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激動
十・気遣い(上)
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蒲生家は、確かにお鍋の供たちが岐阜城下に囚われていることを確認した。お鍋自身が岐阜城内に幽閉されていることについては、登城した神戸具盛が確認している。
「神戸家は以前、小倉三河守によって煮え湯を飲まされましたから。その娘が確かに囚われており、いい気味だと夫が申しておりました」
具盛の妻が実家の蒲生家に来てそう言うのだから、間違いないだろう。
「ふうむ?では、信長のあの文は虚偽のものではなかったのか。誠に小倉を同心させるために、お鍋を拐って人質にとったというわけだな」
息子の予想が外れたらしいと賢秀が思っていると、具盛の妻は当たり前だという顔で頷いた。
「六角家に同心しているとなれば、誰に対しても厳しいですよ、織田信長という人は。たとえ知己の仲であっても、妥協は許さないでしょう。小倉家に恩があるからといって、大目に見るということは、あの人に限ってあり得ませんね」
そう言い切ると、彼女はこそっと賢秀に身を寄せ、
「それというのもね、兄上――」
周囲に人気のないことを、特に鶴千代の姿のないことを確認する。
「北伊勢は滝川殿がうまくやっています。もう完全に制覇されましたよ。最後までごねていた関殿もついに臣従しましたしね。――関殿の場合は夫の口添えがあったので、助かったのです。それがなければ、六角に同心していると疑われ、追放されたでしょう」
今年二月の織田家による北伊勢侵攻。賢秀のもう一人の妹婿・関盛信は、当初は六角に従う身だとて、織田家に反抗していたが、ついに観念したのであった。神戸の口添えで酷い目には遭わされずにすんでいるというが。
「千種殿なんて、大変なんですよ」
声にしないで、ひそひそ話す。
「千種……」
その名は賢秀の耳に痛い。
千種常陸介は後藤賢豊の弟・三郎左衛門を養子にしていた。そう、千種家の当主は賢秀の別れた妻の実兄である。
かつて小倉三河守が伊勢に攻め込んだ時、千種家は和睦に応じ、息子のいなかった常陸介は後藤家から養子を迎えて、六角に大変従順な麾下となった。
ところが、その後、常陸介に実子の又三郎が生まれた。常陸介は実子を跡継ぎにしたいと考えるようになってしまった。
だが、その養父の心を養子である三郎左衛門は見破っていた。
ちょうど観音寺騒動の頃。
先手を打って、三郎左衛門は常陸介父子を追放した。
観音寺騒動は六角家が後藤賢豊父子を殺し、後藤家と戦になった事件である。三郎左衛門は後藤家の人間であるから、当時の六角家にとっては敵だ。
だから、追放された常陸介は、千種城奪還を試みて失敗すると、六角家を頼った。
騒動も落ち着き、六角父子が観音寺城に戻り、しばらくすると、常陸介は再び千種城奪還を目指して挙兵しようと、六角家に援助を願い出た。
今度は三郎左衛門が不利な状況に陥った。彼は慌てて周囲の一族親戚、与力などに援軍を要請したが、六角軍を恐れてか、味方になる者はなく孤立した。結局追放され、九死に一生を得た状態で、生活も困窮。
実は、それまで千種城に身を寄せていた妹の桐(賢秀の別れた妻)が、北近江の上坂家に移ったのは、三郎左衛門の困窮のためであった。
さて、千種城主に返り咲いた常陸介だが、信長が攻めてきた時には、敵わじと、心は六角家に残したまま織田に降伏した。臣従するからには人質が必要なので、常陸介は実子の又三郎を差し出した。
ところが、信長から伊勢を託された滝川一益は、千種家は六角家に深く同心しているから許さぬと、又三郎に切腹を迫り、殺そうとした。
「常陸介殿は逃れ、浪人となってどこぞをさ迷っておられます。織田家は今度は、六角家に微塵の未練もない三郎左衛門殿を千種城に戻して、ようやく千種家の臣従を許したのです」
今また三郎左衛門が、千種家の当主に返り咲いたのである。
「六角家に心があると、絶対に許してはくれないのです。織田信長はそういう人です。いくら昔の知人だからって、小倉家に対して特別扱いするようなことはあり得ませんよ、兄上」
「そうか」
千種家の一件は、ひょっとすると、信長の妹婿の浅井長政による告げ口が原因なのではあるまいかと、賢秀は思った。長政の家臣の上坂兵庫助は千種三郎左衛門と実の兄弟だから、泣き付かれて、長政が信長に訴えた可能性もある。
別れた妻が上坂と一緒になって千種常陸介を讒言する姿が脳裏に浮かんだ。
脳内の桐は、鬼女かそれこそ狐憑きのような形相で、「六角に忠実六角に忠実」と喚いている。
そのうち、「六角に忠実な蒲生」と叫び出した。
賢秀は己の心の内を己で覗いた気がした。
(ふっ。何があろうとこの蒲生が信長に許されることはなさそうだ。六角の屋形が信長に同心せぬ限り、蒲生は滅びるしかない運命なのだろう。ならば、最後まで屋形に忠義を尽くすまでよ!)
