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出会い
十・浅井長政の波紋(下)
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数日後、六角家の当主・義賢(承禎)が浅井方になった肥田城へと出陣した。水攻めにするという作戦に出る。
その時の南近江は日常そのもので、お鍋は普段通りに暮らしていた。
佐久良城の庭をぼんやり歩いていたお鍋を、遠目に見つけた伝兵衛が、周囲を見回してから足早に近寄ってきた。
「あら、伝兵衛」
「姫様、山上の右近大夫様が参られました」
伝兵衛は声をひそめて告げた。
何事かとお鍋は思う。内密にしなければならないことではないはずだ。
最近、実隆は小倉諸氏と親しくしようと、あちこちに贈り物やら挨拶やらをしている。右近大夫のもとへも、以前お鍋が挨拶に行ったではないか。
右近大夫が内心どう思っているかは知らないが、彼も実隆の好意に合わせるように振る舞っている。今日も味のよい山菜でも持ってきたのだろう。
しかし、伝兵衛は懐から綺麗な薄様の文を取り出し、こっそりお鍋に握らせたのだ。
「右近大夫様から預かりました。織田様の奥方からの文だそうです」
「げっ?」
瞬間、お鍋が幽霊でも見るように伝兵衛に視線をやった。
伝兵衛はさりげなく、
「先日、八風峠を無事に越えられたそうです」
と、濃姫がもう山上城にはいないことを伝えた。
「もう一度、姫様に会ってお礼を言いたいと言っていたそうですが、姫様もそう易々とは出歩けませぬものなあ。諦めて、文を残していかれたと」
実隆が小倉諸氏に軟化しているとはいえ、そうそう頻繁にお鍋が彼等と接触することはできない。
濃姫の方からお鍋を訪ねることなど、なおできないから、彼女は諦めて帰ったのだという。
右近大夫は濃姫から文を委ねられ、佐久良城に来たついでに伝兵衛に預けたというわけだ。
「八風峠に案内なさったは、またしても右京亮様だったそうにございます。右京亮様も役目を果たされ、ご無事にお戻りになられた由。織田様の奥方も今頃は無事、尾張にお着きでしょう」
伝兵衛の言葉に、信長の姿が瞼に映る。
お鍋の中に浮かぶその面影は、愛情に溢れた眼差しで、手放しで歓喜している。
(信長があの人にだけ向ける眼差しなのね……)
決して自分に向けられることはない、信長の艶めいた眼差し。お鍋は失恋の実感にまた襲われ、よろめいた。
「姫様!」
伝兵衛が反射的に受け止める。
「少し疲れたみたい。庭を歩き過ぎたわ。これ、ありがとう」
文の礼を言って、お鍋は部屋に戻って行った。その後ろ姿を目で追う伝兵衛は、彼女が案じられてならなかった。
お鍋は部屋に戻っても、しばらく濃姫からの文を開く気になれなかった。
信長の子を産んだ濃姫。信長に愛されている濃姫。
まだちくりと胸が痛むけれど、二人が再会した時のことを想像すると、不思議と妬心は起こらなかった。
一度だけ会った濃姫の、あの時の死相が頭から離れない。
(信長は、生まれたばかりの姫に会えないのよね)
亡くなってしまった信長と濃姫の娘。
きっと二人は嘆き合い、励まし合い、益々愛し合うのであろう。
(それでいいのよ。そうでなくちゃ。私は……)
小倉右京亮に嫁ぐのだ。信長のことは忘れて、右京亮を愛して生きていく。
そう決めた。
(私の情念が姫を殺したのならば、あの人が死なずにすんだこと、あの人が再び信長に愛されることは、私にとっても。そう、天の情けだわ。私をこれ以上鬼女にしないようにと、天が助けてくれた)
姫を殺したことの罪滅ぼしはできないが。せめて、信長と濃姫の幸せを祈らなければならないだろう。
信長の恋を応援しなければと、お鍋は心を整理した。すると、濃姫からの文もすんなり素直に開けるようになる。
文には特に変わったことは書かれていなかった。
