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第四話 誰が一番か
第二節
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第四話 誰が一番か 第二節
数日後。
梅子は、引きこもりがちになってしまっていた。
誰でも、こういう変わった子を持っていれば、必ず一度や二度は直面する問題なのだが、梅子もそうなってしまったのである。
それは何かというと、近所の人たちの評判に、彼女が耐えられなくなるということである。
まあ、人間という物は、時折こうなることがある。人の不幸を見て、自分はよかったと安心して、それをいいことに他人の悪口を言いふらす。どうも、そっとしてやろうということは、よほどえらい人でなければできないことの様なのだ。逆を言うと、他人より優れているというところがないと、人間は生きて行かれないらしい。人間が生きるということは片っ方はここがよく、片っ方はここが悪いという、言い合いの繰り返しである。それをしない人は、どんな人なんだと聞きたくなるほどである。
梅子が朗少年を連れて買い物に行ったりすれば、必ず近隣に住んでいる人たちは、彼女を見て嘲笑した。あの女が、子供を一人前に育てられないダメな女性だとか、子供を甘やかして、悪いほうに育ててしまったとか、そういうことを言いふらした。それをよそ眼に朗は、頭上を見つめたまま、歩き続けるのだった。梅子に手を引かれるとついてくることはついてくるが、通りかかった大八車の、車輪が回っているのを見て、それに強烈に興味を持ってしまって大八車を追いかけて迷惑をかけたこともある。鶏を見かければ、追いかけまわして飼い主に叱られたこともある。川にいる鯉を見つけると、着物が汚れることなど忘れて道端に寝そべり、鯉を触ろうとする。これらの問題を引き起こすと、叱られるのは朗本人ではなく、母親の梅子なのだ。大八車の運転手も、鶏を飼っている農家のおじさんも、鯉を釣ろうとしていた釣り人も、みな、梅子の教育が悪いと言って、彼女を責め立てた。毎回それが起こるので、梅子は、外へ出るのが嫌になってしまったのだった。
新五郎は、梅子からその報告を聞くと、朗を泣くまで叱り飛ばし、必ず最終的には手を挙げた。当然ながら、朗は泣き叫ぶが、これしか常識をわからせる方法はないと新五郎は主張していた。誠一は、そんな新五郎に叱りすぎるのもよくないぞと忠告したが、新五郎は、そういわれても、朗をなだめることはしなかった。
新五郎が、そうやってしかりつけていると、当然の如くとなりの家屋にもきこえてしまう。梅子はそれが嫌で仕方ない。でも、こうすれば、朗は正常に行動できるようになるから、それまで我慢しろと、新五郎はいう。それを待っていたが、朗はいつまでもそうはならない。友子が、いくらそんなことをしても無駄になるだけだと対抗するが、新五郎は、意思を曲げなかった。毎日毎日その繰り返しで、梅子はとうとう、部屋からほとんど姿を見せなくなった。まるで、天岩戸に籠ってしまった、女神のようだった。そうなると、朗の世話は、誠一や、寿々子がした。
「梅子さん。ご飯です。」
今日も友子が梅子の部屋のふすまを叩く。
「そこに置いておいて。」
「ダメですよ、梅子さん。今日こそはご飯を食べてもらわないと。そこに置いておいてっていいながら、一度も食べてないでしょう。一人でいると、どうせ食べないで窓から捨てるかも知れないから、みんなと一緒に食べてもらいますよ!」
ちょっと強気になって友子は言った。
「あたし、会わせるかおがありません。みんな、私のこと、責めるでしょう?」
不意に、どこからか、誠一もやって来て、ふすまをたたいた。
「梅子さん、甘えていてはならんぞ。親なんだから、しっかりしなければ。」
誠一は厳しかった。
さすがの梅子も誠一には逆らえないようで、仕方なくふすまを開けて、部屋を出てきた。
食堂へ入ると、寿々子が先に朗と一緒に食事をしていた。と言っても朗はまだ手づかみのままだった。寿々子は、何か押し問答をしたらしい。かなり疲れている様子だ。
「今日は、いつも手づかみだから、お結びにしてみたんだけど。」
確かに、朗は茶碗に入ったご飯ではなく、握り飯を食べている。
「そうしたら、新五郎がすごい剣幕で怒りだして。甘やかすといけないからって。」
「でも、お母様の判断は間違っていないと思いますよ。だって、そうすれば汚さないで食べられるんですから。よいほうに解釈しないでどうします。こういう子は無理やり普通の子に合わせようとするのが間違いだって、あたしは思いますけどね。」
友子がまた顔にご飯粒をつけながらそう言った。
「そうねえ。私は、そうしてあげたほうが、かえって朗ちゃんの為にはいいと思うんだけどね。」
それにこたえるかのように、朗はにこりとして祖母に笑い返した。
「友子さん、裕はどうしてる?」
「布団で寝てますよ、お父様。」
ご飯をかきこみながら、友子がそういった。裕は一週間以上、高熱でうなされてしまい、二日前にやっと熱が下がったが、それでもまだ体が熱く、微熱が続いていた。
「まったく。裕も本当に情けない男だ。夜中にこっそり神頼みをしていたなんて。」
実はそうなのである。熱が下がった裕本人がそう言ったのであるが、朗を何とかして正常にしてくれと、毎晩毎晩、井戸端へ行き、井戸の冷たい水を全身にかけて祈りをささげていた。そうなれば、熱が出ても仕方なかった。
「情けないなんていうべきではないですよ。裕も裕なりに、悩んでいたんでしょうから。」
寿々子が、母親らしく彼を擁護するが、
「いや、男なら、神頼みをする前に、何とかしようと対策を考えるのが先決だ。それが、あまりにも非現実的なことをして、挙句の果てに熱を出すとは、全く意気地なしも度を越している。あきれてものも言えない。」
誠一はがっくりと肩を落とした。
「そういう男らしくないのが、裕さんなんですよ。幸い、私はこんなに元気で、毎日ご飯もきちんと食べてますから、心配しないでください。」
友子だけはこのような状況でもいつもと変わらず、三杯目のご飯を食べ始めていた。
「友子さんは、いつでもどこでも健康そのものなんて、ある意味超人だわ。」
梅子は小さな声でつぶやいた。
