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大序
五拍・南唐派
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我が国の琴楽には、大学頭行実が唐より持ち帰ったものと、それ以前に伝来して、久しく行われていたものとがあった。
行実帰国後は、こちらの勢力が圧倒的に強く、古い流儀は全く通用しないものになっていた。帥殿が政任に入門した頃には、行実の流れでない琴人は皆無に等しい状態だったと推察される。
だが、その後、我が国にはこの行実の流れである呉楚派の他に、いま一つ、南唐派というものが存在したことを述べなければならない。
呉楚派に比べると、南唐派の行われた時期は短く、門弟の数も少ない。しかし、呉楚派と共に、琴の二大流派として位置付けるべき、重要な流儀である。
南唐派は唐の末期、その混乱より逃れ、渡来した唐人・何参によってもたらされた。我が国で最も新しい流儀である。
何参(カシン)。
唐鳳州の人。後に会稽に移り、さらに洛陽に住んだりしていたが、唐末の混乱から逃れたいと、静かに隠棲できる場所を求めて各地を転々としていた。
しかし、この地上の何処にも琴にのみ向き合える安息の地は存在しないと知った。泰山にいてさえ、俗世の荒波を感じる。
そこで、琴人に残された美しい場所は、もはや蓬莱山のみだと思ったのだった。
何参はかつて伯牙が、師の成連と共に蓬莱へ渡って情を悟り、『水仙操』を作曲したことを思って、自分も蓬莱に行かむとて船出した。
蓬莱への道は過酷なものだった。
船は大嵐に遭遇し、幾度となく船縁から海中へ投げ出されそうになった。供の人々は皆、天に祈りを捧げ続けた。
だが、何参一人は、
「目指すは蓬莱なれど、このまま海中に入り、龍王の王宮に赴くのもよいかもしれぬ」
とて、いつ海中に放り出されてもよいように、秘蔵の琴二張をずっと両腕に抱え込んでいた。
「この二張の琴あれば、青龍王もお喜び下さろうぞ」
「……」
船中で、これに耳を貸す者はなかった。
それから数日後、一行は辛くも海上遥か彼方に陸を見つけた。
結局、龍宮に行くことにはならなかった何参だったが、その陸を見て、
「おお、あれこそが蓬莱の島であろう」
と感涙に咽んだ。
人々も、命助かったと、土を踏めることを喜んだ。
着いて海岸に立ってみると、誠に緑が美しく、海の色も青い。水面は玉のように輝いており、川の清流が海に注ぎ込んでいる。少し奥に入った林には、冷たい清水が湧き出ていて、飲むと大変に甘露なので、これぞ蓬莱の島に違いないと確信した。
ところが、これは島というには余りに広く、島の反対側は、何日歩いても見えてきそうにない。
「蓬莱は人界(にんがい)ではない。蓬莱の地は永久に続き、地の果てというものがない。我々の住む世界と同じ物の尺度で考えてはいけない」
と何参は言って、ここが蓬莱だと信じて疑わなかった。
ところが、しばらく行くと、ここの住人に出くわしてしまった。
唐土(もろこし)の人間とは明らかに違う衣を身に纏った皺だらけの老人が、せっせと畑を耕しているのだ。
何参は、
「なるほど、蓬莱にも人は住み、暮らしていけるのだなあ」
と感心したかと思うと、
「いやいや、違う。あれは仙人だ。蓬莱では仙人もあのように畑を耕し、人に勤勉というものを教えてくれているのだ。あの仙人は神農の御使いにやあらむ」
と言って、供の人々を呆れさせた。
程なくして、ここの土地の別の村人が現れた。
一行は彼に話しかけられた。だが、この村人の話す言葉がわからないので、困ってしまう。それを何参は、