お鍋への礼の言葉が連ねられている。また、以前会った時、娘を亡くしたばかりで取り乱していたことを詫びてもいた。
(非礼をお許し下さいだなんて。私のせいで、あなたは娘を失ったのに……)
そして、小倉家の事情に触れ、お鍋に迷惑がかからないか心配だとも書いてあった。だから、何か困ったことがあったら、必ず力になりたいと。
最後に、右京亮と幸せにとあった。
(ええ。必ず右京亮殿を愛し、尽くします。あなたに負けないくらいに)
信長と濃姫の幸せを祈った。
******************************
肥田城は北近江の京極領(浅井領)との境界付近にある。六角家にとっては前線基地、重要な地だったから、その城主・高野瀬氏の裏切りは許せない。
それに、付近の領主達が肥田城に影響され、雪崩れのように浅井方に寝返ってしまうかもしれない。それだけは是が非でも食い止めなければならない。
四月、六角義賢は出陣し、肥田城を取り囲んでいた。
この肥田城の攻撃に、義賢は水攻めという、新しく、また残虐な方法を考えついた。
六角家というのは、同族だった婆沙羅大名・佐々木道誉の血の影響か、先代(定頼)の楽市令など、色々革新的なことを発明する家である。
肥田城は川に囲まれた場所にある。普段は濠の役割を果たし、城を守っている川。
義賢は堤を築いて、それを逆に凶器に変え、宇曽川の水を肥田城に流し込んだのだ。日本初の水攻めである。
城下の民は城に逃げ込んで、これに堪えなければならなかった。高野瀬も降伏せず、しぶとく籠城し続けた。
六角家の家臣達の多くが参戦しており、蒲生家からは定秀が、小倉家は良秀らが出陣していた。
定秀はあらかじめ主君から作戦を聞いていたのだが、彼はこんな奇策は成功するはずがないと嘲笑っていた。堤を築くには、余程の技術が要る。
徐々に増水していく川。肥田城万事休すと思いきや。
五月。大雨の季節である。間もなく六月に入ろうという二十八日のこと、堤が増水に耐えきれず、決壊した。肥田城の中へ貯まった水は、城の外へと流れ出て、周辺一帯を水浸しにした。
定秀の読み通り、技術が伴っていなかったのだ。こうして、水攻めは失敗したのである。
六角は肥田城を落とすことができなかった。
これにより、義賢は求心力を失い、家臣達は益々独立心が強くなった。中には、六角を見限り、浅井につこうかと考え始める気の早い者さえいたのである。
義賢は浅井家への再戦を誓って、いったん兵を引き上げたのであった。
帰城した蒲生定秀は、思い通りに事が運ぶ幸運に、ほくそ笑んだ。
ところで、最近、実隆と小倉一族は親しく交流していたが、定秀は肥田城攻めの陣中で、小倉左近助良秀と急接近していた。
一方、山上城の右近大夫は、鬼の居ぬ間にとて、定秀が肥田城攻めに出陣して留守にしていた時、用水を好き勝手に使っていた。小倉本家と協定のあった用水だ。
右近大夫は表面上は実隆と親しくしていたが、本音はそうではなかったのだ。
実隆など、実家の蒲生がいなければ何もできない洟垂れ小僧と、馬鹿にしていたのである。
しかし、戦から帰ってきた定秀は、それを喜んだ。
「ふふふ。阿呆め。これを待ってたんや」
*****************************
籠に沢山の山菜が入っている。その籠を前に、実隆は座っていた。
「山上の右近大夫がご機嫌伺いに来た」
呼び出した於巳に苦笑した。
蒲生定秀が戦から帰ってくると、右近大夫は用水を他の小倉家に譲って使用させた。そして、実隆へは山菜等贈って寄越した。
「鍋はどうしている?」
最近、お鍋は部屋にいることが多く、実隆もあまり顔を合わせていなかった。
「はい。今年中には嫁ぐ身故と、裁縫をして過ごしたり、和歌を詠まれたり。姫君らしいお暮らしぶりです」
跳ねっ返りのお鍋が、ようやく姫らしく淑やかに暮らしているというのに、実隆はかえって心配そうだ。
