お鍋の方【11月末まで公開】

国香

文字の大きさ
上 下
43 / 92
人質

十一・発覚

しおりを挟む
 お鍋が岐阜に来てから一年以上が経過した。

 そして、信長がついに帰還した。

 於巳はお鍋に見張られていたこともあり、結局何も出来なかった。

 お鍋は死さえ望んでいるようだが、於巳は納得しきれない。それなのに、何もしないでしまった自分が許せなかった。

 だが、下手に忍び込んで、見つかる可能性を思えば、何もしなかったから、今日まで無事に過ごせたのだとも言える。於巳が行動を起こしていたら、とっくにお鍋の命はなかったかもしれない。

(どうか、あの小袖がお屋形様の御目に触れることがありませんように!)

 於巳の祈る日々が始まる。

 一方。

(私にお屋形様の御手が付かぬうちに、小袖のことが見つかり、処刑されますように!)

 お鍋の願う日々も始まっていた。

 そして、それは意外にもあっさり訪れた。

 帰還した信長が、真っ先に濃姫に命じたことがある。

「この冬のうちに、蒲生家と祝言を挙げる。急ぎ冬姫の嫁入り支度をせよ」

というものであった。

 それがきっかけであった。

 既に冬。祝言まで一月ない。

 冬姫にはまだ嫁入りの話をしていない。相手の蒲生忠三郎にも、まだだ。

 本人に伝えていないうちから支度を始めないと、間に合わない。

 本人達へは信長が直接話すという。

(蒲生忠三郎を婿にとは、以前から考えておられたようだったけれど。それでも決定なさったわけではなかった。相手も冬をと望んでおられたが、これも決定していたわけではなかったのに……急にどうして、こんなに急がれるのか?)

 信長の例の気紛れか。忠三郎が初陣で活躍したので、急に心を定めてしまったのだろう。

 濃姫は本当に決定した縁談に、溜め息をつきながらも、支度を急いだ。

「姫様のご結婚を、思い付きで急に決めてしまわれるなんて」

 急ぎ大量の着物を仕立てる羽目になった侍女達が、冬姫への同情を口にしながら、その実、降ってわいた大量の急務に不満を漏らしている。

 濃姫は冬姫のために、沢山の調度や着物を新調したが、それだけではなく、古いからこそ価値のある物を贈ろうと、自身の持ち物も広げていた。

 濃姫はそれこそ高価な名品を沢山持っていた。その中から冬姫に伝えたい物をと、あれこれ探る。

 部屋に箱や長持を所狭しと並べて、その中で、濃姫は一つ大切なものに手を伸ばした。

(これは冬に返そう)

 冬姫の産衣としていたあの蒲生野の紫草染めの布。螺鈿の箱に畳んで入れると、感慨深い。

 つい悲歎に暮れそうになるので、さっとそれを傍らにやり、左側にあった葛の蓋を開けた、その時である。ふらりと信長が現れた。

「こりゃまた随分散らかっているな」

 どかどか近寄る間に、蓋を畳の上に置いて、濃姫は席を退いた。

 濃姫が退いた座布団の上に信長が座る。

「時間があった故、様子を見にきた。存外進んでいるな」

 濃姫の支度の手際の良さに感心し、上機嫌になる彼。

「で、そなたは何してる?自分の持ち物をひっくり返して?」

と、何気なく、今開けられたばかりの葛を見やった。

 着物だけが入っている葛である。ぎっしりと大量に詰められていた。

 濃姫は先程こみ上げかけた感傷もすっかり忘れて、楽しげに声を弾ませた。

「私の持ち物の中に、是非とも冬にあげたい物がありますので。私にはもう身につけられないようなもの、若い娘に着てもらいたいもの。色々選んでいたところです。とりあえず、今日はこちらに降りてきて、荷物を見ているのですが、本当に価値ある物は城の方に多いので――。明日は城に登って、また見つけ出したいと思います」