賢秀は決意を固めた。
伝兵衛が岐阜から戻ってきてからの、小倉一門の慌てぶりはかなりのものである。
口約束した六角家臣の人々が、約束通りに六角家を裏切らない時は、お鍋は殺されるという。お鍋は小倉家だけではない、信長から密書が届いた家全ての人質となったのだ。
「一軒でも織田様を裏切れば、うちの夫人は殺されてしまうのです。助けて下さい!」
小倉家から永原家などに密使が出向いて、必ず織田に従うようにと訴えている。
その動きは蒲生家に筒抜けであったが、蒲生家は見て見ぬふりを続け、戦さえするふりで、それ以上進軍もせず、いい加減な様子である。
「一番望ましいのは、六角家そのものが織田家に同心することなのです。それなら、何の問題もなく、当家の夫人も助かります。織田と同心するようお屋形様を説得して下され!」
小倉家の密使があちこちでそう訴えるので、蒲生家にとっても六角家そのものが織田家と同盟する方が都合がよいから、敢えて密使の往き来を見逃しているらしい。
そして、小倉家にせっつかれたからではないが、六角家中では六角承禎(義賢)に対して、織田に同心するよう進言する人々が増えていた。
だが、承禎は頑なだった。
散々三好勢と戦って、苦しめられてきた過去がそうさせるのか。苦戦を強いられた三好勢とようやく今は平穏を保っているから、これを壊したくないのかもしれない。
しかし、三好勢は雲行きが怪しくなってきている。彼等の中に対立が生まれているのだ。分裂して相争うようになれば、六角家がそこまで恐れる必要もない。
そして、織田に同心することは、朝廷が認めた将軍・足利義栄への謀叛となるのかもしれないが、その義栄の命は、今、かなり危うくなっていた。
義栄が死ねば、必然的に次の将軍が必要になり、足利義昭を就ければよいだけのことではないのか。それは謀叛には当たらない。
六角家中の心は随分織田に靡いている。
****************************
お鍋を牢屋に閉じ込めて以降、濃姫も信長もお鍋の前に姿を現さない。何故かある時解放され、もとの客間に戻されたが、それから今日までの間、信長夫妻は現れなかった。
お鍋を歓待してきて、いきなり幽閉したのだ、さすがに後ろめたいのだろう。合わせる顔がなくて、来ることができないのだ。
お鍋も於巳もそう思っていた。
お鍋の怪我はすっかり治った。松寿もあれきり熱を出さず、毎日機嫌よく過ごしている。何やら岐阜に来た頃よりも丸々と肥えて、二回り程大きくなったような気がする。
「何故、織田家はこんな意味不明なことするのかしら?」
歓待したと思ったら、急に幽閉した。その理由を於巳でも言い当てることはできない。
「何かあったのでしょうけど……」
近江で織田家に不都合な何かがあったのだろう。
だが、しばらくして解放された。
「行き違い、誤解だったのでしょうね」
そう分析する於巳に、ふんっとお鍋はそっぽを向いた。まるで、於巳が信長ででもあるように。
「だったら、謝りに来るべきじゃない?」
「そうですね……」
「失礼しちゃうわ。閉じ込められてたせいで、夫君の葬儀にも出られなかったし……葬儀は……どうなったのかしら……」
つんけんと言っていた声が、途中から沈み込んだ。
「……早くお戻りになりたいですね?」
於巳はそう言うと、手をさっさと動かした。その手に勇気付けられるように、お鍋はまた顔を上げた。
「いよいよ。今夜決行だわね」
「ええ、いよいよです」
於巳は平包みに荷物を入れつつ、すんなり首を縦に振る。
今夜、お鍋は岐阜城を脱走する計画になっていた。
信長がお鍋を幽閉した理由も解放した理由もわからない。謝りにも弁解にも来ない。
だから、そんな無礼には無礼で返してやっても構わないのではないかと、お鍋は思ったのだ。
もとの部屋に戻されたとはいっても、濃姫の侍女たちがなお、世話という名の監視を続けている。近江へ帰るには逃走するしかない。