「たいそう上質で味がよいらしい。これを食べさせてやってくれ」
実隆は右近大夫からもらった山菜の籠を於巳に差し出した。
「かしこまりました」
「ところで、鍋は右京亮に嫁ぐ気になっているのだな?」
「はい」
と、於巳は顔を曇らせる。お鍋の覚悟は信長への思いを捨てることを意味する。
「もともと、年内の予定でございましたから」
実隆抜きで勝手に決められた縁談だ。お鍋の年齢を考え、今年辺りに婚礼と決まっていた。実隆が文句をつければ破談にもなろうが、この縁談について、彼が何事か口にしたことは一度もなかった。ということは、予定通り、今年の内にでも婚礼となるはずなわけで。
「ちと怪しくなってきたな」
しかし、実隆は思案顔でそう言った。
「え?」
「婚礼は延引することになるかもしれぬ」
「何故です?」
実隆はお鍋の恋を知らないはずである。
しかし、彼はお鍋が信長に会ったことや接触を持ったことは知っている。お鍋の様子がおかしくなったのは、思えば信長と出会ってからなのだから、実隆は何か察しているのかもしれない。
(殿は敏いお方──)
於巳は実隆が感づいているのではないかと、そう思う。
だが、実隆の背後には蒲生家がある。定秀がいる。
定秀の意志に関係なく、お鍋の結婚が延期になるとは考えられなかった。
「いよいよお屋形様が、小倉家を処罰遊ばすと?」
「いや、そうではない」
実隆は言った。
「処罰は次のお屋形様がなさるであろうと」
「次?」
「蒲生の父が、お屋形様は近々隠居することになると。若様・四郎様がお継ぎになり、美濃とは同盟することになるであろうと。やれ困ったことよ」
実隆はほとんど自嘲のような笑いを浮かべている。
「それはもしや、大殿様がお屋形様を──?」
「さすがに父一人でお屋形様に隠居を迫ることはできまい。だが、父は隠居はあると見ている。若様がお継ぎになれば、あとは父が思い描く通りにできるであろうよ。若様ならば、操れる」
「そのことと、お鍋様のご結婚と、いったいどんな関係が?」
於巳が尋ねると、実隆は完全に困惑をその顔に浮かべていた。
「おそらく、戦になる」
実隆は目の前の山菜の籠を顎で指した。
右近大夫が今更このようなことをして誤魔化してきても、
「蒲生の父を誤魔化すことは無理だ。父は小倉と戦がしたくてならないのだ。討つ口実が欲しくてならなかった。上の腰の水のことは、父には絶好の口実。今更、右近大夫がすり寄って来ようと、父は討つだろう。右近大夫は戦をするために、上の腰の水を不当に使い続けたわけではないだろうがな」
右近大夫とて蒲生軍が怖い。留守中に、ちょっと用水をいつも以上に使って、我田を豊かにしたかっただけだ。蒲生軍が帰ってくれば、まずかったと、今のような態度なわけである。
しかし、蒲生定秀という男の前には、こんな山菜など無駄なのだ。
「俺や蒲生と右近大夫が戦うとなれば、分家の多くが右近大夫に従うだろう。右京亮がこちらに付く筈もない。そんな状況で鍋と祝言はない」
「確かに、そうでございますね」
於巳は頷かざるを得ない。
「それに、浅井方との戦は、いよいよ本格的になる。南近江だけで対応できるような規模の戦ではない。なれば、小倉も蒲生も必ず出陣することになる。鍋が右京亮に嫁ぎ、俺や蒲生が留守になれば──奥津保が心配だ」
今は実隆に従う奥津保の面々だが、お鍋が嫁いだら、嫁ぎ先の高野と結束しないとも限らない。
留守中、小倉諸家が佐久良城や奥津保を奪うかもしれない。かつて、先代の実光の伊勢出陣中に、蒲生家が奪ったように。
「奥津保は昔から小倉本家の拠点。鍋への忠誠は強い。鍋が嫁がぬうちは、奥津保は本家に忠実、俺も安泰。父がそう言うのさ」
本家領の奥津保とはいえ、定秀は心配していた。
「留守中の心配があるゆえ、浅井との戦が落ち着くまでは、鍋を嫁がせることはできまい」
「……そうですか」
