かのん

増田朋美

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第三話 初孫誕生

第二節

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初孫誕生第二節
「こんにちは!」
丸野さんが、また増田屋にやってきた。
「こんにちは。また来たんですか。今日は何の用で?」
今日は、裕が一人売り台に座っていた。
「あれ、新五郎ちゃんは?」
「ああ、さっき買い取りに行きました。」
増田家では、両替だけではなく、質屋としての業務も兼ねていた。時折、遠方まで不要品の買取に行く事もあった。その担当は専ら新五郎の役目であった。
「そうかあ、喜ばせようと思ったのになあ、、、。」
丸野さんは残念そうだった。
「喜ばせるって何をです?」
「だから、出産祝いだよ。うちの仲居の一人で、裁縫のうまいものが作ったんだよ!」
と、丸野さんは、桐の箱を差し出して、ドカッと上がり框にすわった。
「きっと必要になると思ってね、一つ身の単衣長着。」
「丸野さん、生まれるのは半年以上先で、冬になってからです。それに、男か女かもわからないし、冬は単衣の季節ではありませんよ。」
「いいじゃないか、こういうものは早ければ早いほどいいんだ。男でも女でもはじめは同じようなもんだから、どっちでも使えるように、水色にしておいた。」
「そうですか。きっと、新五郎が見たら大喜びすると思いますので、受け取っておきます。僕が代理で渡しておきますね。」
「ああ、すまんすまん。まあ、心を込めて縫わせたので、ぜひ使ってやってくれよ。で、裕ちゃん、梅子ちゃんは大丈夫なのかい。」
丸野さんはちょっと心配そうに言った。梅子はこの数か月の間寝たきりに近い状態であったからだ。
「そうですね。母の話によると、もう少ししたら立てるようになるというのですが、それがいつになるのか、全くわからないですね。友子さんが側にいてくれていますけど、一時は、子殺しに走りそうになるほどひどい物でしたよ。」
「そうかそうか。まあ、野上の旗本さまが、悪阻が酷ければひどいほど丈夫な子が設けられる可能性が高くなることから、女が自身を守るためのものでもあると言っていたから、梅子さんもそういう事になるのだろう。本人はものすごくつらいだろうが、しばらくの辛抱だと思って、頑張って耐えてくれよ。」
「わかりました。まあ仕方ないですね。僕らにはわからないことですから、そっとしておいてあげましょう。」
「でもな、裕ちゃん、もし、危ないことになったら、放置してはだめだぞ。そういうときは男も女も関係なく、赤ん坊を守ることに徹しろよ。でないと、うちみたいになるからね。」
そう言えばそうだった。丸野さんには後継者はいなかった。従業員こそ数多いが、直系の後継者というものはない。
「そうでしたね。あの時は、大騒ぎでしたよね。僕もまだ幼かったので、何もわからなかったですけど、今思えば相当悲しかったでしょう。」
丸野さんが男泣きに泣いた日を、裕も覚えていた。新五郎は、まだ幼すぎて記憶していないかもしれない。でもきっと、丸野さんには、一番の衝撃だったのだろう。丸野さんはそのあと、一度も再婚していないのだから。あのあと、寿々子が、丸野さんを阿部先生の下へ連れて行き、しばらくそこで静養させ、外の刺激を絶つなんてこともして、丸野さんはやっと立ち直ったのである。
「身ごもった女は、強いように見えるけど、自分では何もできない者でもあるんだ。だから周りがしっかりと支えてやらなくちゃ。でないと、本人も赤ん坊もなくすことになるからな。子供ができるってことは、普通の事ではなく、天下国家の是非もかかった大仕事という事でもあるんだぜ。」
「確かにそれをめぐっての争い事も多いですものね。逆を言えば、お家騒動が起きるのはある意味幸せなことですよ。」
裕も、それに加担するように言う。こういう発言は、おそらく事情を抱えた人間でないとできないことである。
「じゃあ、これを置いておくから、新五郎ちゃんに必ず渡してくれ。そして、何かあったら必ず相談に来いと言ってくれ。さて、仕事があるので一先ず帰るかな。」
