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正声

十拍・知音(壱)

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 時有は、業経は使えると思っていた。戦略として。今後、法化党との交渉に役立ってくれるだろう。ところが、都の烏丸左大臣殿は、

「かの羽林の従兄弟だと?さような奴、殺してしまえ!」

と言う。

 烏丸殿にそう言われては仕方がない。

 時有は業経を処刑することにした。

「まあ、羽林殿の姫君もいることだし。木工助を殺しても、さほどな損失ではあるまい」

 処刑は八月下旬。

 牧邸から程遠からぬ河原で。

「最後に望みはござらぬか?」

 そう問われて業経は、

「姫君に会わせ給え」

と願った。

 処刑場にしょっ引かれて。業経は時有の家臣達の前で斬られる。

 時有が中央の上座、その傍らが信時。そして、家臣達が左右にずらりと並んで居る。

 業経は白い狩衣姿で、河原の小石の上に座らされた。

 そこに業経の望んだもの━━貴姫君が連れてこられる。

 お、と家臣達はどよめいた。どの眼も姫君に驚いている。

 時有さえも激しい動揺を見せた。

 音に聞く貴姫君とは、これ程までに美しい人だったのか。そう思った。

 儚げな彼女は、狼虎の群に放り込まれ、気絶しないだろうか。

 一人、信時だけは案じていた。

 だが、やはり彼女もあの希姫君の妹である。多少とはいえ、武芸の心得さえあるこの姫は、やはり都の姫君達とは違っていた。男どもに顔を見られようと、それが敵であろうと、少しも臆する様子はない。

「木工助」

 しっかりとした声だった。

 姫は業経の傍らに座った。

 業経は姫を見つめ、そして時有の方へ向き直った。何かを訴えるような眼であった。

「ご案じ召さるな。女人に手は出さぬ」

 時有はそう言った。

 「何卒宜しく」と業経が言おうと口を開きかけた時。

「いいえ。私も殺して下さい」

 静かだが、よく透る声で姫が言った。

「何と仰せか、姫君!」

 業経がたしなめる。

 だが、姫は聞き分けない。

「いいえ。生きていては兄に迷惑がかかります。故に、自害しようと致しました。けれど、許されなかった。誇りなぞこの私には必要ないということでしょう。恥をかいて苦しい思いです。自害する価値さえない、処刑されるべき身だと、そういう意味で捕らえられたのだと思っておりました。けれど、処刑さえされず。生き恥をさらせと?そのうち人質として利用され、兄に迷惑をかけよと?」

 この姫を死なすのは、あまりに惜しい。誰もがそう思っていた。

 その時、

「兄上」

と信時が時有を呼んだ。

 彼は貴姫君を哀れみ、

「あれほど死にたがっているのですから、望み通り殺して差し上げましょう」

と言う。

 時有は目を剥いた。だが、

「何を仰せらるるか!」

と叫んだのは、俊幸だった。

「殿!羽林殿の姫君を断じて殺してはなりませぬ!」

「当たり前だ。姫君は殺さぬ」

 時有は断言した。家臣一同に安堵の色が広がった。

 だが、信時はいたたまれない。

「しかし……」

 言いかけて、けれど彼は口をつぐんだ。気の毒そうに姫を見つめる。

 そんな彼等を見て、業経は安心したように、二度ばかり頷いた。そして、もう一度姫を見つめる。

「生きるのです。どんなことがあっても、どんなことをしてでも。諦めてはなりませぬ。死を望むことは、諦めを意味します。生きていれば、兄上、姉上のご迷惑になるのではない!必ず役に立つ筈です」