お鍋の恋のためには、これは喜ぶべきことか。於巳にはわからない。
それと、もう一つ気になることがある。
「ところで、お屋形様が隠居なさるというのは?」
「此度の浅井との戦の結果よ」
実隆はうんざりしていた。
六角義賢の敗戦は六角家中に於いて余りに衝撃が大きかった。著しい求心力の低下を招き、これ以上、義賢が当主でい続けることは不可能である。
家臣たちを六角家に繋ぎ止めておくために、けじめをつける必要があった。
義賢は隠居した。家督は嫡男の四郎義弼が継承することになった。
蒲生定秀の睨んだ通りである。いや、望み通りになったのだ。
にわかに六角家の当主となった六角四郎義弼(義治)はまだ若い。能力も父・義賢には及ばない。当主になったばかりで、家臣達とも何らの関係も築けていない。
そのような義弼が主となることを、定秀は望んでいた。そして、ほくそ笑んだ。
若く、阿保な義弼ならば、定秀の好きなように操れる。
定秀は何かにつけて義弼を訪ね、ご機嫌とりに勤しんだ。そして、すっかり信頼を勝ち取ると、こんなことを口にしたのである。
「先頃、尾張の織田が密かに上洛しました。織田は浅井が占拠している場所を通り、滞在したのです。織田は浅井と親しいのです。その織田を八風越に案内したのが小倉殿。小倉殿のもとに、もしや浅井から誘いが来てはいますまいか?浅井に同調し、織田を八風越に案内したのやもしれませぬ。その直後ですぞ、浅井がお屋形様へ謀反したのは」
新当主・四郎義弼は、北近江を浅井に奪われた都合上、美濃とは同盟しなければならないと思っていた。
もともと義弼はそう思っていたが、先代の義賢(承禎)は美濃の斎藤家との同盟はあり得ないという考えで、そこは父子で意見が食い違っている。しかし、義弼はいよいよ美濃との同盟は現実的に考えなくてはならないと信じた。
「織田の八風越えの話は聞いた。敵対する美濃をこっそり通ってきたが、美濃衆に気付かれ、帰り道には美濃を通れなくなったからだとか」
「美濃の斎藤は、織田を八風越えに案内したこと、怒るでしょうな。美濃と同盟なさるなら、そこはきっちりさせておきませぬと。それに、浅井をそそのかしたのは織田。その織田を道案内するとは」
定秀は小倉討伐の許可を得たかった。さらにこう付け加えた。
「山上は用水を不当に使っており、市原では困っています。このままでは──」
用水を巡って争いになることは避けられそうにないと言った。
「それは仕方ないことだのう」
市原側が山上側を攻撃しても、やむを得ないと義弼は言った。本家の分家への攻撃を許可したことになる。
定秀はしめたと思った。
「ところで、浅井はなかなか侮れません。いずれは討ち果たすことでありましょうが、今日明日というわけにはいきません。ですから、しばらくの間、六角家の所領は狭い状態が続くと覚悟せねばならないのです。されど、浅井と戦う上でも、それではまずうございます。兵を得るためにも養うためにも、版図を拡張させねば。ご先代様(義賢)に引き続き、伊勢を狙われませ」
「伊勢か。以前は小倉に任せたが」
「和をもってすれば、北伊勢はお屋形様のものとなりましょう」
「なに、戦なしでか?」
「はあ、但し、小倉家は先の戦で神戸家に憎悪されておりましょう。小倉家にお任せになると、ちと難しいかと」
「しからば、そちに任せる。蒲生、如何する?」
「神戸家の当主がにわかに死にましてございます。新しい当主は寺育ちにて、妻がおりませねば──」
義弼は膝を打った。
「しからば、そちの娘を嫁がせよ」
「ははっ!では」
定秀はこうして、まんまと伊勢攻略の任務までをもせしめたのであった。
定秀は北伊勢の関家、神戸家に娘を嫁がせ、両家を六角方に引き込むことになるのである。娘には許嫁がいたのにもかかわらず、それを破談にして──。
関家の当主は盛信。
神戸家の当主は元僧侶の具盛。
まさかこれが、尾張の織田信長と将来繋がることになろうとは、夢にも思うまい。
