のことと時期が近く、隣国の出来事だっただけに、お鍋もよく覚えている。

 その後、城を龍興に返したという竹中は、一時浅井家に仕官したらしいが、すぐに辞して、今は秀吉に仕えている。

 もともと美濃の有力者だ。濃姫もよく知っていよう。

「秀吉は浅井方の城を調略していたのです。半兵衛の人脈を使って。それが成ったのです」

 美濃との国境付近。伊吹山から米原にかけて。その辺りが秀吉と半兵衛の尽力で、織田に寝返った。これで、北国脇往還を進んで、浅井の領内深くに侵攻できる。

「鎌刃城の攻略はめでたきこと。お屋形様も大変お喜びで、すぐにご出陣です」

 野洲河原の合戦から十数日。信長の出陣準備はとっくに済んでいる。

「それはお忙しい最中、お訪ね下さり、畏れ入ります」

 懐妊中のお鍋は、初めから見送りは辞退するつもりでいた。全て濃姫以下に丸投げして、のんびり過ごしていたのだ。

「ご報告だけはしておきたくて」

 濃姫はそう言って、けれど、時間にゆとりがあるのか、すぐに帰る気配はなかった。お鍋が出した菓子をゆっくり口にする。

 準備万端整っていて、もうやることもないのか。

 お鍋はお市のことが気になり、長く息を吐き出して言った。

「いよいよ浅井との全面衝突ですね……」

「お鍋様は六角家の下、常に戦ってきた相手ですね。六角旧臣の皆々は、浅井の戦いぶり、手の内わかりきっておりましょう故、此度、お屋形様の近江衆へのご期待は高いのですよ」

「確かに浅井は宿敵。以前の私ならば、浅井との決戦に、何とも感じなかったでしょう。されど、今は織田家の一員となり、お市御寮人様の御ことが気がかりで。御寮人様のご苦境を思いますと」

「ほんに、危険な目に遭わされているのではないかと、心配です」

 濃姫も睫毛を伏せた。

 お市は今、浅井家でどのような扱いを受けているのだろうか。もしや、牢獄に投げ込まれてはいまいか。戦局の次第によっては、命を脅かされはすまいか。

 濃姫はそれを案じている。

「はい、それはとても」

 お鍋も強く同意したが、案じられるのはそれだけではない。

「御寮人様のお心も心配でございます。聞けば、浅井長政とは大変睦まじい夫婦仲とか。愛しい夫と実家が戦うのは、どんなにお辛いでしょう。板挟みに遭われて、さぞやお苦しみであろうと、ご不憫で」

「されはそうです。されど、夫と睦まじいからこそ、こうなってよかったのかもしれません。もしも、長政がお市殿のために織田に背かず、父親の久政と敵になり、戦になったら――」

 濃姫はお鍋にとって理解し難い、不思議なことを言い出した。

 お市は織田と浅井の同盟のために長政に嫁いだのだ。妻の縁に引かれて、長政が織田を選ぶのは当然で、そうあるべきではないか。

 そうではない今回の事態。織田と浅井の同盟は破綻してしまった。

 なお浅井家にいる意味もないお市なのである。

 それを肯定的に捉えるような濃姫の発言は、理解できない。

「自分のために、愛しい人が父親と決別し、父親を捨て、家を分断させて危険に晒したとなったら、女はその方が辛いでしょう?それを受け入れられます?」

「ええ?」

 夫が自分のために、父親を説得するのが一番。そうならないならば、せめて夫は父親と決別して、夫だけは自分の縁に縛られるべきで、それは最善ではないが、百歩譲って妥協できる事態だろう。それが同盟というものではないのか。

 お鍋の考えを見通して、濃姫は言った。

「恋しい人がですよ。恋しい人が自分のために、父親も家も捨てて、自分を選んだら。そこまで想われて幸せだと思う以上に、受け止めきれないのでは?恋しい相手に犠牲になって欲しくない。それが愛する夫への気持ちでは?」