「食べないのと、外へ出ないから悪いのよ。」
「でも、外へ出れば近所の人が、悪いことを言うし。」
「あら、丸野さんは言わないし、野上の旗本様も応援するって言ってたわよ。悪いほうを数えるのではなく、よい人たちを数えていったほうがいいわ。」
友子は、ご飯粒をつけたまま、みそ汁に手を付けていた。
「あたしにはとてもそんなこと。」
「いや、梅子さん、こういうときは友子さんのほうが正しいぞ。どうしてもだめな時というのは必ずある。そういう時は、少しばかりの可能性だけを頼りにして生きていかなくちゃいかん。変に、何とかなるさとか楽観的になることもいけないし、逃げてもいけない。こういう時はしのぐしかないのさ。それができないと、裕みたいに、さらに他人に迷惑をかけることになるからな。」
「おあいにく様ですが、お父様。私は、裕さんを責める気は毛頭ありませんのよ。大事なことはね、何が悪いかを追求していくより、いつもと同じご飯が食べられることじゃないかしら。」
「まったく、友子さんは時折すごいことを言うのね。」
「まあ、廓の中でそういう習慣が身に着きました。あそこは、女の闘いの場でもありますから。」
友子があっさりと答えを出すので、寿々子も感心してしまうのであった。
「でも、もうそういうことは考える気はありません。あたしはもう散茶ではなくなりましたからね。ほら、食べてくださいよ。でないと、本当にダメになりますよ。」
梅子は、渋々箸を取り、いつものように途方もなくまずいご飯を口にした。悪阻の時にもご飯はまずくて気持ち悪いものだったが、今のほうがもっとまずいような気がした。
「少し、気分転換に外でも出たらどうなんだ?そのほうが、気がまぎれて少し清々とするかもしれないぞ。」
誠一がそんなことを提案して、梅子はぎょっとした。
「お父様、それはやめてください!」
「いいことじゃない。そのほうがずっといいわよ。私も賛成。」
友子も誠一に加担した。
「でも、朗の世話もあるし。」
「都合のいいときだけ子供を利用するなんて、そんな我儘は大人とは言えないわ。朗ちゃんは私が見てあげるから、ちょっと散歩にでも出てみたらどうなの?」
寿々子はできるだけ叱らず、優しい口調で言った。
「いや、怖いですよ、お母様。」
「怖いって何が?」
「人の、目せんとか、声とかそういうものです。もう、すぐに悪口が飛んでくるのではないかって考えると、もう怖くてたまりません。」
「梅子さん。そんな我儘、通用すると思うなよ。わしらは、どんなに避けようとしても、人の間で生活しなければならないんだから。完全に一人になるなんて、できやしないのさ。仮にその通りになったとしても、人間は完全な生き物ではないから、必ずどこかで人の手が必要になる。そういう物なんだから、他人を怖いなんてそんなことは言ってはいけない。悪口をいう人は多いかもしれないけれど、そんなことに惑わされて、閉じこもることを繰り返していたら、さらに悪口を増大させることを覚えておきなさい。」
「ごめんなさい、お父様。私、もう、この世に自分一人ならいいのになって思ってしまいました。」
「ああ、そんなことは、絶対無理だから、あきらめるべきね。人間一人では絶対生きていけないようにできてるんだから。何かを遮断して、一人きりで暮らすなんて考えても、必ずどこかでぼろが出るわよ。もし、一人で出るのが、どうしてもだめだったら、私も今日は用事もないし、一緒に行くわ。」
「散歩ごときで、友子さんが同伴する必要もないんだけどね。強くならなければならないのは梅子さんなので、かえってその邪魔をする。」
「いいえ、お父さん、そこまで厳しくしたらかわいそうです。今回は友子さんに一緒に行ってもらいましょう。じゃあ、ご飯食べたら、二人そろって、散歩に出て行っていらっしゃいな。」
「はい、わかりました、お母様。」
友子はそう返答して茶碗に残っているご飯を一気にかきこんだ。梅子も、渋々とご飯を口にした。
新五郎は、寿々子と押し問答をしたあと、すぐにご飯を黙って食べ、予定されていた買取に行ってしまったので、そこにはいなかった。もしかしたら、いないほうがよかったかもしれない場面であった。
二人はご飯を食べ終わって外へ出た。梅子が外履きのぞうりを履いたのは、実に久しぶりだった。友子が先導して道路を歩き始めた。いくつかの住宅の前を通ったが、梅子が言っているような悪口を言う人は全く見かけられなかったし、悪口が聞こえてくることもなかった。
「ほら、だれもいないじゃない。私たちのことを悪く言う人なんてさ。」
友子は明るくそういったが、
「誰にも会わないからそう言えるのよ。人に出会えばたちまち、悪口が飛び出してくるわ。」
と、梅子は返事を返した。まるで、必ずそうなると、確信しきっている言い方だった。
「じゃあ、具体的に聞こえてくる?」
友子が聞くと、梅子は黙ってしまう。
「よく周りを見なさいよ。何も聞こえてこないでしょう。それを聞こえてくると勝手に決めつけたら、弄斎と同じことになっちゃうわよ。」
確かに、実際になっていないのに、音が鳴っていると主張すると、幻聴という症状に結び付く。ひどくなると、そのほうが正しいと主張し、二度と正常な世界に帰ってこれなくなる。そうなったら、人間として非常に厄介な事態が起きる。
「どう?聞こえてくる?正直に答えて。」
「、、、来ないわ。」
梅子は小さな声で言った。
「でしょう。まあ、多かれ少なかれ悪口は言われたのかもしれないけど、本当に言われたのはその時だけなのよ。あとは、何も聞こえてはこないわ。そればっかり考えているから、聞こえてくるように感じるだけ。きっと、近所の人たちも、さほど気にしてはいないわよ。人の噂も七十五日。それを頭に叩き込んでいくことね。そして、また聞こえてくるような気がしたら、私、いつでも付き合うから、こうして確認作業に出ましょうね。」
友子が明るく言うと、
「ほら、人が来た!」
梅子は急に前方を見て固まった。
「きっと私に、毎日うるさいって文句言いに来た、隣のおばさんよ。」
友子も前方を見たが、確かに向こうから人が歩いてくるのが見える。しかし、文句を言いに来た隣のおばさんとは明らかに風貌が違っている。もっともっと立派な着物を着て、大小の刀を腰に差した男性であった。