「そうか」

 返事をし、信長は何とはなしに、葛の中の着物をひらりと捲る。一枚、二枚、次々に艶やかで豪華な着物が姿を現す。

「いったいどれだけ持っているのだ、そなた?」

 現れる物全てが高価な物ばかりで、信長の興味を惹いた。信長もつい夢中になって、次々に着物を捲って行く。

「ふうむ、これなんて、そなたによく似合いそうなのに、着ているのを見たことがないな。有り過ぎて、全てに袖を通しきれていないんだろう?――お、これは冬姫に似合いそう、いや、五徳姫にも良いかな?」

 などと、すっかりご機嫌だ。

「お屋形様は本当に女物がお好きだこと」

 くすくす笑ってしまう濃姫に、悪態をつく信長。大層穏やかな一時である。

「それで、冬にはもうお話しになられましたの?」

「いや、まだ……」

 はたと、信長の手が止まった。

 何枚捲っただろう。葛の随分下の方にある一枚の小袖。信長はそれを凝視した。

「如何なさいました?」

 異変に濃姫が首を傾げる。

 信長は上にあった全ての着物を取り出して畳に置き、葛の中を見つめた。

 濃姫が躄り寄って、中に目をやる。信長の目がたちまち眇められる。

 真っ赤な地に金の桜が躍っている小袖。

 濃姫は思い出したように言った。

「そこから下の物は、以前、小倉殿から京土産にと頂いたものです」

「小倉?」

 鋭く信長は反応した。

 濃姫は内心気まずい思いがする。

(私ったら、嫉妬して醜いわ……お鍋様のお土産はつい目にしたくなくて……袖を通さないどころか、目に触れないように奥にしまって……)