「蓬莱の言葉は我々の言葉とは違うものだ。どうして人に、仙人の言葉が解るものか」
と、余りに呑気である。
しかし、供の中の一人に、この村人の言葉が、昔、近所に来ていた留学僧のものと似ていると気付く者があった。
「お前達は何処から来たのか、何者かと尋ねているのではないでしょうか」
供人はこう何参に告げた。
「おう、貴殿は仙人の言葉がわかるのか」
と、なお信じている何参だった。
供人は徐季龍とて、琵琶の名手だが、思うところあって、この村人に、何参達には理解できない言葉を使って話しかけた。
同じことを三度繰り返すと、村人にも徐季龍の言っていることが通じたようである。村人は慌てて一行をその場にとり残したまま、何処かへ走って行ってしまった。
一行が途方にくれていると、しばらくして、先程の村人が戻ってきた。衣もぱりっとした、役人らしきを、二十人ばかり連れている。その中の一人が、
「唐よりお渡りになったとか。さぞご苦労なさったことでしょう」
と、何参達の言葉で話したのである。
何参はびっくりして、
「おう……。仙人の中には、我等の言葉を操る御方もおわしましたか」
と言うと、役人はかかと笑って、
「面白きご仁だ。私が仙人に見えるとは。ここは筑前。大宰府へ行けば、ご一同の国の言葉を話す者は数多おりましょう。ご一同を大宰府までお送り申し上げよう」
と言った。
ここは日本の筑紫だったのだ。
何参が事実を呑み込めるまでに半日かかった。
やがて大宰府まで送られた何参達は、初めは蓬莱でなかったことにがっかりしたものの、この日本の国土が、戦乱もなく安らかであること、人々が穏やかに生活していることを、ゆかしく思うようになった。
それに、大宰府の人々は皆勤勉でおとなしく、何参を敬い、親切にしてくれる。何参はすっかりこの地が気に入って、ここをついの住処とすることに決めたのである。何参、六十九歳のことであった。
何参は大宰府で四年を過ごした。静かに琴を弾く生活を営んでいたのだが、彼の評判は都にまで轟き、
「大宰府に琴の名手あり」
と、遂には帝の耳にまで届いたのである。
帝は大変琴の好きな、風流な人であった。評判を聞いて、どうしてもその唐人の琴を聴きたいと、勅使を遣わした。
日本の天子のお召しである。筑紫で死ぬつもりだったが、流石にこれは無視できない。
何参は帰洛する前任の権帥(ごんのそち)と共に、都に上ったのであった。
その頃の琴は、都では政任の天下であった。
政任は何参より十歳程若い。
帝は、琴といえば、政任の一派のものしか聴いたことがなかったので、本場の唐人の琴を楽しみに思った。何参が上洛すると、すぐにも参内させた。
清涼殿の庭に琴卓を置き、そこで何参は求められるまま、何十日も演奏した。
帝は、陳康士という人が作った『離騒』という曲を気に入ったようだった。これは、大学頭行実が日本に戻った後、唐土で作られたものなのか。呉楚派には伝わっていない。
理想を追求し、国家の危急を救うために力を尽くした屈原が、失望し、憤る様を表現した曲である。
唐末の国家の混乱に翻弄され、国を捨ててきた何参がこれを弾くので、帝は胸しめつけられた。堪らず両手を握りしめ、何度となく、これを求めて聴き入る。
何参は、帝ばかりでなく、公卿達からももてはやされた。
都の華やかな暮らしもよいものだと感じはじめていた頃、世の無常を知ってしまう。
真夏のある日のこと。地獄の業風に身を焼かれるような、灼熱酷暑となった日があった。あつけ(熱中症)で倒れる者の数は知れず。朝臣でさえ、三人死去した。
帝も意識を失い、命の危険に晒された。