「何だ、違うじゃない。あれは野上の旗本様。隣のおばさんではないわ。」
「旗本様までうるさいと苦情を言いに来たのかしら?」
「違うわよ。何でもそれに結び付けて考えるなんて、引きこもりも度が過ぎてるわよ。お偉い方が、そんなことを言うわけがないでしょう。そう決めつけるのも無礼というものよ。普通にご挨拶をすればそれでいいの!」
「でも、怖い。なんかそういうことを言われてしまいそうで、、、。」
「怖いわけがないでしょうが。私、確かめてあげるわ。よく聞いていなさいよ!」
友子は、旗本がもう少し近づいてくると、腕を高く上げて、こうあいさつした。
「野上様、おはようございます!」
梅子は友子の後ろで小さくなっている。きっとお叱りが出るとまだ思っているのだろう。
「ご精が出ますね。」
「ほら、悪口ではなかったでしょう。梅子さんも挨拶なさいよ!」
友子は、旗本のことばを聞いて、手を下ろし、そのまま梅子の背を突いた。
「お、おはようございます!」
こわごわご挨拶をする梅子。
「いったいどうしたんだね。なんだか熊に遭遇したように縮こまって、、、。」
「ごめんなさい。梅子さん、ずっと調子が悪かったんですが、今日久しぶりに外へ出たから、武者震いが出たんですよ。」
友子は、明るいまま説明した。
「そうかそうか。お子さんがすごく大変なようで、苦労しているみたいだが、何も協力できないのが心残りだ。まあ、私も、娘の花子が生まれて数年は、かなりの試練を乗り越えなければならなかったことは確かなので、多少傾聴することくらいならできるかもしれないから、遠慮なく言いなさいよ。」
「ほら、今のことば聞いた?」
友子が、梅子に聞く。
「悪口だった?」
再度確認した。
「い、い、いいえ、もったいなきお言葉です!」
梅子は、慌てて最敬礼する。
「ああ、ごめんなさい。梅子さんちょっと、気やみの気があるんです。何でも、近所の方から心無いことを言われたみたいで、それが頭にこびりついてしまっていて。みんなが、その一言を言うからと言って、外へ出ないので、じゃあ、本当なのかどうか真偽を確かめようと、私が連れだしたところなんですよ。」
友子が詳しく説明すると、旗本もこれを理解してくれたようで、
「ああなるほど。私も、経験したことがあるが、大変なお子さんを持つと、必ず通り抜けなければならない関門に直面したということなんだね。必ずこれは乗り越えなければならないが、乗り越えられない試練はないという格言もあるくらいだから、きっと必ず乗り越えることもできるだろう。忘れてしまえとか、気にするなという励ましは、何も役には立たないし、ただ、時期が過ぎるのを待つしか方法はないということも知っているので、こうしろとかああしろということはできないが、くれぐれも、体には気を付けて、無理をしてはならないぞ。」
と言ってくれた。
「ありがとうございます。野上様も大変だったと思いますから、そのお言葉が言えることも、知っております。お嬢様をあそこまで育てるのは、本当にたいへんだと思いますもの。」
「まあ確かに、そういうことになるのかもしれないが、そちらのお子さんのほうがもっと大変だと思うので。」
「も、申し訳ありません!これ以上、愚痴は漏らさないようにしますので!」
梅子は口ごもりながら、もう一度最敬礼した。
「まあいい。せっかく久々に外に出れたのだし、ここからもう少し歩いたところに新しい茶店ができたから、そこであんみつでも食べていくといい。心無いことを言う人はいるのかもしれないけれど、そういう人だけではないからね。それだけは、忘れないようにしてくれよ。」
「は、はい!わかりました。決していたしません!」
「それでは、まだ職務があるので失礼するが、くれぐれも、無理はしないようにな。」
「ありがとうございます。気軽に声かけてくれてすごくうれしいです。お嬢様にもどうぞよろしくお願いしますね。」
「こちらこそ、二人とも、体を大事に。」
「はい、わかりました。肝に銘じておきます。そのお言葉、裕さんにも言っていただきたいくらいですわ。乗り越えられない試練はないって、いつでも自分にいい聞かせておきますね。」
友子は、嬉しそうに返答して敬礼した。
「では失礼。また会おう。」
「どうもありがとうございます!」
友子は、旗本が一礼し、再び歩き出して、姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
「友子さんって、身分の高い人も関係なく相手ができるのね。やっぱり、廓にいたからそうなるのかな。」
友子が手を下ろすと梅子が不思議そうに言う。
「知らないわ。身分なんて、高かろうが低かろうが、悩んでいることがあるのはみな同じだし、両替屋でも旗本でも、問題のない家はないわよ。それを踏まえて私は話しているだけ。まあ、ある程度身分と偉さは合致することは確かだから、尊敬はしているけどね。」
「その答えが出るんだから、やっぱり廓の人ね。」
「まあ、そんなことはどうでもいい。大事なのはそれより答えを得ることよ。じゃあ、教えてもらった例の茶店に行ってみましょうよ。」
「茶店なんて、難しすぎるわ。どんな人が来ているか、わからないから、隣の席で悪口をいう人がいるかもしれないし。」
「いいえ、あたしが説明したんだから、そのうえで提案してくれたと思う。だから行きましょ。いつも同じ味のお茶ばかり飲んでいると、また頭が偏るわよ。」
友子は、不安そうな梅子の手を引いて、旗本に言われた通りの方向へ歩き始めた。
同じころ。
床に伏していた裕であったが、少しばかり熱が下がって、何かしたいという意思が出るようになった。
まだ少し頭のふらつきもあったにはあったが、何とかして布団に座ってみると、その視野にぼんやりと、主人の帰りを待っている須磨琴が見えた。久しぶりに弾いてみようかなと思いついて、寝間着の上から羽織を羽織って、布団から立ち上がり、須磨琴を載せた琴台の前に座ってろかんを右人差し指と、左中指にはめた。
適宜な調子に一本しかない絃を調弦し、例の通奏低音を奏でた。
すると、その音を聞きつけたのか、小さな子供が走ってくる足音がして、朗少年が入ってきて、裕の体に飛びついてきた。
「どうしたの、朗くん。」
勿論、言葉はない。でも、その笑顔は普通の子供以上にかわいらしいものである。