定秀も。信長も。
いや、信長はすでに感じていたかもしれない。
その時の南近江は日常そのもので、お鍋は普段通りに暮らしていた。
佐久良城の庭をぼんやり歩いていたお鍋を、遠目に見つけた伝兵衛が、周囲を見回してから足早に近寄ってきた。
「あら、伝兵衛」
「姫様、山上の右近大夫様が参られました」
伝兵衛は声をひそめて告げた。
何事かとお鍋は思う。内密にしなければならないことではないはずだ。
最近、実隆は小倉諸氏と親しくしようと、あちこちに贈り物やら挨拶やらをしている。右近大夫のもとへも、以前お鍋が挨拶に行ったではないか。
右近大夫が内心どう思っているかは知らないが、彼も実隆の好意に合わせるように振る舞っている。今日も味のよい山菜でも持ってきたのだろう。
しかし、伝兵衛は懐から綺麗な薄様の文を取り出し、こっそりお鍋に握らせたのだ。
「右近大夫様から預かりました。織田様の奥方からの文だそうです」
「げっ?」
瞬間、お鍋が幽霊でも見るように伝兵衛に視線をやった。
伝兵衛はさりげなく、
「先日、八風峠を無事に越えられたそうです」
と、濃姫がもう山上城にはいないことを伝えた。
「もう一度、姫様に会ってお礼を言いたいと言っていたそうですが、姫様もそう易々とは出歩けませぬものなあ。諦めて、文を残していかれたと」
実隆が小倉諸氏に軟化しているとはいえ、そうそう頻繁にお鍋が彼等と接触することはできない。
濃姫の方からお鍋を訪ねることなど、なおできないから、彼女は諦めて帰ったのだという。
右近大夫は濃姫から文を委ねられ、佐久良城に来たついでに伝兵衛に預けたというわけだ。
「八風峠に案内なさったは、またしても右京亮様だったそうにございます。右京亮様も役目を果たされ、ご無事にお戻りになられた由。織田様の奥方も今頃は無事、尾張にお着きでしょう」
伝兵衛の言葉に、信長の姿が瞼に映る。
お鍋の中に浮かぶその面影は、愛情に溢れた眼差しで、手放しで歓喜している。
(信長があの人にだけ向ける眼差しなのね……)
決して自分に向けられることはない、信長の艶めいた眼差し。お鍋は失恋の実感にまた襲われ、よろめいた。
「姫様!」
伝兵衛が反射的に受け止める。
「少し疲れたみたい。庭を歩き過ぎたわ。これ、ありがとう」
文の礼を言って、お鍋は部屋に戻って行った。その後ろ姿を目で追う伝兵衛は、彼女が案じられてならなかった。
お鍋は部屋に戻っても、しばらく濃姫からの文を開く気になれなかった。
信長の子を産んだ濃姫。信長に愛されている濃姫。
まだちくりと胸が痛むけれど、二人が再会した時のことを想像すると、不思議と妬心は起こらなかった。
一度だけ会った濃姫の、あの時の死相が頭から離れない。
(信長は、生まれたばかりの姫に会えないのよね)
亡くなってしまった信長と濃姫の娘。
きっと二人は嘆き合い、励まし合い、益々愛し合うのであろう。
(それでいいのよ。そうでなくちゃ。私は……)
小倉右京亮に嫁ぐのだ。信長のことは忘れて、右京亮を愛して生きていく。
そう決めた。
(私の情念が姫を殺したのならば、あの人が死なずにすんだこと、あの人が再び信長に愛されることは、私にとっても。そう、天の情けだわ。私をこれ以上鬼女にしないようにと、天が助けてくれた)
姫を殺したことの罪滅ぼしはできないが。せめて、信長と濃姫の幸せを祈らなければならないだろう。
信長の恋を応援しなければと、お鍋は心を整理した。すると、濃姫からの文もすんなり素直に開けるようになる。
文には特に変わったことは書かれていなかった。
お鍋への礼の言葉が連ねられている。また、以前会った時、娘を亡くしたばかりで取り乱していたことを詫びてもいた。
(非礼をお許し下さいだなんて。私のせいで、あなたは娘を失ったのに……)