九死に一生、助かったものの、体力と共に気力も失ってしまった。そして、御位を弟宮に譲り、退位してしまったのである。
新しい帝は政治好きだった。音楽は嫌いではないが、唐楽より神楽を好む。琴や箏より和琴(わごん)を愛し、
「和琴こそ、神聖にして最も貴い楽である」
という。
それで、和琴ばかりが取り上げられ、琴(キン)は余り流行らなくなった。
唐土も日本も同じだ。
何参は奈良に隠栖してしまった。
古都の佇まいは美しい。平安京よりも唐土に似ていて肌に合う。何参は悠々自適、楽しく暮らした。
奈良では二人の弟子も同居した。
蔭元朝臣(かげもとあそん)は都にいた時からの弟子である。何参について奈良まで来た。時々都へも行くが、大概は奈良にいる。
少副の兼保(かねやす)は、賀茂社の神職だが、奈良に移り住んでしまった。
それから間もなく、この奈良の一派にも衝撃的な事件が起こった。
都の一派を束ねる散位政任が、弟子を放り出して逐電してしまったのだ。
その暫く後のこと。奈良の琴庵を、一人の公卿が幼い姫君を連れて来訪した。
その公卿とは、当時中納言兼近衛大将だった六条大納言棟成卿である。
何参が衣服を正して対面すると、棟成卿は娘を弟子入りさせて欲しいと言う。
「姫君のお噂は存じております。僅か御歳七つにして、その琴は妙絶を尽くし、さすがの政任もその天才ぶりには舌を巻き、妬ましい気持ちさえ起こったとか。その姫君の妙技をお聴かせ頂けるとは、この老人の死出の旅路に、有り難き餞となりましょう。今生の名残に」
是非聴きたいと、何参は答えた。
すぐに、何参の前に清花の姫君が呼ばれた。
その姫君の姿に、御簾内から様子を窺っていた蔭元朝臣も兼保も、互いの眼を擦り合った。
姫君は『ケイ康四弄』の中の「長清」を弾いた。
何参は眼を見開いたまま、身じろぎ一つしなかったが、
「この琴を使って、他の曲を弾いてみて下さい」
と、傍らの秘蔵の威神という名器を差し出した。既に、梅花紋が幾つか浮き出ている珍品である。漢の頃の古い琴であろうか。
姫君はそれで、『高山』『流水』を弾いた。超絶技巧を尽くした伯牙の傑作である。これを難なく弾く。
弾き終わるなり、何参は座をすべって庭の白石の上にひれ伏し、
「御身こそ琴の神の化身。蓬莱山の主。伯牙に琴の全てを悟らせたる蓬莱にてあらせられます!」
と叫んで、いつまでも面を上げようとしないのだった。
いささか大袈裟ではあるまいかと棟成卿は、半ば呆れ顔にも、
「では、娘の入門はお許し頂けようか?」
とは言ったのであった。
そして、自身庭に下り、その老翁の身を抱き起こした。
「琴神をご養育することができますならば……まさに、伯牙を育てる成連の心であります。不肖参、新しい曲、譜の理論的、実質的、技術的な面ではお手伝いできることもあろうかと。力の限りに参、ご指導申し上げることをお誓い致します」
何参はこうして、清花の姫君の師となった。
つまり清花の姫君は、政任の呉楚と何参の南唐の、両流儀を学んだ唯一の人ということになる。
姫君入門後間もなく、何参は再び引っ越した。
幼い天才が、わざわざ奈良まで習いに来るのが申し訳なく思えたからである。
老体ながら、京へ移住した。洛中に住む気にはならなかったので、双岡に琴庵を結んだ。
こうして八歳から十歳まで、清花の姫君は南唐派を学んだ。
だが、間もなく何参は病死した。蔭元朝臣や兼保らに、八十賀を祝された二ヶ月後のことであった。
蔭元朝臣には弟子がなかったので、そのあとは絶えてしまった。
だが、兼保には八人の弟子があり、その中の一人の円慶法橋(えんぎょうほっきょう)が灌頂を遂げた。