「あ、聞かせてほしいのですか。」
その笑顔をそう受け取って、裕はもう一度通奏低音を弾いた。
朗少年はさらに笑顔になる。あの、激しく泣くのとはえらい違いである。
「じゃあ、これならどうですか。」
裕が、あの時友子にも聞かせた、パッヘルベルのカノンを弾き始めると、朗少年はもっとやって、と言いたげに笑い声をあげた。そして、裕が弾いている、一枚の板に一本の絃を張っただけの楽器を興味しげしげに見つめている。そこで裕は、ある決意をした。曲が終わると、引き出しの中からろかんをもう一組取り出して、
「弾いてごらんなさい。」
と、朗少年の指にはめ、彼を須磨琴の前へ座らせた。勘所に千鳥の印が付いていて、一般的な須磨琴よりはわかりやすいかもしれないが、小さな子供が弾きこなせるかは別の話だ。しかし、彼は何も迷いもなしに、勘所に左手のろかんを当て、右手のろかんで絃をはじき始めた。それは、裕が弾いていた音とリズムと全く同じであった。どうやら観察している間に覚えてしまったらしいのだ。はじめからおしまいまで全くミスもない。弾き終われば、また初めから何回も繰り返す。
「す、す、すごい、、、!」
裕が驚いて声を上げたのも無視して、朗は弾き続ける。
「お父さん、お母さん、来てください!」
熱のことなどすっかり忘れて、裕は祖父母を呼びにいった。
「どうしたんだ?」
「裕、熱が下がるまで、寝てなくちゃだめじゃないの、、、。」
誠一と寿々子はそんなことを言うが、
「いや、そうじゃないんですよ。それどころではないんです!来てください!」
裕は、二人を自室へ連れて行った。近づくと、誰かが弾いているわけでもないのに、須磨琴の音が聞こえてきたので、誠一と寿々子は顔を見合わせた。そして、裕が障子を開けて、小さな演奏家の姿を見せると、もっと驚いた顔をした。
「あ、朗ちゃん!それは裕おじさんの、」
寿々子が慌ててやめさせようとすると、
「いや、最後まで聞かせろ!」
と、誠一が止めた。朗少年はそれを無視してカノンを弾き続ける。それは非常に正確で、指がもたついたり、音を間違えたりすることもなく、まるで裕が弾いているのをそのまま再現したようだった。
「一度弾いて聞かせただけなんですけどね。もうこんなに覚えてしまったようで、何回も弾いているんです。」
裕が説明すると、誠一は嬉しそうに頷いた。
「なるほど。そういうことか。」
「楽器を壊してしまわないか、心配なのですが、、、。」
寿々子は心配そうであるが、
「いや、それはかえって成長の妨げになる。これは素晴らしい能力を発見した。よし、明日もう一面一絃琴を買ってくる。確かそんなに高価ではないはずだから。これはひょっとすると、ほかの奏者よりもすごいものを奏でられるということかもしれないぞ。」
誠一は、もうそんな話をしていた。
「でも誰が教えるんですか。言葉が出ない子を受け入れてくれる教室なんてないでしょうに。千春先生に聞いてみますか?」
「いや、すぐ目の前にいるじゃないか。」
「え?と、いうことはつまり、、、。」
裕が思わずそう言った。
「そうだ、お前だよ。お前、師範免許持っているじゃないか。」
「だって、もらったのは何十年も昔ですよ。」
確かに、裕は十代の後半に師範の免状を取得していたが、すぐに体を壊して、社中は脱退してしまっていたのだった。
「いや、ああいうものは永久に効力を発揮するさ。お前の一番弟子だ。お前も、やっと弟子を持つことができたんだから、もう、意気地なしと呼ばれないようになれよ。」
誠一は、さらに上機嫌になってそんなことを言っている。裕は不安そうな顔をした。
「お父さん、僕みたいなものが、教えられるでしょうか。もっと、しっかりとした技術を持っている、家元の先生とかそういう人に、習わせたほうがいいんじゃありませんか。」
「いや、お前だって、役目をもらったんだから感謝しろ。いつまでもふてくされて寝ているようでは、つとまらないぞ。」
「どんどん進めて、、、。」
寿々子はまだ心配そうだったが、誠一は迷いがない様子だった。と、いう事は、今までさんざん厳しいことを言っていたけれど、実は誰よりも孫のことを心配していたのは、誠一だったのかもしれない。
「でもお父さん、僕は役目をもらったのかもしれませんが、新五郎はどうなるのでしょう。」
裕が発言すると、
「そうねえ、あれだけ感情をぶつけるとなるとね、、、。」
寿々子もそれに同調した。
「新五郎は気にしないでいい。以前、お前が言っていたように、新五郎は間違ったほうへ解釈している。それではいけないということを、あいつは口に出して言っても全くわかっていないから、この際だから態度で示すんだ。いいか、裕、お前はこれから一絃琴の先生として、稽古をつけろ。そして、朗を多少問題はあるが、一絃琴の奏者としては天下一という人間に育てるんだ。問題ばかりで、何も特技がなければ、本当にダメな人間になってしまうが、少なくとも立った一つだけ、そうは言えなくさせる要素を発見することができたんだからな。それを伸ばさないでどうするんだ。少なくとも、新五郎のやり方を続けていたら、朗は本当に心の曲がった、社会的に対応できない人間になってしまうだろう。きっと野上の旗本様だって、お嬢様を育てた時に、普通の子と違うということで大変悩んだと思うけど、何かできることを見つけたから、お嬢様をああいう明るい女性にさせることができたと思う。それをわしらもやるんだよ!」
「お父さん、それだったら、新五郎にも伝えて理解してもらわないと。阿部千春先生が、音楽は素晴らしい学問ではあるけれども、家族全員の理解がなければ上達しないと、おっしゃっていたことがありました。家族に一人でも無理解な人間がいると、どうしてもそこへ固執して、肝心の技術は身についていけないって。きっと、新五郎は阻止しようとすると思います。」
「そうなったら、わしが家長として、よく言い聞かせるから、とにかく裕、お前は、朗に徹底的に一絃琴の技術を叩き込むつもりで、教えてやれ!いいな!」
裕も寿々子も、返答に困って黙ってしまったが、
「そうね。そうするのが、朗ちゃんにとって一番なのかもしれないわね。」
寿々子はそういった。
「ほら、裕も、ここはお父さんに従ったほうがいいわよ。」
「はい、、、。」
裕は、まだ不安な気持ちと戦いながら頷いた。