そして、小倉家の事情に触れ、お鍋に迷惑がかからないか心配だとも書いてあった。だから、何か困ったことがあったら、必ず力になりたいと。
最後に、右京亮と幸せにとあった。
(ええ。必ず右京亮殿を愛し、尽くします。あなたに負けないくらいに)
信長と濃姫の幸せを祈った。
******************************
肥田城は北近江の京極領(浅井領)との境界付近にある。六角家にとっては前線基地、重要な地だったから、その城主・高野瀬氏の裏切りは許せない。
それに、付近の領主達が肥田城に影響され、雪崩れのように浅井方に寝返ってしまうかもしれない。それだけは是が非でも食い止めなければならない。
四月、六角義賢は出陣し、肥田城を取り囲んでいた。
この肥田城の攻撃に、義賢は水攻めという、新しく、また残虐な方法を考えついた。
六角家というのは、同族だった婆沙羅大名・佐々木道誉の血の影響か、先代(定頼)の楽市令など、色々革新的なことを発明する家である。
肥田城は川に囲まれた場所にある。普段は濠の役割を果たし、城を守っている川。
義賢は堤を築いて、それを逆に凶器に変え、宇曽川の水を肥田城に流し込んだのだ。日本初の水攻めである。
城下の民は城に逃げ込んで、これに堪えなければならなかった。高野瀬も降伏せず、しぶとく籠城し続けた。
六角家の家臣達の多くが参戦しており、蒲生家からは定秀が、小倉家は良秀らが出陣していた。
定秀はあらかじめ主君から作戦を聞いていたのだが、彼はこんな奇策は成功するはずがないと嘲笑っていた。堤を築くには、余程の技術が要る。
徐々に増水していく川。肥田城万事休すと思いきや。
五月。大雨の季節である。間もなく六月に入ろうという二十八日のこと、堤が増水に耐えきれず、決壊した。肥田城の中へ貯まった水は、城の外へと流れ出て、周辺一帯を水浸しにした。
定秀の読み通り、技術が伴っていなかったのだ。こうして、水攻めは失敗したのである。
六角は肥田城を落とすことができなかった。
これにより、義賢は求心力を失い、家臣達は益々独立心が強くなった。中には、六角を見限り、浅井につこうかと考え始める気の早い者さえいたのである。
義賢は浅井家への再戦を誓って、いったん兵を引き上げたのであった。
帰城した蒲生定秀は、思い通りに事が運ぶ幸運に、ほくそ笑んだ。
ところで、最近、実隆と小倉一族は親しく交流していたが、定秀は肥田城攻めの陣中で、小倉左近助良秀と急接近していた。
一方、山上城の右近大夫は、鬼の居ぬ間にとて、定秀が肥田城攻めに出陣して留守にしていた時、用水を好き勝手に使っていた。小倉本家と協定のあった用水だ。
右近大夫は表面上は実隆と親しくしていたが、本音はそうではなかったのだ。
実隆など、実家の蒲生がいなければ何もできない洟垂れ小僧と、馬鹿にしていたのである。
しかし、戦から帰ってきた定秀は、それを喜んだ。
「ふふふ。阿呆め。これを待ってたんや」
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籠に沢山の山菜が入っている。その籠を前に、実隆は座っていた。
「山上の右近大夫がご機嫌伺いに来た」
呼び出した於巳に苦笑した。
蒲生定秀が戦から帰ってくると、右近大夫は用水を他の小倉家に譲って使用させた。そして、実隆へは山菜等贈って寄越した。
「鍋はどうしている?」
最近、お鍋は部屋にいることが多く、実隆もあまり顔を合わせていなかった。
「はい。今年中には嫁ぐ身故と、裁縫をして過ごしたり、和歌を詠まれたり。姫君らしいお暮らしぶりです」
跳ねっ返りのお鍋が、ようやく姫らしく淑やかに暮らしているというのに、実隆はかえって心配そうだ。
「たいそう上質で味がよいらしい。これを食べさせてやってくれ」
実隆は右近大夫からもらった山菜の籠を於巳に差し出した。
「かしこまりました」
「ところで、鍋は右京亮に嫁ぐ気になっているのだな?」
