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正声

三拍・恋ひ死なむ(上)

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 安友が思考をぐちゃぐちゃにしていた頃、姫君は、有明の月光届かぬ邸の奥深くで、寝苦しさに身悶えしていた。

 几帳を隔てた向こう側の上局には、女房達が群れて寝入っている。誰も姫君が起きていることに気づいていないようだ。

 熱が出ているらしい。顔を中心に、体じゅうが火照っている。耳が熱すぎて、とても苦しい。

 昼間からずっとそうだったが、横になって衾を被いていると、余計にひどくなる。汗でもかけば、体温も下がって少しは楽になるだろうが、不思議なことに汗は全く出ない。

 普段から、几帳の物陰に隠れているので、上局の女房達にさえあまり顔を見られることのない姫君。今日もほとんど見られていなかった。

 心配させまいと、熱があるようだとも言わなかったので、誰も姫君の苦患を知らなかった。

 一睡もできぬままに夜が明けた。

 朝の食(け)はほとんど口にしないで、下げさせてしまった。そこでようやく、

「姫君は昨日もろくにきこし召さず、どこかお体がすぐれないのではございませぬか?」

と、乳母の才外記が気づいた。

 その頃、やっと安友が帰ってきた。

「医師を呼びに、安友を遣りましょう」

と才外記は言った。

 安友は母の才外記の言う通りにした。そして、午後、医師を連れて来た。

 診察した医師は、特に異常はないと言う。

「お風邪でしょうな。冷えた所為でしょう。今年の夏はひどく暑かったですし、長かった。夏の疲れが未だに残っているのでしょう。あまり根詰めるのは宜しくありません。気鬱なさらず、楽しいことをなさってお過ごし下さい」

 診察を終えた医師を車宿まで送った安友は、

「へっぽこ奴が」

と、心の中で毒づいていた。

 事実、安友の方が名医であったのだ。

 姫君は確かに恋をしていたのだ、結論から述べてしまえば。だが、未経験のことである為、如何に聡き姫君とはいえ、己の身に起きているこの異常が、恋であるとはまだ悟れずにいるのである。

 安友もそれと教えてやるつもりもなかった。

 だから、姫君は誰にも相談できずに身悶えているしかない。

 医師の言葉を信じて、やれ絵合だ歌合だと、わいわいがやがや騒いでいる女房達に引っ張り出され、笑みを繕っている。そうしているうちに、それが負担になり、ますます食欲が減退してくる。