 信長は猛禽のように目を凝らし、その赤い小袖を掴み上げた。

 かなり派手な赤地。だが、全体が一色なわけではない。猩々のような緋色の部分もあれば、袖の辺りは朱鷺の羽色ほどに薄い。

 袖は蜀江柄で、全体には白や金の桜が大胆に散っている。

 むんずと掴んだ信長の手に力が込められ、小袖に皺が作られる。

「小倉鍋が、これをそなたに――」

「はい……?」

 引きちぎれんばかりに握りしめる指に、殺気さえ感じて、濃姫は狼狽える。

 信長はその小袖がお鍋ででもあるかのように、しばらく睨み続けていたが、やがて鎮まったか、目を瞑り、顔を震わせながらも低く言った。

「そなたはこれに袖を通したか?」

「……いいえ」

「今後、着る予定は?」

 濃姫は答えに窮してしまう。

 お鍋から贈られたものは、例え好みの品であったとしても、着たくない。それが本音だ。たが、それは彼女の嫉妬故のこと。

 濃姫が黙ってしまったのを、信長はどう理解したのか、

「そうだな、そなたの好みではないだろう……似合わないこともなかろうが、もっと似合いそうな……」

と、小袖を握ったまま不意に立ち上がり、向こうで縫い物をする侍女たちにそれを投げた。

 俄に悪意のある笑みを浮かべる。

「至急洗い張りして仕立て直せ。寸法を小さくな」

 信長はそのまま濃姫のもとを去った。その背中が燃えている。濃姫はわけもわからず怯えた。




 三日後、夕方になって急な召集がかかった。

 麓の館の広間。

 信長の側室や子供たちは、皆そこに集まるようにとのこと。

 名ばかりとはいえ、正式に側室におさまったお鍋にも、当然出席するよう連絡が来ている。

「いったい何事なのでしょう?」

 濃姫のもとから使者が来たのだが、その使いに立った侍女によれば、どうやらめでたい事なのだという。

 最近何かにつけてびくびくしている於巳に、お鍋は強く頷いた。

「めでたい事だというのだから、大丈夫よ。そんな顔しないの」

 心配顔の於巳に苦笑して、化粧などの支度に急いだ。

 宵の口、言われた場所へ行くと、祝いの膳が用意されているという。

「さ、小倉の御方様はこちらのお席へ」

 案内の侍女に従って、所定の席に座ると、上座がよく見えた。

 周囲にはすでに何人もの側室が座っている。

 於巳は中へは入れないから、控えの間でそわそわと終始落ち着かなかった。

 ぼちぼち人々が集まった頃、一人の少年が上臈に導かれながら、広間の中へ入って行った。

 信長の家族や親族だけが集まる席だ。

 明らかに場違いな少年が、広間に足を踏み入れた途端に、彼は衆目に晒される。

 お鍋はあっと思った。

 少年はお鍋の前を通り過ぎて、主席のすぐ前に座らされる。おどおどした様子もなく、結構堂々としたものに見えた。

(鶴千代君!じゃなかった、忠三郎殿)

 お鍋は、ははあと理解した。めでたい話とのことだったが、さてはこのことか。

(ついに織田家の婿に迎えられるわけね?やっぱり冬姫様がお相手なのかしら?)

 お鍋がこれは蒲生忠三郎を披露する内々の祝いなのだと悟った時には、すでに全員揃っていた。

 茶筅丸が怪訝そうに、忠三郎を睨むように覗き込んでいる。最後に入ってきた奇妙丸に、袖を引かれてたしなめられた。

 茶筅丸がきちんと着席した直後、信長と濃姫が揃って現れ、そして――。

「なっ!?」

 うっかり声を上げ、周囲の視線を浴び、お鍋は慌てて口をつぐんだ。だが、心臓がその口を突き破りそうだ。

 お鍋が見たもの。それは――。

 上座に並ぶように座った信長と濃姫に、付き従って入ってきた冬姫。忠三郎の隣に座る冬姫の背中が、お鍋に呼吸を忘れさせる。

 冬姫の小袖に魂が飛んで行く。

(嘘っ!)

 その華奢な背から、信長の方に視線を動かせば、信長がお鍋を凝視していた。目が合った瞬間、お鍋は目を背け、息を乱す。

(どうして……冬姫様が、あれを着てるの……?)

「鍋?」

 不意に信長が声を上げた。

 入室して最初の言葉は、しんと静まり返った広間に異様に響く。

「如何した?」

 声に笑いが含まれている。

 全員がお鍋に注目したのがわかる。

 お鍋は噛み合わない歯の隙間から、ようやく、

「な、何も……」

と言うのがやっとだった。

「そうか、ちと寒いようだ」

 信長が笑った。

 お鍋があの小袖を濃姫に押し付けたこと。信長に知られてしまった。知られてしまったのだと、お鍋はその事実に震えた。

 恐る恐る上目遣いに冬姫の背を見やれば、猩々のような真紅の錦に、金の桜が散っている。

 横目に忠三郎が、感嘆した様子で見つめているのが見えた。良く似合うなあと、その目は言っていた。その少年の無邪気を、隣の冬姫はやや居心地悪げにしている。

「まあ、こんなに似合うとはね」

 濃姫が嬉しげに冬姫を見ていた。

「まこと、似合いの二人だろ?」

「え、あ、そっちね」

 信長の満足げな言葉に、濃姫も苦笑して応じた。

(御台様に押し付けたものを、姫様に着せるなんて……信長……笑って……怖い……)

 二人のやりとりも、お鍋の耳には入らない。

「――皆に伝えることがある。ここに居るは、近江から来た蒲生忠三郎だ。先の戦で手柄を上げたことは、皆聞き知っておろう。此度、我が婿とすることに相なった。冬姫の婿になる」

 お鍋以外の全員の顔が、ぱあっと明るくなった。どの顔も、めでたいと喜んでいる。

 ざわつく場の中、信長がそっと目の前の忠三郎に言った。

「ここにおる者らは、これからはお前の家族だ。よく馴染んでおくんだぞ」

「はい」

 頬をやや上気させ、覇気と忠三郎は返事している。

 信長は上機嫌に頷き、お鍋に目をやった。にやりと。俯くお鍋に。だが、その目は笑っていなかった。

 お鍋だけ置き去られたまま、どんどん進んで行く。信長がさらに何事か大声で話し――。それから間もなく、膳が運ばれて来た。お鍋は自分の前に膳が置かれて、初めてそれと気付いた。