お鍋は信長に無断で帰るつもりなのだ。
やはり、その後の小倉家のことが気になるし、何より夫の亡骸に会いたい。
最初に逃亡を口にした時、当然のように於巳は反対した。
「周囲の侍女は巻けても、その後が難し過ぎます。こんな隙のない厳重過ぎる城を、どうやって突破するのですか。必ず見つかって捕らえられます。一度はお鍋様を幽閉したくらいですもの。恐らく逃亡が見つかって捕らえられたら、殺されると思います。どんな気紛れか、辛うじてお鍋様は殺されずにすんだのに、今度こそ殺されてしまいます!」
「じゃあ、そなたは松寿とここに残ればいいわ」
「そんな!お鍋様が無事逃げられたら、若様が殺されるではありませんか!逃げるなら、若様も、城下の家臣たちも一緒でなければ!」
なんだかんだと言い争った後、結局於巳は押し切られてしまい、逃亡することになったのだ。
だが、それには綿密な計画が必要になる。
於巳はまず城下の小倉家臣たちに会うことだと思った。
ある時、
「城下に買い物に出たいのですが――」
と、於巳が周囲の織田家の侍女に言うと、何とあっさり許可が出た。
お鍋と松寿は置いて、於巳だけが出かけるということだったからなのかもしれないが。
以降、於巳は度々城下に出て、家臣たちと接触してきた。
家臣たちも相変わらず監視されてはいたが、隙をついて於巳と接触できるような環境にはあったのだ。
そればかりではない。実は、八尾城から幾人もの家臣たちが岐阜にやって来て、城下に紛れ込んでいた。彼らはお鍋がどうしているのか、可能ならば逃亡させようと、来ていたのである。彼らは甲賀者さえ雇って連れていた。
城下に幽閉されていた家臣たちがようやく彼らと接触できるようになった頃、於巳が城下に出てくるようになったのである。
こうして彼らと於巳との間で、逃亡計画が練られ始めたのだった。
そして、ついに今夜決行なのである。
(なんだか私って、いつも逃亡してばかりだわ……)
お鍋の。逃亡ばかりの人生。弱者には厳しい世だ。
(もっと強い人が私の周りにいたら……強い家に生まれ、嫁いでいたら……いいえ!私が!私自身が強くなりたい)
一騎当千の女武者なんてのもいるのだ。もっとしっかりしていればよかったと思うばかりのお鍋である。
「どうかなさいました?」
暗い顔でもしていたのだろう、そんなお鍋を平包みを縛りながら、於巳が見ている。お鍋は誤魔化すように笑った。
「いや、ほら、なんか私って、いつも逃げてばかりじゃない?」
「ああ!そうそう、度胸ありますよね」
そういう反応をされるとは思わなかったので、目を丸くすると、ぐふふと於巳は笑った。
「……度胸?」
「だって、普通は、じっとして、来るべき運命に震えているものですよ?でも、お鍋様ったら、いつも運命に逆らって、逃亡なさるんですから。見つかったら大変なのに、危険も顧みず、気にせずご自分で運命を切り開こうとなさって、逃亡なさる。勇気ありますわねえ」
「逃亡が勇気ある行動とはね……」
思わず苦笑いだ。
「おほほほほほ。逃亡しないのが運命から逃げることですよ」
「逃亡しないのは運命受け入れてるんだと思うけど――」
「ま、そうとも言えますわね」
於巳はまた平包みを縛っていく。荷物は松寿を抱えて行く都合上、あまり多くはできない。
於巳が松寿を背負い、平包みを一つ抱え、お鍋が平包みを両手に一つずつ持つのだ。
「神戸家は以前、小倉三河守によって煮え湯を飲まされましたから。その娘が確かに囚われており、いい気味だと夫が申しておりました」
具盛の妻が実家の蒲生家に来てそう言うのだから、間違いないだろう。
「ふうむ?では、信長のあの文は虚偽のものではなかったのか。誠に小倉を同心させるために、お鍋を拐って人質にとったというわけだな」
息子の予想が外れたらしいと賢秀が思っていると、具盛の妻は当たり前だという顔で頷いた。