 姫君は一人になりたかった。

「琴を弾きたいのですが……」

 ようやく一人にしてもらえたものの、琴に向かってもやる気が出ない。

 余計にあの夜のことが思い出される。

 あの琵琶の音が頭に鳴り響いて、あの公達の面影が浮かんで。顔が火のようで、苦しくなる。

「おかしくなってしまった。いったいどうなってしまったの?」

 心が悲鳴をあげる。

 あの名手のことばかり考えている己が訝しい。

 だが、それでも知りたい。かの人が何者であるのか。

 その欲求が抑えられずに、姫君はとうとう安友を召し、人払いした。

「こなたはあの晩、あの御方を見ましたね。あれはどなたか知りませんか?」

 安友は楽所召人、そして、琵琶の道を歩む者。もしかしたら、かの君を見知っているかもしれない。

 だが、安友は姫君の端たない問いに、愕然とした後、つれない返事しかできなかった。

 安友には堪えられなかった。

「どうして。どうして、こんなことをお尋ねになるのです」

 乳母子として忠誠を誓い、崇拝し続けてきた姫君の、かように恋悩む艶めかしい姿は見たくない。

「ああ、どうしてこの両の眼は、こんなにもはっきりと、恋やつれた姫君を映すのだろう。どうして、この眼はこんなによく見えるのだろう」

 こんな眼は見えなくなってしまえと思った。

「かような姫君は、二度と見たくありません。失礼致します」

 頭を下げると、俯いたまま出て行った。

「待って。どうして?行かないで」

 姫君の呼び止めるのも聞かず、安友は去った。

 その夜、母の才外記に宛てた一通の文を残し、将曹安友はこの邸を出て行ってしまった。いつになっても戻ることはなかった。




**************************
 野垂れ死ぬのかもしれない。

 そろそろ限界を感じたのは、都を出てから何日目だろう。

 あてもなく、安友は飲まず食わずで山中をさまよっていた。

 もうすでに近江に入っている。

「だめだ。いよいよ目の前が真っ暗になった……」

 傍らの木にふらふらと寄りかかる。そのまま大地に伏した。

 遠退く意識の中で、沢山の人馬の音を聞いた。

 沢山の馬の蹄。おびただしい数の足音。金属の擦れ合うようなあの音は鎧か。

 それ等がざっざっと近づいてくる。次第に大きくなり、大波のように押し寄せてきて……安友はそれに呑み込まれてしまった。

 なんなのだろう。

 薄れゆく意識の中でそう思った時、ふいにゆさゆさと体を振られた。

「おい!おい、いかがした!」

 気持ちが悪い。吐きそうではないか、やめてくれと思うと同時に目が覚めた。

「おい、大丈夫か。病か?」

 そう言って覗き込む、二つの顔。

 鎧武者が二人、安友を囲むようにして座り込んでいた。

 二人は兄弟なのだろうか、面差しが似ている。口の小さな冠者が弟であろう。どちらも甲冑姿だが、品位ある顔立ちだった。

 兄と思しき方が、もう一度口を開いた。

「貴殿、卑しからざる風情があり、ご身分ある人とお見受け致すが、かような場所に供も連れずお一人で、如何なされたか」

「……」

 答えようとしたが、ただふがふがと口が動いたのみで、安友は声を出せない。いや、口を開けるのさえ億劫だ。

 すると弟の方が、つと立ち上がってどこかへ行き、すぐに戻ってきた。木の椀を持っている。

「水です。今、葛湯を持って来させましょう。先ずは水を」

 椀を差し出した。

 安友はゆらゆらと頭を下げ、椀を受けると、ゆっくり飲み始めた。

 しみる。

 たかが水一杯で、こんなにも変わるものだろうか。訝しいばかりだが、急に生気が蘇った気がした。水は、本当に大事なものなのだ。

「ありがとうございます」

 安友は椀を返す。

 それを脇目に見ていた兄が言った。

「我等は侍従少納言の子にて、身共は右馬助時有(うまのすけときあり)と申す者。こちらは舎弟の信時(のぶとき)です」

「皇太后宮大進信時です」

 弟がそう言って頭を下げた。

 皇太后宮職(こうたいごうぐうしき)ということは、烏丸左大臣の息のかかった者であろうか。だが、どんな者であれ、水をもらったのに、名乗らないわけにもいかない。

 安友は弱々しい声を出した。

「前近衛将曹安友と申します」

「将曹と言いますと、楽人で?」

 弟の信時が尋ねた。

「ええ、まあ。非重代ですが」

 安友が答えた時、郎党が椀を捧げ持ってやってきた。

「ありがとう」

 信時が、水の入っていた椀と交換する。郎党から受け取った椀からは、湯気が出ていた。

 信時はそれを安友に差し出す。安友は受け取りつつ、先程からの疑問を口にした。

「お二人はもしや、北陸へ向かわれるのでは?」

「そうですが」

 信時が答えた。

「やはり。北陸では盗賊が悪行の限りを尽くしているとか。お二人は、烏丸の大臣(おとど)のご一門で?」

「そうです。盗賊どもは大臣の荘園までをも踏み荒らし──。それで、盗賊どもを討つよう、大臣に命じられまして。これより北陸の盗賊を一掃しに下向するのです」

 安友は葛湯を飲みながら、話に聞き入っている。

 今度は時有が言う。

「我等は大臣の遠縁で、母は家女房。父も家司。ですが、父は別の女君との間にも子があって、その女人が四辻の大臣の縁者なので。父は一応、烏丸の大臣の家司ですが、四辻派とも縁切れてはいず。烏丸の大臣は父を信用なさっていません。実際、子の我等から見ても、父はどっちつかず。その父のせいで、我等までもが烏丸の大臣に信用されていません。同族なのに。この度の北陸鎮圧は、我等が買って出たのです。大臣の信用を得るために」

 時有は溜め息をついた。

 本当はこの兄弟は貴族だ。弓矢など扱いもわからないだろうに。

「大変ですね」

 葛湯を飲み干し、安友は自分の行き先をようやく見つけた気がした。

「私もお力になりたい。私も盗賊狩の人数に入れて下さい。私をどうか共に連れて行って下さい」

 楽所召人が近衛府の将曹の職を捨てて、このような所にいるのだ。何か深い理由があるのだろう。兄弟はそう思ったが、理由は聞かずに安友の同行を許した。
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