その間にも、パッヘルベルのカノンは、何回も繰り返されて演奏され続けるのであった。
数日後。
梅子は、引きこもりがちになってしまっていた。
誰でも、こういう変わった子を持っていれば、必ず一度や二度は直面する問題なのだが、梅子もそうなってしまったのである。
それは何かというと、近所の人たちの評判に、彼女が耐えられなくなるということである。
まあ、人間という物は、時折こうなることがある。人の不幸を見て、自分はよかったと安心して、それをいいことに他人の悪口を言いふらす。どうも、そっとしてやろうということは、よほどえらい人でなければできないことの様なのだ。逆を言うと、他人より優れているというところがないと、人間は生きて行かれないらしい。人間が生きるということは片っ方はここがよく、片っ方はここが悪いという、言い合いの繰り返しである。それをしない人は、どんな人なんだと聞きたくなるほどである。
梅子が朗少年を連れて買い物に行ったりすれば、必ず近隣に住んでいる人たちは、彼女を見て嘲笑した。あの女が、子供を一人前に育てられないダメな女性だとか、子供を甘やかして、悪いほうに育ててしまったとか、そういうことを言いふらした。それをよそ眼に朗は、頭上を見つめたまま、歩き続けるのだった。梅子に手を引かれるとついてくることはついてくるが、通りかかった大八車の、車輪が回っているのを見て、それに強烈に興味を持ってしまって大八車を追いかけて迷惑をかけたこともある。鶏を見かければ、追いかけまわして飼い主に叱られたこともある。川にいる鯉を見つけると、着物が汚れることなど忘れて道端に寝そべり、鯉を触ろうとする。これらの問題を引き起こすと、叱られるのは朗本人ではなく、母親の梅子なのだ。大八車の運転手も、鶏を飼っている農家のおじさんも、鯉を釣ろうとしていた釣り人も、みな、梅子の教育が悪いと言って、彼女を責め立てた。毎回それが起こるので、梅子は、外へ出るのが嫌になってしまったのだった。
新五郎は、梅子からその報告を聞くと、朗を泣くまで叱り飛ばし、必ず最終的には手を挙げた。当然ながら、朗は泣き叫ぶが、これしか常識をわからせる方法はないと新五郎は主張していた。誠一は、そんな新五郎に叱りすぎるのもよくないぞと忠告したが、新五郎は、そういわれても、朗をなだめることはしなかった。
新五郎が、そうやってしかりつけていると、当然の如くとなりの家屋にもきこえてしまう。梅子はそれが嫌で仕方ない。でも、こうすれば、朗は正常に行動できるようになるから、それまで我慢しろと、新五郎はいう。それを待っていたが、朗はいつまでもそうはならない。友子が、いくらそんなことをしても無駄になるだけだと対抗するが、新五郎は、意思を曲げなかった。毎日毎日その繰り返しで、梅子はとうとう、部屋からほとんど姿を見せなくなった。まるで、天岩戸に籠ってしまった、女神のようだった。そうなると、朗の世話は、誠一や、寿々子がした。
「梅子さん。ご飯です。」
今日も友子が梅子の部屋のふすまを叩く。
「そこに置いておいて。」
「ダメですよ、梅子さん。今日こそはご飯を食べてもらわないと。そこに置いておいてっていいながら、一度も食べてないでしょう。一人でいると、どうせ食べないで窓から捨てるかも知れないから、みんなと一緒に食べてもらいますよ!」
ちょっと強気になって友子は言った。
「あたし、会わせるかおがありません。みんな、私のこと、責めるでしょう?」
不意に、どこからか、誠一もやって来て、ふすまをたたいた。
「梅子さん、甘えていてはならんぞ。親なんだから、しっかりしなければ。」
誠一は厳しかった。
さすがの梅子も誠一には逆らえないようで、仕方なくふすまを開けて、部屋を出てきた。
食堂へ入ると、寿々子が先に朗と一緒に食事をしていた。と言っても朗はまだ手づかみのままだった。寿々子は、何か押し問答をしたらしい。かなり疲れている様子だ。
「今日は、いつも手づかみだから、お結びにしてみたんだけど。」
確かに、朗は茶碗に入ったご飯ではなく、握り飯を食べている。
「そうしたら、新五郎がすごい剣幕で怒りだして。甘やかすといけないからって。」
「でも、お母様の判断は間違っていないと思いますよ。だって、そうすれば汚さないで食べられるんですから。よいほうに解釈しないでどうします。こういう子は無理やり普通の子に合わせようとするのが間違いだって、あたしは思いますけどね。」
友子がまた顔にご飯粒をつけながらそう言った。
「そうねえ。私は、そうしてあげたほうが、かえって朗ちゃんの為にはいいと思うんだけどね。」
それにこたえるかのように、朗はにこりとして祖母に笑い返した。
「友子さん、裕はどうしてる?」
「布団で寝てますよ、お父様。」
ご飯をかきこみながら、友子がそういった。裕は一週間以上、高熱でうなされてしまい、二日前にやっと熱が下がったが、それでもまだ体が熱く、微熱が続いていた。
「まったく。裕も本当に情けない男だ。夜中にこっそり神頼みをしていたなんて。」
実はそうなのである。熱が下がった裕本人がそう言ったのであるが、朗を何とかして正常にしてくれと、毎晩毎晩、井戸端へ行き、井戸の冷たい水を全身にかけて祈りをささげていた。そうなれば、熱が出ても仕方なかった。
「情けないなんていうべきではないですよ。裕も裕なりに、悩んでいたんでしょうから。」
寿々子が、母親らしく彼を擁護するが、
「いや、男なら、神頼みをする前に、何とかしようと対策を考えるのが先決だ。それが、あまりにも非現実的なことをして、挙句の果てに熱を出すとは、全く意気地なしも度を越している。あきれてものも言えない。」
誠一はがっくりと肩を落とした。
「そういう男らしくないのが、裕さんなんですよ。幸い、私はこんなに元気で、毎日ご飯もきちんと食べてますから、心配しないでください。」
友子だけはこのような状況でもいつもと変わらず、三杯目のご飯を食べ始めていた。
「友子さんは、いつでもどこでも健康そのものなんて、ある意味超人だわ。」
梅子は小さな声でつぶやいた。
「食べないのと、外へ出ないから悪いのよ。」
「でも、外へ出れば近所の人が、悪いことを言うし。」
「あら、丸野さんは言わないし、野上の旗本様も応援するって言ってたわよ。悪いほうを数えるのではなく、よい人たちを数えていったほうがいいわ。」