「六角家に同心しているとなれば、誰に対しても厳しいですよ、織田信長という人は。たとえ知己の仲であっても、妥協は許さないでしょう。小倉家に恩があるからといって、大目に見るということは、あの人に限ってあり得ませんね」
そう言い切ると、彼女はこそっと賢秀に身を寄せ、
「それというのもね、兄上――」
周囲に人気のないことを、特に鶴千代の姿のないことを確認する。
「北伊勢は滝川殿がうまくやっています。もう完全に制覇されましたよ。最後までごねていた関殿もついに臣従しましたしね。――関殿の場合は夫の口添えがあったので、助かったのです。それがなければ、六角に同心していると疑われ、追放されたでしょう」
今年二月の織田家による北伊勢侵攻。賢秀のもう一人の妹婿・関盛信は、当初は六角に従う身だとて、織田家に反抗していたが、ついに観念したのであった。神戸の口添えで酷い目には遭わされずにすんでいるというが。
「千種殿なんて、大変なんですよ」
声にしないで、ひそひそ話す。
「千種……」
その名は賢秀の耳に痛い。
千種常陸介は後藤賢豊の弟・三郎左衛門を養子にしていた。そう、千種家の当主は賢秀の別れた妻の実兄である。
かつて小倉三河守が伊勢に攻め込んだ時、千種家は和睦に応じ、息子のいなかった常陸介は後藤家から養子を迎えて、六角に大変従順な麾下となった。
ところが、その後、常陸介に実子の又三郎が生まれた。常陸介は実子を跡継ぎにしたいと考えるようになってしまった。
だが、その養父の心を養子である三郎左衛門は見破っていた。
ちょうど観音寺騒動の頃。
先手を打って、三郎左衛門は常陸介父子を追放した。
観音寺騒動は六角家が後藤賢豊父子を殺し、後藤家と戦になった事件である。三郎左衛門は後藤家の人間であるから、当時の六角家にとっては敵だ。
だから、追放された常陸介は、千種城奪還を試みて失敗すると、六角家を頼った。
騒動も落ち着き、六角父子が観音寺城に戻り、しばらくすると、常陸介は再び千種城奪還を目指して挙兵しようと、六角家に援助を願い出た。
今度は三郎左衛門が不利な状況に陥った。彼は慌てて周囲の一族親戚、与力などに援軍を要請したが、六角軍を恐れてか、味方になる者はなく孤立した。結局追放され、九死に一生を得た状態で、生活も困窮。
実は、それまで千種城に身を寄せていた妹の桐(賢秀の別れた妻)が、北近江の上坂家に移ったのは、三郎左衛門の困窮のためであった。
さて、千種城主に返り咲いた常陸介だが、信長が攻めてきた時には、敵わじと、心は六角家に残したまま織田に降伏した。臣従するからには人質が必要なので、常陸介は実子の又三郎を差し出した。
ところが、信長から伊勢を託された滝川一益は、千種家は六角家に深く同心しているから許さぬと、又三郎に切腹を迫り、殺そうとした。
「常陸介殿は逃れ、浪人となってどこぞをさ迷っておられます。織田家は今度は、六角家に微塵の未練もない三郎左衛門殿を千種城に戻して、ようやく千種家の臣従を許したのです」
今また三郎左衛門が、千種家の当主に返り咲いたのである。
「六角家に心があると、絶対に許してはくれないのです。織田信長はそういう人です。いくら昔の知人だからって、小倉家に対して特別扱いするようなことはあり得ませんよ、兄上」
「そうか」
千種家の一件は、ひょっとすると、信長の妹婿の浅井長政による告げ口が原因なのではあるまいかと、賢秀は思った。長政の家臣の上坂兵庫助は千種三郎左衛門と実の兄弟だから、泣き付かれて、長政が信長に訴えた可能性もある。
別れた妻が上坂と一緒になって千種常陸介を讒言する姿が脳裏に浮かんだ。
脳内の桐は、鬼女かそれこそ狐憑きのような形相で、「六角に忠実六角に忠実」と喚いている。
そのうち、「六角に忠実な蒲生」と叫び出した。
賢秀は己の心の内を己で覗いた気がした。
(ふっ。何があろうとこの蒲生が信長に許されることはなさそうだ。六角の屋形が信長に同心せぬ限り、蒲生は滅びるしかない運命なのだろう。ならば、最後まで屋形に忠義を尽くすまでよ!)