 信長の家族だけの、団欒の祝い。皆楽しげに箸を動かして行く。お鍋も箸を手にしたが、少しも進まない。

(気持ち悪い……)

 口のものを必死に飲み込んだが、それ以上入って行かない。

 誰かが明るく冬姫を褒めた。

「冬姫様、とても艶やかなお召し物ですね。とてもよくお似合いです。何てお可愛いらしい、お美しい」

「そうだろう?」

 信長が得意げに答えれば、濃姫も頷き。

「本当に、さすがお屋形様。冬にぴったりだと――。お屋形様のお見立てなのですよ、ね、お屋形様」

「うむ。忠三郎の故郷には、それは見事な巨大な桜の木があってな。それもあって、季節の先取りでこの柄のをな」

 信長の瞼に、昔、佐久良城の前の桜木で遊んでいた童子の姿が浮かんだ。それが目の前に今いるとは思い至らないが。

「まあ、そうでしたの、さすがは」

 そう返事した者の声で、現に返る。

 佐久良の桜かと、忠三郎も思う。

「それはそれがしが最も好きな木です!」

 忠三郎はそう言って、冬姫に早く見せたいと思った。

 和んでいる。だが、お鍋にはこの他愛ない会話の間も、ずっと信長の目がこちらに向けられていると察せられた。

「――でもね、もともとはこれは小倉殿のお見立てになったものなのです。小倉殿が都で手に入れられたもので――。ありがとう、お鍋様」

 不意に濃姫に声をかけられ、お鍋は弾かれたように顔を上げた。

 濃姫はにこやかと。

「頂いたものは、お屋形様の仰せに従い、このように冬に着せました。本当に冬の可憐さを引き立ててくれます。ありがとう」

「あ、い、いえ……」

「どうなさったの?ご気分でもお悪いの?」

 濃姫がお鍋に異変を感じて、突然眉を寄せる。

「ほう、そういえば、さっきからちっとも食が進んでおらんなあ。どうした?ははあ、さては鍋よ、そなた、なおも恨んで、祝えないのだな。狭量なことよ」

 信長が嘲るように言えば、初めて忠三郎がちょっと気まずそうにした。

 すみませんという言葉を顔に塗って、忠三郎が振り返った。青ざめたお鍋の顔を見、軽く頭を下げると、またもとの姿勢に戻る。

 その彼の空気を汲み取ったわけではないのだろう。いや、空気など読んでいないからなのに違いない、茶筅丸が冬姫の隣にやって来て、膳を顎で指した。

「冬も具合悪いの?食べてないだろ」

「……そんなことありません……」

 冬姫はちょっと迷惑そうに俯いた。途端に鬼の首を取ったように、茶筅丸が笑った。

「ああ!こ奴との祝言が嫌なんだろう?」

 信長が口を吊り上げたまま、目を向ける。

 忠三郎が、自分が相手ですみませんという顔をして、益々気まずそうにした。

「……違います……つい先程、嫁ぐよう命じられて……少し驚いただけ……」

「は?さっき?」

 茶筅丸の声が大きい。

 冬姫はちょっと頷いてから、信長を恐れてのことではあるまいが、きっぱりと言った。

「大変有難い仰せ言です」

 本当かよと茶筅丸が言いかけたところを、すかさず奇妙丸が出てきて、冷やかすように言った。

「邪魔すな。忠三郎は冬が好きなんだぞ。冬は照れてるだけなんだ。ほら、こっちに戻って、全部残さず食べてしまえ」

 奇妙丸に引きずられ、席に戻った茶筅丸は、なお納得しかねるように首を傾げている。

「祝言の時になって初めて会うなら、諦められるけど。見知った奴が相手だと、嫌だよね?冬は祝言の日まで、あいつが相手かと悶々として過ごすんだろうな」