「あら、今日は、両替はしないんですか?」
「ああ、早くこれを渡したくて、来ただけだから、両替はしないよ。」
「そうですか。それはすみません、わざわざ心遣いありがとうございます。」
裕は、丁寧に座礼した。
「じゃあ、うちに帰るかな。またな!」
丸野さんは、よっこらしょとたち上がって、店を出て行った。
一方。
「ご飯ですよ。食べられるときは食べて、元気をつけましょうね。あんまり寝てばかりいるのは、かえって難産になっちゃうわよ。」
おかゆの入った鍋をお盆にのせて、友子が部屋に入ってきた。梅子は布団で寝ている。ご飯なんて何十日も食べられなかった。ひどい時には重湯すらのどを通らなかった。最近になって、やっと葛湯を食べるようになって、今は時折、運が良ければ全粥を食べるくらいだ。
友子が枕元に鍋を置くと、梅子は布団に顔をうずめようと思ったが、今日はいつものような強烈な吐き気は催さなかった。友子も、すぐに吐き出してしまうのではないかと身構えていたが、今日はそれがないので、少しばかり安定してきたのかなと推量できた。
「あら、今日は大丈夫じゃない。よし、食べよう。」
友子は、おかゆを茶碗に入れて、梅子の前へ突き出した。梅子は起き上がってそれを受け取った。受け取っても吐き気はしなかった。匙も受け取って口元へもっていっても吐き気はしない。口に入れると、何十日ぶりにおいしいと感じることができた。
「あぶない時期は通り過ぎたかなあ。食べられるんだから。」
友子も、そのさまを見て一先ず安心した、という感じである。まあ、時間は経っているので、時期も過ぎていくのはある意味では当たり前であるが、それがこんなにうれしいことであるのは、こういう時くらいなものである。
「よかった。食べれるようになったんだから、先ず、第一関門は突破したわ。」
それを無視して、梅子はやっと普通に粥を食べているのである。
「次は普通のご飯に挑戦ね。お母様にそう言ってくるわ。」
「ありがとう。」
梅子は、照れくさそうに礼を言った。
「じゃあ、久しぶりに外出ようか?」
友子が突拍子もなくそういう事を言った。すぐに次の案が登場してくるのも、彼女の特性と言えるところであった。
「外って、まだ、そこまで安定はしてないわよ。」
梅子は反対したが、
「いいえ、安定してきたら、積極的に動いたほうがいいわよ。もちろん一人では危ないでしょうから、私も一緒にいくわ。ちょっと店の周りを散歩してみましょうか。気分悪くなったらすぐに帰れる距離で。」
友子は肩に着けていたタスキをほどいて外出用の姿になった。
「友子さんは駒を進めるのが早いのね。でも、、、ちょっと恥ずかしくないかしら。」
「まあ、まださほど目立つわけでもないわよ。それに、なんで恥ずかしがる必要があるの?」
本人は少しばかり腹が膨れたというが、外から見れば、あまり気にはならない程度であった。
「大事なものができるんだもん、堂々としてればいいでしょ。」
「そういえばそうね。友子さんはすぐに、答えが出せてすごいわね。じゃあ、久しぶりに、私も外へ出てみようかな。」
「そうそう、何をするにも前向きにいくことが肝要よ。」
「そうね。」
梅子は、おいしそうにおかゆを食べ続けて、遂に完食することかできた。完食するのは久しぶりの事だ。まさしく、妊娠悪阻の時期は突破したと言える。そうなれば、積極的に運動をするべきだろう。梅子を診察した医師がそう言っていた。
「完食したのが、100年以上前の事みたい。」
といたずらっぽく笑うほど、梅子の悪阻はひどかったのであった。
「よし、じゃあ、食後の散歩に行きましょうか。はじめは、近場から始めてね。」
「はい!」
梅子の顔から、久々に笑みがこぼれた。
寿々子も、梅子が完食したという知らせを聞いて大喜びし、友子の外を歩かせたいという申し出を、快く承諾してくれた。二人は、外出用の草履をはいて、増田屋の裏口から外へ出た。
確かに、梅子の腹は少しばかり出っ張っていて、恥ずかしいと感じるのもわかるくらいだった。
「もう動くの?」
友子が聞くと、
「ううん、まだよ。本人は動いているのかもしれないけど、私にはさっぱり。」
と答えが返ってきた。
「そう。」