賢秀は決意を固めた。
伝兵衛が岐阜から戻ってきてからの、小倉一門の慌てぶりはかなりのものである。
口約束した六角家臣の人々が、約束通りに六角家を裏切らない時は、お鍋は殺されるという。お鍋は小倉家だけではない、信長から密書が届いた家全ての人質となったのだ。
「一軒でも織田様を裏切れば、うちの夫人は殺されてしまうのです。助けて下さい!」
小倉家から永原家などに密使が出向いて、必ず織田に従うようにと訴えている。
その動きは蒲生家に筒抜けであったが、蒲生家は見て見ぬふりを続け、戦さえするふりで、それ以上進軍もせず、いい加減な様子である。
「一番望ましいのは、六角家そのものが織田家に同心することなのです。それなら、何の問題もなく、当家の夫人も助かります。織田と同心するようお屋形様を説得して下され!」
小倉家の密使があちこちでそう訴えるので、蒲生家にとっても六角家そのものが織田家と同盟する方が都合がよいから、敢えて密使の往き来を見逃しているらしい。
そして、小倉家にせっつかれたからではないが、六角家中では六角承禎(義賢)に対して、織田に同心するよう進言する人々が増えていた。
だが、承禎は頑なだった。
散々三好勢と戦って、苦しめられてきた過去がそうさせるのか。苦戦を強いられた三好勢とようやく今は平穏を保っているから、これを壊したくないのかもしれない。
しかし、三好勢は雲行きが怪しくなってきている。彼等の中に対立が生まれているのだ。分裂して相争うようになれば、六角家がそこまで恐れる必要もない。
そして、織田に同心することは、朝廷が認めた将軍・足利義栄への謀叛となるのかもしれないが、その義栄の命は、今、かなり危うくなっていた。
義栄が死ねば、必然的に次の将軍が必要になり、足利義昭を就ければよいだけのことではないのか。それは謀叛には当たらない。
六角家中の心は随分織田に靡いている。
****************************
お鍋を牢屋に閉じ込めて以降、濃姫も信長もお鍋の前に姿を現さない。何故かある時解放され、もとの客間に戻されたが、それから今日までの間、信長夫妻は現れなかった。
お鍋を歓待してきて、いきなり幽閉したのだ、さすがに後ろめたいのだろう。合わせる顔がなくて、来ることができないのだ。
お鍋も於巳もそう思っていた。
お鍋の怪我はすっかり治った。松寿もあれきり熱を出さず、毎日機嫌よく過ごしている。何やら岐阜に来た頃よりも丸々と肥えて、二回り程大きくなったような気がする。
「何故、織田家はこんな意味不明なことするのかしら?」
歓待したと思ったら、急に幽閉した。その理由を於巳でも言い当てることはできない。
「何かあったのでしょうけど……」
近江で織田家に不都合な何かがあったのだろう。
だが、しばらくして解放された。
「行き違い、誤解だったのでしょうね」
そう分析する於巳に、ふんっとお鍋はそっぽを向いた。まるで、於巳が信長ででもあるように。
「だったら、謝りに来るべきじゃない?」
「そうですね……」
「失礼しちゃうわ。閉じ込められてたせいで、夫君の葬儀にも出られなかったし……葬儀は……どうなったのかしら……」
つんけんと言っていた声が、途中から沈み込んだ。
「……早くお戻りになりたいですね?」
於巳はそう言うと、手をさっさと動かした。その手に勇気付けられるように、お鍋はまた顔を上げた。
「いよいよ。今夜決行だわね」
「ええ、いよいよです」
於巳は平包みに荷物を入れつつ、すんなり首を縦に振る。
今夜、お鍋は岐阜城を脱走する計画になっていた。
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だから、そんな無礼には無礼で返してやっても構わないのではないかと、お鍋は思ったのだ。