「なんだ、そなた妹をとられると思って、忠三郎が気に食わないのか。まあそう妬くな、そなたにだって、北畠の姫という許嫁ができたじゃないか」

 奇妙丸が薄ら笑い、茶筅丸の肩を叩いている。

「奇妙には武田の姫、そなたには北畠の姫。三七は神戸の姫。五徳は徳川。冬にも婿が来て良かった、な?」

 奇妙丸は肩に置いていた手を、ばんと茶筅丸の背に打ち、再び膳のものを食べて行く。茶筅丸も首を振り振り、箸を動かした。

 相変わらず冬姫は、今夜の主役に相応しい姿でいながら、気恥ずかしげに、あまり箸も進まない。そんな少女に興奮半分、不安半分な忠三郎。

 子供たちの様子に信長はさらに上機嫌になり、そして、またお鍋を見やった。

 お鍋は真っ青な顔で、全く食べていない。

 彼女の隣にいるのは、織田家の後家の笠松殿だ。笠松殿は隣の気安さで話しかけてきた。

「冬姫様の艶やかなお衣装、あれは小倉の御方様のお見立てだったのですか?さすがですね」

「えっ?」

 おどおどと笠松殿を見た。

「さっき御台様がそう仰せでしたでしょう?御方様が都で見立てたものだと。それをお屋形様が、姫様にこそお似合いになると仰有って、姫様に着せたと――」

(違うわ!あれは最初から信長の見立てよ!信長が自分で見立てて、私に……)

 少し酒も出て、食事もあらかたになったので、あちこちで和やかに談笑する声が響いている。信長の側室たちも、織田一族の女性たちも、興味津々と、次々に忠三郎に話しかけていた。

 忠三郎はいちいちそれに愛想よく答えて、女性たちからの好印象を引き出している。

 褒められて、すっかり赤面し、忠三郎が頭に手をやった時、遂にお鍋は堪えられなくなって、

「失礼します!」

と、身を低くしながら、這い出してしまった。

 何事かと、場が一気に静まり返る。

 空席になったお鍋の膳。皆のその視線の隅に入っている笠松殿が、眉をひそめて言った。

「とてもご気分がお悪いみたいです」

 人々が心配そうに、お鍋が消えた廊下へと視線をやった。

 大丈夫かしらという囁きに混じって、

「もしや、悪阻とか?」

という声も聞かれた。

 信長が一人、人の悪い笑みを浮かべている。

「あの……」

 忠三郎が恐る恐る言った。

「蒲生のそれがしが、ついはしゃいでしまったせいですかね……」

「ほほう、俺の決めた縁組みに異を唱えるとは、小倉め、いい度胸だな」

 信長のその言葉に、忠三郎はぎょっと顔を上げ、濃姫は慌た。

「忠三郎は何も気にすることはない」

 信長は忠三郎には穏やかに告げて、廊下の方へ不敵な笑みを向けた。

 場は瞬時に凍りついた。

 小倉家と蒲生家の因縁を、人々は知ってはいる。そのことについて、お鍋にある程度は同情するし、この縁組みが気に食わないことも、理解はできた。

 だが、個人の恨みに拘り過ぎて、信長の決定を不服に思っているらしいお鍋を、愚かだとも思った。

 人々はお鍋が信長の不興を買ったのだと知った。だが、その理由は冬姫の結婚に反対した故のことだと思った。

 冬姫が着ている小袖のことだとは、夢にも思わない。お鍋と信長しか知らぬこと。濃姫も知らない。

(先程、父上と共に呼び出されて、冬姫様と対面し、お屋形様から祝言のことを告げられた。あの時、姫様のお召し物が何て艶やかなんだろうと思ったけど。昼の日射しの中で見ても華やかだけど、夜の灯火の中に見ると、最高に可愛いなあ)