その時はそれでよかった。
「でも、やっぱり、外に出てみると気持ちがいいわね。布団でずっと動けなくなっているより、時間がずっと早く経っているみたい。」
道路を歩きながら梅子はそんなことを言っている。友子は、それを聞いて少し安心した。
向こうから、豪華なピンク色の着物を身に着けた若い女性の姿が見えた。一人、女中を従えていた。
「野上のお嬢様だわ。久しぶりに食わず嫌いで寝込んでいたようだけど、元気になったみたいね。」
梅子は知らなかったが、確かにそうなっていたのだろう。野上花子の顔には、まだ、かきむしった跡がみられる。
「化粧をしていないのに、あんなにかわいらしくてうらやましい限りだわ。やっぱり、偉い人は違うわね。」
梅子がそっとつぶやくと、女中のおばさんが聞きとって、
「何がうらやましいって?」
と言い寄ってきた。
「あ、ああ、これは失礼しました!」
友子と梅子はその場で止まって敬礼した。
「もう、お嬢様の体について、無礼な発言はやめてくださいませよ!」
「はい。ごめんなさい。それよりも、久しぶりにお会いしましたね。もう、お体のほうは大丈夫ですか?」
友子が、そう聞くと、
「ええ。油を使ったものはやっぱりだめね。これから気を付けるわ。」
花子はにこにこして自ら答えた。
「それより今日はどこへ行くんですか?」
「いま、高尾山に行って帰るところなの。」
「いいですね!山はいつでも心癒してくれますからね。」
「でも、高尾山のとろろそばよりも、宇多川さんのそばのほうがおいしいわ。」
「そうですか!それ、宇多川先生も喜ぶと思いますわ。私、お伝えしておきますね。それよりも、お嬢様、その桃色のお着物どうなさったのです?今まで見たことがなかったものですから、思わず聞いてしまいましたの。」
「ちょっとあなた、似合わないとでもいうの!」
女中さんが、強い口調で言う。まあ確かに、無礼な発言と言えなくもないのだが。
「いいえ、お父様が、私が静養している間に買ってきてくださった着物です。」
花子は、女中さんの心配を無視していった。
「あ、そうなんですか。似合わないなんて毛頭ございませんよ。私たちは、化粧をしなくても、お奇麗なので、うらやましいと話しておりました。本当に、素敵なんですから、どうぞ、悪い方には取らないでくださいね。」
「ええ、友子さんの事ですもの、人の事を悪くいう事は、決してしないことは知っているから、どんどん、感想を言ってくださって結構よ。時には似合わないと、はっきり言ってくれたっていいわ。」
二人とも、互いを信用しきっているらしい。そのような関係を持てるのもうらやましいが、二人の会話を聞いていて、梅子は衝撃的なことがあった。
「お嬢様、早くしませんと、お父様が決めた、帰宅時間に間に合わなくなります。」
「あ、そうだったわね。なんだか久しぶりにお話ができて、名残惜しいわ。じゃあ、これで失礼するわね。お屋敷にも遊びに来て!」
「はい。必ず参ります。お嬢様、これからも油物は控えてくださいませ。」
「ええ、もうこりごりよ。着物が触るだけでもかゆくて仕方ないんだから。」
「ほら、早く行きましょう。急がないと、、、。」
女中さんが、口をはさんだ。
「ああ、ごめんなさい。じゃあ、また会いましょうね!」
「はい!必ず!」
花子と友子は互いに肩を叩きあった。そして、花子は女中さんと一緒に、二人の前を通っていった。
「友子さんいつの間に旗本のお嬢様と仲良くなったの?」
梅子は、妬みというものは生じなかった。それよりも、衝撃的なことが一つある。
「知らないわ。勘定したことがないから。お嬢様の方からこっちへ声をかけてきた感じだから。」
いつもののんきな口調で友子は答える。
「ねえ友子さん、私、すごく心配なことが一つあるんだけど。」
「どうしたの?」
「でも、こんな心配、贅沢かしら?」
「何よ、贅沢かそうでないかは、口にしなければわからないわ。すぐに話して頂戴。」
「でも、これを言って、怒ったりするかもしれないし。」
「だから、いわなきゃわからないでしょ。」
「そうよね、、、。」
梅子は、いきなりこう切り出した。