 一人の恋する女の気持ちを、濃姫は言っているのだ。人間として。女として。

 お市の結婚は確かに、同盟目的だった。政略結婚だった。

 だが、彼女はそんなことは関係なく、夫を愛している。

 一人の女として、この事態に直面した時のその思いは、お鍋の想像したものとは違うだろう。

「恋しい人の家は危険に晒したくない。家中に波風を立てたくない。分裂などということになったら、受け止められないでしょう?まして、恋しい人が父親と敵になって、殺し合うなど、自分のせいでそうなるなど、どうして堪えられましょう?」

(では、お市御寮人様は、これで良かったと嘆息していらっしゃるの?)

 お鍋は前妻の平井家の娘のこともあって、浅井長政を憎悪する気持ちがあったのに。お市はほっとしているのか。

「こうなって、長政とお市殿の間には、もう同盟の政略のと、互いの利害損得はなくなりました。今の二人の間にあるものは、ただの一人の男と女。夫と妻。要らぬ荷物が消え、二人は真の愛で結ばれました。利害のない、愛だけの夫婦こそ、真の夫婦と申せましょう」

「浅はかでございました……」

 お鍋は完敗の思いだった。

「平井殿の姫を妻としながら、六角家から独立し、己の欲求を果たした長政。妻の縁も親戚の縁も関係なく、平気で裏切るような者。此度もまた長政の非道の人柄が顕れたと思っておりました。婚姻も妻への情愛もなく、自分の望みだけを貫き通す男だと。だから、御寮人様がおかわいそうだと思ってしまいましたが、私は随分考えが浅かったようでございます」

 お鍋は頭を下げた。

(御台様は言外にご自分のことをおっしゃっている……)

 お鍋と信長との間には、六角旧臣という、つまり利害がある。

 当初の濃姫にも大いにあった。だが、実家のない今の濃姫は。

(御台様はただの一人の女。お屋形様とはただの男女という関係以外のものは一切ない。真の夫婦だと――)

 お鍋は自分の持っている近江衆を信長のために使うことで、己の愛を示そうと思っていた。だが。

 濃姫と信長。愛だけで結ばれている夫妻に、お鍋がどう対抗できようか。

 お鍋には、上座からお鍋を見下ろす濃姫の瞳が、実に誇らしげに見える。

(私は利害だけでお屋形様と繋がっている……私は一生、お屋形様の野望のための、ただの一つの駒……)

 燃えてなくなったあの赤い小袖。

 あれは最初からなかった。そう言った信長。

 信長の想いを痛感する。信長もただの男として、濃姫との夫婦関係を築いているのだ。

(私……どうして、亡き殿とそうなれなかったんだろう?殿は愛して下さったのに。私は小倉三河守の娘のままだった、殿の傍でずっと……私、殿を一個の女として愛したかった!愛だけで繋がり、真の夫婦になりたかった!もう一生、私は誰とも真の夫婦になれない……殿……)

 信長への片恋が邪魔した。小倉三河守の娘という、無意味な自尊心が邪魔をした。

 お鍋は零れる涙を抑えられなかった。

 濃姫が不審がっている。いけないと思う。でも、零れてしまった涙は瞳に戻らない。

(それでも、小椋も高野も敵に奪われて、何も持たない身になってしまえばよかったのだとは思えない……身一つになりたい、なるべき、とは思えない……)

 体以外何も持たぬ身になって、信長を愛する。それは違う。

 利害でもって、お鍋を利用してもらう。そうして、信長の政治に協力する、尽くす。

 それがお鍋の愛し方だ。

(やはり、小椋に行こう!なお降伏しない鯰江城の付城として、小倉城を再建し、そこに住もう。八風越の沿道を守るため、高野を巨大な城郭に作り変えよう!私のいるべき場所は、愛知川だわ!)

 信長からの愛という見返りは求めない。

 濃姫の愛には、信長の愛がある。愛し愛される。互いに愛という見返りがある。

(でも、私は見返りを求めない。見返りを求めない愛こそ本物よ。私は、だから、御台様に勝つ!)
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