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正声

十三拍・広陵散(弐)

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 十五日のこと。

 宰相中将殿が帰宅すると、清花の姫君の女房の中務がやって来て、

「姫君が何としても、兄君にお会いになりたいとの御事にございます」

と言う。中務の目の中にただならぬ様子が窺えたが、

「今はそれどころではない。数日待てと伝えよ」

と答えた。

 だが、中務は強く首を横に振る。

「なりませぬ。是が非でも今すぐ姫君をお訪ね下さいませ。どうしても今日でなければならないのだと、姫君にきつく仰せつかっております。曲げてもいらして下さい。何卒、何卒!」

「ええい、我が儘な。今はそれどころではないと言うに!」

 宰相中将殿はそう言い捨てると、珍しく床板を踏み鳴らして、立ち去ってしまった。

 陽気な彼も、今日は苛立っていた。

 無実の友が、明後日には安房へ流されるのだから。

 それを阻止する為に、中将殿がどれほど頑張ったことか。彼は、我が家の事情も無視して頑張ったのだ。

 今上の三の宮とその御母を預かっている。そして、中将殿の母は四辻殿の姪。

 下手に騒げば、中将殿も、父・大納言殿も、いや、何より三の宮が危険な目に遭う。

 大納言殿は、何としても三の宮を守らなければならないと、悔し涙を流しながらも、烏丸左大臣の横暴に堪えていた。けれど、若い中将殿には、友を切り捨ててでも宮への忠義を貫くということができない。左大臣に異を唱えていたのだ。

 精一杯彼は頑張ったのに。

 烏丸左大臣は余りに巨人であった。中将殿は無力だ。

 とうとう友の流罪を阻止できなかった。

 明後日いよいよ、三位殿は旅立つ。中将殿はもう正気を失っていた。

 自分の居間で、とりあえず着替える。女房達に囲まれて、直衣の袖に腕を通していると、女童がやって来て、先程の中務が来ているという。

「いったい何だというのかっ!」

 つい声を荒げると、周囲の女房達はびくっと肩を縮め、女童は怖くて、

「もっ申し訳ありません!」

と逃げ出してしまった。

 すると、その女童と入れ替わりに、今にも泣き出しそうな顔をした中務がやって来た。

「対面を許した覚えはない!」

「申し訳ありませぬ!ただ、どうしても、これを兄君にお渡しせよと姫君が……」

 中務は大事に袖の中に抱きしめていた琴一張を、そっと床に置いた。

 さすがの中将殿も、ついそれをまじまじと見てしまった。

 袋にも入っていない剥き出しのそれは、名器中の名器・威神だったからだ。

「威神ではないか。これをどうした?」

 思わずそう尋ねていた。

「兄君にお渡しせよと。姫君には、それを手放すおつもりです」

「何だと?この忙しい時に、気の違った妹の相手なぞ……」

 威神は天下に一、二を争う名器。唐土より伝えられた、南唐派の秘宝ではないか。

「それを、三位殿にお渡し下さいとのお言伝にございます」

「は!?」

 初めて中将殿は、事の重大さに気付いた。

「まさか、妹が私に今会いたいというのは、このことか?」

 中将殿は威神を抱き上げると、血相変えて、姫君のもとへ飛んで行ったのだった。

 中将殿は勘のよい男だ。殊に、嫌なことは恐ろしく中る。

 今もとんでもないことを直感した。

 姫君のもとに来ると、そこは異様な光景だった。その様子に中将殿は唖然とした。

 女房達は皆外に出されていて、上局は空。御簾は全て巻き上げられ、几帳は片付けられていて、中が丸見えである。屏風を背に座っている姫君の美貌が、外からはっきり見えていた。