友子は、ご飯粒をつけたまま、みそ汁に手を付けていた。
「あたしにはとてもそんなこと。」
「いや、梅子さん、こういうときは友子さんのほうが正しいぞ。どうしてもだめな時というのは必ずある。そういう時は、少しばかりの可能性だけを頼りにして生きていかなくちゃいかん。変に、何とかなるさとか楽観的になることもいけないし、逃げてもいけない。こういう時はしのぐしかないのさ。それができないと、裕みたいに、さらに他人に迷惑をかけることになるからな。」
「おあいにく様ですが、お父様。私は、裕さんを責める気は毛頭ありませんのよ。大事なことはね、何が悪いかを追求していくより、いつもと同じご飯が食べられることじゃないかしら。」
「まったく、友子さんは時折すごいことを言うのね。」
「まあ、廓の中でそういう習慣が身に着きました。あそこは、女の闘いの場でもありますから。」
友子があっさりと答えを出すので、寿々子も感心してしまうのであった。
「でも、もうそういうことは考える気はありません。あたしはもう散茶ではなくなりましたからね。ほら、食べてくださいよ。でないと、本当にダメになりますよ。」
梅子は、渋々箸を取り、いつものように途方もなくまずいご飯を口にした。悪阻の時にもご飯はまずくて気持ち悪いものだったが、今のほうがもっとまずいような気がした。
「少し、気分転換に外でも出たらどうなんだ?そのほうが、気がまぎれて少し清々とするかもしれないぞ。」
誠一がそんなことを提案して、梅子はぎょっとした。
「お父様、それはやめてください!」
「いいことじゃない。そのほうがずっといいわよ。私も賛成。」
友子も誠一に加担した。
「でも、朗の世話もあるし。」
「都合のいいときだけ子供を利用するなんて、そんな我儘は大人とは言えないわ。朗ちゃんは私が見てあげるから、ちょっと散歩にでも出てみたらどうなの?」
寿々子はできるだけ叱らず、優しい口調で言った。
「いや、怖いですよ、お母様。」
「怖いって何が?」
「人の、目せんとか、声とかそういうものです。もう、すぐに悪口が飛んでくるのではないかって考えると、もう怖くてたまりません。」
「梅子さん。そんな我儘、通用すると思うなよ。わしらは、どんなに避けようとしても、人の間で生活しなければならないんだから。完全に一人になるなんて、できやしないのさ。仮にその通りになったとしても、人間は完全な生き物ではないから、必ずどこかで人の手が必要になる。そういう物なんだから、他人を怖いなんてそんなことは言ってはいけない。悪口をいう人は多いかもしれないけれど、そんなことに惑わされて、閉じこもることを繰り返していたら、さらに悪口を増大させることを覚えておきなさい。」
「ごめんなさい、お父様。私、もう、この世に自分一人ならいいのになって思ってしまいました。」
「ああ、そんなことは、絶対無理だから、あきらめるべきね。人間一人では絶対生きていけないようにできてるんだから。何かを遮断して、一人きりで暮らすなんて考えても、必ずどこかでぼろが出るわよ。もし、一人で出るのが、どうしてもだめだったら、私も今日は用事もないし、一緒に行くわ。」
「散歩ごときで、友子さんが同伴する必要もないんだけどね。強くならなければならないのは梅子さんなので、かえってその邪魔をする。」
「いいえ、お父さん、そこまで厳しくしたらかわいそうです。今回は友子さんに一緒に行ってもらいましょう。じゃあ、ご飯食べたら、二人そろって、散歩に出て行っていらっしゃいな。」
「はい、わかりました、お母様。」
友子はそう返答して茶碗に残っているご飯を一気にかきこんだ。梅子も、渋々とご飯を口にした。
新五郎は、寿々子と押し問答をしたあと、すぐにご飯を黙って食べ、予定されていた買取に行ってしまったので、そこにはいなかった。もしかしたら、いないほうがよかったかもしれない場面であった。
二人はご飯を食べ終わって外へ出た。梅子が外履きのぞうりを履いたのは、実に久しぶりだった。友子が先導して道路を歩き始めた。いくつかの住宅の前を通ったが、梅子が言っているような悪口を言う人は全く見かけられなかったし、悪口が聞こえてくることもなかった。
「ほら、だれもいないじゃない。私たちのことを悪く言う人なんてさ。」
友子は明るくそういったが、
「誰にも会わないからそう言えるのよ。人に出会えばたちまち、悪口が飛び出してくるわ。」
と、梅子は返事を返した。まるで、必ずそうなると、確信しきっている言い方だった。
「じゃあ、具体的に聞こえてくる?」
友子が聞くと、梅子は黙ってしまう。
「よく周りを見なさいよ。何も聞こえてこないでしょう。それを聞こえてくると勝手に決めつけたら、弄斎と同じことになっちゃうわよ。」
確かに、実際になっていないのに、音が鳴っていると主張すると、幻聴という症状に結び付く。ひどくなると、そのほうが正しいと主張し、二度と正常な世界に帰ってこれなくなる。そうなったら、人間として非常に厄介な事態が起きる。
「どう?聞こえてくる?正直に答えて。」
「、、、来ないわ。」
梅子は小さな声で言った。
「でしょう。まあ、多かれ少なかれ悪口は言われたのかもしれないけど、本当に言われたのはその時だけなのよ。あとは、何も聞こえてはこないわ。そればっかり考えているから、聞こえてくるように感じるだけ。きっと、近所の人たちも、さほど気にしてはいないわよ。人の噂も七十五日。それを頭に叩き込んでいくことね。そして、また聞こえてくるような気がしたら、私、いつでも付き合うから、こうして確認作業に出ましょうね。」
友子が明るく言うと、
「ほら、人が来た!」
梅子は急に前方を見て固まった。
「きっと私に、毎日うるさいって文句言いに来た、隣のおばさんよ。」
友子も前方を見たが、確かに向こうから人が歩いてくるのが見える。しかし、文句を言いに来た隣のおばさんとは明らかに風貌が違っている。もっともっと立派な着物を着て、大小の刀を腰に差した男性であった。
「何だ、違うじゃない。あれは野上の旗本様。隣のおばさんではないわ。」
「旗本様までうるさいと苦情を言いに来たのかしら?」