「じゃあ、言ってみるけど、、、。私、不安で仕方ないの。さっきお嬢様が、ほら、新しい着物をお父様に買ってもらったって言ったでしょ。普通、特別な時は、誰かに何かくれたりするもんだけど、うちの人は一度もそれがないのよ。」
「まあ、あたしたちと旗本様は、全然違うしね。不安に思う事でもないと思うけど?」
友子は、一度わざとそう言ってみた。なぜ、いきなりこんなことを言いだすのだろう。
「でも不安なの。私が寝込んでいた時も、うちの人、一度も声をかけてくれなかったし。だから、やっぱり、奇妙な子を産んじゃうんじゃないかな。」
結局またそれか。
「だから、私に何もよこさないんじゃないかしら。きっと、変な子供を作るなよっていうしるしじゃないかしら?」
確かに、そばがきを梅子に与えて以降、新五郎は何も梅子に贈り物はしていなかったことは間違いない。新しい家族のための生活用品などを調達したのは、主として裕か、寿々子、家長の誠一であった。みごもった女性は、ありとあらゆることに過敏になることは友子も知っていたが、これを気にするとは、少し変になったのではないかと思われるほどであった。
「だって、あのお嬢様に一番近いのは、野上の旗本様であるから、お嬢様が旗本様から着物をもらうのは、ある意味では当然の事よ。それにあのお嬢様は、食わず嫌いのせいで、幾度も危ない目に会ったわけだから、きっと心配してもらっているのでしょう。でも、うちの人は、私のこと心配していないのかしら。それでは、私、やっぱり、うちの人から、必要とは思われていないのかな、、、。赤ちゃん、やっぱり変な子だったらどうしよう!もしかしたら、、、。」
梅子は、みるみる不安な顔になり、わっと泣き出してしまった。
「何を言っているの。新五郎さんは、あれから買い取りの仕事で忙しくなってしまって、そういう事をする余裕がないだけよ。ただ、そこが違うだけ。きっと、買取の仕事が落ち着いたら、何でも持ってきてくれるわよ。大丈夫だから!」
友子はそう言って梅子を励ますが、効果はなかった。
「最近では相模原のほうまで行ったり、日立へ行ったり、房総の方へ行く事もあるし、帰ってきたと思ったらまたすぐ出て行くことも多いじゃない。それだけの事。きっと頭の中ではちゃんと、考えているわよ。新五郎さんは、頭も固いし、あの顔だから、他の女に騙されることもまずないでしょう。ほら、もしかしたら、赤ちゃんも、いつまでもめそめそしているから、動くのも嫌になっているのかもしれないわ。泣いていないで、明るくなってよ!」
それでも梅子は泣くばかりだった。友子は帰ろうかと言って、彼女の手を取り、方向転換して店に戻っていった。
確かに、最近買い取りの依頼は非常に多くなってきている。質素倹約令から何年もたっているのに、最近また華美なものは捨てるようにと命令が出されて、不要品をほしい人に譲るため、買取に出す人が増えたのだ。江戸市内には、買取屋もたくさんあるようだが、この日野では、まだ数件しかないから、買取の申し込みは、増える一方である。新五郎は、その依頼を受けて、様々な地域に買取に赴くのである。
友子と梅子が店に帰ってくると、店の中では、裕と新五郎が、買い取ったものについて話をしていた。
「へえ、薩摩焼を買い取ったの?」
二人の間には、豪華絢爛に絵付けされた皿と湯呑が置いてあった。いわゆる白薩摩と呼ばれるもので、かなり古いもののようだが、割れも何もなく、まだまだ使えそうなものであった。
「そうなんだよ。これで、かなり金儲けができるぜ、兄ちゃん。」
「まあ確かにそうですね。ただ果たして買ってくれる人がいるかどうか疑問ですけど。」
裕は、そんなことを言っている。
「いや、薩摩焼は薩摩焼だからな。うまく宣伝すれば、買ってくれるんじゃないの?」
「だけど、実用というものも考えなければ。そう、何でも買い取ればいいというわけではなく、売れるということも考えて、買い取らないと、意味はないですよ。薩摩焼と聞けば、皆、驚いてしまう性分でしょ。こんな大きな皿を置くところがないとか、苦情が出るだけで売れるはずはないですよ。」
「二人とも。」
友子が、その中に割って入った。
「いったい何を話してるの?」