もとの部屋に戻されたとはいっても、濃姫の侍女たちがなお、世話という名の監視を続けている。近江へ帰るには逃走するしかない。
お鍋は信長に無断で帰るつもりなのだ。
やはり、その後の小倉家のことが気になるし、何より夫の亡骸に会いたい。
最初に逃亡を口にした時、当然のように於巳は反対した。
「周囲の侍女は巻けても、その後が難し過ぎます。こんな隙のない厳重過ぎる城を、どうやって突破するのですか。必ず見つかって捕らえられます。一度はお鍋様を幽閉したくらいですもの。恐らく逃亡が見つかって捕らえられたら、殺されると思います。どんな気紛れか、辛うじてお鍋様は殺されずにすんだのに、今度こそ殺されてしまいます!」
「じゃあ、そなたは松寿とここに残ればいいわ」
「そんな!お鍋様が無事逃げられたら、若様が殺されるではありませんか!逃げるなら、若様も、城下の家臣たちも一緒でなければ!」
なんだかんだと言い争った後、結局於巳は押し切られてしまい、逃亡することになったのだ。
だが、それには綿密な計画が必要になる。
於巳はまず城下の小倉家臣たちに会うことだと思った。
ある時、
「城下に買い物に出たいのですが――」
と、於巳が周囲の織田家の侍女に言うと、何とあっさり許可が出た。
お鍋と松寿は置いて、於巳だけが出かけるということだったからなのかもしれないが。
以降、於巳は度々城下に出て、家臣たちと接触してきた。
家臣たちも相変わらず監視されてはいたが、隙をついて於巳と接触できるような環境にはあったのだ。
そればかりではない。実は、八尾城から幾人もの家臣たちが岐阜にやって来て、城下に紛れ込んでいた。彼らはお鍋がどうしているのか、可能ならば逃亡させようと、来ていたのである。彼らは甲賀者さえ雇って連れていた。
城下に幽閉されていた家臣たちがようやく彼らと接触できるようになった頃、於巳が城下に出てくるようになったのである。
こうして彼らと於巳との間で、逃亡計画が練られ始めたのだった。
そして、ついに今夜決行なのである。
(なんだか私って、いつも逃亡してばかりだわ……)
お鍋の。逃亡ばかりの人生。弱者には厳しい世だ。
(もっと強い人が私の周りにいたら……強い家に生まれ、嫁いでいたら……いいえ!私が!私自身が強くなりたい)
一騎当千の女武者なんてのもいるのだ。もっとしっかりしていればよかったと思うばかりのお鍋である。
「どうかなさいました?」
暗い顔でもしていたのだろう、そんなお鍋を平包みを縛りながら、於巳が見ている。お鍋は誤魔化すように笑った。
「いや、ほら、なんか私って、いつも逃げてばかりじゃない?」
「ああ!そうそう、度胸ありますよね」
そういう反応をされるとは思わなかったので、目を丸くすると、ぐふふと於巳は笑った。
「……度胸?」
「だって、普通は、じっとして、来るべき運命に震えているものですよ?でも、お鍋様ったら、いつも運命に逆らって、逃亡なさるんですから。見つかったら大変なのに、危険も顧みず、気にせずご自分で運命を切り開こうとなさって、逃亡なさる。勇気ありますわねえ」
「逃亡が勇気ある行動とはね……」
思わず苦笑いだ。
「おほほほほほ。逃亡しないのが運命から逃げることですよ」
「逃亡しないのは運命受け入れてるんだと思うけど――」
「ま、そうとも言えますわね」
於巳はまた平包みを縛っていく。荷物は松寿を抱えて行く都合上、あまり多くはできない。
於巳が松寿を背負い、平包みを一つ抱え、お鍋が平包みを両手に一つずつ持つのだ。
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