何参、蔭元朝臣、兼保、清花の姫君、円慶法橋は後年、「五琴仙」と称されることになる。
このように、少数派なれども南唐派というものが存在したということを、ここに記しておく。
行実帰国後は、こちらの勢力が圧倒的に強く、古い流儀は全く通用しないものになっていた。帥殿が政任に入門した頃には、行実の流れでない琴人は皆無に等しい状態だったと推察される。
だが、その後、我が国にはこの行実の流れである呉楚派の他に、いま一つ、南唐派というものが存在したことを述べなければならない。
呉楚派に比べると、南唐派の行われた時期は短く、門弟の数も少ない。しかし、呉楚派と共に、琴の二大流派として位置付けるべき、重要な流儀である。
南唐派は唐の末期、その混乱より逃れ、渡来した唐人・何参によってもたらされた。我が国で最も新しい流儀である。
何参(カシン)。
唐鳳州の人。後に会稽に移り、さらに洛陽に住んだりしていたが、唐末の混乱から逃れたいと、静かに隠棲できる場所を求めて各地を転々としていた。
しかし、この地上の何処にも琴にのみ向き合える安息の地は存在しないと知った。泰山にいてさえ、俗世の荒波を感じる。
そこで、琴人に残された美しい場所は、もはや蓬莱山のみだと思ったのだった。
何参はかつて伯牙が、師の成連と共に蓬莱へ渡って情を悟り、『水仙操』を作曲したことを思って、自分も蓬莱に行かむとて船出した。
蓬莱への道は過酷なものだった。
船は大嵐に遭遇し、幾度となく船縁から海中へ投げ出されそうになった。供の人々は皆、天に祈りを捧げ続けた。
だが、何参一人は、
「目指すは蓬莱なれど、このまま海中に入り、龍王の王宮に赴くのもよいかもしれぬ」
とて、いつ海中に放り出されてもよいように、秘蔵の琴二張をずっと両腕に抱え込んでいた。
「この二張の琴あれば、青龍王もお喜び下さろうぞ」
「……」
船中で、これに耳を貸す者はなかった。
それから数日後、一行は辛くも海上遥か彼方に陸を見つけた。
結局、龍宮に行くことにはならなかった何参だったが、その陸を見て、
「おお、あれこそが蓬莱の島であろう」
と感涙に咽んだ。
人々も、命助かったと、土を踏めることを喜んだ。
着いて海岸に立ってみると、誠に緑が美しく、海の色も青い。水面は玉のように輝いており、川の清流が海に注ぎ込んでいる。少し奥に入った林には、冷たい清水が湧き出ていて、飲むと大変に甘露なので、これぞ蓬莱の島に違いないと確信した。
ところが、これは島というには余りに広く、島の反対側は、何日歩いても見えてきそうにない。
「蓬莱は人界(にんがい)ではない。蓬莱の地は永久に続き、地の果てというものがない。我々の住む世界と同じ物の尺度で考えてはいけない」
と何参は言って、ここが蓬莱だと信じて疑わなかった。
ところが、しばらく行くと、ここの住人に出くわしてしまった。
唐土(もろこし)の人間とは明らかに違う衣を身に纏った皺だらけの老人が、せっせと畑を耕しているのだ。
何参は、
「なるほど、蓬莱にも人は住み、暮らしていけるのだなあ」
と感心したかと思うと、
「いやいや、違う。あれは仙人だ。蓬莱では仙人もあのように畑を耕し、人に勤勉というものを教えてくれているのだ。あの仙人は神農の御使いにやあらむ」
と言って、供の人々を呆れさせた。
程なくして、ここの土地の別の村人が現れた。
一行は彼に話しかけられた。だが、この村人の話す言葉がわからないので、困ってしまう。それを何参は、
「蓬莱の言葉は我々の言葉とは違うものだ。どうして人に、仙人の言葉が解るものか」
と、余りに呑気である。