「違うわよ。何でもそれに結び付けて考えるなんて、引きこもりも度が過ぎてるわよ。お偉い方が、そんなことを言うわけがないでしょう。そう決めつけるのも無礼というものよ。普通にご挨拶をすればそれでいいの!」
「でも、怖い。なんかそういうことを言われてしまいそうで、、、。」
「怖いわけがないでしょうが。私、確かめてあげるわ。よく聞いていなさいよ!」
友子は、旗本がもう少し近づいてくると、腕を高く上げて、こうあいさつした。
「野上様、おはようございます!」
梅子は友子の後ろで小さくなっている。きっとお叱りが出るとまだ思っているのだろう。
「ご精が出ますね。」
「ほら、悪口ではなかったでしょう。梅子さんも挨拶なさいよ!」
友子は、旗本のことばを聞いて、手を下ろし、そのまま梅子の背を突いた。
「お、おはようございます!」
こわごわご挨拶をする梅子。
「いったいどうしたんだね。なんだか熊に遭遇したように縮こまって、、、。」
「ごめんなさい。梅子さん、ずっと調子が悪かったんですが、今日久しぶりに外へ出たから、武者震いが出たんですよ。」
友子は、明るいまま説明した。
「そうかそうか。お子さんがすごく大変なようで、苦労しているみたいだが、何も協力できないのが心残りだ。まあ、私も、娘の花子が生まれて数年は、かなりの試練を乗り越えなければならなかったことは確かなので、多少傾聴することくらいならできるかもしれないから、遠慮なく言いなさいよ。」
「ほら、今のことば聞いた?」
友子が、梅子に聞く。
「悪口だった?」
再度確認した。
「い、い、いいえ、もったいなきお言葉です!」
梅子は、慌てて最敬礼する。
「ああ、ごめんなさい。梅子さんちょっと、気やみの気があるんです。何でも、近所の方から心無いことを言われたみたいで、それが頭にこびりついてしまっていて。みんなが、その一言を言うからと言って、外へ出ないので、じゃあ、本当なのかどうか真偽を確かめようと、私が連れだしたところなんですよ。」
友子が詳しく説明すると、旗本もこれを理解してくれたようで、
「ああなるほど。私も、経験したことがあるが、大変なお子さんを持つと、必ず通り抜けなければならない関門に直面したということなんだね。必ずこれは乗り越えなければならないが、乗り越えられない試練はないという格言もあるくらいだから、きっと必ず乗り越えることもできるだろう。忘れてしまえとか、気にするなという励ましは、何も役には立たないし、ただ、時期が過ぎるのを待つしか方法はないということも知っているので、こうしろとかああしろということはできないが、くれぐれも、体には気を付けて、無理をしてはならないぞ。」
と言ってくれた。
「ありがとうございます。野上様も大変だったと思いますから、そのお言葉が言えることも、知っております。お嬢様をあそこまで育てるのは、本当にたいへんだと思いますもの。」
「まあ確かに、そういうことになるのかもしれないが、そちらのお子さんのほうがもっと大変だと思うので。」
「も、申し訳ありません!これ以上、愚痴は漏らさないようにしますので!」
梅子は口ごもりながら、もう一度最敬礼した。
「まあいい。せっかく久々に外に出れたのだし、ここからもう少し歩いたところに新しい茶店ができたから、そこであんみつでも食べていくといい。心無いことを言う人はいるのかもしれないけれど、そういう人だけではないからね。それだけは、忘れないようにしてくれよ。」
「は、はい!わかりました。決していたしません!」
「それでは、まだ職務があるので失礼するが、くれぐれも、無理はしないようにな。」
「ありがとうございます。気軽に声かけてくれてすごくうれしいです。お嬢様にもどうぞよろしくお願いしますね。」
「こちらこそ、二人とも、体を大事に。」
「はい、わかりました。肝に銘じておきます。そのお言葉、裕さんにも言っていただきたいくらいですわ。乗り越えられない試練はないって、いつでも自分にいい聞かせておきますね。」
友子は、嬉しそうに返答して敬礼した。
「では失礼。また会おう。」
「どうもありがとうございます!」
友子は、旗本が一礼し、再び歩き出して、姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
「友子さんって、身分の高い人も関係なく相手ができるのね。やっぱり、廓にいたからそうなるのかな。」
友子が手を下ろすと梅子が不思議そうに言う。
「知らないわ。身分なんて、高かろうが低かろうが、悩んでいることがあるのはみな同じだし、両替屋でも旗本でも、問題のない家はないわよ。それを踏まえて私は話しているだけ。まあ、ある程度身分と偉さは合致することは確かだから、尊敬はしているけどね。」
「その答えが出るんだから、やっぱり廓の人ね。」
「まあ、そんなことはどうでもいい。大事なのはそれより答えを得ることよ。じゃあ、教えてもらった例の茶店に行ってみましょうよ。」
「茶店なんて、難しすぎるわ。どんな人が来ているか、わからないから、隣の席で悪口をいう人がいるかもしれないし。」
「いいえ、あたしが説明したんだから、そのうえで提案してくれたと思う。だから行きましょ。いつも同じ味のお茶ばかり飲んでいると、また頭が偏るわよ。」
友子は、不安そうな梅子の手を引いて、旗本に言われた通りの方向へ歩き始めた。
同じころ。
床に伏していた裕であったが、少しばかり熱が下がって、何かしたいという意思が出るようになった。
まだ少し頭のふらつきもあったにはあったが、何とかして布団に座ってみると、その視野にぼんやりと、主人の帰りを待っている須磨琴が見えた。久しぶりに弾いてみようかなと思いついて、寝間着の上から羽織を羽織って、布団から立ち上がり、須磨琴を載せた琴台の前に座ってろかんを右人差し指と、左中指にはめた。
適宜な調子に一本しかない絃を調弦し、例の通奏低音を奏でた。
すると、その音を聞きつけたのか、小さな子供が走ってくる足音がして、朗少年が入ってきて、裕の体に飛びついてきた。
「どうしたの、朗くん。」
勿論、言葉はない。でも、その笑顔は普通の子供以上にかわいらしいものである。
「あ、聞かせてほしいのですか。」
その笑顔をそう受け取って、裕はもう一度通奏低音を弾いた。
朗少年はさらに笑顔になる。あの、激しく泣くのとはえらい違いである。
「じゃあ、これならどうですか。」