「あ、すみません。薩摩焼を買い取ってきたっていうんですが、果たしてうちで売れるか心配だったので。新五郎は、高級品なので売れたらすごい金儲けになるというんですが、果たして、買ってくれる人がいるかどうか。薩摩焼なんて、名前を聞いただけでびっくりするもんでしょ。」
「ああ、そういえばそうだわね。しかも白薩摩でしょ。確かに、いつまでも売れないでほこりかぶったままになる可能性はないわけじゃないわよね。最近は、贅沢がまたダメになってきてるみたいだから、売りたい人は多くても、買いたい人は出ないことも多いわよね。」
友子も、裕の意見に加担した。薩摩焼は綺麗であるが、その製作に非常に手間のかかる焼き物で、大量生産が難しいことから、最近は流行らないのである。
「なんでもどんどん買ってくればいいというものではないですよね。うちで売れるかということも考えないといけないですよ。」
「いやあ、薩摩焼として売れば、その名前でかなりの金儲けができると思ったんだけどなあ、、、。」
と、新五郎は、がっかりした表情で言った。
「だから、需要がないんですよ。そういう事もしっかり説明して、販売しても意味がないので、値段をつけられないと断ってくることも必要なんです。かといって、押し買いは禁物ですけどね。」
「そうか。俺もまだ商売人としてはだめか。もうちょっと、反省しなければいかんなあ。」
「そうですよ。いくら文化的に価値があっても、今お客さんたちが必要とするものでないと、販売にはつながりませんよ。そのうちそういうものだらけで、うちに置き場がなくなったりしたら、困るでしょ。」
「わかったよ。兄ちゃん。じゃあ、これはどうしようか。お客さんに戻すわけにもいかないしな。」
「綺麗なお皿だし、飾り物で飾っておけば?二度と失敗をしないように教訓の意味も込めて。」
と、友子が提案した。
「そうですね。そうしたほうがいいでしょうね。たぶん、お父さんもそういうと思いますよ。新五郎は、いつまでたっても商売を覚えないからって。」
「そうだな。兄ちゃんの言うとおりだ。よし、ここへ飾っておくか。」
突然、後ろから女性の泣き声が聞こえてきた。
「梅子さんどうしたの?」
友子が急いで梅子に声をかける。
「皆、商売の事ばっかりで、あたしの事なんて、声かけてくれないのね!あたしが、こんなに不安になったとしても、商売のほうが大事なのね!」
「あ、ああ、ごめんなさい。これは失礼しました。」
裕は急いで謝罪したが、梅子の中で何か外れてしまったらしい。見る見るうちに涙を出して、
金切り声でこう叫ぶのである。
「そうなのね!あたしが、もし変な子を産んでしまったらどう責任をとろうかと考えて、これほど苦しんで悩んでいるのに、誰も、そんなことはどうでもよくて、商売の事のほうが大切なわけ!あたしの事よりも、薩摩焼のほうが大事なんでしょう!だって、その薩摩焼はいつまでも飾っておいてもらえるのに、あたしはもし、奇妙な子を産んでしまったら、嫁として、失格だとか言われて、ここを出て行くことになるんでしょう!なんで苦労して子を産んだ女の方を簡単に追い出しておきながら、薩摩焼はいつまでもこのうちにおいてもらえるの!」
「梅子さん、まだ追い出すとは言っておりませんし、嫁として失格とか、そんなことは一度も言ってはいませんよ。」
裕が困った顔でそう返答する。新五郎は、またそれかという顔で彼女を見ているのが、梅子はさらに辛いらしい。
「そうよ、梅子さん、誰も梅子さんを追い出そうなんて言ってはいないわよ。」
友子も彼女をなだめるが、
「だったら、その薩摩焼をたたき割って証拠を見せてよ!」
と、怒鳴りつけてきた。
「何を言っている!これは大変な値打ちのある皿なんだぞ。それをたたき割るなんて、そのようなことができるか。それに、証拠なんて、耳が遠いわけではないんだから、ちゃんとわかるんじゃないか!」
思わず新五郎が、商売人の顔をしてそういった。裕が、それはいってはいけないと口にしたが、時すでに遅し。梅子は、新五郎にとびかかって、その薩摩焼を奪い取ると、怒りを込めて店の外へ放り投げてしまった。薩摩焼は、とても哀れな音を立てて割れた。
「梅子さん!」