しかし、供の中の一人に、この村人の言葉が、昔、近所に来ていた留学僧のものと似ていると気付く者があった。
「お前達は何処から来たのか、何者かと尋ねているのではないでしょうか」
供人はこう何参に告げた。
「おう、貴殿は仙人の言葉がわかるのか」
と、なお信じている何参だった。
供人は徐季龍とて、琵琶の名手だが、思うところあって、この村人に、何参達には理解できない言葉を使って話しかけた。
同じことを三度繰り返すと、村人にも徐季龍の言っていることが通じたようである。村人は慌てて一行をその場にとり残したまま、何処かへ走って行ってしまった。
一行が途方にくれていると、しばらくして、先程の村人が戻ってきた。衣もぱりっとした、役人らしきを、二十人ばかり連れている。その中の一人が、
「唐よりお渡りになったとか。さぞご苦労なさったことでしょう」
と、何参達の言葉で話したのである。
何参はびっくりして、
「おう……。仙人の中には、我等の言葉を操る御方もおわしましたか」
と言うと、役人はかかと笑って、
「面白きご仁だ。私が仙人に見えるとは。ここは筑前。大宰府へ行けば、ご一同の国の言葉を話す者は数多おりましょう。ご一同を大宰府までお送り申し上げよう」
と言った。
ここは日本の筑紫だったのだ。
何参が事実を呑み込めるまでに半日かかった。
やがて大宰府まで送られた何参達は、初めは蓬莱でなかったことにがっかりしたものの、この日本の国土が、戦乱もなく安らかであること、人々が穏やかに生活していることを、ゆかしく思うようになった。
それに、大宰府の人々は皆勤勉でおとなしく、何参を敬い、親切にしてくれる。何参はすっかりこの地が気に入って、ここをついの住処とすることに決めたのである。何参、六十九歳のことであった。
何参は大宰府で四年を過ごした。静かに琴を弾く生活を営んでいたのだが、彼の評判は都にまで轟き、
「大宰府に琴の名手あり」
と、遂には帝の耳にまで届いたのである。
帝は大変琴の好きな、風流な人であった。評判を聞いて、どうしてもその唐人の琴を聴きたいと、勅使を遣わした。
日本の天子のお召しである。筑紫で死ぬつもりだったが、流石にこれは無視できない。
何参は帰洛する前任の権帥(ごんのそち)と共に、都に上ったのであった。
その頃の琴は、都では政任の天下であった。
政任は何参より十歳程若い。
帝は、琴といえば、政任の一派のものしか聴いたことがなかったので、本場の唐人の琴を楽しみに思った。何参が上洛すると、すぐにも参内させた。
清涼殿の庭に琴卓を置き、そこで何参は求められるまま、何十日も演奏した。
帝は、陳康士という人が作った『離騒』という曲を気に入ったようだった。これは、大学頭行実が日本に戻った後、唐土で作られたものなのか。呉楚派には伝わっていない。
理想を追求し、国家の危急を救うために力を尽くした屈原が、失望し、憤る様を表現した曲である。
唐末の国家の混乱に翻弄され、国を捨ててきた何参がこれを弾くので、帝は胸しめつけられた。堪らず両手を握りしめ、何度となく、これを求めて聴き入る。
何参は、帝ばかりでなく、公卿達からももてはやされた。
都の華やかな暮らしもよいものだと感じはじめていた頃、世の無常を知ってしまう。
真夏のある日のこと。地獄の業風に身を焼かれるような、灼熱酷暑となった日があった。あつけ(熱中症)で倒れる者の数は知れず。朝臣でさえ、三人死去した。
帝も意識を失い、命の危険に晒された。
九死に一生、助かったものの、体力と共に気力も失ってしまった。そして、御位を弟宮に譲り、退位してしまったのである。
新しい帝は政治好きだった。音楽は嫌いではないが、唐楽より神楽を好む。琴や箏より和琴(わごん)を愛し、
