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正声

十二拍・發怒(上)

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 宮中での変事を、世間はまるで知らない。

 四辻内大臣殿や風香中納言殿も、自身に危険が迫っていることなど、考えも及ばなかった。法真でさえ、その神通力をもってしても━━。

 まして、無関係の人にどうして察することなどできようか。

 六条大納言家はいつもと変わらず、平和なものだった。

 烏丸左大臣が帝に詰め寄っていた、丁度その時刻。

 清花の姫君は、凍った白い月を見つめていた。その思いは三位殿に馳せられている。

 琴問答を思い出す。

 あの日、二人は確かに琴の音の中で語らった。

 姫君は、その思いを伝えた。

 姫君は、胸の疼きを白い手で押さえる。今のこの思いも、かの人に伝わって欲しいのに。

「三位殿!」

 苦しみながらその名を口にした。その瞬間だった。

「三位殿?」

 姫君は霊的な何かを感知した。遙か遠くだが、かの人の意志を感じる。

「……また聴こえる。あの方の琴の音が……」

 三位殿は、ちょうど二張の琴を前にして座っていたところだった。

 一張は鳳勢という銘の曹倫以来の名器。曹倫、行実と伝わり、行実亡き後は、伊定の手には渡らず、行実から直接政任に伝えられた。その後、広仲から三位殿に伝えられたものである。