「これはどうしたことだ!」

 簀子に居並んで、おろおろするばかりの女房達に訊いた。

 だが、誰も答えない。

 庭にも廊にも、雑色やら下男やらが溢れている。姫君を見られてしまったら、何とする。

「とにかく御簾を下ろしなさい」

 女房達に命じながら、自分でもそこら辺の御簾に手をかけた。

「おやめ下さい!」

 ふいに中の姫君がぴしゃりと言った。

「何故です?」

 こんな妹は初めてだ。先程までとはまるで別人のように、中将殿はびくびくしながら、下ろしかけた御簾の手を止めた。

「兄君に内密の話があります。人払いしてお待ち申し上げておりました」

「だからと言って、御簾を上げることはないでしょう。几帳まで片付けて。姿を見られたらどうする!」

「せっかく人払いをしても……几帳などを置いておいたら、その陰に誰かが隠れていても、気付かないではありませんか」

「……」

 さすがに二の句が継げない。

 そんなに疑っていては、床も天井も剥がさなければならないではないか。

 中将殿は一呼吸おいてから、

「とにかく、御簾は下ろしなさい」

と強く言って、勝手にそれを始めてしまった。

 女房達は中将殿に従うべきか、姫君に従うべきか判断できず、なおおろおろしている。

 中将殿は一人で御簾を下ろしてしまった。中の姫君の姿が、外から完全に見えなくなったのを確認すると、威神を左腕に抱えながら姫君のすぐ前まで進む。

 姫君は扇に顔を隠して、久々に兄を間近に見た。

 中将殿は予め用意してあった円座に座り、威神を静かに下に置いた。

「誰もいませんから、安心してお話しなさい。話とは、この威神のことですね。この兄も知りたい、どうしてこれを三位殿に渡せというのか」

「……明日、兄君が三位殿に会いに行くと聞いたからです」

「どうして。威神を三位殿に差し上げるのです?」

 その理由は、さっき直感でわかった気がする。

「……」

 姫君は、誰にも聞かせられないからと人払いをしておきながら、やはり躊躇っている。

 扇の陰から見え隠れする姫君の顔は、特別異常はない気がする。

 しかし、御簾も几帳も払いのけるという異常をやってのけるのは、やはり平静ではないからだろう。

 いよいよ、勘のよい男は己の嫌な勘が正しかったと知る。

「己の心を内に秘めて、誰にも異変を気取られずに、平静を装い続けることは難しいことです。あれだけの沢山の女房に囲まれながら、今までよく辛抱なさいましたね」

「えっ?」

 姫君は顔を上げ、中将殿の両目をまじまじと見つめた。

「私は兄故、他の者がわからなくとも、私にだけはわかる。私にだけ打ち明けようとしたのですね。だから、人払いしたわけだ」

「……私。そう、私……」

「待った!!」

 いきなりの大声で、姫君はびくっと言葉を呑み込んだ。

 中将殿は右手を前に翳して制止したまま、

「それはこれからも、おもとの胸の中だけに秘めておくのです。誰にも悟られてはならない。私も打ち明けられたくない。この威神はここに置いておきます。よいですね」

と言った。

 姫君は顔を俯かせ、それを力なく横に振った。

 中将殿は右手を膝に戻す。

「姫君、威神はおもとの愛用の琴だが、おもとだけの物ではありませんよ。それは姫君が誰よりもわかっていることでしょう」

 南唐派の宝。それを呉楚派の三位殿に贈ってしまうなぞ━━。いや、姫君最愛の琴たがらこそ、三位殿に贈りたいのだ。わかる、それ程までに三位殿を━━。

「……私とて、自分の立場も、父君のこともわかっております。だから、秘密は秘密のままに、こうして堪えているのに……せめて、せめて琴くらい三位殿に差し上げてもよいでしょう?何も聞きたくないのでしたら、何も聞かずに威神を三位殿に渡して下さい!」

 言っているうちに、死ぬ思いで抑えてきた感情が溢れ出してきた。姫君は俯かせていた顔を真っ直ぐ上げている。兄に縋る瞳をしていた。

 姫君の思いがわかるから、中将殿も困ってしまう。

「このままでは私、父君にご迷惑をかけてしまいそうです。堪えられませぬ!家を抜け出して、安房へ!!安房へ……」

 涙が滲む。

 三位殿をどれほど思っているか。こんなに恋しい人なのに。

 姫君は后がねだから、許されない恋だから……だから、はじめから片恋でも構わないと諦めていた。両親に迷惑をかけてまで、自分勝手に生きたいとは思わない。

 でも、それでも募る思いを堪えるのは辛かったのに。平生でさえそうなのに。

 恋しい人が流罪になるなぞ、どうして平静でいられよう。

「明日、せめて一目だけでもお目に掛かれたら……女房に化けたら、兄君について行って……」

「やめいっ!!」

 中将殿は今まで見たこともないような、悪鬼のような顔になり、ばっと立ち上がった。

「自分勝手に生きられるのは庶民だけ!我等には富貴を与えられた分、それは与えられていない!姫君の勝手は断じて許されない!」

 外にまで聞こえるのではないかという程、激情を声にして叫び、叫んだかと思うと、ずいと姫君に近づき、そのままむんずとその腕を掴んだ。

「……!」

 余りのことに、姫君は声にならない。

 中将殿は鬼の形相のまま、姫君の腕を引っ張って行く。

 姫君はただ引きずられて行く。

 ばんっと塗籠の戸を開けた。

 そして、姫君の背をどんっと押す。

 姫君は塗籠の中に転び入った。

 中将殿はまだ起き上がれない姫君をぎゅうぎゅうと中に押し込め、衣の裾まで中に入れると、姫君が身を捩ったのと同時に戸を閉めた。

 姫君は仰天して、よろめきながらも、どうにか身を起こし、戸に取り縋る。

 ばんばん戸を叩く。しかし、戸は開かない。

 中将殿は外から鉤をかけた。

「兄君!兄君!」

「そこに入っていなさい!」

「嫌!出して!」

「三位殿に会いに行ったりしたら、そんなはしたないことをしたら、三位殿に嫌われる!おとなしくしているのです!」

 中将殿はそう言うと、姫君を閉じ込めたまま、戸の前を離れた。

 屏風の前に戻ると、威神を抱き上げ、御簾の外まで出てくる。

「中務!姫君は急な重い物忌みだ。物の怪もいる。姫君は塗籠の中に入れておいた。三日間、くれぐれも姫君を外に出してはならぬ。姫君が出たいと言っても、それは物の怪が言わせているのだ。絶対出してはならぬ!よいな!戸の前で見張っておれ!!」

 中務にそう命じると、戸惑う彼女に、

「よいな!この家のためぞ!私の言うことを守らないことは不忠の極みだ!」

と乱暴に言い放ち、去って行った。
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