「和琴こそ、神聖にして最も貴い楽である」
という。
それで、和琴ばかりが取り上げられ、琴(キン)は余り流行らなくなった。
唐土も日本も同じだ。
何参は奈良に隠栖してしまった。
古都の佇まいは美しい。平安京よりも唐土に似ていて肌に合う。何参は悠々自適、楽しく暮らした。
奈良では二人の弟子も同居した。
蔭元朝臣(かげもとあそん)は都にいた時からの弟子である。何参について奈良まで来た。時々都へも行くが、大概は奈良にいる。
少副の兼保(かねやす)は、賀茂社の神職だが、奈良に移り住んでしまった。
それから間もなく、この奈良の一派にも衝撃的な事件が起こった。
都の一派を束ねる散位政任が、弟子を放り出して逐電してしまったのだ。
その暫く後のこと。奈良の琴庵を、一人の公卿が幼い姫君を連れて来訪した。
その公卿とは、当時中納言兼近衛大将だった六条大納言棟成卿である。
何参が衣服を正して対面すると、棟成卿は娘を弟子入りさせて欲しいと言う。
「姫君のお噂は存じております。僅か御歳七つにして、その琴は妙絶を尽くし、さすがの政任もその天才ぶりには舌を巻き、妬ましい気持ちさえ起こったとか。その姫君の妙技をお聴かせ頂けるとは、この老人の死出の旅路に、有り難き餞となりましょう。今生の名残に」
是非聴きたいと、何参は答えた。
すぐに、何参の前に清花の姫君が呼ばれた。
その姫君の姿に、御簾内から様子を窺っていた蔭元朝臣も兼保も、互いの眼を擦り合った。
姫君は『ケイ康四弄』の中の「長清」を弾いた。
何参は眼を見開いたまま、身じろぎ一つしなかったが、
「この琴を使って、他の曲を弾いてみて下さい」
と、傍らの秘蔵の威神という名器を差し出した。既に、梅花紋が幾つか浮き出ている珍品である。漢の頃の古い琴であろうか。
姫君はそれで、『高山』『流水』を弾いた。超絶技巧を尽くした伯牙の傑作である。これを難なく弾く。
弾き終わるなり、何参は座をすべって庭の白石の上にひれ伏し、
「御身こそ琴の神の化身。蓬莱山の主。伯牙に琴の全てを悟らせたる蓬莱にてあらせられます!」
と叫んで、いつまでも面を上げようとしないのだった。
いささか大袈裟ではあるまいかと棟成卿は、半ば呆れ顔にも、
「では、娘の入門はお許し頂けようか?」
とは言ったのであった。
そして、自身庭に下り、その老翁の身を抱き起こした。
「琴神をご養育することができますならば……まさに、伯牙を育てる成連の心であります。不肖参、新しい曲、譜の理論的、実質的、技術的な面ではお手伝いできることもあろうかと。力の限りに参、ご指導申し上げることをお誓い致します」
何参はこうして、清花の姫君の師となった。
つまり清花の姫君は、政任の呉楚と何参の南唐の、両流儀を学んだ唯一の人ということになる。
姫君入門後間もなく、何参は再び引っ越した。
幼い天才が、わざわざ奈良まで習いに来るのが申し訳なく思えたからである。
老体ながら、京へ移住した。洛中に住む気にはならなかったので、双岡に琴庵を結んだ。
こうして八歳から十歳まで、清花の姫君は南唐派を学んだ。
だが、間もなく何参は病死した。蔭元朝臣や兼保らに、八十賀を祝された二ヶ月後のことであった。
蔭元朝臣には弟子がなかったので、そのあとは絶えてしまった。
だが、兼保には八人の弟子があり、その中の一人の円慶法橋(えんぎょうほっきょう)が灌頂を遂げた。
何参、蔭元朝臣、兼保、清花の姫君、円慶法橋は後年、「五琴仙」と称されることになる。
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