「はい」
と、於巳は顔を曇らせる。お鍋の覚悟は信長への思いを捨てることを意味する。
「もともと、年内の予定でございましたから」
実隆抜きで勝手に決められた縁談だ。お鍋の年齢を考え、今年辺りに婚礼と決まっていた。実隆が文句をつければ破談にもなろうが、この縁談について、彼が何事か口にしたことは一度もなかった。ということは、予定通り、今年の内にでも婚礼となるはずなわけで。
「ちと怪しくなってきたな」
しかし、実隆は思案顔でそう言った。
「え?」
「婚礼は延引することになるかもしれぬ」
「何故です?」
実隆はお鍋の恋を知らないはずである。
しかし、彼はお鍋が信長に会ったことや接触を持ったことは知っている。お鍋の様子がおかしくなったのは、思えば信長と出会ってからなのだから、実隆は何か察しているのかもしれない。
(殿は敏いお方──)
於巳は実隆が感づいているのではないかと、そう思う。
だが、実隆の背後には蒲生家がある。定秀がいる。
定秀の意志に関係なく、お鍋の結婚が延期になるとは考えられなかった。
「いよいよお屋形様が、小倉家を処罰遊ばすと?」
「いや、そうではない」
実隆は言った。
「処罰は次のお屋形様がなさるであろうと」
「次?」
「蒲生の父が、お屋形様は近々隠居することになると。若様・四郎様がお継ぎになり、美濃とは同盟することになるであろうと。やれ困ったことよ」
実隆はほとんど自嘲のような笑いを浮かべている。
「それはもしや、大殿様がお屋形様を──?」
「さすがに父一人でお屋形様に隠居を迫ることはできまい。だが、父は隠居はあると見ている。若様がお継ぎになれば、あとは父が思い描く通りにできるであろうよ。若様ならば、操れる」
「そのことと、お鍋様のご結婚と、いったいどんな関係が?」
於巳が尋ねると、実隆は完全に困惑をその顔に浮かべていた。
「おそらく、戦になる」
実隆は目の前の山菜の籠を顎で指した。
右近大夫が今更このようなことをして誤魔化してきても、
「蒲生の父を誤魔化すことは無理だ。父は小倉と戦がしたくてならないのだ。討つ口実が欲しくてならなかった。上の腰の水のことは、父には絶好の口実。今更、右近大夫がすり寄って来ようと、父は討つだろう。右近大夫は戦をするために、上の腰の水を不当に使い続けたわけではないだろうがな」
右近大夫とて蒲生軍が怖い。留守中に、ちょっと用水をいつも以上に使って、我田を豊かにしたかっただけだ。蒲生軍が帰ってくれば、まずかったと、今のような態度なわけである。
しかし、蒲生定秀という男の前には、こんな山菜など無駄なのだ。
「俺や蒲生と右近大夫が戦うとなれば、分家の多くが右近大夫に従うだろう。右京亮がこちらに付く筈もない。そんな状況で鍋と祝言はない」
「確かに、そうでございますね」
於巳は頷かざるを得ない。
「それに、浅井方との戦は、いよいよ本格的になる。南近江だけで対応できるような規模の戦ではない。なれば、小倉も蒲生も必ず出陣することになる。鍋が右京亮に嫁ぎ、俺や蒲生が留守になれば──奥津保が心配だ」
今は実隆に従う奥津保の面々だが、お鍋が嫁いだら、嫁ぎ先の高野と結束しないとも限らない。
留守中、小倉諸家が佐久良城や奥津保を奪うかもしれない。かつて、先代の実光の伊勢出陣中に、蒲生家が奪ったように。
「奥津保は昔から小倉本家の拠点。鍋への忠誠は強い。鍋が嫁がぬうちは、奥津保は本家に忠実、俺も安泰。父がそう言うのさ」
本家領の奥津保とはいえ、定秀は心配していた。
「留守中の心配があるゆえ、浅井との戦が落ち着くまでは、鍋を嫁がせることはできまい」
「……そうですか」
お鍋の恋のためには、これは喜ぶべきことか。於巳にはわからない。
それと、もう一つ気になることがある。
「ところで、お屋形様が隠居なさるというのは?」
「此度の浅井との戦の結果よ」
実隆はうんざりしていた。