「いや」

 姫の両眼から、玉のような涙が幾つも零れ落ちる。

「生きて下さい。生きていれば、いつかきっと、いや必ず、兄上、姉上に会えます」

 業経は瞳に力を込めた。それは重臣のものではなく、姫の身内の瞳であった。

 それから業経は時有の方に向き直り、覚悟の表情で大きく一つ頷いた。

 時有はそれを見て、斬首人に合図をした。

 斬首人が業経の背後に進む。

 その時、ばっと立ち上がり、

「何をしておる、早く姫君を向こうへ連れて行かぬか!何故、かような残酷なところを見せるのかっ!!」

と、信時が全身に怒りをたぎらせ、大声で叱りつけた。慌てて雑色どもが姫を立たせる。

「いやっ!私も殺して!」

 もがいて姫は暴れた。それを三人の雑色が抑えつけて、無理矢理引っ張って行く。

 姫はなおももがき悶えて叫んだ。

「木工助!」

 その声もやがて遠ざかって行き、

「私も殺して下さい!」

と、彼方で聞こえるのが最後となると、徐に斬首は決行された。




 都。

 八月の末から、清花(さやはな)の姫君は嵯峨の山荘にいた。

 今年も仲秋節は六条西洞院第で過ごした姫君だったが、重陽節は嵯峨の中でひっそり迎えたいと考えて、八月末から九月末まで、こちらで過ごすことにしたのだった。

 嵯峨の秋を楽しむ女房達に対して、姫君は専ら琴堂籠もりな日々であった。だが、それでも時々は庭を眺めたり、それなりに菊花の匂いを愛でてもいたのである。

 姫君はこの頃はすっかり健康を取り戻していた。

 去年の初冬。隣の破れ草庵で出会った琵琶の名手に恋をし、所謂恋患いというものになった。

 だが、年暮れて、春訪れる頃までには心も落ち着いて、患いは癒えたのである。

 恋の心に変わりはない。今でも、いや、今はなお一層恋しい。だが、心の整理がつけられるようになっていて、平静でいられる。今は健やかな恋心である。

 外聞もある事なので、姫君は誰にも恋をしたことを打ち明けていない。

 故に、姫君の恋に気づいたのは、今は行方不明の乳母子・安友と、女房の讃岐だけであった。

 讃岐は大変口が堅く、何よりの忠臣ではあったが、一人で姫君の恋を解決しなくてはならないことの重大さに苦しんでいた。何度も乳母の才外記に相談しようと思った。その気持ちを抑えて、何とか現在まで一人で頑張っているのである。

 だが、姫君は讃岐と二人きりになった時に言った。

「平気です。このままの状態でも、周囲に悟られず、平然と生きていける自信があります。かの君がこの世にいらせられるだけで、私は幸せですから。この恋を胸に秘めて生きていけます」

 姫君は后がねだし、恋をしていると他人に知られては、両親に迷惑がかかる。

 讃岐も大変だろう。彼女への気遣いなのに違いない。

 姫君は讃岐を安心させるためにそう言ったのだが、自身の心を整理する必要性もあった。

 かの人に恥ずかしくない人間でありたい。

 その思いが強い。かの人に恥ずかしくない、誇れる琴人になろう。

 かの人への恋心さえ忘れるほど琴に打ち込み、優れた名手になろう。

 それが姫君の日々の思いである。

 九月八日のこと。

 菊の被(き)せ綿をした。これにおりた露で身体を拭うと、長寿を得られると言われている。

 そして、迎えた翌九月九日、重陽節。

 菊の被せ綿の白露で身体を拭った。

 姫君ばかりでなく、女房達も皆この綿で拭い、健康と長寿を願ったのだった。

 この山荘に住む赤松子は、姫君の亡き祖父君・洞院中納言殿の乳父だが、老いてなお黒い髪が生え、つやつやとした顔の色も鮮やかな不老の人。やはり菊の綿で顔を拭いているので、皆微笑ましく思って、囁き合った。

「常若丸(とこわかまる)といったそうですよ、童名は」

 才外記が言うと、女房達は皆笑った。

「紅顔が菊の雫に洗われて、眩しいこと」

 中務(なかつかさ)が赤松子に言った。老人ははにかんだように笑った。

 その晩は宮中では菊の宴が行われるのである。殿上、人々、杯に菊花を浮かべて飲み交わす。

 この山荘でも菊酒は交わされたが、女ばかりである。そう杯を重ねて過ごすこともない。菊合わせをして遊んでいた。

 女房達は左右に分かれて、菊花とそれに歌をつけて出す。

 判者は才外記。彼女は大歌人・法眼実宴(ほうげんじつえん)の弟子である。

 出詠者として、幼い佐保姫と竜田姫の姉妹も参加し、同じ組に番えられ、姉妹で優劣を競った。この姉妹は三持。

 中務と兵衛(ひょうえ)という二大才女が、共に番えられたが、中務の一勝二持、つまり兵衛の一負二持という結果だった。やはり歌の得意な中務には敵わぬと、兵衛もその結果に納得していた。

 重陽節はそんなことをして遊んでいたが、後(のち)の月、すなわち数日後の九月十三日の晩は、観月するべき日である。

 女房達は当然観嫦娥(みづき)殿に集まっていたが、赤松子が雑色(ぞうしき)どもに弱水(じゃくすい・池)に龍頭鷁首(りょうどうげきしゅ)の舟を浮かべさせ、童どもに装いさせて楽など奏でさせたので、女房達は、それを見るべきか月を見るべきか、迷ってしまうのであった。

 こんな時に、才外記の子の安友がいないのは寂しいものに思われたが、出て行った不埒者を惜しんでも仕様がないことである。

 姫君は女房達と共にはいず、興をそそられたとて、青要殿(せいようどの・西の対)で、女房どもの嬌声を他所に、琴を弾いて過ごしていた。

 讃岐は、いつぞやの不覚を二度ととるまいと、恋しい美酒(うまざけ)も遠ざけて、一人、青要殿の廂の隅に控え、姫君の琴に聴き入っていた。

 今宵の琴は威神銘の漢琴。

 曲は『ケイ康四弄』の「長清」と「短清」。

 それから、さらに興が涌いてきて、碣石調(けっせきちょう)『幽蘭』を弾いていた。

 北の谷はこの曲に因んで、姫君が「幽蘭の谷」とか、「猗蘭の谷」と呼んでいたものだが、その谷にまで響きが届くかと思われる程、今宵の空気は澄んで冴えていた。

 この『幽蘭』は他の曲とは異なった、独特の雰囲気を持っている。

 清角(角の一律上)、変徴(へんち・徴の一律下)、変宮(宮の一律下)を多用している。故に様々な響きが混じり合って、神秘的な、それでいて豊かな色彩を放つのだ。他のどの曲とも旋律の雰囲気が違う。