 この鳳勢を前に置き、もう一方の愛用の秘琴をつま弾いていると、突然清花の姫君のことを思った。

 そして、何故か突然、

「この秘琴をかの姫君に渡したい!」

と思った。

 思いついたら、どうにも行動せずにはいられない。何故か、そうせずにはいられなくて、無闇に出掛けようとした。

「は!?こんな夜更けに、六条大納言殿の御邸?」

 供を言いつけられた時憲は、わけもわからず。

「殿。いくら何でも、和歌(うた)も差し上げずに、いきなり押しかけるなぞ、こんな夜更けに非礼甚だしいでしょう」

「夜更けだからよいのではないのか?」

 三位殿は冗談のように言って笑うのだ。

「え?ならば姫君に歌を差し上げてからでないと。いきなり盗みに行くなんて、東夷のなせる……」

「何を言っているのだ。無礼は承知。それでも参らずにはいられぬ。この秘琴を姫君に差し上げたい」

「琴?」

 益々時憲は三位殿の酔狂さに困惑した。

「今でなくともよいではありませんか。夜が明けたら使いを遣わして、姫君からの御返しを給わって、それからでも宜しいでしょう?」

「いいや、今だ」

「……」

 いよいよ三位殿にはついてゆけなくなった。

 三位殿は琴しかない奇人なのだ。琴以外、三位殿には存在しないのだ。世の人は、政任を変だと言うが、三位殿はそれ以上の怪人だ。

 時憲はわけもわからぬまま、従者どもの重たい眼をこじ開け、供を命じた。

 哀れな牛飼童(うしかいわらわ)は、歩きながら寝てしまい、幾度か牛に踏まれそうになった。

 三位殿は牛車の中で、秘琴を大事にその袖に抱き、幾つかの譜を懐に収めて、清花の姫君を思った。

 やはり仙女だ。

 ふと見かけたのは、もう一年も前のことだが、あの姿、今でもくっきり思い描くことができる。

 月の精とて我を恥じて飛び去るだろう。

 代々受け継がれてきた洛神図の女神より、はるかに優れて美しい人だ。

 そしてその人は、天と一つ、地と一つ、神と一つ、風と香りと木々と一つになった楽を奏でる。

 宇宙にとけ込む神秘の楽。

 まさしく、政任がつけた仙女という呼び名の通り。

 琴を弾くために生まれた人。琴で、全ての人の心を救い、自然を慰めるために、天が森羅万象に与え給うた存在なのだろう。

「姫君よ。どうかこの秘琴を受け取って下さい」

 この琴には秋声という銘がある。秘琴である故は、蓬莱山の玉をはめ込んで徽としたからだといわれている。

 五条の刀自を仲介に、宋の商人より入手した珍品だ。

 この琴の玲瓏たる響きは、行実以来のどの名器よりも秀でているように思える。

 三位殿の琴線に最もよく響いた楽器。三位殿と最も相性のよい、彼の最愛の品だ。

 この三位殿の心とも言える秋声を、姫君に献じる━━。

「仙女……」

 瞳を閉じて、秋声との別離を惜しむのか、そっとこれを抱いた時。

「待て待て待ていっ!」

 ばらばらと、多勢の軍にその車は取り囲まれてしまった。

「無礼者!こちらを正三位周雅卿と知っての狼藉かっ!」

 外の時憲や従者どもが怒鳴りつけるが、

「おう!三位を捕らえに来たのよ!」

と、逆に侍どもが凄んでみせる。

 検非違使ではない。衛門府か何かの役人輩だ。

「謀叛人、三位周雅をひっ捕らえろ!」

 車の御簾が引き斬られた。

 集団で三位殿を引きずり出そうとする。それを抜刀して、時憲達が抵抗する。

「鬱陶しい奴らだ。そ奴らにも縄をかけてしまえ!」

 多勢に無勢。斬り合いになる間もなく、あっさり時憲達も捕らえられてしまった。

 三位殿は何かの間違いだろうと思った。だが、名門の若公達で、日頃真面目な知人の兵衛佐(ひょうえのすけ)の姿を認めると、騒いだりせず、

「わかりました。お疑いとあれば、弁解して必ずや誤解を解きましょう。今は静かに従いまする。従者どもには手荒なことはしないで下さい」

と、ただ訴えた。

 兵衛佐はずっと口惜しそうな、何かやるせないといった表情をしていたが、ともかく残念そうに、

「畏まりました。あなたのその潔さだけが救いです。あなたが謀叛を企むなど、間違いであって欲しいです」

と言い、屈強な武人どもへ、

「やよ、手荒くすな。そっと、そっとや」

と命じた。

 三位殿は二人の役人に両腕を抱えられながら、自ら車を降りた。

「謀叛とは何のことです?」

 兵衛佐に問うた。

 兵衛佐はとても辛そうな眼をした。

「とぼけるのですか……」

 自ら三位殿に縄をかける。ぎりぎりと、知らず力が込められていた。

「主上を呪詛した大罪により、あなたを捕らえます」

「呪詛っ!?」

 思わず三位殿は叫んだ。

「何の話です!そんなことはしていない!私がする筈ない!」

「あなたを信じたいが……」

 兵衛佐は赤い眼をして睨んだ。ぎりっと縄を強く縛り上げ、思わず三位殿が顔をしかめるのを憎そうに見る。

「弁解ならば、後でいくらでもなさるとよい。今は私には、あなたをこうして捕らえ、獄に繋ぐことしかできない!」

 そのまま眼を背けた。

「引っ立てい!!」

 大声でそう言うのを、

「まっ待って!」

と、三位殿がその背へ叫ぶ。

「何も聞きませんっ!」

 兵衛佐は背を向けたままの姿態で怒鳴った。

「そうではなくて」

 三位殿は武人どもの手を振り払うようにしながら、

「琴を、琴を!」

と必死に訴える。

「琴?」

 やっと兵衛佐が振り返った。

「琴も、共に……」

と牛車の中を見つめる。

 主と離れて、寂しそうに、ぽつんと琴が一張居た。

 兵衛佐は言葉を失った。

 こんな時に琴とは。

 しかし、すぐに兵衛佐は、手ずから車の中に残されていた三位殿の宝物を、最愛の琴・秋声を、琴譜数巻と共に抱きかかえた。

「あなたに、それを、託す……」

 三位殿は必死に眼で訴えた。

「わかりました……」

 兵衛佐の眼には涙が滲んでいた。

 この夜、捕らえられたのは、勿論三位殿だけではなかった。

 四辻内大臣、嫡子・中納言。娘婿・大理卿。

 兄・風香中納言。その子息・三位殿、少将忠兼。

 彼等四辻内大臣の近親者に加え、新院の別当以下、院司二十四名。備中前司らを含む八名の朝臣。

 日雲僧都ら内大臣の縁者の僧三名。

 縦目の法真ら験力ある僧五名。

 他に、山門や南都にいたのを引きずり出された僧四人。山門の永堯(ようぎょう)、聖海(しょうかい)、東大寺の頼阿(らいあ)らである。

 彼等が捕らえられたのは、大理卿の北ノ方(四辻殿の中の君)の安産を祈願すると称して、実際には、今上と東宮を呪詛し、新院の六の宮を新たな東宮に据えるため、謀叛を企てたという理由から。

 首謀者は四辻殿と風香殿、法真の三名。

 検非違使は、別当(大理卿)が捕らえられており、尚且つこの人は兵衛督(ひょうえのかみ)をも兼帯していたから、今回の事件の調査は難しい。

「厄介な。大理卿は捕らえられ、時憲判官は解官。兵衛府も大変だろうが、検非違使は……」

 検非違使の役人達は、それでなくとも最近の市井の乱れに、毎日奮闘しているのに、この未曽有の事件の為についに寝る時間がなくなってしまった。それに、別当が捕らえられたのだから、士気にも障る。

 朝廷はすぐに、特別に補任(ぶにん)を行った。

 検非違使の別当には、烏丸左大臣の子息・俊久(としひさ)卿が任じられた。

 俊久卿の厳しさは天下に有名である。

 直衣に皺一つ見せたことはなく、いつも隙のない眼で辺りを睨め回している人。

 どんな拷問が行われるのだろう。きっと世の人は、罪人達を気の毒に思うに違いない。
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