裕が、あの時友子にも聞かせた、パッヘルベルのカノンを弾き始めると、朗少年はもっとやって、と言いたげに笑い声をあげた。そして、裕が弾いている、一枚の板に一本の絃を張っただけの楽器を興味しげしげに見つめている。そこで裕は、ある決意をした。曲が終わると、引き出しの中からろかんをもう一組取り出して、
「弾いてごらんなさい。」
と、朗少年の指にはめ、彼を須磨琴の前へ座らせた。勘所に千鳥の印が付いていて、一般的な須磨琴よりはわかりやすいかもしれないが、小さな子供が弾きこなせるかは別の話だ。しかし、彼は何も迷いもなしに、勘所に左手のろかんを当て、右手のろかんで絃をはじき始めた。それは、裕が弾いていた音とリズムと全く同じであった。どうやら観察している間に覚えてしまったらしいのだ。はじめからおしまいまで全くミスもない。弾き終われば、また初めから何回も繰り返す。
「す、す、すごい、、、!」
裕が驚いて声を上げたのも無視して、朗は弾き続ける。
「お父さん、お母さん、来てください!」
熱のことなどすっかり忘れて、裕は祖父母を呼びにいった。
「どうしたんだ?」
「裕、熱が下がるまで、寝てなくちゃだめじゃないの、、、。」
誠一と寿々子はそんなことを言うが、
「いや、そうじゃないんですよ。それどころではないんです!来てください!」
裕は、二人を自室へ連れて行った。近づくと、誰かが弾いているわけでもないのに、須磨琴の音が聞こえてきたので、誠一と寿々子は顔を見合わせた。そして、裕が障子を開けて、小さな演奏家の姿を見せると、もっと驚いた顔をした。
「あ、朗ちゃん!それは裕おじさんの、」
寿々子が慌ててやめさせようとすると、
「いや、最後まで聞かせろ!」
と、誠一が止めた。朗少年はそれを無視してカノンを弾き続ける。それは非常に正確で、指がもたついたり、音を間違えたりすることもなく、まるで裕が弾いているのをそのまま再現したようだった。
「一度弾いて聞かせただけなんですけどね。もうこんなに覚えてしまったようで、何回も弾いているんです。」
裕が説明すると、誠一は嬉しそうに頷いた。
「なるほど。そういうことか。」
「楽器を壊してしまわないか、心配なのですが、、、。」
寿々子は心配そうであるが、
「いや、それはかえって成長の妨げになる。これは素晴らしい能力を発見した。よし、明日もう一面一絃琴を買ってくる。確かそんなに高価ではないはずだから。これはひょっとすると、ほかの奏者よりもすごいものを奏でられるということかもしれないぞ。」
誠一は、もうそんな話をしていた。
「でも誰が教えるんですか。言葉が出ない子を受け入れてくれる教室なんてないでしょうに。千春先生に聞いてみますか?」
「いや、すぐ目の前にいるじゃないか。」
「え?と、いうことはつまり、、、。」
裕が思わずそう言った。
「そうだ、お前だよ。お前、師範免許持っているじゃないか。」
「だって、もらったのは何十年も昔ですよ。」
確かに、裕は十代の後半に師範の免状を取得していたが、すぐに体を壊して、社中は脱退してしまっていたのだった。
「いや、ああいうものは永久に効力を発揮するさ。お前の一番弟子だ。お前も、やっと弟子を持つことができたんだから、もう、意気地なしと呼ばれないようになれよ。」
誠一は、さらに上機嫌になってそんなことを言っている。裕は不安そうな顔をした。
「お父さん、僕みたいなものが、教えられるでしょうか。もっと、しっかりとした技術を持っている、家元の先生とかそういう人に、習わせたほうがいいんじゃありませんか。」
「いや、お前だって、役目をもらったんだから感謝しろ。いつまでもふてくされて寝ているようでは、つとまらないぞ。」
「どんどん進めて、、、。」
寿々子はまだ心配そうだったが、誠一は迷いがない様子だった。と、いう事は、今までさんざん厳しいことを言っていたけれど、実は誰よりも孫のことを心配していたのは、誠一だったのかもしれない。
「でもお父さん、僕は役目をもらったのかもしれませんが、新五郎はどうなるのでしょう。」
裕が発言すると、
「そうねえ、あれだけ感情をぶつけるとなるとね、、、。」
寿々子もそれに同調した。
「新五郎は気にしないでいい。以前、お前が言っていたように、新五郎は間違ったほうへ解釈している。それではいけないということを、あいつは口に出して言っても全くわかっていないから、この際だから態度で示すんだ。いいか、裕、お前はこれから一絃琴の先生として、稽古をつけろ。そして、朗を多少問題はあるが、一絃琴の奏者としては天下一という人間に育てるんだ。問題ばかりで、何も特技がなければ、本当にダメな人間になってしまうが、少なくとも立った一つだけ、そうは言えなくさせる要素を発見することができたんだからな。それを伸ばさないでどうするんだ。少なくとも、新五郎のやり方を続けていたら、朗は本当に心の曲がった、社会的に対応できない人間になってしまうだろう。きっと野上の旗本様だって、お嬢様を育てた時に、普通の子と違うということで大変悩んだと思うけど、何かできることを見つけたから、お嬢様をああいう明るい女性にさせることができたと思う。それをわしらもやるんだよ!」
「お父さん、それだったら、新五郎にも伝えて理解してもらわないと。阿部千春先生が、音楽は素晴らしい学問ではあるけれども、家族全員の理解がなければ上達しないと、おっしゃっていたことがありました。家族に一人でも無理解な人間がいると、どうしてもそこへ固執して、肝心の技術は身についていけないって。きっと、新五郎は阻止しようとすると思います。」
「そうなったら、わしが家長として、よく言い聞かせるから、とにかく裕、お前は、朗に徹底的に一絃琴の技術を叩き込むつもりで、教えてやれ!いいな!」
裕も寿々子も、返答に困って黙ってしまったが、
「そうね。そうするのが、朗ちゃんにとって一番なのかもしれないわね。」
寿々子はそういった。
「ほら、裕も、ここはお父さんに従ったほうがいいわよ。」
「はい、、、。」
裕は、まだ不安な気持ちと戦いながら頷いた。
その間にも、パッヘルベルのカノンは、何回も繰り返されて演奏され続けるのであった。
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