 撮の手(平行八度、又は平行五度)があるところが、また変わっていて、より神秘さを増していた。

 その撮の手は曲尾の辺りにあるのだが、そこに至った時、あらぬ方からも撮の手が響いてきた。

 しばらく姫君は気づかなかったが、明らかに、姫君の手元ではない遙か遠くからも聞えてくる。

 山の岩に木霊しているのか。

 訝っているうちに曲は終わってしまった。

 と、すぐに『高山』が聞えてくる。

「え、誰?」

 巧みな響きの美しさ。琴の音は小さいのに、空気を突き抜けて、確かにここまで届く。

 あまりに心掻き乱される。魅惑的な演奏。姫君は感動した。

「ああ、これは。三位殿。韶徳三位殿。間違いないわ」

 この琴の音の主は三位殿の筈である。

 幼い頃、何度か耳にして胸が疼いた思い出がある。こんなに才能がある人がいるのかと、感嘆したものだ。

 三位殿とは呉楚派の政任の同門で、幼少の頃、たまたまその演奏を耳にしたことも幾度かはあったのだ。会った事も話した事もなかったが、その音色を遠くに聴いて、この世で最も美しい魂の持ち主に違いないと思い、憧れ、尊敬を覚えた。

 政任の逐電後、三位殿の演奏を耳にする機会はなくなってしまったが、何年経っても忘れはしない。

 今、久々に聴いたが、以前よりもさらに技術は上がり、さらにそれにより表現力も巧みになったし、音色も変わった。天稟がさらに洗練された。だが、彼の持っている本質は変わっていない。やはり、三位殿の琴とわかる。

「ああ、さらに素晴らしくなられて」

 三位殿が隣の草庵に来ている。

 姫君の胸は高鳴った。

 この一年、ずっと恋い焦がれていた三位殿が、すぐそこにいる。姫君に恋という感情を初めて教えた人が。

 姫君は、今三位殿がそこにいる偶然に感謝した。三位殿の来訪時に、自分も居合わせた、その偶然を用意してくれた天に━━。

 そして、三位殿は姫君の演奏に合わせてくれた。彼は感じ入ってくれたに違いない。姫君の存在を感じて、嬉しくて……

「この身はここに」

 三位殿の琴はそう言っているように聞こえる。

「姫君の琴は、この山のように深く豊か。この山の気のようにやわらかく、そして清々しい」

 三位殿の弾く『高山』はそう語りかけている。

 この曲を作ったのは伯牙である。伯牙が高い山を思ってこの曲を弾くと、それを聴いていた鍾子期には、それが高い山を表していることがわかったという。そして、伯牙が流れる川の水を思って弾くと、鍾子期にはそれとわかったという。それが『流水』という曲である。

 この伯牙と鍾子期の知音の友情とも、趣を異にする三位殿と姫君である。

 『高山』と『流水』は、唐代に二つに分かれたが、もとは一つである。

 三位殿は『高山』を弾き終えると、そのまま『流水』を弾く。

 姫君も『流水』を弾いた。知らず、合奏になっている。

 水の流れを表現した超絶技巧、難曲中の難曲。だが、二人の演奏は乱れることはない。

 姫君は邸の青要殿。

 三位殿は隣の庵。

 距離はある。だが、二人の息はぴったり合い、幽かに聴こえる互いの音色を感じながら、感ずるところも同じ、気持ちの持って行き方も同じ━━一体化していた。

 二所から聴こえる『流水』は不思議に共鳴し合い、神奇の輝きを山中に放っている。

 山中と音は一つに溶け込み。空気と一つになり。弾く人もそれに溶け込み。━━彼もない。弾く人もない。

 それは大楽の楽というものだろうか。

 三位殿と姫君と琴と音と曲と、全てが山に融合していた。

 『流水』の後は、姫君が『水仙操』を弾いた。

 三位殿はじっと聴いていたが、姫君の彼への想いは通じただろうか。

 やがて、三位殿からの返事があった。

 それは、聴いたこともない曲であった。即興で三位殿が作ったものであるらしい。

 野辺一面に、白い可憐な花々が爽やかな涼風に吹かれ、揺れる様を思わせる。そこへ透明の水の精が現れ、風の中にとける。

 いつぞやの夢の楽園の女神。

「姫君です」

 琴音が三位殿の言葉となって、届く。

 後の月傾く秋の嵯峨。菊花の薫風が庵の方より吹いてきて、姫君の身をくるみ。遠くで鹿の声が響いて、琴音に溶けた。
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