 忠三郎などは暢気にそう思っていたくらいだ。




 その頃、蒲生賢秀は慌てて祝言の支度を始めていた。

 先日、突然信長に呼び出され、日野から岐阜まで来てみれば、冬姫を賜るという。忠三郎と並んで信長に対面し、そのことを告げられたのは、今日、つい先程のことだ。

 忠三郎が信長の家族に披露されている間、賢秀は支度に慌てていたのである。

 日野へ使いを出し、花嫁を迎える支度を整えさせねばならない。信長の姫君なのだから、それこそ御殿を新築する勢いだ。

 短期間にやらねばならぬ。

 また、この岐阜でもやることは沢山ある。賢秀は忠三郎の世話役として、ずっと従ってきた町野繁仍(左近幸仍)を呼んで、ことの次第を告げた。

「げっ!?」

 冬姫を賜ると聞いて、町野は震え出した。

 町野も何度か冬姫を見かけたことがある。見た瞬間、腑抜けになるほど可愛かった。

 まだ幼い故、彼女を見て腑抜けるのは、とても可愛い姿をした猫や犬などに、ふにゃふにゃになるのと同じような類なのかもしれないが。

 既にその愛らしさの中にも、色香が瞬間顔を覗かせることもあり。すぐにとんでもない美女に成長するだろうことは間違いない。

(うちの若様と並べたら、まるで、美女と──。いやいや、うちの若様は確かに紅顔、端正だけれども……)

 そんな若様でも、隣に冬姫に並ばれたら、きっと見苦しく映るんではないかと町野は想像した。

「とにかく、急ぎ支度せよ」

 賢秀に叱られて、ようやく町野は我に返り、慌てて祝言に必要な準備を急ぎ始めたのだった。




*****************************

 お鍋は冬姫の縁談に反対して、信長の不興を買った。そう思われているけれども、その後は専ら山上で過ごしている濃姫はそうは思わない。

 相変わらず信長がお鍋のもとに行かないで山上にいるのを、他の人々は当然としていたが、濃姫だけはそうではないと思っていた。

(なおも亡き夫君を忘れられないあの方を思って……此度の件は、あの方を抱かぬ良い口実になったと思っておられるのか)

 濃姫とて女。つい嫉妬にまかせて言ってしまう。

「お屋形様が小倉家にご不興などという噂が、近江にまで広がったら、近江衆が動揺します。どうしてお鍋様のご寝所にお行きにならないのです?お屋形様はお鍋様に対して、ちっともお怒りではないくせに!」

 濃姫には、信長がお鍋を抱く方が気が楽だ。

(怒りがないだと?)

 信長はお鍋の無礼を濃姫に言うつもりはなかった。

 やれやれといった表情をして見せると、

「だって冬姫がもうすぐ嫁に行ってしまうんだぞ。俺だって名残惜しい。嫁に行くまで一緒にいたい」

 冬姫も山上にいるので、離れ難いのだと嘯いた。

 信長がお鍋を訪ねない理由は二つある。だが、どちらも濃姫には言えなかった。

 このままだと、濃姫の小言が煩くなりそうなので、信長はその前に退散し、冬姫を訪ねる。

「いいか、姫。姫はお婿様のことしか見てはいけないよ。世の中には色々な男がいる。姫も色々な男に会うだろう。でも、決してそれらを見てはいけない。お婿様のことだけを愛して、姫の心に決して他の人間を入れてはいけない」

 冬姫は素直にこくりと頷く。

「他の男を想っている女と一緒にいなければならないのは、男には堪えられないことだ。お婿様に悲しい思いをさせてはいけないよ。忠三郎に悋気を起こさせては、忠三郎が不憫だ。あれは冬姫を大切に想っている。ずっと愛してくれるから、姫も大事にしなさい」

「はい」

 素直な冬姫に、信長は内心ため息をつく。

(そうだ、他の男を想っている女を抱くなど許せない。辛い……)

 だが、そんなことをどうして濃姫に言えようか。

 お鍋の心が信長を拒絶しているのに。男として、信長はそんな女を抱くことは許せないのだ。

(勝手だな、男は……)

 そうも思う。

 女には、寵愛する多数の側室や若衆を持つ夫に堪えよと言うくせに、妻が他の男を慕うのは許せないのだから。

 冬姫の純粋な瞳に合うと、信長は苦笑しか出てこなかった。

(女はその嫉妬に堪えて生きている。その女にできることが、同じ人間である男にできないのは情けないことだと――あの忠三郎はそう信じて生きている。奴は冬姫しか愛さないだろう。この子のことは心配ない)