六角義賢の敗戦は六角家中に於いて余りに衝撃が大きかった。著しい求心力の低下を招き、これ以上、義賢が当主でい続けることは不可能である。
家臣たちを六角家に繋ぎ止めておくために、けじめをつける必要があった。
義賢は隠居した。家督は嫡男の四郎義弼が継承することになった。
蒲生定秀の睨んだ通りである。いや、望み通りになったのだ。
にわかに六角家の当主となった六角四郎義弼(義治)はまだ若い。能力も父・義賢には及ばない。当主になったばかりで、家臣達とも何らの関係も築けていない。
そのような義弼が主となることを、定秀は望んでいた。そして、ほくそ笑んだ。
若く、阿保な義弼ならば、定秀の好きなように操れる。
定秀は何かにつけて義弼を訪ね、ご機嫌とりに勤しんだ。そして、すっかり信頼を勝ち取ると、こんなことを口にしたのである。
「先頃、尾張の織田が密かに上洛しました。織田は浅井が占拠している場所を通り、滞在したのです。織田は浅井と親しいのです。その織田を八風越に案内したのが小倉殿。小倉殿のもとに、もしや浅井から誘いが来てはいますまいか?浅井に同調し、織田を八風越に案内したのやもしれませぬ。その直後ですぞ、浅井がお屋形様へ謀反したのは」
新当主・四郎義弼は、北近江を浅井に奪われた都合上、美濃とは同盟しなければならないと思っていた。
もともと義弼はそう思っていたが、先代の義賢(承禎)は美濃の斎藤家との同盟はあり得ないという考えで、そこは父子で意見が食い違っている。しかし、義弼はいよいよ美濃との同盟は現実的に考えなくてはならないと信じた。
「織田の八風越えの話は聞いた。敵対する美濃をこっそり通ってきたが、美濃衆に気付かれ、帰り道には美濃を通れなくなったからだとか」
「美濃の斎藤は、織田を八風越えに案内したこと、怒るでしょうな。美濃と同盟なさるなら、そこはきっちりさせておきませぬと。それに、浅井をそそのかしたのは織田。その織田を道案内するとは」
定秀は小倉討伐の許可を得たかった。さらにこう付け加えた。
「山上は用水を不当に使っており、市原では困っています。このままでは──」
用水を巡って争いになることは避けられそうにないと言った。
「それは仕方ないことだのう」
市原側が山上側を攻撃しても、やむを得ないと義弼は言った。本家の分家への攻撃を許可したことになる。
定秀はしめたと思った。
「ところで、浅井はなかなか侮れません。いずれは討ち果たすことでありましょうが、今日明日というわけにはいきません。ですから、しばらくの間、六角家の所領は狭い状態が続くと覚悟せねばならないのです。されど、浅井と戦う上でも、それではまずうございます。兵を得るためにも養うためにも、版図を拡張させねば。ご先代様(義賢)に引き続き、伊勢を狙われませ」
「伊勢か。以前は小倉に任せたが」
「和をもってすれば、北伊勢はお屋形様のものとなりましょう」
「なに、戦なしでか?」
「はあ、但し、小倉家は先の戦で神戸家に憎悪されておりましょう。小倉家にお任せになると、ちと難しいかと」
「しからば、そちに任せる。蒲生、如何する?」
「神戸家の当主がにわかに死にましてございます。新しい当主は寺育ちにて、妻がおりませねば──」
義弼は膝を打った。
「しからば、そちの娘を嫁がせよ」
「ははっ!では」
定秀はこうして、まんまと伊勢攻略の任務までをもせしめたのであった。
定秀は北伊勢の関家、神戸家に娘を嫁がせ、両家を六角方に引き込むことになるのである。娘には許嫁がいたのにもかかわらず、それを破談にして──。
関家の当主は盛信。
神戸家の当主は元僧侶の具盛。
まさかこれが、尾張の織田信長と将来繋がることになろうとは、夢にも思うまい。
定秀も。信長も。
いや、信長はすでに感じていたかもしれない。
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