友子が、梅子を捕まえて、体を抑え込むが、梅子はなおも振りほどいて、新五郎に殴りかかろうとする。不自由な体の裕も、必死で梅子にタックルして、何とかしてやめさせようとした。幸い、前日まであまり食べ物を口にしていなかった彼女は、さほど体力があるわけではないので、すぐにへなへなと座り込んでしまった。
「梅子さん、梅子さん。」
友子が、幼い子供をなだめるように、そう話しかける。なおも梅子は泣き続けていた。ここまで涙が出るのだから、相当不安だったのだろう。
「きっと、誰かにそばにいてもらいたかったのね。本当は、一番最愛の人に、そばにいてもらえるのが一番なんだけどね。」
確かにその通りなのである。本当はそれが理想的である。彼女の場合は、夫である新五郎が、彼女の不安を聞いてやって、支えてやるべきなのだが。
「前々から言ってたわよ。新五郎さんが、毎日毎日買取に出てしまうから、自分のことはもうどうでもいいと思っているんじゃないかって。」
「本当は、一番悪いのは僕なんですかね。他の家族にまでこんな風に迷惑をかけて。」
裕も、半分べそをかいているように言った。
「この元凶を作ったのは、僕ですからね。」
「裕さんが泣いたってしょうがないでしょう。お父様も、野上の旗本様も、そう言ってたわよ。後悔はしないで、何でも受け入れるべきだって。事実、野上のお嬢様だって、何とかして生活しているんだから、もし、そうなったとしても、何とかなるわよ!」
友子は、そういったが、裕はそうとは言えないという表情だった。
「でもさ、俺はどうしたらいいんだろう。」
不意に新五郎がぼそりと言った。
「俺だって、全く考えていなかったかというと、そういうわけでもないんだぜ。子供ができるっていうんだから、もっと経済的にちゃんとしてやらないと、梅子も腹の子も困るだろうと思って、一生懸命仕事に精を出したのに。薩摩焼を買い取って売ろうと思ったのは、単に金儲けをしたいだけじゃなく、金を儲ければ、良い産婆さんに相談させてやれるかもしれないし、良いお医者さんに巡り合えるかもしれない。ほら、評判のいい産婆さんとかは、みんな金がすごくかかるだろ。だから、そのためには、うんと金をためなきゃって思ってこの薩摩焼を買いとったんだけどなあ、、、。それは、全く届いていなかったのかあ、、、。」
「どっか、ずれちゃったというべきね。きっと、心というかそういうものが、すれ違ってしまったのね。」
友子がそう発言した。確かにそうみるべきだろう。
「でも、これで二人が何を考えているか、はっきり知ることができたから、よかったことにしましょうよ。幸い、生まれるまでまだ時間はあるから、少しでも、ずれを修正していけるように努力していけばいいんじゃない。」
ところが、梅子は、友子が言うような切り替えはできない様子だった。
「今更、何ができると思っているのよ。だったら、薩摩焼がどうのと口論する前に、なんで私の方を見てくれなかった?もし、今の言い訳が本当だったら、薩摩焼の前に、私が帰ってきたのに気が付くはずだったのに。何も気が付かないで、一生懸命薩摩焼の話をしてるんだから、今の事はただ、弁明しているだけにすぎないでしょう?」
「そんなことはないわよ。新五郎さんが、薩摩焼に夢中になってしまったのは、それだけお金を儲けようと考えていただけのことよ!逆を言えば、赤ちゃんのために一生懸命やっていたからそうなったわけでしょう?」
「友子さんはどっちの味方よ?」
今度は友子の方へ怒りの矛先が向いた。
「どちらでもないわ。二人の橋渡しになりたいから、個人的にどちらの味方なんて考えていたらできないでしょう。」
まあ、確かに中立というのはそういう事なのであるが、梅子は絶対的な味方がほしかったようだ。
「結局誰も、私のそばにいてくれるようでいないのね。」
重々しい沈黙。
ただ、梅子が涙を流して泣く声だけが聞こえてきた。
どうしても変えられない事実というのは、どこの家でも多かれ少なかれあると思われるが、それに立ち向かえるかどうかは、別の話である。
悲しい話だが、そういうのが人間だ。すべての事実に、対処できるかというほど人間は強くはないのである。

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