 心配なのは自分だと、信長は自分に呆れ、そして同時に、お鍋への怒りが沸々とわいてくるのを、抑えることができなかった。




 そうしているうちに、冬姫の祝言となった。

 岐阜城内で盛大に行われた祝言。まるで婿とり婚のように、花嫁の実家で行われたのは、仕方がないだろう。花婿の蒲生忠三郎は人質だからだ。

「蒲生忠三郎は今日からは我が娘婿。我が子であるから、苦しゅうない、これよりは人質の身分を解放し、冬姫と共に日野へ帰ることを許可する」

 信長は忠三郎の近江への帰還を許した。

 この祝言には、織田家の家臣たちも多数招かれていた。お鍋たち側室も宴に出席している。

 木下藤吉郎秀吉なる家臣がいる。織田家中随一の頭脳にして、出世頭と聞く。百姓から身を立てたというこの人物を、お鍋はこの宴で初めて目にした。

 噂に違わぬ猿のような小男だ。

 その秀吉が、何やらずっと無遠慮に花嫁の冬姫を見つめていた。

(なんなのかしら?)

 お鍋がそれに気付くと、秀吉が突然お鍋の方に振り返った。目が合った途端、ぱっと人懐こく笑顔を向けられる。と思ったら、そのままお鍋の方に向かってきた。

「これは小倉の御方様。それがし、木下藤吉郎と申しまする。何卒お見知りおき下さりませ」

 ひょこっと平伏して、畳に額を擦りつけたが、この馴れ馴れしさは何だろうか。さっきから花婿の忠三郎のことも、勝手に「忠殿」と呼んで、親しげに話しかけていた。

 秀吉はぱっと顔を上げると、お鍋をじっと見て、ちょっと眉をしかめた。

「なんだかお窶れですなあ。疲れてしまいますよな、祝言は」

 お鍋が冬姫の結婚に反対しているという噂を耳にしていて、そう言ったのであろう。お鍋が愛想笑いをして首を横に振ると、秀吉はにじり寄って、こそと言った。

「では、お噂はまことで?」

(何の――?)

「ご懐妊とか?」

「ええっ!?そうなんですの?」

 思わずそう大声を上げたのは、隣の席の於次丸の生母だった。信長の側室である。

「まあ、やはりね。先日、途中でご気分を悪くされて退席されたから、そうじゃないかって――」

「まさか……」

「ほう、そうですか!」

 まさかそんなことという言葉は、秀吉の歓声に消されてしまった。

(違うわよ!懐妊なんてするはずないじゃないの!)

 お鍋はどっと疲れた。

 あの日、冬姫が件の小袖を着ていたのを見た時から、お鍋は信長が恐ろしく、於巳と今日まで震え続けてきた。だから、げっそり窶れているだろう。

 懐妊していて、悪阻で苦しんでいるように見えなくもない。まして、あの日、吐き気がして退席したのだから。

 信長と結ばれていないことを知っているのは、於巳だけなのだ。

 いよいよお鍋が懐妊したらしいという噂が広まって行ってしまう。

 冬姫は数日後には、忠三郎に連れられて近江へ行ってしまったが、それを待っていたかのように、信長は暴発した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

日本が危機に?第二次日露戦争

歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。 なろう、カクヨムでも連載しています。

帝国夜襲艦隊

ypaaaaaaa
歴史・時代
1921年。すべての始まりはこの会議だった。伏見宮博恭王軍事参議官が将来の日本海軍は夜襲を基本戦術とすべきであるという結論を出したのだ。ここを起点に日本海軍は徐々に変革していく…。 今回もいつものようにこんなことがあれば良いなぁと思いながら書いています。皆さまに楽しくお読みいただければ幸いです!

ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す

矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。 はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき…… メイドと主の織りなす官能の世界です。

処理中です...